私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

考古学の話題

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30分の1マルシ

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今年の稲の収穫の季節ももう少しで終ろうとしています。先日訪れた静岡市登呂遺跡の復元水田でも収穫が始まっていました。そこで今回は、稲籾の話題を提供することにします。

奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡からは稲束が2例出土しています。その束をみてすぐに思い至ったのが表題の単位でした。なんの単位かといえば、沖縄八重山地域で20世紀の前半までは流通していた現地通貨ないし限定目的貨幣としての稲束のそれ、です。

八重山地域では日常的な交易に金属貨幣などは使用せず、その代わりに稲束をもちいることがままありました。委細は人類学者安渓遊地先生がその著作『西表島の農耕文化-海上の道の発見-』(法政大学出版局)で解説なさっています。

稲籾は日本列島の歴史において、長らく貨幣としての役割を演じてきました。租の基本であっただけでなく、近世の幕藩体制下では武士の家禄も稲籾で換算されました。水稲農耕民ならではの貨幣や給与の基本単位だったといえるでしょう。だとすれば、水稲農耕文化の起点となった弥生時代に稲籾を貨幣としてふるまわせる交換・交易があったと推定するのは自然だと思います。

そしてそうなると、唐古・鍵遺跡から2点も出土している稲束は、この問題に対して重要な意味をもつとみてよいのではないか、さらにその場合には、八重山地域で現実におこなわれていた民俗事例が非常に有効な参照項目になるはずだ、というのが私の意見です。

では問題の2点の稲束ですが、左手で握ってちょうどいっぱいになる程度の束に見えます。藤田三郎氏は、その著『唐古・鍵遺跡』(同成社)において、数十本の穂の茎を束ねたものと記述されています。そこで私も実験をおこなってみました。

幸い那須風土記の丘資料館から古代米の稲束を頂戴しましたので、それを使用して作製してみたものが3段目の写真です。片手いっぱいにはまだ少し余裕がありましたが、数えてみると70本の茎でした。一本の茎に実っている籾の粒は、多いもので110粒、少ないもので57粒、ランダムに10本を抽出して粒数の平均を出してみれば、70.3粒となりました。全体で4,921粒という計算になります。

次に西表島で栽培されているカトゥラ米という在来米系統の脱穀後の米粒を数えると、1合が約6.600粒となりました。すなわち私が実験的に作製してみた稲束は、籾で計量した場合に約一合、脱穀後の米で計量すると約4分の3合なのです。

要するに片手で握って一杯になる茎の束とは、脱穀後に一合となる程度の分量だった可能性が高いと考えられるのです。

安渓先生の著作でも、1マルシとは「周囲約6寸の束を30あわせたもの、普通作で白米3升に相当」とありますので、私の実験結果も、ほぼこれに沿うものだったと考えてよいように思います。ちなみに「周囲約6寸の束」のことを西表島では「カタティ」と呼んだそうです。片手いっぱいの稲束という意味ですね。

なお西表島では、田仕事に支払う賃金も稲束だったことがあり、1日当たり2マルシだったそうです。仮に現在の賃金が1日当たり9.000円だったとすると、「カタティ」は150円相当ということになります。

唐古・鍵遺跡出土の稲束も、弥生時代における30分の1マルシ、「カタティ」ではなかったか。そしてそれは、交換や交易の際に現地通貨としてもちいられる最少単位(最少額貨幣)だったのではなかったか。さらになぜこの遺跡からは2点も出土しているのかといえば、ここが奈良盆地内で最も栄えた市場であり続けたからではなかったか。このように考えはじめています。(しかし上述のような実験、半日を要しましたが、サバティカル中でなければ実現しえない代物であることも確かです。)

最下段の写真は、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の常設展示品の稲束です。

前方後円墳と原東山道

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昨晩、奈良に戻ってきました。11月10日には郷里の箕輪町郷土博物館で「松島王墓古墳と原東山道」という題名の講演会をおこない、16日には栃木県のなす風土記の丘資料館にて「入植の波と那須の前方後方墳」と題する講演会をおこなってきたからです。

10日の講演会には雨天にも関わらず50名ほどの方が来場され、熱心に耳を傾けていただきました。郷里ということもあり、会場には母を筆頭に親類縁者ご一同様が5名ほど加わっていましたから、講演の内容自体に興味を抱く方々は40数名というところでしょうか。

しかし長野市の風間さんや丸山先生、飯田市の澁谷さんや辰野町の赤羽さんなど、業界関係者も数名お越しくださったことには驚きました。ご期待にどこまで応えられたか、もどかしさがありますが恐縮です。併せて今回の企画立案をしてくださった柴さんに感謝します。

なお会場での質疑応答のなかで、原東山道のルートを前方後円墳の分布によってつなぐことへの疑問の声が寄せられたのですが、その受け答えに対し、帰宅後に母から「せっかくの質問の趣旨をごまかしたね」と厳しく指摘されてしまいました。

古東山道の上伊那エリアにおける定説的ルートは、伊那から高遠に入り、杖突峠越えで諏訪湖の現上社付近に降りたのちは、白樺湖脇を通り雨境峠を越える、という現国道152号線沿いの谷筋で、松島王墓古墳や青塚古墳は外れるのです。ですから定説を良く知る方が私の話を聴けば、「定説との関係はどうなっているんだ!」との違和感を表明されるのは必定でした。

そこで翌日は定説ルートを越えて神奈川に帰ることにし、この問題を考えてみたのです。その結果の暫定的な解釈は、6世紀代の原東山道は伊那谷界隈において往路と復路が別ルートであった、という可能性です。

高遠側から諏訪に抜ける古東山道定説ルートは、畿内方面から関東・東北に向かう場合には、たしかに緩やかで超えやすく、諏訪盆地に入るときだけ急な傾斜を降りれば済むし、そこから雨境峠をたどれば、毛野方面に最短距離で行けるのです。

しかし逆方向では、雨境峠をようやく越えて諏訪湖にたどりついても、すぐさま非常に急峻な杖突峠が待ち受けていますから、大変な難所の“二重奏”となります。

だとすれば、北側からのアプローチには比較的緩やかな傾斜となる和田峠を抜けて下諏訪に下り、そこから重い荷物は船に積んで諏訪湖から天竜川に流す、もうひとつの選択肢が浮上します。現実問題として、その方がはるかに楽です。

そしてそうなると、復路は上田の二子塚古墳の近隣や、和田峠越えで青塚古墳に出て、辰野経由で松島王墓古墳のある箕輪までのルートが想定可能となるし、下流側では上川路地区の前方後円墳群が同天竜川ルートの荷揚げ場所として把握可能になりはしまいか、という解釈です。

上り線と下り線が分かれるというような古代幹線道がはたしてあったかどうかが問題視されることになるかもしれませんが、なにせ急峻な山越えルートですから、変則的な対処もありえたのではなかろうか、実際に車で走ってみての実感は、このようなものでした。

ともかく今回の郷里での講演会は、そんなことを考えさせられた、よい機会となりました。母にも感謝しなければなりません。

再現実験完了

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本日午後、紫金山型と龍ヶ岡型貝輪の再現実験が終わりました。奇妙なオブジェになっていますが、最上段と2段目は背面貝輪側(龍ヶ岡側)から写したゴホウラ製貝輪の粗加工品です。ルーターを回し続けたので右手は今でもジンジンしていますし、半日以上サンドペーパーで磨き続けたので、右手の親指と人差し指には血マメができました。

服面と背面貝輪の両方を作る際には、まず背面貝輪側に向けて擦り切りと打割の作業をおこない、輪郭の成形と内孔の穿孔をおこなったうえで背面貝輪を本体から外す。その後、腹面貝輪の作製に取りかかる、といった順序となります。内部の螺階や螺軸を除去する最短の道筋を考慮すると、古墳時代人もそうしたに違いないと思います。

今回は次回の論文用に、かつ今後の教材用にと、双方の貝輪を切り離さずに作製しました。とはいえ背面貝輪は最外周の螺階部とたった2箇所でしかつながっておらず、慎重を期して臨んだのですが、仕上げ研磨の際にちょっと力を入れた瞬間にポキリと折れ、外れてしまいました。しかたなくアロンアルファで接着し直しています。

3段目と4段目は腹面側からみたものですが、内孔の内側に螺軸を残しています。腹面貝輪を作る際には、この螺軸の除去が手間なのです。諸岡型や立岩型は螺軸に沿って作業を進め、螺軸が底面(肘側の下端面)になりますが、紫金山型の鍬形石祖型貝輪の場合、螺軸は内側に食い込んだ状態で残るのです。教材用にと、内部の構造をそのまま残しています。

2日間でおよその仕上げまで到達できました。どちらの貝輪についても、表面の半分は最終的な仕上げの状態とし、半分は未整形のままとしました。ここまでを終えて、ようやく気分が落ち着きました。

今晩は祝杯です。

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大阪府紫金山古墳出土の3点のゴホウラ腹面貝輪と、福井市龍ヶ岡古墳出土ゴホウラ背面貝輪の両者は、じつは単一の貝殻から作出される表裏(腹背)の関係にあることを解明するための第一弾として、再び製作実験に取りかかることとしました。

最上段の写真は、福井市立博物館所蔵の龍ヶ岡古墳出土貝輪を標本の上に被せたものです。標本と同サイズの貝殻の背面を利用した製品であることがわかります。標本の表面に鉛筆で縁取りをし、貝輪の輪郭を転写させていただきました。

第2段目の写真は、その輪郭取りの様子です。先日、熊本県の宇城市で見てきた大坪(背面)貝輪と同じです。背面貝輪の中ではきわめて変則的な輪郭取りであり、螺軸方向からは70度ほど軸線が振れるのです。なぜこのような変則的な手法が採用されたのでしょうか。貝殻の外唇部を広く取り込むことで貝輪のサイズを大きく確保する意図と、残余の廃棄部分を極力なくすという工夫ないし貪欲さ?エコさ?の両者によって説明することが可能でしょう。もとより先の記事で述べたとおり、斜面に稜線と凹面を施文する際に螺階部の凹凸を取り込んでしまうと均整が乱れるので、螺階部を避けて縁取るという工夫が認められます。

螺階部はもっとも薄くかつ弱いので、この部分を大きく取り込んだ大友遺跡貝輪などは、ここで割れてしまい、補修孔を開けて組み合わせ式にした実例です。この点を考慮すると、今回のような輪郭取りは、伝統的な背面貝輪にみられる螺階部の脆弱さを克服しようとした、とも考えられるのです。このような「螺階部を避ける」という志向性も、大坪貝輪と龍ヶ岡貝輪にしか現れません。

そして第3段目と4段目の写真は、先の輪郭転写済み標本貝殻に、紫金山古墳貝輪1の輪郭取りを図面から起こして転写したものです。両者はみごとに表裏の関係として共存可能であることがわかります。第3段目の側面に現れた状況は、とりわけ注目です。

手前の突起(結節と呼ばれます)の上には、方形に張り出したような部分がありますが、この輪郭取りは紫金山古墳貝輪の1と2にのみ現れる特性で、3およびそれ以前の大坪貝輪を含むすべての腹面貝輪は、左端の水管溝の中心―突起の中央―螺塔の間をまっすぐに切り取るのです。ですから紫金山古墳貝輪1と2だけ、輪郭取りに際し裏面側へ大きく張り出すという変則的なかたちをとるのです。そしてこの張り出し部分と龍ヶ岡貝輪の輪郭は、ほとんど接することがわかります。

つまり背面貝輪においても腹面貝輪においても、ともに変則的な輪郭取りをすることで他の資料からは浮き上がってしまう両者は、じつは一体のものであったこと、つまり相互の変則性は、単一の貝殻をどう切り取るかをめぐって生じた、同一の志向性のもとで生まれた工夫であった、と理解できるのです。

ここから(擦り切り技法によって)切り取られる腹面貝輪が、どのような関係にあるのかをご理解いただくために、5段目以降、別の再現模型を添えましたので、ご確認下さい。

なぜ紫金山古墳貝輪のみが板状部を大きく残すのかについて、これまでは漠然と直弧文の施文部位を広く確保するためであろうか、と推定されてきましたが、そうではなかったのです。貝殻の残余を極力なくし、貴重な貝資源を余すことなく貝輪に取り込もうとする、貪欲な?エコな?思想の反映だと考えられるのです。きわめて合理的な輪郭取りですし、それは背側と腹側の関係をみたときにこそ、正しく理解できると確信しました。

本日は、ふたたび灼熱の夏になりましたので、実験は日が陰り出す夕方を期すことになりそうです。

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昨日、ゴホウラの腹面貝輪と背面貝輪を仕上げました。腹面貝輪は大坪型で、サイズもほぼぴったりと実物資料に合わせました。背面貝輪は広田遺跡の左右対称志向のタイプ(旧広田型とは別)に仕上げています。

なお今回は背と腹の関係を理解できるようにと、腹面貝輪の環体部裏側に削り残しを2箇所に設け、そこで腹側と背側の接着が可能なかたちにしました(3段目の写真)。まだ仕上げの磨きには粗さが目立ち、完成とはいえませんが、明日からの資料調査には、これを持参することにします。

ところで模造貝輪の私の写真(最上段と2段目)は、水管溝側を上にしています。今回はこの上下にまつわる話題を紹介したいと思います。

ゴホウラ製の貝輪はどちらが上で、どちらが下でしょうか。現在の主流は九州大学系の研究者の表示方式、すなわち殻頂部を上におくという形で、私がアップした写真の上下と逆で、下が水管溝側となるものです。実測図から写真の表示もそうなっています。

ではこうした表示法が選択された理由とはなんでしょうか。海洋生物学での表示法がそうなっているから考古学も従うべきだ、というのが第一の理由でしょう。右腕に通す際には手の甲側に内孔のD字形の凸湾曲部側を向けるので、このとき上になるのは螺頭部側だからである、という関係が第二の理由だと思います。しかしこのような理由では納得できない、と私は考えるのです。

もとより、表示法などは共通言語に類した学問上の約束事に過ぎず、さほどの意味を斟酌する価値などない、という主張をなさる方も多いかも知れません。例えば農具の刃先は下に向け、武器の刃先は上に向けるという約束事の意味に悩む必要がどこあるのか、というご意見などは、そうした方々から発せられるものと思います。

ところがです。この貝輪の代用品として、また模造品として出現した鍬形石や車輪石との関係を一本の論文の中で取り扱う場合には、表示の上下に悩み、そしてどちらが適切なのかを斟酌せざるをえなくなるのです。というのも鍬形石や車輪石の表示法は、既に江戸時代からの歴史性と伝統性を有しており、こちらの場合には、重く安定感のある側を下に置くという約束事になっているからです。

そしてこの表示法は、祖型貝輪であるゴホウラ製腕輪の表示と真逆なのです。だから祖型貝輪と模造品の関係を論じる研究者にとって、どちらの表示法を採用するのか、悩みの種となってきました。少なくとも私にとっては、です。

しかしながら、当の弥生人に答えを聞いてみるという方法が残されていることは、この問題を考える上でとりわけ重要です。

副葬品として右腕に通された貝輪の状態をみると、骨の遺存状態が良好な事例の場合、その多くは螺頭部側を尺骨側(小指の側)に向けることが判明しています。つまり彼ら弥生人にとってのゴホウラ貝輪は、螺頭部が下に来るよう腕に通すのが基本だったことがわかるのです。冒頭ではD字形の内孔の問題に言及しましたが、それは手に通す段の話に限定され、ひとたび上腕に通された後には180度回転させたと考えられるのです。

そしてこの現象は、すでに木村幾太郎氏や永井昌文氏によって気づかれていました。つまりお二人の研究者は、仮に「弥生人にとってはどちらが上だったのか」と聞かれたら、即座に「水管溝側だ」とお答えになったはずなのです。しかし、なぜか実測図の表示法は変えなかったのです。せっかく逆転させる根拠がえられていたのに、不思議です(なお、この段の記述内容については一部私の事実誤認があることをコメントで指摘され、7月10日にその現状を追認することになりました。したがいまして学史的経緯を含め大幅な訂正が必要です。コメントをお読み頂ければ、その概要をご理解いただけるかと思います。7月11日追記)。

では弥生人にとってゴホウラ貝輪の上は、なぜ上だったのでしょうか。理由は単純明快です。水管溝側のほうが貝殻の厚みも薄いので、当然のごとく軽く、自然に上になってしまうからなのです。螺塔(殻頂)部側は重いので、放っておいても下側に回って安定するのです。つまり鍬形石や車輪石同様、重く安定感のある側を下にしてさえおけば、当の弥生人たちの実情とも整合し、私が今になって悩む必要もなかったのに、と思います。


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