私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

考古学の話題

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来週からの九州出張を前に各地の貝製品資料の図面類を整理していたところ、これまでうかつにも気づいていなかった事実に思い至りました。

種子島の広田遺跡(古墳時代前期〜中期)からはゴホウラ背面貝輪が数多く見つかっているのですが、貝殻標本の表面に鉛筆で広田遺跡出土の貝輪をなぞってみたところ、素朴な疑問に直面しました。残余はどうなったのか、という疑問です。当然腹面側が残余なのですが、その残余からは充分に腹面貝輪が製作可能であることがわかります。しかし広田遺跡からは腹面貝輪は出土していません。なぜないのでしょうか。

これまでの研究では、有名な立岩遺跡の報告書において永井昌文氏が立岩型貝輪(弥生時代中期後半)の製作実験をおこない、貝輪の製作は基本的に荒割と「削って仕上げる」ことが基本であろうと理解されてきました(永井1977)。ですからこの場合、残余の部分は打割の過程で不整形な小片へと砕かれ廃棄されるか、削り込みの際に粉になって消滅してしまったはずである、と暗黙のうちに考えられてきた、ともいえるでしょう。

確かに弥生前期に溯る金隈型腹面貝輪や、諸岡型(弥生中期前半から中葉)の厚手の腹面貝輪などは、永井氏が提示した理解と整合的です。これらの貝輪について、その体層部の断面形状をみれば、約2/3までの範囲を貝輪として利用しますので、残余は主に上唇部と外唇部、および内側の螺階部だけということになります。内孔部分は打ち欠きと削り込みで仕上げた可能性が高いことになります。

いっぽう熊本県の大坪貝塚出土の腹面貝輪(大坪型―弥生終末期)の輪郭をなぞってみれば、残余は当然背面側なのですが、その残余からは充分に背面貝輪が作成可能です。冒頭で述べた広田遺跡の背面貝輪などはかなりの余裕をもって作製できるのです。この段階の貝輪は薄手ですから当然といえば当然です。さらにこの貝塚からは、興味深いことに腹面貝輪3点に加え、背面貝輪も出土しているのです。

だとすれば、両者は単一の個体から製作された2点の貝輪であった可能性が浮上してくることになりますし、広田遺跡の事例では、腹面貝輪はどこか他所への移出用に振り分けられた可能性を考慮すべきであろう、ということになります。

そう思い立って、今朝、実験してみたものが今回アップする写真です。確かにできました。表裏(腹背)の関係にある2点の貝輪の粗加工品です。使用した標本は殻高14.5cm、殻の厚さ7.0cm、上唇部までを入れた全高17.0cm、全幅12.0cmの貝殻です。標準的な6歳齢ほどの成貝です。ちなみに生貝ですから、5段目と6段目の写真にあるとおり螺頭付近の螺階内面にはタンパク質の付着が残り、黒茶色を呈しています。

肝心なことは、「擦切技法」(擦り切り技法)が貝輪の製作に用いられた可能性がないかどうか、もし可能性があるとすれば、それはいつ頃か、の点検です。もしこの技法が用いられたことを前提にしてよければ、私の実験結果は活用できることになりますし、蓋然性が高まることにもなる、といえるでしょう。

そしてこの点については、山崎純男さんや仲宗根求氏、また最近では山野ケン陽次郎さんが興味深い研究を進めていらっしゃいます(山野2010)。弥生時代前期の管玉製作には馴染み深い技法ですが、この技法が貝輪製作にも用いられた可能性についての議論です。

山野さんの論文をみると、弥生併行期の貝塚後期文化遺跡においては、仲宗根氏が提唱された「熱田原型石器」は消滅しているようですが、それに代わる石器ないし鉄器の存在が推測されています。なお山野さんはイモガイ製の貝符に刻まれた彫刻に着目していますが、貝符の輪郭自体も擦り切り技法で製作された可能性は濃厚だと見てよいでしょう。ちょうど板チョコを割るような方式で一個体から数点の貝符が並列的に製作されたと考えるのが自然だからです。そのような観点から貝符の製作工程を再検討する必要があるとも考えています。

イモガイの標本については手元に数が少ないので、すぐには実験に取りかかれませんが、ゴホウラについては、もう少し実験を進めたいと思います。

要するに製品の観察結果からは、諸岡型貝輪(厚手)の段階と立岩型貝輪との間に製作技法上の一大画期があった可能性が指摘できそうです。そして大坪型の段階には、実際に腹面貝輪と背面貝輪の両者がひとつの貝殻から作出されたのではないか、と考え始めています。

もちろん紫金山古墳出土貝輪(特に貝輪3)と龍ヶ岡古墳出土貝輪(ゴホウラ背面貝輪)についても、表裏(腹背)の関係で理解可能なことも意味しています。つまり鍬形石の祖型と車輪石の祖型は、じつはゴホウラ単体の腹と背から発するものであったという「落ち」を視野に入れてもいます。ですから次の実験は、紫金山型と龍ヶ岡タイプの貝輪を単一個体から製作することを目論みます。

来週からの九州出張では、こうした問題に注視しつつ、各地の資料を見せてもらうことになります。
 

参考文献
 
永井昌文1977「貝輪」『立岩遺蹟』立岩遺蹟調査委員会(河出書房)
山野ケン陽次郎2010「琉球列島出土彫画貝製品の製作技術に関する研究」『熊本大学社会文化研究』8 熊本大学学術リポジトリからダウンロード可能

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これまで3回にわけて、型式学と編年学にまつわる学史の問題を点検してきました。ではこの一連の問題は、学史整理に特化させるべき過去の話でしょうか。そうではないとの確証をえたものですから、この記事を起こした次第です。問題状況の一端を、最近活性化のきざしを見せている古墳の編年論に注視しつつ、概観してみたいと思います。

ここで大賀克彦氏に登場願うことになります。彼は2013年1月に開催された播磨考古学研究集会において、時期区分の問題を取り上げ、副葬品については三角縁神獣鏡、帯金式甲冑、須恵器を指標に据えれば有効性が高いとの理解を前提に掲げ、諸要素の段階区分と接続、弥生時代との区分など詳細にわたる編年案の骨子を論じているのでが、その過程で森下章司さんの時期区分論との差違に触れ、次のように述べています。

「以上に確認してきたような時期区分の方法を森下(2005a)の方法と比較するならば、極めて根本的な相違が存在する。森下の方法においては、時期区分と時期比定とが意図的に等値されている点には既に言及したが、これは理想的な変遷モデルと実態的な変化の同一視と言い換えることができる。また、極端な漸移変化主義的な世界観も挙げられる。ただし、これが資料の実態と整合しないことは、森下自身が『様相』もしくは『組み合わせ』として事実上の『段階』を認定してしまっていることからも明らかである」(大賀2013、65頁)と。

ここで紹介された森下論文とは、森下章司2005「前期古墳副葬品の組み合わせ」『考古学雑誌』第89巻第1号をさします。

上記の引用文において注目したいのは、大賀さんが指摘する「理想的な変遷モデル」と「極端な漸移変化主義的な世界観」および「資料の実態」との関係です。前回述べた問題に引きつければ「共時性」を示す一括遺物の束、すなわち<繰り返し現れる諸型式の共伴関係>が「資料の実態」ということになります。

いっぽう「理想的な変遷モデル」とは、現実には具体的事例を指摘できるとは限らないものの、統計的な操作を積み重ねた結果、「共時性」が充分に担保できる諸カテゴリー間の共伴関係を意味する、と理解できるでしょう。

問題は「極端な漸移変化主義的な世界観」ですが、それは型式学的研究法の背後に作動しやすい志向性ないし思想的な側面のことをさすものと理解されます。大賀さんはそのような思想が「資料の実態」とは乖離していることに目を向けるべきだ、と主張しているのです。この点については後に触れることとして、先の引用文に続き、森下さんとの方法論の違いを解説した文章が展開されますので、具体的にみてみましょう。

森下論文との「方法論の原理的な相違は構築される時期区分に実質的な相違をもたらすので、簡単な思考実験を示しておこう。系統的な一体性に疑問の余地がない要素AとBを考え、それそれが連続する時間単位となるA1とA2、B1とB2に細分されるとする。1要素系のモデルにおいて、実際の事例に(A1のみ)、(A1+A2)、(A2のみ)という3種類がすべて出現するとき、森下ならば(A1のみ)→(A1+A2)→(A2のみ)の順に並列すると考えられるが、筆者は(A1のみ)→(A1+A2、A2のみ)の2段階しか認めない。(A1+A2)のA1は伝世品で、時期区分上はノイズでしかないからである。また、2要素系のモデルにおいて、(A1+B1)や(A2+B2)以外に(A1+B2)や(A2+B1)が出現する場合の取り扱いも異なるであろう。筆者の枠組みでは、(A1+B2)や(A2+B1)の出現頻度がともに充分に低いならば、(A1+B2)におけるA1や(A2+B1)におけるB1は伝世として捨象され、一方の頻度が有意に高いならばA1→A2とB1→B2の変化に時間差を認定し、ともに高いならば時間的な細分単位であるとう前提を疑うことになる。しかし、森下がこうした状況をどのように取り扱うかは明確でない」(大賀同書、65頁)とあるのです。なお本引用文の最後段には註17が付されており、それをみると「森下は、長期保有・伝世の発生しやすい要素と、その可能性が乏しい要素の相違に言及しているので(森下2005a、15頁)、要素の重み付けの導入を示唆しているかもしれない」(大賀同書、90頁)とあります。

最新の研究動向をみても、じつは前回までに示した内容と響き合う部分が大きいことを確認できるはずです。上の引用文について、原則的にいえば大賀さんの主張に私も同意します。A1型式とA2型式という2タイプが抽出された状況のもとで、はたして3時期(3段階)が導かれるかどうか、という設問だと理解されるからです。移行期という中途段階の時間幅を対等に取り扱うべきかが問われているのであり、それを否と判断するわけです。型式区分が単一カテゴリー内における時期区分の指標になるという理解を敷衍すれば、2型式から3時期は導けないとするのが原則だからです。

ただし註17にもあるとおり、要素間に伝世のしやすさ、しにくさを考慮するとなると、上記の原理・原則だけに委ねるわけにもいかず、要素ごと、あるいは地域性をも考慮したうえでの入念な点検作業と仕分けが必要になるのです。

そしてこうした課題の根幹をなすのは、資料の実態としての一括資料の束であることも明らかで、基礎概念としての重要性がきわだってもくるのです。ようするに現時点の最先端をゆく議論においてさえ、一括資料間の入念な点検作業が求められ続けていることをご確認いただければ幸いです。当たり前といえば当たり前ですが。

本連載記事の最後に「極端な漸移変化主義的な世界観」についての解説をおこないます。じつは私自身も鍬形石に対して型式学的研究を実施した際、この漸移変化主義に囚われていました。

大賀さんの例示になぞらえて表現すると、Aの系列において5段階の形態変容が認められ、それが大筋で1→5と変化することが確認されたとした場合、1と5の間の諸形態に対し、暗黙裏のうちに2→3→4を挿入させたのです。そう考えるのが自然であるとの期待値がそれを下支えもしました。しかし資料の実態(ここでは共伴関係の束)において、それを証明する様相は未確認でした。実態は1(2)→3・4→5でしかないのです。括弧は群として成立するか不明の段階設定です。つまり資料の実態として未確認であるものを、ある種の期待値に委ねて挿入してしまった、それが漸移変化主義の正体です。

こうした志向性のことを大賀さんは強く戒めており、資料の実態をみよ!と主張しているものと私は理解しました。だから抜本的な再検討が必要だと考え直しているのです。大賀さんの論文をみて、改めて反省させられ、モンテリウスにまで溯ってみて、型式学的研究とは何かを点検してみた次第です。私と類似した間違いを若い世代の研究者が繰り返さないためにも、との意図を込めて、この連載記事を書きました。

以上です。これでようやく型式学と編年学の問題に区切りをつけることができ、明日からの北海道資料調査に出向けそうです。

引用文献 
大賀克彦2013「前期古墳の築造状況とその画期」『前期古墳からみた播磨』(第13回播磨考古学研究集会の記録)

追記 今回紹介した大賀論文(2013 )が収録された『前期古墳からみた播磨』は、他の掲載論文ともども非常に読み応えがあって、若い世代の研究者には特にお勧めします。今後の議論の活性化を導く起爆剤になるものと確信します。本シンポジウムを主催された岸本道昭さんにも敬服します。

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先に紹介したエガースの著作『考古学研究入門』の中で、読者の目を引きつけるのは、本文95頁に掲載された第7図です(上段の写真)。「モンテリウスの型式学と編年案」と題されたこの図は、本書の表紙にも貼りつけられていますので、「ああ、あれか」と思い出される読者も多いのではないでしょうか。

この図はしかしモンテリウス本人の作業結果とは異なるのです。エガースが簡略化して図化したものだからです。

1885年の著作から私が改めて作成しなおした編年表を2段目にアップしましたので(縦横の関係が揃ってはおらず恐縮ですが)、両者を見比べてみてください。

エガ−スが行った重要な変更点は、型式名の単純化、および置き換えと代表遺物の明示です。たとえば1期の剣について、モンテリウスは有機質の柄が装着された、短剣のみからなるa.b.cの3型式を併記していますが、エガ−スはただ「A型式」と置き換え、先の3型式のなかからa型式(イタリア製の搬入品と推定された資料群の一部)を抜き出し図示したのです。さらに2期のところには、モンテリウスがe.A.Bの3型式を並列させたのに対し、エガ−スは「B型式」と置き換え、図示したものはB型式(中欧ないし北欧製と推定された資料群中の最古型式)です。こうした型式名の単純化と置き換えによって、たしかにシンプルな編年表にはなっているのですが、次に示すふたつの重要な事柄を捨象してしまったのです。

まずモンテリウス本人は、a型式やA型式など古段階の資料を南方からの搬入品だと明記しており、B型式以降の摸倣型式からなる系列とは明確に識別しています。つまりA型式までの組列とB型式以降の組列とは別立てに置いているのです。しかしそれらを縦一列に並べてしまうと、対応する本文の性格上、読者はモンテリウスがこれら諸型式を一連の組列として組み上げたのではないか、と誤解してしまう危険性を孕むことになります。他のカテゴリーの諸型式についても同様です。

本来は考古学的実態(搬入品の諸型式と摸倣品の諸型式、材質転換、地域性)を丹念に汲み取りつつ作成された編年表だったのに、読者に対する読みやすさへの配慮でしょうか。そうした1885年著作では備わっていた緻密さや入念さが完全に払拭され、1903年著作の内容を可視化しつつ解説するための図へと改変されたことがわかります。

次に各型式は、私たちが馴染んでいるような「内部において斉一性を示す」(贄1991より)資料の一群ではありません。一括遺物としての出土状況を勘案した結果、明らかに形態変容上の段階差をもつ数群をまとめているのです。先に示した剣のA型式の場合には、柄と刃部の装着部にみられる半円形の切り込みa形態とb形態の2群の資料を内包します。B型式にいたっては、この半円形の切り込みc形態、d形態、e形態の3群で構成されているのです。

つまりこれら2群ないし3群からなる諸資料は、「斉一性」ではなく「共時性」(贄1991より)によって一型式にまとめられた、という関係にあるのです。ですから、単一の資料を代表遺物として提示するわけにはいかないはずだったのです(なお、これら諸形態の様相については『考古学研究法』(濱田訳1932)の58頁と59頁にイラストとして掲載されていますので、興味のある方はご確認ください)。

今述べた二つの重要事柄を除外し図化したところで、はたしてモンテリウス編年学の神髄が可視化されたことになるのかどうか、読者の方々にも是非お考え頂きたく思います。つまり第7図とは、モンテリウス編年学の実践において重視されたエッセンスを排除することで、彼がまだ闇中摸索状態であった時点の状況の再現を意図したもの、ともとれるのです。もちろんこのような性格の図では、モンテリウスの編年学を紹介したことにはなりませんし、どこか別のところにある、異質な志向性ないし思想を表明した図であるかにもみえてしまうのです。

モンテリウスが実際におこなった編年学は、エガ−ス自身が記述するとおり、つねに「一括遺物」を重視し、それを分割することなく、どこまでも基礎概念として依拠するものでした。

ではモンテリウスの実践における型式概念とはどのようなものだったといえるのでしょうか。剣(ここでは長剣と短剣からなる)を引き合いにだせば、<剣という単一カテゴリーにおける諸形態(小型式)の共伴関係によって導かれる時期区分の指標>といえるでしょう。

私たちが馴染んでいる表現に換えますと、モンテリウスの型式概念は、山内清男の「型式」概念と一致し、小林行雄が唐古遺跡の報告書執筆を機に大幅な変更をおこなった後の「様式」概念(贄1991参照)に近いのです。須恵器の窯編年における「型式」ともほぼ一致します(日本考古学においては、指示内容はともかく用語法上は「様式」だけが孤立的に浮いてしまう点にも注意が必要です。土器という単一カテゴリーに「様式」を据えてしまうと、複数カテゴリー間の関係を総合して指示する上位概念を設ける際に困ったことになるからです)。

さらに言い換えますと、モンテリウスは「編年学」の基礎概念に「一括遺物」=<時期区分の指標>を置き、その下位概念として「型式」=<個別カテゴリーにおける時期区分の指標>を置いた、という図式になるのです。「共時性」概念にもとづく時期指標が階層化されている点は、とりわけ重要です。

そしてこのようにみてくると、モンテリウスが1903年著作で述べた「型式組列の一括遺物による検証」の記述内容にも、その後の時代の考古学研究者に誤解を与えかねない部分があった可能性が想起されてきます。他のカテゴリーに属する資料の型式組列との間の併行関係の検証については、『考古学研究法』などでも訳出され、広く知られている事項ですので改めて紹介するまでもないでしょう。

最大の問題は、組列を組みあげた同一カテゴリー内における共伴事例検証の記述や、型式区分をどこでおこなうかという指標の明示が抜けていることです。A-B-C-Dと組み上がったものを一括遺物に則して検証にかけるとなると、私たちがしばしば直面するのは(A+B)、(C+D)となったり、(A+B+C)、(D)となったりする事例です。モンテリウスはこうした事例を点検しつつ、前者のケースであれば(A+B)に対して1型式を、(C+D)に対して次の1型式を設定したはずですし、後者の事例については、(A+B+C)について1型式を、Dについて次の1型式を設定したはずなのです。

現実にはもう少し込み入った共伴事例となるでしょうから、その実践過程への記述が求められるのです。さらに型式区分は、共伴関係の有無に沿って引かれる境界線であるとの明示があれば、もっと理解しやすかったはずなのです。つねに共伴関係の有無が問題視され、一括遺物を崩さないという基本姿勢を堅持する以上は、型式区分はこうなるとの明示があってもしかるべきだったのではないか、そのように思うのです。

もちろん、1985年著作の記述では、そのあたりがしっかり明示されていますので、誤解を生じる余地がなかったのですが、エガースの1959年著作については、この問題についての解説がまったく不十分であったことを指摘せざるをえません。

なによりも奇妙に思うのは、エガースはモンテリウスの1885年著作『青銅器時代の年代決定について』の重要性を随所で言及しながら、肝心の第2章における型式学的研究法の紹介にあたっては、その具体像に踏み込まなかったことです。

当該部分は次のようになっています。「モンテリウスの最初の著書『青銅器時代の年代決定について』にもどろう。ここで彼の研究法がはじめて完全な形で記述されているが、型式学的研究法はこのモンテリウスの研究法のなかではその一部をしめているにすぎない。そして、この著作が相対年代のみでなく、絶対年代決定の指針にもなったのである。
 型式学的研究法を紹介するには、しかし、『研究法』と題された有名な1903年の著作によろう」(エガ−ス同書、88・89頁)と。

前段において1885年著作が重要であることを紹介しつつ、「しかし」以降の文章のつながりが不自然なことは、おわかりいただけるものと思います。しかも完全な形で記述された著作であったのに、そこに占める型式学的研究法が一部でしかないというのも不可思議な記述です。むしろ素直に理解すれば「完全な形で記述された著作は、すでに型式学的研究法にはほとんど依拠しないものとなった」となるのに、です。なぜエガースはそのような論述の展開を選択したのか、それは今のところ不明です。

ただし1885年著作を回避したことによって、エガ−スはモンテリウスの編年学における時期区分と型式区分における階層的位置づけや、実践過程の内容を紹介しなかったことだけは事実です(なお交差年代決定法については第3章で詳述されており、そこでの適確な紹介があることを同時に認める必要もありますが)。

もとよりモンテリウス自身も読者に誤解を与えやすい1903年著作を記したことにより、型式学的研究法を実践上の有効性とは異質な“抽象画”にしたてあげてしまった、といえるのかもしれません。もちろん深読みをすれば、層位的関係が把握できないという制約された環境下においてさえ、型式学的研究法という武器があるという主張を展開したのだともとれるかもしれません。しかし一括遺物の束については、すでに研究環境上整っている状況を前提とした上での立論ですので、やはり不可思議です。

以上、3回にわけて解説してきましたが、型式学と編年学にまつわる学史と問題状況の一端を、先の『古墳時代の考古学』第4巻の総論では紹介してみました。とはいえ1885年の著作の英語版は、私の自力発見ではありません。私は2002年に、当時京都大学総合博物館にいらっしゃった山中一郎先生から1885年著作の存在を教えられ、コピーを賜わりました。それがきっかけです。しかしながら英書であることもあって、その後長らく「積ん読」状態だったのですが、先の総論を執筆する段になって初めて本書を読み、その内容の重要性に気づかされたという次第です。これまでの私の怠慢を、山中先生には深くお詫びしなければなりません。

そうした反省もあって、現在小茄子川歩君に翻訳作業をお願いしており、できれば同成社から日本語版を出版したいとも考えています。

そして先日、九州大学の溝口孝司さんに本書の位置づけを打診してみたところ、彼にとっても「完全なノーマークでした」とのコメントを受けました。現在時間を見つけては精読中だとのことですので、いずれ溝口さんからも適宜コメントをいただけるかと思います。したがって今後の日本考古学界においても、1885年著作は再評価に値する重要文献として再浮上することになる可能性が高いと思います。

どこかの大学ですでに外書購読などで取り扱われているのであれば、また、すでに1885年著作をお読みで、それをふまえた日本語による先行研究があれば、情報提供をいただきたく思います。

引用文献 
贄 元洋1991「様式と型式」『考古学研究』第38巻第2号

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H.J.エガースの著作『考古学研究入門』(原著1959年刊)は1981年に田中琢氏と故佐原眞氏によって訳出され、日本語版として岩波書店から出版されました。本書は、私たちがよく知る考古学の入門書として、特にモンテリウスの型式学的研究法を学ぶための教科書としても重要な位置を与えられてもいます(現在は絶版のようですが)。

さて、本書の訳者「まえがき」には次のような記述があります。「O.モンテリウスの型式学的研究法は、考古史料の相対年代決定法の基本になるものだが、それを考古史料に適用する際には、すでにこの研究法の創始者のモンテリウスが説いているとおり、当然それに応じた手続きと検証を必要とする。しかし、昨今この正当な手続きと検証過程を無視し、不適切にこの研究法を適用したため、正しくない結果がひきだされたとき、この誤った結果の故に、この型式学的研究法そのものを否定しようとする傾向がある。それは世界的に認められる傾向である。いまここでモンテリウスその人のいうところを正しく理解し、その研究法をさらに発展させる必要性は極めて高いが、半世紀以前に刊行されたモンテリウスの著作の訳書はいまでは決して読みやすいとはいい難いものであって、その手引きとして、本書のこの部分は最適である」(田中・佐原1981、同書まえがき13・14頁)

この引用箇所を読めば、私たちが本書の出版に込められた訳者のねらいを正しく捉えたことを再確認できるでしょう。

ただし私は学生の頃から、この「まえがき」で紹介されたモンテリウスの捉え方と、本文で記述された内容との間には微妙な差があることが気になり、教師になって以後も、その違和感はぬぐえないままでした。

一例をみてみましょう。エガース本人は、第2章の後半で次のように述べているのです。
「今の世代の研究者のほとんどが型式学的研究法をオスカル・モンテリウスの名と結びつけている。しかしモンテリウスがこの問題を最初に考えついたとするには議論の余地がある。―中略―モンテリウスは型式学の創始者ではなく、正確な相対年代と絶対年代とに到達しうるあらゆる研究法の長所と短所をそれぞれ明確に比較検討しそれらすべてを総合したなかから彼の体系をあみだした最初の人である。彼は型式学的研究法と同じように層位学的研究法も用いている。いすれにせよ、彼が創案者だとすれば、『一括遺物』の創案者なのである」(H.J.エガース同書、86頁)と。

つまりモンテリウスは型式学的研究法の創始者ではなく、上の引用文で略したところにはヒルデブラントとこの名誉を分かち合う必要があると述べられていますので、「まえがき」の記述内容とは異なるのです。

さらに型式学的研究法だけではなく、層位学的研究法と、なによりも「一括遺物」という概念を創案した人物としてこそ評価すべきだと述べられている点も「まえがき」との間のニュアンスの差として気にかかるのです。

そしてここからは、次のような疑念が生じます。「まえがき」の内容とモンテリウスおよびエガースの記述内容の間には、じつは認識上の差違が生じており、「まえがき」はすでにモンテリウスの研究法の一部だけを抜き出して、その重要性を再確認せよ、と誘っているのではなかろうか、との疑念です。

ではモンテリウスの創案だとしてエガースが重要視するところの「一括遺物」とは、どのような概念なのでしょうか。第2章では「確実な出土品」・「同時に埋納された遺物の総体」などとして実例が挙げられ、それは型式組列の検証に用いられることが述べられています。この点については本ブログをお読みの方にとっても馴染みの事柄であろうと思います。

しかしそれ以上に注目すべき箇所は別のところにあるのです。それは第3章の「考古歴史年代決定法」の項目です。ここではモンテリウス自身の言葉からの長い引用文を付して「一括遺物」の重要性や意義が紹介されています。

抜粋しますと「一括遺物とは、わたくしはつぎのようなものと理解している。すなわち、必要な観察力を備えた信頼できる人物がある場所に一度に同時に埋没されたと想定せざるをえない状況で遺物を発見する、そのようにして発見された遺物の総体である。そのような一括遺物のひとつが貨幣―以下『貨幣そのほかの搬入品』を略して『貨幣』というーを含み、その土地の製品といっしょにみつかれば、それによって、貨幣とその土地の製品がほぼ同時代のものであることが暗示される。もちろん暗示以上のものではない。というのは、両者がいっしょになって埋没されたとき、その貨幣が非常に古く、その土地の製品がたいへん新しかったことがありえるし、またその逆もありえるからである。
 これに対して、第一番目の一括遺物と同じように、第二の一括遺物においても同じ君主の貨幣が同じ型式のその土地の製品といっしょに発見されれば、両者が実際にほぼ同時期のものである蓋然性は著しく増大する」(同書136・137頁)。

この引用文の前に、型式学と出土状況とを手がかりにして編年を確立しておくことが必要だと述べられているので、一括遺物の概念は、歴史年代が判明している遠隔地からの搬入品が、どの時期に併行するか(同時期であるか)を判定する交差年決定法において、最重要視される<共伴関係の判定を下支えする基礎概念>であることがわかります。

ようするに一括遺物の概念とは、相対年代決定法と交差年代決定法のいずれにとっても研究上の基礎となる考古学的実態(発掘調査を通して注意深く導き出された事実)をさすのです。しかし同時に、その実態は適宜諸カテゴリーに仕分けされるとともに、型式分類された格好で提示されるので<諸型式の共伴関係>として表現されることになります。さらに複数の一括遺物を総合すると、<繰り返し現れる諸型式の共伴関係>へと整序される、そのような構造のもとにある基礎概念だと理解すべきなのです。

だからこそ、本概念は当初、一括遺物ではなく「確実な出土品」と呼ばれてもきたのです。さらに後の時代になると本概念は、V.G.チャイルドによって遺構や遺跡を含める形に拡張され「考古学的文化」と呼び換えられますし、「アセンブリッジ」とも表現されるようになるのです。

そしてこのようにみてくると、エガースの次の文章の意味がより鮮明になります。

「以上述べたことから、モンテリウスにとってさえも、一括遺物、すなわち型式の集まりが決定的であったことがわかる。最初モンテリウスがまだ真の暗黒のなかで手探りしていたころだけは、彼にとって型式学が確実なよりどころになっていたが、後になると、この松葉杖を必要としなくなる」(同書 103頁)。

つまりモンテリウスにとっての型式学的研究法は、闇中摸索時の松葉杖でしかなかったと述べられているのです。「まえがき」の主張と本文とがいかに異なるか、おわかりいただけたのではないでしょうか。

「まえがき」が示すような検証過程が問題なのではなく、基礎概念の位置づけ(比重のおきかた)や実際の運用法を取り違えたことのほうが、じつは問題だったのではないでしょうか。その意味において「いまここでモンテリウスその人のいうところを正しく理解し、その研究法をさらに発展させる必要性は極めて高い」(冒頭の引用文から)といえるのです。

「一括遺物」を基本に据えて、構成内容をカテゴリー別に型式分類するという手法(この順序を取り違えると根本的な間違いを起こしかねないという教訓に裏打ちされたそれ)。それがモンテリウスの研究法だったのです。「編年学」と表現するのが適当だと私は思います。彼の実践における型式学的研究法は、1885年の著作時には、すでに参照すべき細目分類案として、実際のところは補助概念として運用されていたにすぎないのです。型式分類と型式学的研究法を識別して捉える必要があることについても、同様に重要です。

次回は、エガース自身もまた、モンテリウスの編年学を誤解しやすい形へと加工した可能性について紹介することにします。

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先に私が活字化した、モンテリウスの実践にみる型式学的研究法の位置づけとその特性について、一部類似した見解を北海道大学の小杉康さんが執筆なさっていることを昨日知りました。

というのも、昨日の午後、松本建速さんが私の部屋にやってきて「Hさんも同じようなことを述べているようだと聞いたので、総論(『古墳時代の考古学(第4巻)』)を是非コピーさせてくださいな」との申し出を受け、なぜ藪から棒にそのようなことになったのかをお聞きする過程で話題にのぼったからです。

該当論文は小杉康2008 「土器型式編年の基礎概念―山内清男・モンテリウス・チャイルド―」『縄文時代の考古学(第2巻)』同成社刊です。非常に多くの図書が世に出る昨今のこととはいえ、うかつでした。しかも同一出版社から出された関連シリーズなのですから。松本さんが私の小文をコピーする傍らで、私は小杉さんの文章の方をあわててコピーして拝読することにしました。

なぜ松本さんが小杉さんの文章との関連で私のものを求めたかといえば、今季の3年次生向け必修科目「考古学研究法」で、層位学や共伴関係、そして型式学的研究を取り扱うことになったからでした。昨年までは私が担当していた部分でしたので、その松本版を今年はやってくれているからでした。

さすが松本さんだけあって、濱田耕作の1922年著作『通論考古学』と1932年訳『考古学研究法』(原著はモンテリウス1903年著作)を読み、小杉論文と照らしながら、今日の日本考古学における「型式学偏重主義は、モンテリウスの原著からみればおかしなことになっている!」と喝破。松本さんいわく「層位的な事実関係や共伴関係の認定が充分に可能であるなら、型式学なんて本来は不要、とまではいわなくとも、前面に押し出され偏重される方向性には納得しがたいものがある!」とのこと。確かにそのとおりなのです。

事実、濱田自身が通論考古学において「考古学的研究に於ける直接基礎的の方法たる層位的研究法を試むる能わざる場合において、吾人の用ゆる方法の一つは型式学的方法(Typological method)なり」(濱田1922,146頁)と記しているのですから。つまり研究環境の制約が大きい場合の次善の策として型式学的研究法が紹介されているという構造のもとにあるわけで、それ以上に層位学的方法や各種の共伴関係の把握が重要であるという研究法の基本が述べられている、そのことの意味をもっと重視しなければいけない、となるのです。

現在の日本考古学が、未だに層位的関係や各種の共伴関係の事例に恵まれていないのかどうか、そこを今季の授業では問いたいという松本さんの目論みだと私は理解しました。

さて小杉さんの文章を読むと、モンテリウスの主眼は編年体系の構築にあり、その基礎単位としての型式概念であることを論じていらっしゃる点で、確かに私の小文が開示した内容と響き合っています。その意味において、私自身も学生時代に教科書的基礎文献として仰ぎ、多くを学んできたところの田中琢氏の1978年著作「型式学の問題」『日本考古学を学ぶ(1)』所収や、故横山浩一氏の1985年著作「型式論」『岩波講座日本考古学(1)研究の方法』所収は、じつはモンテリウス自身の主張(および実践)や、濱田が紹介した研究法の当時の構造とは異質なものへと変じてしまった、その後の日本考古学の方向性の一端を象徴するものであろうと思います。

小杉さんのご指摘のとおり、「田中と横山にあってはともに〈編年の単位となるべきもの〉は、弥生土器研究におけるものならば『様式』ということになる。モンテリウスの研究法を紹介する意図があるならば、編年の単位としては『時期』と明示すべきである」(小杉2008,31頁)となることも頷けます(この点については後に詳しく点検します)。

さらに日本考古学においては、唯一、縄紋土器編年の構築を主導した山内清男が、モンテリウスや濱田の主張内容を正確に理解し、実践に結びつけたという小杉氏の理解についても同意します。

そればかりか、山内はモンテリウスの1885年著作「Dating in the Bronze age 」の内容をも充分承知していた可能性すらあるように、私は秘かに思うのです。1903年の著作について、山内は原本を所持していたことが、雄山閣出版から出された復刻版の巻末「解題」(故角田文衛氏筆)を通じて知られているのですが、そうであるなら当然1885年著作についても…との憶測です。編年学の構造が非常によく似ているからです。

そのため、先の小文では当初、註の3として「日本考古学においては山内清男の縄紋土器編年と小林行雄の弥生土器編年が対置され、「型式」概念・「様式」概念の有効性が論じられてきた。しかしモンテリウスの実践と整合的なのは、じつは山内の方法であることも併せて理解できよう。さらに山内は、モンテリウスの1885年著作を承知していた可能性がある。」との一文を添えるつもりでした。もちろん「さらに」以下の文章は根拠のある話でもないし、前段の文章についても、本文を読めばそういった含意が明らかなので、明示すると返って冗長になるかと判断し、全体を削りましたが。ただし小杉さんの文章を拝読した今は、「さらに」より前の文章は削除せずに活かしておくべきだったかもしれないと考えてもいます。著者の期待どおりにすべての読者が受け止めてくれるはずもないからです。

さて、小杉さんの文章に戻りますが、小杉さんの論文の後段以降の「先験的地域区分」云々については、なお議論の余地があろうかと思います。型式の認定については、時間軸上の基礎単位としての把握と同時に、空間軸上の把握がモンテリウスにおいても伴っていると考えるからです(以下、不定期で続く)。


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