私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

考古学の話題

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震災復興の一助として遺跡資料リポジトリ事業の促進は不可欠であるし、復興関連の遺跡調査が本格始動しようという現在、早急に始動させ整備する必要がある課題のひとつだと思います。

理由は明白です。今後全国各地から調査員が派遣されることになるでしょうが、彼ら彼女らにとって、現地で早急に欲しい情報はなにか。検出されるであろう遺構にしても、出土することになる遺物にしても、その性格を見極めるうえで不可欠なのは「類例」だからです。調査を担当することになる遺跡の近隣一帯の土壌環境がどのような特性をもつのかについても、事前に調べておく必要があるでしょうし、現地で実際に土を見ながら確かめてゆく必要も当然あるでしょう。そのために不可欠なのは、調査地の周辺一帯でこれまでに発掘調査が実施された遺跡調査報告書です。

しかし冊子体の報告書は数に限りがありますし、また収蔵場所まで足を運ばなければならず、迅速な検索は不可能です。被害の大きかった市町村では遺跡報告書自体が亡失の憂き目にあっていて、冊子体の報告書が既に参照不可能なところもあると聞き及びます。

こうした現状にあって、今後一挙に増えることが確実な現地調査担当者からの類例探索の要請に応え、先行実績の参照可能性を担保するのが、インターネット上で必要な情報をどこからでも逐次検索できる環境の整備、すなわち遺跡資料リポジトリプロジェクトです。このプロジェクトには、埋蔵文化財の適切な調査を支援するという重要な側面があることを強調したいと思います。

現在、東北ブロックでこのプロジェクトに加盟しているのは宮城県と山形県ですが、岩手県や青森県、そして福島県の情報も堤供できる環境を早急に整える必要があるでしょう。

私たち考古学に携わる者たちがそれぞれの居住地で震災復興のためにできる支援のかたちがここにあると思います。そのような意味で、今後各地の考古学関連学会への働きかけを進めたいと思いますし、すでにそのような動きがあれば、是非とも連携を図りたいと思います。地元の教育委員会をはじめ本プロジェクトの事務局である島根大学付属図書館にもお知恵を借りたいと思います。

本記事の主張内容は私のオリジナルではありません。東北大学の藤沢敦さんと菅野智則さんとの会話のなかで一致をみた見解です。来る5月27日の日本考古学協会では、遺跡資料リポジトリをセッションとして開催しますし、そこでは菅野さんが震災復興と遺跡資料リポジトリについて報告してくださる予定です。少しでも多くの方にお聴き頂きたいと思いますし、こうした方向での支援活動が実現することを期待します。

写真は宮城県石巻市文化センターで被災した冊子体の書籍です。もちろん遺跡調査報告書も数多く含まれています。書籍自体は文化財ではないにせよ、可能な限り保存処置を施したいとの意向のもと、資料ネット等の支援を受けながら出来る限りの努力が払われています。

ご案内くださった市教育委員会の木暮亮さんは、なんとか時間を作っては被災書籍の復旧の努力をなさっているとのこと。私たちが訪れた日の翌日には、地元ボランティアの方々に手伝っていただき、書籍の目録づくりを進めるとのことでした。

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3月3日付けで自民党から提起された【復興加速への10の方策】ですが、そのなかの「方策4.復興交付金の充実」の内容が非常に気になります。知人からも懸念の声をいただきました。

引用しますと「今後とも復興交付金の確保と事業のスピーディーな進行を図るため、埋蔵文化財調査等の規制緩和にしっかり取り組むとともに、事業が遅れた場合の財政支援に心配がないように基金の設置も検討すること」とあり、本文の下には注釈として「復興交付金の対象となる集団移転事業の進捗を危ぶむ声が大変強い。集団移転事業地の埋蔵文化財調査だけでも現行のままでは数年要してしまうこと」と記されています。

方策の4番目に登場する提言ですから、自民党はこの問題を非常に重視していることがわかります。

復興交付金が円滑に、かつ適正に活用されるべきことはいうまでもありません。財政支援の枠組みを確保するには基金の設置が必要になるのでその方向性を検討すべき、との提言にも異論はないものと思います。

しかしその前に挿入された一文節が問題です。注釈の内容と併せて理解すれば、埋蔵文化財包蔵地の調査(体制)が「現行のまま」では、集団移転事業の進捗に支障となるから緩和せよ、との主張であるものと理解できます。しかしながら「現行のまま」の「現行」が何を指し示すのか。そこの受け止め方如何で、私たちが汲み取るべき内容は大幅に変わってきます。

たとえば宮城県を引き合いに出せば、埋蔵文化財保護行政が充実している仙台市や東松島市のような地方自治体のことを指して「現行」と呼ぶのか、あるいは埋蔵文化財保護行政がきわめて不十分な自治体を念頭において「現行のまま」と呼んでいるのかどうか、という問題です。

前者の捉え方を選択した場合には、文化財保護行政の全体的な後退を招きかねないとの懸念が払拭できません。いっぽう後者の捉え方を選択した場合には、震災前であろうと後であろうと埋蔵文化財包蔵地の取り扱いは不十分でしたので、さらなる緩和とは何を指すのか。これまで実施されてきた関連の諸政策を勘案すると、まず民間活力の積極的な導入となるでしょう。あるいは調査対象地への全面調査を部分調査に切り替えるなどといった臨機応変な方策が念頭にあるのかもしれません。

しかしそのような切り替えを行う前提条件として、各自治体には民間調査組織を管理・指導する専門職員が配置されていることが大前提になります。ですから今回の復興事業を機に、自民党は各地方自治体への専門職員の配置が必要不可欠であることを謳っている、とも読み取れなくはないのです。

もちろん今回示された方策は、前者の捉え方を前提にして記述された可能性が疑いようもなく濃厚です。ですから現行においても充分に機能している地方自治体の文化財保護行政を決して後退させないよう、私たちも声を上げることが肝要でしょう。しかしながら、埋蔵文化財調査が支障になっているとの印象づけを狙いながらも、言質を取らせないよう配慮された老獪な文章ですから、読み取る側にも政治的に読み取る姿勢が同時に必要だと思います。

今回の震災で私たちが学んだことは、津波痕跡と遺跡のありように象徴されるとおり、過去に学ぶ姿勢がいかに大切であるのか、という大命題でした。三陸沿岸地帯の各所に眠る埋蔵文化財包蔵地は、今後の私たちの安全な生活を考えるうえで、きわめて重要な情報の宝庫であることを改めて学ばせてくれたのです。その一端は東松島市の今年度の調査実績として前の記事で紹介させて頂いたとおりです。仙台市若林区の沓形遺跡における津波痕跡の調査成果がいかに重要であったのかについては、すでに周知の事実でもあるわけです。

こうしたかけがえのない調査を「緩和」することが「過去を見ないことにする」ばかりか「過去を抹消してしまう」方向へと向かうことのないよう、慎重に見守りたいと思います。

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与那国島の北西隅沿岸部の海岸段丘端に、問題のクブラバリがあります。琉球石灰岩の裂け目で、裂け目の幅は2〜3m、深さは相当あって20mほどもあるでしょうか。この場所には、明治の中頃までの人頭税時代にあったのだという悲劇の伝説が残されており、それが実話だとすれば、悲惨な島の歴史を証言する遺構だとしかいいようがないのです。

いわく、人頭税の取り立てが厳しかった昔、村の女性が懐妊すると、この裂け目を跳び越させたというのです。落ちれば確実に母子共に死ぬことになるし、成功したとしても流産が期待できる、というのです。実際に現地に立ってみると、私だって絶対に飛び越せないし、跳ぼうものなら確実に死ぬか大怪我を負うに違いないと思います。ですからこの説話は、公然たる処刑にしか思えない恐ろしさをもっています。

また租内集落の南方段丘上にはかつて水田が広がっていたのですが、そこにトングダと呼ばれる水田跡があり、この場所にも悲惨な伝説が残されています。村役人はこの一町歩の田んぼに突然村人全員を集合させ、田に入ることができなかった不具者や病人をすべて殺した、というのです。

これらふたつの話、にわかには信じがたい内容ですが、人頭税時代の過酷な状況を今に伝える説話として広く知られてもいます。先般石垣島で利用したタクシーの運転手とも、たまたまこの説話について話す機会がありましたが、その運転手も「実話でしょう」と断じていましたから、確かに広く信じられてもいることがわかります。著名な民俗学者谷川健一先生も「一九六年冬与那国の旅」(与那国町史編纂委員会編2002『町史第1巻 与那国島』再録)でふたつの伝説を取りあげ、孤島の人々に重くのしかかった人頭税の熾烈さを感傷的な文章で綴っていらっしゃいます。

ただこの説話にわたくしが違和感を覚える理由は、当時の与那国島に関わる行政書類との整合性が保てないからです。たとえば当時の琉球王府側から与那国島に向けて発せられた諸施策の一端については『翁長親方八重山島規模帳』(石垣市総務部市史編纂室編『翁長親方八重山島規模帳』石垣史叢書7、1994年)に概要が記されています。それをみると、与那国島の島民が稲の不作を申し立て、2・3年の間、年貢の徴収が滞ったことや、その対策として講じられた指示の内容が採録されています。

その際、不作で納税が滞るような場合には、村詰めの役人が石垣島まで渡海して詳細な経過報告をさせるように、と指示するに留まったのです。現実に徴税体制の強化が講じられた形跡はじつは認められない、といっても過言ではありません。

人頭税の実態が近世の中葉以降は「定額人頭税」(徴収する税の総量を固定し、それを頭割りで負担させる形態)であったことの意味を考えてみても、“人減らし”は逆効果を生みますので、先の説話とは相容れないというほかありません。沖縄国際大学南島文化研究所も近世琉球の租税制度についての再検討を進めており、その著作をみても「人頭税=過酷な悪税」説は批判的に再検討されていることがわかります(同研究所編2003『近世琉球の租税制度と人頭税』日本経済評論社)。

そしてこの違和感に決定的な影響を与え、確信にまで高めてくださったのが、山口県立大学の文化人類学者安渓遊地先生でした。安渓先生は、次のような伝承の聞き取りに成功し、その著「隣り合う島々の交流の記憶―琉球弧の物々交換経済を中心に―」湯本貴和編2011『島と海と森の環境史』(シリーズ日本列島の3万5千年―人と自然の環境史4)文一総合出版)に収録なさっています。

少し長くなりますが引用します。
「与那国島の東の端の岬には、島にやってくる船を見張る番人がいつも置かれていて、船を見つけると島の中央にある部落まで早馬を走らせて知らせた。特に石垣島からの役人がやってくるときには大変だった。
 島には米や酒といった贅沢品を貯蔵する蔵があったが、そこに大量の物資があることを発見されないように急いで隠さなければならなかったからである。狭い島の中に隠しても発見されるので、役人の船が着くまでの短い時間のうちに、かねて準備してある舟にこれらの物資を積み込んで、とりあえず西の洋上にこぎ出すのである。行き先は、与那国島と台湾の中間にある、両島の共通の漁場だった。目的地に着くと与那国島の舟は白い旗と赤い旗を掲げた。白い旗は助けを求めるしるし、赤い旗は緊急を知らせるものだった。
 台湾から漁にきた舟がこれを見つけると、いったん台湾に戻って食糧と炊事用具を積み込み、与那国島の舟の救援にかけつけてくれる。天気が悪いときなど台湾の舟と出会うのが遅れて食べ物がなくなり苦しかったという。救援の舟が来たら、舟を縛り合わせて安定させ、それからは毎日、ともに米のご飯を食べ、酒を飲み、言葉は通じないがそれぞれの島の歌と踊りで交流する海上のお祭りが続いた。石垣島からの役人の与那国島訪問が終わるとこのお祭りも終わりとなった。台湾の舟との別れにあたって交換した着物を長く記念に保管している家も与那国島にはある」(安渓2010,308-309頁)という伝承です。

傑作というほかありませんし、島民の息吹やしたたかさがよく表れています。そして、こちらについては先の古文書類の記載内容ともよく整合しますし、村々に残された豊富な交易品をみても、安渓先生が採録に成功した伝承は裏付けられるといえるでしょう。だからわたくしは、こちらの伝承の方にこそリアリティーを感じるのです。

では、にわかには信じがたい先の伝説のほうはどうでしょうか。どこまでさかのぼる伝説なのかを検討するのが先決ですが、この点については笹森儀助の探検記である『南嶋探検』(東喜望校注1982『南東探検1』東洋文庫411、平凡社)が気になります。

明治26年に八重山一帯を探検した彼は、最後に与那国島を訪問し、島内全域を歩き回っているのですが、その8月2日の記事に、クブラバリのごく間近を踏査した可能性をうかがわせる箇所があるのです。該当箇所は現在の久部良地区の東にある湖沼を回った後「其西北岸ニ沿フテ古昔租納村ノ旧跡ヲミル。其東ニ沿フテ古墳数十個アリ….」(同書283頁)とある部分です。

「其西北岸ニ沿フ」との記載を重視すれば「古昔」の祖納村旧跡を慶田崎遺跡(現久部良小学校地内)と仮定することが可能になりますので、それに即してルートをたどると「東ニ沿フテ古墳数十個アリ」(現在の墓域近辺)の途中でクブラバリの間近を通ることになります。ですから、笹森は現地を見た可能性が指摘できるのです。にもかかわらず、この悲劇の伝説が採取されていないことはなにを意味するのでしょうか。もしこの当時に本伝説が伝えられていたとしたら、それが笹森の耳に届かなかったというのは非常に不可解だといわざるをえません。

なぜなら、笹森はこの種の伝説にはことのほか敏感で、こういう話は極力採録する姿勢を随所で示しているからです。この村から笹森が聞き取った話は、昔台湾島民に男女を食われてしまったことから、祭祀には大草鞋を作って海に流し、この島には巨人が住むので怖いところであると賊に虚威を示す習慣がある、といった話だけです。平家の落人伝説の残る八嶋墓(大和墓)では仰々しく祭文を捧げるといった儀式まで挙行した彼の記録には、クブラバリもトングダも出てこないのです。したがって、この伝説が笹森の訪問時には未成立だった可能性がある、といえるのではないでしょうか。より新しく創造された「伝説」である可能性です。

内容をみても、近代を正当化するために近世をどこまでも悪として描く、というのは本土エリアでもままみうけられる現象ですから、クブラバリ・トングダ伝説も、その一類型なのかもしれません。しかしながら、こうした類型のなかに納めて済ませられる問題かどうかについても、慎重な吟味が必要でしょう。さらに、このような説話が必然化し、島の景観として組み込まれ「人頭税時代の過酷さを表象する遺構」へと昇華され、観光地として顕彰されつづけていることの意味をどう読み解くべきなのかが問題です。

解答は準備できてはいませんが、両極端の伝承が併存する意味についてごく暫定的な素案として考えられるのは、人頭税の廃止以後に外向けの説話として成立し流布されたのがクブラバリ・トングダ伝説であり、人頭税時代の実態は後者の伝承の語るところであった、というところかと思います。もちろんこのような憶説は「悪のり」とのそしりを受けるかもしれませんが。

ともかく与那国島がおかれた地理的環境と歴史的環境の特性のもとで、島の人々はどのような生活と精神を育み、したたかに生きてきたのか。この点を一度じっくり考察してみたい、という気持ちにさせられている昨今です。

以上は2月5日時点における予察ですので、途中経過でしかありません。本伝説の背景に関する先行研究をまだ探索できていませんので、ご存じの方はご教示頂くと助かります。

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東京大学史料編纂所にいらっしゃる古代・中世史学者、保立道久氏のホームページを拝見したところ、10月12日付けの記事が目に飛び込んできました。表題のシンポジウムに向けた保立氏のメッセージが綴られていたのです。「地震噴火45 神話論の講演、奈良女で」という記事です。
               
                http://hotatelog.cocolog-nifty.com/

神話研究と歴史学との関係が極めて疎遠になっている現在の学界状況を憂慮し、早急に克服すべきとの強い主張が展開されており、いちいち頷きながら読み進めたら、末尾には当日23日(日)の発表内容の目次までがアップされているではありませんか。凄まじいエネルギーに圧倒されそうです。

もとより次回のシンポジウムは、仕掛け人である奈良女子大学の小路田泰直さんから8月にかかってきた携帯電話がきっかけでした。

K「最近なにか進展した?」。
H「前にお話しした箸墓古墳と斎槻岳の関係は、纏向遺跡と斎槻岳の関係の上書きであり、当初のそれは吉野ヶ里と雲仙との関係が起点だという点が分かったことぐらいですかね。吉備からの影響の前に北部九州からの影響があったことが確実視される、というわけです。しかし雲仙は火山ですから、そうなると、火山を象徴化するという関係も視野にいれるべきかと考えるようになり.....さらに小路田説の補強の意味で日本海ルートを前提に邪馬台国所在地問題を考えると、吉備は論理的に狗奴国という図式になってしまうので悩んでいるような状況でして....」
K「よし決まった。では保立さんも呼ぶから、次回はそれでいこう!」。

いかに軽いノリか、をおわかりいただけるかと。保立氏に依頼が入ったのは、氏の近著『かぐや姫と王権神話』(洋泉社)が下地としてあるからですが、経緯をお話ししてしまうと恐縮するばかりです。とはいえ仕掛け人小路田さんのおかげで、次回初めてお会いできることになりました。楽しみです。

そこで私も遅れをとってはいけない、と、先ほど作成したレジュメをアップすることにします。私のものは相変わらず「要旨」に結構な分量を割いていますが、今回は「構成」の部分に示した諸項目において、それぞれ強調したい内容を要約的に並べることにしました。まるわかりですね。

保立氏の議論と抵触することになろうと推定される部分は、山を他界の象徴とする営為がどこでどのように誕生し、その後の上書きや交錯(あるいは忘却を含めた改変)はどのような必然性をもって進展したのか、という点になるかと思います。私の報告では、吉野ヶ里遺跡の弥生後期における雲仙の象徴化(おそらく天界としての象徴化)がひとつの起点になると理解しています。雲仙はいうまでもなく火山です。もうひとつは、吉備地域や東部瀬戸内などで生じた特定の山を墓域とすることで、そこを祖霊の住み処すなわち他界とする象徴化です。これらふたつは、一方は借景、もう一方は人為景観という差違がありますが、人々に印象づけられた現実の景観を基礎としながら他界のイメージは交錯し、融合するなかで高天原も黄泉国も構想されたのではないか、という趣旨の報告になります。

以下は当日のレジュメ(暫定版)です。写真は上段が吉野ヶ里の北墳丘墓と立柱と小型建物の配置、下段が纏向遺跡と斎槻ヶ岳です。どちらもN谷君撮影のものを拝借しました。

                邪馬台国と狗奴国と吉野ヶ里
                              東海大学文学部歴史学科考古学専攻
                                      北條芳隆
                     要旨
 2009年に発見された纏向遺跡の直列建物群は、西暦3世紀前半に構築された巨大祭儀施設だとされ、この発見によって邪馬台国所在地論争は大和説で落ち着いた観がある。私もまた大和説に与する者のひとりではある。しかしながら、山を示準し直列配置をとる本祭儀施設は、疑問の余地なく吉野ヶ里遺跡や平原遺跡など北部九州からの影響であるし、邪馬台国への道程は日本海ルートである蓋然性が高い。さらに西暦3世紀後半に登場する前方後円墳の基本構成要素には大和弥生文化起源の要素が不在であり、西側の弥生文化からの借用や移植が明らかである。つまり大和説をとるといっても、土着的政体が邪馬台国に発展したとはみなしえない。それを継承した倭王権も同じ性格の外部性(西側からの強い作用)をもつ。
 なお土着性が払拭され外部性が明確な王権をなんと呼ぶか。一般には征服王朝と呼び習わしている。そうなると紀記に記された神武東征譚との関係がただちに想起される。紀記の執筆・編集者は、自画像を明確にそう描いているではないか。もちろん過去の事実をそのまま記しているとはみなしえないが、神武東征譚には史実性があると捉えるべきであろう。
 これらの点を勘案すると西暦3世紀以降の全体構図はどうなるか。それは瀬戸内航路を回避した(つまり吉備不在の)北部九州からの東征邪馬台国となり、その後の倭王権は、今度は吉備地域や東部瀬戸内地域からの積極的関与のもとで更なる変質を遂げた結果、誕生した政体であったと見るのが自然である。
 では、この新生倭王権の誕生にあたって強い影響力を発揮した吉備地域や東部瀬戸内地域は「魏志倭人伝」に登場する諸国のどれに該当すると考えられるのか。それは論理的にも資料的にも必然的に「狗奴国」となる。つまり邪馬台国の段階では「倭国」に含まれなかった対抗勢力であったところの狗奴国=吉備勢力が、卑弥呼の死後生じた混乱収拾策の過程で積極的に関与したことによって、新生倭王権は初めて日本列島における支配の正当性を打ち立てるに至った、との解釈へと導かれる。瀬戸内海航路は巨大前方後円墳の誕生の段階になって初めて東西の物流の動脈として開かれた。紀記に記された神武東征譚は、北部九州からの東征と吉備からの東征の二つの事象の記憶が、瀬戸内海航路に一本化されて組み直されたものではなかったか。
 さらに倭人が創り出した人為景観に即して、紀記神話における他界の位置づけを理解すれば、高天原の原風景は北部九州における特定山地(火山)の象徴化に端を発したものと捉えることができ、黄泉国の原風景は吉備における特定山地の他界化(祖先の住み処化)に求められる。??天原についてはその後「坐東朝西」(太陽信仰の日本列島版)方位理念と習合して龍王山―伊勢神宮へと転化した。いっぽう黄泉国については、吉備地域の位置が表側になった関係もあって、その所在地は裏側となった山陰側の山並へと振り分けられた。ただし他界としての山の象徴化は、常に祖先祭祀と密接不可分に結びついており、龍王山にしても「比婆の山」にしても、高天原的他界と黄泉国的他界の両義性をもつ。黄泉国探訪譚の後段において、穢れの祓いから三貴神が誕生するという『古事記』の記載は、このあたりの消息を如実に物語る。
  
                    報告の構成

1. 纏向遺跡の祭儀施設(庄内3様式期)は北部九州からの影響のもとに成立した
(a) 畿内地域の弥生祭儀施設は「坐北朝南」(儒教的)配置
(b)【山―祭儀施設―墳墓】の直列配置にみる吉野ヶ里遺跡や平原遺跡との親和性
(c) 庄内期(前半期)纏向遺跡と布留期(後半期)纏向遺跡の顕著な差違

2. 巨大前方後円墳は吉備的祭祀の普遍化である
(a) 埴輪の起源が吉備地域であることの重要性
(b)列石型墳丘墓(吉備・東部瀬戸内系)の普遍化
(c) 竪穴式石槨や葺石の起源地も吉備・東部瀬戸内地域

3. 「大和原風景」における直線道路と墳墓との組み合わせは北部九州からの影響である
(a) 祭儀施設の基準となった「斎槻岳」は箸墓古墳の示準先に引き継がれ「御諸山」となる
(b)「上ッ道」と「山辺道」に沿った墓域の区画法は北部九州比恵・那珂遺跡が原形である
(c) 既存の祭儀施設を上書きしつつ大改変して誕生した「大和原風景」

4. 狗奴国=吉備・東部瀬戸内説の検討
(a) 東海狗奴国説は考古学的に不成立(弥生時代後期以来畿内地域との親和性が高い)
(b)「魏志倭人伝」における狗奴国の位置関係の問題
(c) 狗奴国「王」は僭称たりえず(仁藤説)公孫氏ないし後漢王朝への朝貢実績をもつ
(d)魏志倭人伝にある「棺有るも槨無し」の問題(安本説)
(e) 弥生時代後期後半以降に顕在化する独自の動向
(f) 庄内期纏向遺跡における吉備的祭祀の希薄さ

5. 日本海・大洋沿岸地域の物流から瀬戸内を介した物流へのシフト
(a) 弥生後期の青銅器分布にみる日本海側と太平洋側の対応関係
(b)弥生後期における瀬戸内航路の閉鎖性

6. 既存の人為景観を背景に構想された紀記神話
(a) 山を天界にみたて象徴化した可能性をもつ北部九州吉野ヶ里遺跡
(b)山を他界(祖霊の住み処)として象徴化した吉備・東部瀬戸内地域
(c) 「大和原風景」は両者の折衷型として西暦3世紀後半に人為景観化が始まる
(d)古墳時代はほぼ一貫して「大和原風景」を踏襲する
(e) 富士山と丸ケ谷戸遺跡前方後方墳(3世紀末)、富士山と埼玉古墳群(6世紀初頭)の関係は、弥生時代に到来した北部九州的象徴化の残映として理解可能

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終了後約2ヶ月が経ってしまいましたが、朝日カルチャーセンターの講座で3月19日に使用したレジュメの最終回の分をアップします。3回目までのレジュメは3月6日付けの記事でアップしましたので、その続編となります。

なぜこのレジュメを今アップし完結させるのか、といえば、明後日15日に贄元洋さんの主催する「第5回考古学セミナー」が豊橋で開催されることになり、そこで今回の内容について2009年に記述した私の論文「大和原風景の誕生」が揉まれることになるからです。贄さんのことですから、きっと歯に衣着せぬ辛辣な批判がくることと思います。

対する私は、贄さんが1991年に書かれた論文「様式と型式」『考古学研究』(第38巻第2号掲載)を題材に、それを批判的に検討する役目を仰せつかりました。90年代初頭に世に問われた注目すべき業績ですし、毎年3年次生向けに開講している【考古学研究法】では必ず参照させる論文なのですが、現時点で論文として振り返ってみたときに、また現在の学界情勢を横にらみしたときにどのような評価になるのか。この点を批判的に考察してみようと思います。

問題の焦点は、0.モンテリウスの「型式学」と「層位学」との関連、および山内清男の型式学との関連のもとで「様式」をどう位置づけるか、ではないかと考え始めています。

いわゆる書評会とは趣が若干異なって、おそらく執筆者同士のバトルの応酬になりそうです。

               黄泉国はどこか(第4回―最終回)

山頂が重視される墓域の構造 
 前回は方位観念の問題と前方後円(方)墳の関係について紹介しました。併せて立地については以下の特徴が認められます。①吉備地域や近畿地域での全体的傾向は尾根上に築造されること、②山頂にも築造されること、③そして平野部には築造されないことの3点です。方位の問題については④埋葬施設は北枕が原則、⑤前方部の向きとの関係については平行か直交、⑥前方部は原則として平野部側に向けられることの3点です(各特徴については通し番号を振りました)。弥生時代後期以降の「列石型墳丘墓」の原則を引き継いで、西暦3世紀の後半に登場してくる巨大前方後円(方)墳には上記の6原則が採用されたとみることができます。こうした諸原則の震源地は吉備地域、播磨地域であった可能性が濃厚です。特に山頂への志向性、ないし「集落から極力垂直的に古墳を切り離す」という現象については、宇垣匡雅氏の研究「古墳の立地とはなにか」(宇垣2004)が参考になります。

方位観念にみる奈良盆地 
 ところが倭王権の中枢であるはずの奈良盆地だけは異質です。盆地内に築かれた大型前方後円墳のなかには、上記の6原則を守らないものが数多く認められるのです。有名な箸墓古墳(286m)や西山古墳(180m)は平野部に築かれており原則③に違反します。西殿塚古墳(240m)と東殿塚古墳(175m)は斜面に平行して前方部が設けられており原則⑥に違反します。桜井茶臼山古墳(208m)は前方部の向きが尾根上を向いており原則⑥に違反します。中平年銘刀を副葬することで有名な東大寺山古墳(140m)は前方部が北向きという、近畿地域全域で見ると非常に希有なありかたを示します。
 こうした状況をどう理解すべきかについて検討した結果、奈良盆地の東南部に築かれた前方後円(方)墳は、全体として龍王山を頂点とし、その裾部に西殿塚古墳と東殿塚古墳時代を要とする扇形を呈した配列関係をもち、前方部の向きは、そこから放射状に向けられる配置となっているのではないか、との仮説を提示するに至りました。この仮説に沿って、私は上記の諸古墳をすべて包括した配列関係を復元し「大和東南部古墳群」と呼ぶべきだと提唱しております。

二軸を交差させた宇宙観 
 本古墳群の配列は、「坐北朝南」という古代中国の新相の宇宙観と「坐西朝東」という古相の宇宙観との両者を習合させたものであり、このうち古相の宇宙観については太陽の運行を重視する日本列島的な解釈によって「坐東朝西」と、正負を裏焼きした表現を採用したものと考えます。このように理解すると、吉備地域発の観念である山頂への志向性との関係を組み込みながら、倭王権が何を表現したのかがわかると思います。このとき、龍王山は「政治的始祖の住み処」として、山裾に居並ぶ王権の主要な人物達を直上から見おろす景観上の位置づけになります。「古事記」の「??天原」がそれに該当します。しかし同時に、山は「黄泉国」でもあるわけですから、普遍的な他界である「黄泉国」のなかから政治的な中枢を担うことになった特定の皇祖たちの住み処として格付けされたのが「??天原」で具体的には龍王山だという図式にもなるわけです。


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