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与那国島の北西隅沿岸部の海岸段丘端に、問題のクブラバリがあります。琉球石灰岩の裂け目で、裂け目の幅は2〜3m、深さは相当あって20mほどもあるでしょうか。この場所には、明治の中頃までの人頭税時代にあったのだという悲劇の伝説が残されており、それが実話だとすれば、悲惨な島の歴史を証言する遺構だとしかいいようがないのです。
いわく、人頭税の取り立てが厳しかった昔、村の女性が懐妊すると、この裂け目を跳び越させたというのです。落ちれば確実に母子共に死ぬことになるし、成功したとしても流産が期待できる、というのです。実際に現地に立ってみると、私だって絶対に飛び越せないし、跳ぼうものなら確実に死ぬか大怪我を負うに違いないと思います。ですからこの説話は、公然たる処刑にしか思えない恐ろしさをもっています。
また租内集落の南方段丘上にはかつて水田が広がっていたのですが、そこにトングダと呼ばれる水田跡があり、この場所にも悲惨な伝説が残されています。村役人はこの一町歩の田んぼに突然村人全員を集合させ、田に入ることができなかった不具者や病人をすべて殺した、というのです。
これらふたつの話、にわかには信じがたい内容ですが、人頭税時代の過酷な状況を今に伝える説話として広く知られてもいます。先般石垣島で利用したタクシーの運転手とも、たまたまこの説話について話す機会がありましたが、その運転手も「実話でしょう」と断じていましたから、確かに広く信じられてもいることがわかります。著名な民俗学者谷川健一先生も「一九六年冬与那国の旅」(与那国町史編纂委員会編2002『町史第1巻 与那国島』再録)でふたつの伝説を取りあげ、孤島の人々に重くのしかかった人頭税の熾烈さを感傷的な文章で綴っていらっしゃいます。
ただこの説話にわたくしが違和感を覚える理由は、当時の与那国島に関わる行政書類との整合性が保てないからです。たとえば当時の琉球王府側から与那国島に向けて発せられた諸施策の一端については『翁長親方八重山島規模帳』(石垣市総務部市史編纂室編『翁長親方八重山島規模帳』石垣史叢書7、1994年)に概要が記されています。それをみると、与那国島の島民が稲の不作を申し立て、2・3年の間、年貢の徴収が滞ったことや、その対策として講じられた指示の内容が採録されています。
その際、不作で納税が滞るような場合には、村詰めの役人が石垣島まで渡海して詳細な経過報告をさせるように、と指示するに留まったのです。現実に徴税体制の強化が講じられた形跡はじつは認められない、といっても過言ではありません。
人頭税の実態が近世の中葉以降は「定額人頭税」(徴収する税の総量を固定し、それを頭割りで負担させる形態)であったことの意味を考えてみても、“人減らし”は逆効果を生みますので、先の説話とは相容れないというほかありません。沖縄国際大学南島文化研究所も近世琉球の租税制度についての再検討を進めており、その著作をみても「人頭税=過酷な悪税」説は批判的に再検討されていることがわかります(同研究所編2003『近世琉球の租税制度と人頭税』日本経済評論社)。
そしてこの違和感に決定的な影響を与え、確信にまで高めてくださったのが、山口県立大学の文化人類学者安渓遊地先生でした。安渓先生は、次のような伝承の聞き取りに成功し、その著「隣り合う島々の交流の記憶―琉球弧の物々交換経済を中心に―」湯本貴和編2011『島と海と森の環境史』(シリーズ日本列島の3万5千年―人と自然の環境史4)文一総合出版)に収録なさっています。
少し長くなりますが引用します。
「与那国島の東の端の岬には、島にやってくる船を見張る番人がいつも置かれていて、船を見つけると島の中央にある部落まで早馬を走らせて知らせた。特に石垣島からの役人がやってくるときには大変だった。
島には米や酒といった贅沢品を貯蔵する蔵があったが、そこに大量の物資があることを発見されないように急いで隠さなければならなかったからである。狭い島の中に隠しても発見されるので、役人の船が着くまでの短い時間のうちに、かねて準備してある舟にこれらの物資を積み込んで、とりあえず西の洋上にこぎ出すのである。行き先は、与那国島と台湾の中間にある、両島の共通の漁場だった。目的地に着くと与那国島の舟は白い旗と赤い旗を掲げた。白い旗は助けを求めるしるし、赤い旗は緊急を知らせるものだった。
台湾から漁にきた舟がこれを見つけると、いったん台湾に戻って食糧と炊事用具を積み込み、与那国島の舟の救援にかけつけてくれる。天気が悪いときなど台湾の舟と出会うのが遅れて食べ物がなくなり苦しかったという。救援の舟が来たら、舟を縛り合わせて安定させ、それからは毎日、ともに米のご飯を食べ、酒を飲み、言葉は通じないがそれぞれの島の歌と踊りで交流する海上のお祭りが続いた。石垣島からの役人の与那国島訪問が終わるとこのお祭りも終わりとなった。台湾の舟との別れにあたって交換した着物を長く記念に保管している家も与那国島にはある」(安渓2010,308-309頁)という伝承です。
傑作というほかありませんし、島民の息吹やしたたかさがよく表れています。そして、こちらについては先の古文書類の記載内容ともよく整合しますし、村々に残された豊富な交易品をみても、安渓先生が採録に成功した伝承は裏付けられるといえるでしょう。だからわたくしは、こちらの伝承の方にこそリアリティーを感じるのです。
では、にわかには信じがたい先の伝説のほうはどうでしょうか。どこまでさかのぼる伝説なのかを検討するのが先決ですが、この点については笹森儀助の探検記である『南嶋探検』(東喜望校注1982『南東探検1』東洋文庫411、平凡社)が気になります。
明治26年に八重山一帯を探検した彼は、最後に与那国島を訪問し、島内全域を歩き回っているのですが、その8月2日の記事に、クブラバリのごく間近を踏査した可能性をうかがわせる箇所があるのです。該当箇所は現在の久部良地区の東にある湖沼を回った後「其西北岸ニ沿フテ古昔租納村ノ旧跡ヲミル。其東ニ沿フテ古墳数十個アリ….」(同書283頁)とある部分です。
「其西北岸ニ沿フ」との記載を重視すれば「古昔」の祖納村旧跡を慶田崎遺跡(現久部良小学校地内)と仮定することが可能になりますので、それに即してルートをたどると「東ニ沿フテ古墳数十個アリ」(現在の墓域近辺)の途中でクブラバリの間近を通ることになります。ですから、笹森は現地を見た可能性が指摘できるのです。にもかかわらず、この悲劇の伝説が採取されていないことはなにを意味するのでしょうか。もしこの当時に本伝説が伝えられていたとしたら、それが笹森の耳に届かなかったというのは非常に不可解だといわざるをえません。
なぜなら、笹森はこの種の伝説にはことのほか敏感で、こういう話は極力採録する姿勢を随所で示しているからです。この村から笹森が聞き取った話は、昔台湾島民に男女を食われてしまったことから、祭祀には大草鞋を作って海に流し、この島には巨人が住むので怖いところであると賊に虚威を示す習慣がある、といった話だけです。平家の落人伝説の残る八嶋墓(大和墓)では仰々しく祭文を捧げるといった儀式まで挙行した彼の記録には、クブラバリもトングダも出てこないのです。したがって、この伝説が笹森の訪問時には未成立だった可能性がある、といえるのではないでしょうか。より新しく創造された「伝説」である可能性です。
内容をみても、近代を正当化するために近世をどこまでも悪として描く、というのは本土エリアでもままみうけられる現象ですから、クブラバリ・トングダ伝説も、その一類型なのかもしれません。しかしながら、こうした類型のなかに納めて済ませられる問題かどうかについても、慎重な吟味が必要でしょう。さらに、このような説話が必然化し、島の景観として組み込まれ「人頭税時代の過酷さを表象する遺構」へと昇華され、観光地として顕彰されつづけていることの意味をどう読み解くべきなのかが問題です。
解答は準備できてはいませんが、両極端の伝承が併存する意味についてごく暫定的な素案として考えられるのは、人頭税の廃止以後に外向けの説話として成立し流布されたのがクブラバリ・トングダ伝説であり、人頭税時代の実態は後者の伝承の語るところであった、というところかと思います。もちろんこのような憶説は「悪のり」とのそしりを受けるかもしれませんが。
ともかく与那国島がおかれた地理的環境と歴史的環境の特性のもとで、島の人々はどのような生活と精神を育み、したたかに生きてきたのか。この点を一度じっくり考察してみたい、という気持ちにさせられている昨今です。
以上は2月5日時点における予察ですので、途中経過でしかありません。本伝説の背景に関する先行研究をまだ探索できていませんので、ご存じの方はご教示頂くと助かります。
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