|
このところ、横浜の朝日カルチャーセンターにて表題の講義を進めています。受講生は10名と少数精鋭ですが、レジュメを一部紹介することにします。黄泉国が山中であることの根拠を古事記に即して開示した後のものです。「三国志」の東夷伝から葬送関連記事を抜粋して比較してみると、倭人条の特異さがきわだつところが話のミソです(第2回目)。
本日は第3回目だったのですが、年末に愛媛大学で開催された魏の曹操墓についてのシンポジウムの様子を紹介し、方位の問題について「坐西向東」(本シンポジウム予稿集から)とされる曹操墓がきわめて重要な意味を有することをお話ししたところです。写真は愛媛大学でのシンポジウムの様子です。友人の村上恭通さん(壇上の左)が司会でした。
なお第3回のレジュメで紹介した明治大学の故小林三郎先生との会話は、先生とご一緒した長柄桜山古墳群の整備指導委員会の後の鎌倉での懇談会の際のものです。この点については拙著2009「『大和』原風景の誕生」『死の機能ー前方後円墳とは何か』岩田書院の註22において、関連する現象を紹介させていただきました。考古学関係者にはきわめて不評の拙著ですが、それを承知で抜粋すると「神仙思想の具現的表象でもある舶載三角縁神獣鏡を10面以上副葬する前方後円(方)墳のうち、桜井茶臼山古墳と馬見古墳群中の2基を除くすべてが、その前方部を西ないし東に向ける現象を指摘できるからである」。となります。あのとき私が該当する事例を列挙して同意し、その意味について突っ込もうとすると、先生はそれを制止され「とにかく今夜は呑もう」と他のメンバーにも配慮されたことを懐かしく思い出します。
黄泉国はどこか(第2回)
前回の補足から始めます。黄泉国=山の世界という図式を「古事記」から読み取った先学の一人に佐藤正英氏がおりました(日本倫理思想史専攻・東大名誉教授)。昨日出版されたばかりの『古事記神話を読む』(青土社)では、前回に解説した根拠とほとんど同じことが論じられており、黄泉国=地下世界という本居宣長の解釈は誤読であると断定されています。ヨミ・ヨモを「山」の母音交替形であるという説も紹介されていて興味深いと思います。
では誤読とされた地下世界観の由来はどこか、といえば、「黄泉」の語源と用例にあります。古代中国春秋時代、鄭国の荘公と母の物語に登場する「黄泉ニ及バスンバ相見エルコトナシ」と「地ヲウガチデ(黄)泉ニ及ビ、隧シテ相見エバ…」(『左伝』―「春秋」の注釈書)。これを墓中だと解釈すれば、黄泉=地下の他界という理解も成り立ちます。ただしそれが普遍的な用例であったとはいえないようで、後漢代の用例には「地下の水脈」という文字通りの意味の方が一般的でもあったようです(伊藤清司1998『死者の棲む楽園』角川書店)。
いっぽう、『三国志烏丸鮮卑伝』には興味深い事例があります。死者の魂は泰山に帰るとの一般的観念が魏の周辺では普遍化していた事実を知ることができるのです。さらに「魏志倭人伝」と「古事記」の黄泉国逃亡譚の比較をおこなうと、同形性が指摘できることを述べましたが、「東夷伝」でそのことを確認しておきます(下段に抜粋)。ここからは、朝鮮半島南部と日本列島における埋葬の多様性と他界観の特異性および普遍性が見いだされるものと思います。
ここから考古学的な点検に移ります。弥生時代前期・中期・後期をみれば、後期に墓制上の大きな転換が一部の地域で生じます。集落と墓域を垂直に切り離す方向性です。山の世界=他界という観念は、観念世界の産物ではなく景観上、視覚的に理解される現象であったことがわかります。
資料(抜粋)「魏志・烏丸鮮卑東夷伝第三十」
① 烏丸伝
「屍体を納めるのに棺が用いられる。死んだ当初は哭泣するが、葬儀の時には歌舞によって送り出す。充分に肥らせておいた犬を、采のある綱でつないで死者が乗っていた馬やその着物、生前の装飾品といっしょにまとめ、それらに火をかけて死者につけてやる。とくにその犬は、死者の神霊を護って赤山まで導いてゆく役目を負わされている。赤山は遼東郡の北西数千里の所にあり、ちょうど中国の人が死ねば魂が泰山にもどってゆくのと同じように考えられているのである。埋葬の日には、夜になると親族や古なじみたちが集まって車座になり、犬と馬をひいて順番にその座をまわる。歌ったり哭したりしている者たちは、肉をなげてやったりする。二人の者に呪文をとなえさせ、死者の魂が険阻な場所をまっすぐ通りぬけ、悪い精霊たちにじゃまをされず、無事に赤山に行きつけるように(教え戒めさせる)。それが終わると、犬と馬を殺し、衣服と一緒に焼く。彼らは鬼神をうやまい、天地や日月星辰や山川をまつり、死んだ大人のうちで武勇にほまれ高い者にも、同様に牛羊をささげて祭る。祭りが終わると、捧げものはみな焼いてしまう」(今・小南約1993,425頁)。
② 東夷伝・夫余条
「死者が出たときには、夏ならば(遺体を保存するために)誰もが氷を用いる。殉葬のために人を殺し、多い場合にはそれが幾百にもなる。葬送の礼は鄭重で、槨(墓室)はあるが棺はない。*『魏略』にいう。彼らの風俗では停喪をすること五ヶ月、その期間が長いことを名誉だと考える。死者に対する祭礼には生ものと調理したものの双方が用いられる。(葬送の際には)喪主は死者の棺をなるべくゆっくり引こうとし、他の人々はそれをせきたて、両者の言い争いのなかで葬送の列が進む。喪に服している期間は、男女ともすべて白の衣服をつけ、婦人は布の面衣をつけ、環珮をはずすなど、おおよそは中国での場合とよく似ている」(今・小南約1993,445-446頁 *は本文註)
漢代には玄菟郡に属しており、王が死ぬと郡の役所に玉匣を取りに来ていた。現在も代々の王の玉匣が宝物として伝えられている。
③ 東夷伝・高句麗条
「男女は結婚するとすぐ、少しずつ葬礼のため衣服をそろえてゆく。埋葬の礼は盛大で、金銀財貨は葬礼のために用い尽くされる。石を積んで墳丘を作り、松や柏をならべて植える」(今・小南約1993,451頁)
④ 東夷伝・東沃沮条
「葬儀にあたっては、大きな木製の槨(墓室)を作る。その大きさは十余丈もあり、一方を開けておいて入り口とする。死者が出るとみな一度仮の埋葬を行い、屍体がやっと隠れる程度に土をかけて、皮や肉が腐ってしまってから、骨をひろい集めて槨の中に収める。一つの家族の骨はみな同じ槨に収められ、木を削って生前の姿を模し、死者の数だけその像をならべる。また土製の鬲(三足のうつわ)の中に米を入れ、ひもでしばって槨の入り口あたりにぶら下げる」(今・小南約1993,455-456頁)
⑤ 東夷伝・馬韓条
「その埋葬には槨(墓室)はあるが棺は用いない。牛や馬に乗ることを知らず、牛や馬はすべて副葬品にあてられてしまう」(今・小南約1993,465頁)
⑥ 東夷伝・弁辰条
「大きな鳥の羽根を死者に随葬するが、死者に天高く飛んでいかせようと意図してそうするのである」(今・小南約1993,468頁)
⑦ 東夷伝・倭人条
「死ぬと、棺に収められるが槨はなく、土をつんで冢を作る、死ぬとすぐ十日余りの停喪(モガリ)をし、その間は肉を食べず、喪主は哭泣し、ほかの者はそのそばで歌舞し酒を飲む。埋葬が終わると。家中の者が水中に入って身体を洗うが、その様子は中国で行う練沐とよく似ている」(今・小南約1993,472頁)*練沐:一周忌の祭りの時におこなう沐浴か(今・小南註)
上記の訳文(引用文)はすべて陳寿 裴松之注 今鷹真・小南一郎訳1993『正史 三国志4 魏書?鶤』(ちくま学芸文庫より)
特徴
a) 遊牧民である烏丸・鮮卑の埋葬習俗記事がもっとも詳細であり、東夷の国々については簡素な記述にとどまる。
b) 他界(魂のゆくえ)に関する記述は烏丸伝と東夷伝弁辰条にあり、前者は中国の泰山と の比較で記述され、後者は飛翔するものと示唆する記述になっている。
c) 棺と槨の有無を中心とした記述の体裁が採られている。
d) 朝鮮半島南部の埋葬習俗にみる多様性が目立ち、倭人条の「澡浴」もそのひとつで近隣地域に類例がなく、当時の中国人にとって解釈を要する習俗であったことが知られる。
黄泉国はどこか(第3回)
1 坐西朝東から坐北朝南へ
今回は「黄泉国」に関連する思想と方位との関係を検討します。古代中国において宇宙の軸線は東西方位優位から南北方位優位へと転換したことを前回お話ししました。中原地域において、秦王朝から紀元前の前漢代までは神仙思想に即した東西方位が優勢でしたが、新の王莽の時代に大転換があり、おそらく遊牧民の宇宙観を取り入れて南北方位優位に変わりました。この間の変化は太陽の運行を基本に宇宙の構造を考えた農耕民である漢民族が古来抱いていた古相の宇宙軸から、遊牧民にも説得力がある、より普遍的な新相の宇宙軸への転換だと考えることができると思います。中国の古代都城の代表的研究者である楊寛氏は古相の宇宙軸を指して「坐西朝東」と呼び、新相の宇宙軸を指して「坐北朝南」と呼びました(楊寛1987『中国都城の起源と発展』、学生社)。古代中国の(中原地域周辺一帯の)都城や帝陵は、すべてこの原則に従っています。日本の条坊制を備えた都城である藤原京・平城京なども、もちろん、この新相の宇宙軸に即して造営されています。よく知られた「天円地方」(蓋天説)の宇宙観も、これに則っています。
2 青銅鏡にみる両宇宙軸
この宇宙観と方位の問題をよく示すのが青銅鏡です。後漢代の方格規矩鏡は基本的に「天円地方」を象徴しており、方位を示す四神が正確に配置されています。いっぽう神仙思想の宇宙観を象った画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は、すべて東西方位です。古代中国における古相の宇宙観を体現しているのです。西暦3世紀後半の日本列島には、古相の宇宙観と新相の宇宙観の両者が入ってきたと言えるでしょう。本来は相容れないふたつの宇宙観は日本列島においてどう受容され、「黄泉国」=他界と結びついたのでしょうか。
3 埋葬施設と方位観念
そこで次に具体的な埋葬の場に焦点を当てます。弥生時代後期後半から、弥生墳丘墓のなかの「列石型」には明確な方位観が生まれます。「北枕の思想」(都出1979)です。それに続く吉備地域と畿内地域における初期の前方後円(方)墳も「北枕の思想」を踏襲しています。この方位観の成立と相前後して、墳丘墓や古墳の立地は尾根上から山頂へと次第に高い場所へ移動していきます。要するに「山頂への志向性」と「北枕の思想」は相互に密接な関係を示しているのです。さらに前方部の向きにも法則性がでてきます。吉備地域や畿内地域では、「北枕の思想」を取り込みながら、前方部はその軸線に平行させるか直交させるかのどちらかを選択したうえで、平野部側に向けて開かれることを原則とするのです。このうち直交原則を取る古墳の場合には、前方部の向きだけが東西方位を示すという仕儀になります。なお故小林三郎氏(明治大学)は、埋葬施設との直交原則をもち前方部西向きか東向きの古墳には、三角縁神獣鏡が多量に埋葬されるという法則性があるのではないか、と生前に私に語ってくれました(残念なことですが、本件については活字にはならないまま死去されました)。前方後円(方)墳の場合、南北主軸と東西主軸は古墳の内部で共存が図られた可能性があるものとみることができるでしょう。もちろん、四国地域では、初期前方後円墳の埋葬施設はかなり厳密に東西方位を指向するので、日本列島内部でも古相の宇宙軸線を重視した地域はあったようです。
|