私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

考古学の話題

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4月24日付けの本ブログ記事をお読みくださった古環境研究所の松田隆二さんからメールをいただき、藤沢敦さんの報告に関連する情報提供をいただきました。ご本人の承諾を得て、以下に転載させていただきます。

私どもも過去20数年間、仙台市や多賀城市の遺跡調査に関わらせていただいてきたなかで、多くの津波堆積物(層)を確認してきました。とくに、今回甚大な被害をうけた若林区では、つい最近ですが、平成19〜20年度に発掘調査が実施された沓形(くつがた)遺跡(仙台東道路の西隣:現海岸線から約4㎞、当時は2㎞)において、弥生時代中期の水田跡の直上に、およそ2000年前に発生した津波により堆積した砂層が広範囲で検出されました(24日付け朝日新聞社会面にも掲載)。
この時の調査チームの検討では、津波の規模は今回の震災ほどではなかったようですが、それでも大きな災害であったようです。
さらに、他の多くの遺跡での調査結果を総合した結果、仙台平野では2500年前(縄文時代晩期から弥生時代前期)、1500年前(古墳時代前期)、1000年前(平安時代)に巨大洪水が発生していたことがわかりました。これらは地球の温暖化の時期と一致している可能性が示唆され、ごく近い将来、巨大洪水の発生期に突入するおそれがあるため警戒が必要との結論に達していました。にもかかわらず、これらのデータが報告書レベル、あるいは学会レベルで止まってしまい、地域社会にまで伝えきれなかったことに、ただただ申し訳なく、責任を感じております。
なお上記の洪水堆積層のうち、津波によるものと確認できているのは沓形遺跡の2000年前の砂層のみです。その他は河川の氾濫あるいは津波によるものかは未確認ですのでご注意ください。

引用文は以上です。松田さん、貴重な情報をありがとうございました。前段は広く知られることになった情報ですが、後段についても古代・中世史において最近注目されてきた温暖化、というより高温障害の問題と密接に関わる重要な情報だと受け止めました。奈良女子大学の西谷地晴美氏による当該期の災害史研究なども想起されるところです。今後は各地の水害痕跡情報を集約し、社会に向けて積極的に公表してゆく努力が求められるものと私も痛感します。

またこの点に関連して、ここからは我田引水のようで申し訳ないのですが、松田さんにもお越し頂いて昨年夏に私達が実施した沖縄県西表島網取遺跡の水害痕跡情報をアップします。ここでも中世末の津波によって初期の水田遺構が埋没し、その後17世紀になって近世の水田が再開発されることになった可能性が濃厚であることを突き止めました。上段の土層断面写真の床面が津波堆積物(層)の上面です。一部を断ち割ったところ(奥の深掘り部分)、多量のサンゴ礫塊が混入していることが確認できましたので、断面写真でも白っぽくマダラに見えます。この堆積物の層は全体に強く硬化していました。下段の写真にある石積みは近世の溜井の堰堤ですが、津波堆積物の層の上に構築されていました。奥の窪み(崖際)に溜まる伏流水を水源とする、復興後の溜井灌漑施設跡です。同一のトレンチを上方から撮ったものです。詳細は本ブログの書庫「調査」2010年9月の記事にあります。
さらにこの近世水田遺構も1771年の明和大津波を被って埋没しています。その時の津波痕跡は下層のサンゴ礫の入り交じったものとは異なってシルトの堆積でした(土層断面中段のやや白っぽい灰色の帯状の堆積ー上半部は後の耕作等によって土壌化しているが、下半部はオリジナルのシルト堆積)。同じ津波であっても要因は異なり、下層の津波の方が甚大な被害を網取遺跡に与えたことがわかります。

こうした身近な調査現場からも、過去の災害情報を慎重に見極め、社会に発信してゆく必要性を痛感しています。なお網取遺跡の調査はこの夏にも実施する予定です。昨年は天候の都合で公開できませんでしたが、今年こそは沖縄県や地元八重山地域在住の考古学関係者をはじめ多くの方々にご覧頂き、併せて慎重な検討やご意見を仰ごうと考えています。

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過日、『考古学研究』誌上にて同名の展望記事を掲載していただきました(第57巻第4号―通巻228号、2011年3月)。副題は遺跡資料リポジトリの活用です。

昨年の末に大阪大学で開催されたシンポジウムでの私の発表は、アナログ紙媒体の報告書とデジタル「報告書」を、作り手の置かれた現在の環境に照らして考えてみる、という観点のもので対置させてみた場合、否応なく後者に軍配が上がることを紹介したものでした。

既存の紙媒体「報告書」が完成形であるという前提に立って、私自身の実体験や実感を反映させるとなると、当然作り手側の視点にならざるをえません。そのため私の報告内容は、といえば、遺跡資料リポジトリにたいする旗幟をはっきりさせることなく終わりました。

         http://ir.library.osaka-u.ac.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00038938

なお以前の記事(2010年12月18日付)で紹介したとおり、既存の報告書の体裁が一応の完成形であるなどという私の前提認識は、総合研究大学院大学の及川昭文先生(先生は図書館長でもいらっしゃる)によって厳しく批判されています。そもそも紙に印刷し冊子体に仕上げるという行為のもとで、他の媒体でなら掲載されたかもしれない情報は取捨選択されてしまっており、捨象されることになったあまたの情報が有する利用可能性を永遠に封じ込めてしまってきた、というのです。端的に言えば色彩情報でしょうし網羅性でしょう。その意味では、私自身の中にも巣くう「保守性」をあぶり出されることになったシンポジウムでもありました。

しかしシンポジウムでの討議内容や懇親会での情報交換を経て、改めて私の見解をまとめたいと思い、提言という形で示したのが当該記事になります。禰宜田佳男さんから文化庁側の情報を仕入れることができたので、当局側の意向への適正な対処法についても言及できました。

今求められているのは作り手の側の視点や利便性云々ではなく、利用者の立場から見た場合の閲覧環境の整備であるはずです。つまり報告書の広範な活用、という視点から問題を捉え直すべきだと考えました。作り手側としては保存性や再現性を担保する工夫を凝らせばよく、アナログ冊子体を堅持するか見直すかといった二者択一の問題でもない。そのような意図のもとで上記の小文を綴った次第です。

もちろんそうなると、必然的に遺跡資料リポジトリを応援し、その推進を謳う側に回ることになります。微力ながら推奨役の端役となるつもりです。関東地方でどう拠点づくりを進めるか、が目下の課題だといえるでしょう。

              http://rarcom.lib.shimane-u.ac.jp/index.html

なお『考古学研究』誌上では3号館の地下にある書庫の写真を挿図として使いましたが、某研究室の閲覧室の様子は最上段と2段目の写真のとおりです(過日の大地震で書棚3本が倒れかけましたが、現在は復旧しています)。

黄泉国はどこか

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このところ、横浜の朝日カルチャーセンターにて表題の講義を進めています。受講生は10名と少数精鋭ですが、レジュメを一部紹介することにします。黄泉国が山中であることの根拠を古事記に即して開示した後のものです。「三国志」の東夷伝から葬送関連記事を抜粋して比較してみると、倭人条の特異さがきわだつところが話のミソです(第2回目)。
本日は第3回目だったのですが、年末に愛媛大学で開催された魏の曹操墓についてのシンポジウムの様子を紹介し、方位の問題について「坐西向東」(本シンポジウム予稿集から)とされる曹操墓がきわめて重要な意味を有することをお話ししたところです。写真は愛媛大学でのシンポジウムの様子です。友人の村上恭通さん(壇上の左)が司会でした。

なお第3回のレジュメで紹介した明治大学の故小林三郎先生との会話は、先生とご一緒した長柄桜山古墳群の整備指導委員会の後の鎌倉での懇談会の際のものです。この点については拙著2009「『大和』原風景の誕生」『死の機能ー前方後円墳とは何か』岩田書院の註22において、関連する現象を紹介させていただきました。考古学関係者にはきわめて不評の拙著ですが、それを承知で抜粋すると「神仙思想の具現的表象でもある舶載三角縁神獣鏡を10面以上副葬する前方後円(方)墳のうち、桜井茶臼山古墳と馬見古墳群中の2基を除くすべてが、その前方部を西ないし東に向ける現象を指摘できるからである」。となります。あのとき私が該当する事例を列挙して同意し、その意味について突っ込もうとすると、先生はそれを制止され「とにかく今夜は呑もう」と他のメンバーにも配慮されたことを懐かしく思い出します。


                 黄泉国はどこか(第2回)
 
 前回の補足から始めます。黄泉国=山の世界という図式を「古事記」から読み取った先学の一人に佐藤正英氏がおりました(日本倫理思想史専攻・東大名誉教授)。昨日出版されたばかりの『古事記神話を読む』(青土社)では、前回に解説した根拠とほとんど同じことが論じられており、黄泉国=地下世界という本居宣長の解釈は誤読であると断定されています。ヨミ・ヨモを「山」の母音交替形であるという説も紹介されていて興味深いと思います。
 では誤読とされた地下世界観の由来はどこか、といえば、「黄泉」の語源と用例にあります。古代中国春秋時代、鄭国の荘公と母の物語に登場する「黄泉ニ及バスンバ相見エルコトナシ」と「地ヲウガチデ(黄)泉ニ及ビ、隧シテ相見エバ…」(『左伝』―「春秋」の注釈書)。これを墓中だと解釈すれば、黄泉=地下の他界という理解も成り立ちます。ただしそれが普遍的な用例であったとはいえないようで、後漢代の用例には「地下の水脈」という文字通りの意味の方が一般的でもあったようです(伊藤清司1998『死者の棲む楽園』角川書店)。
 いっぽう、『三国志烏丸鮮卑伝』には興味深い事例があります。死者の魂は泰山に帰るとの一般的観念が魏の周辺では普遍化していた事実を知ることができるのです。さらに「魏志倭人伝」と「古事記」の黄泉国逃亡譚の比較をおこなうと、同形性が指摘できることを述べましたが、「東夷伝」でそのことを確認しておきます(下段に抜粋)。ここからは、朝鮮半島南部と日本列島における埋葬の多様性と他界観の特異性および普遍性が見いだされるものと思います。
 ここから考古学的な点検に移ります。弥生時代前期・中期・後期をみれば、後期に墓制上の大きな転換が一部の地域で生じます。集落と墓域を垂直に切り離す方向性です。山の世界=他界という観念は、観念世界の産物ではなく景観上、視覚的に理解される現象であったことがわかります。

             資料(抜粋)「魏志・烏丸鮮卑東夷伝第三十」
① 烏丸伝
「屍体を納めるのに棺が用いられる。死んだ当初は哭泣するが、葬儀の時には歌舞によって送り出す。充分に肥らせておいた犬を、采のある綱でつないで死者が乗っていた馬やその着物、生前の装飾品といっしょにまとめ、それらに火をかけて死者につけてやる。とくにその犬は、死者の神霊を護って赤山まで導いてゆく役目を負わされている。赤山は遼東郡の北西数千里の所にあり、ちょうど中国の人が死ねば魂が泰山にもどってゆくのと同じように考えられているのである。埋葬の日には、夜になると親族や古なじみたちが集まって車座になり、犬と馬をひいて順番にその座をまわる。歌ったり哭したりしている者たちは、肉をなげてやったりする。二人の者に呪文をとなえさせ、死者の魂が険阻な場所をまっすぐ通りぬけ、悪い精霊たちにじゃまをされず、無事に赤山に行きつけるように(教え戒めさせる)。それが終わると、犬と馬を殺し、衣服と一緒に焼く。彼らは鬼神をうやまい、天地や日月星辰や山川をまつり、死んだ大人のうちで武勇にほまれ高い者にも、同様に牛羊をささげて祭る。祭りが終わると、捧げものはみな焼いてしまう」(今・小南約1993,425頁)。
② 東夷伝・夫余条
「死者が出たときには、夏ならば(遺体を保存するために)誰もが氷を用いる。殉葬のために人を殺し、多い場合にはそれが幾百にもなる。葬送の礼は鄭重で、槨(墓室)はあるが棺はない。*『魏略』にいう。彼らの風俗では停喪をすること五ヶ月、その期間が長いことを名誉だと考える。死者に対する祭礼には生ものと調理したものの双方が用いられる。(葬送の際には)喪主は死者の棺をなるべくゆっくり引こうとし、他の人々はそれをせきたて、両者の言い争いのなかで葬送の列が進む。喪に服している期間は、男女ともすべて白の衣服をつけ、婦人は布の面衣をつけ、環珮をはずすなど、おおよそは中国での場合とよく似ている」(今・小南約1993,445-446頁 *は本文註)
 漢代には玄菟郡に属しており、王が死ぬと郡の役所に玉匣を取りに来ていた。現在も代々の王の玉匣が宝物として伝えられている。
③ 東夷伝・高句麗条
「男女は結婚するとすぐ、少しずつ葬礼のため衣服をそろえてゆく。埋葬の礼は盛大で、金銀財貨は葬礼のために用い尽くされる。石を積んで墳丘を作り、松や柏をならべて植える」(今・小南約1993,451頁)
④ 東夷伝・東沃沮条
「葬儀にあたっては、大きな木製の槨(墓室)を作る。その大きさは十余丈もあり、一方を開けておいて入り口とする。死者が出るとみな一度仮の埋葬を行い、屍体がやっと隠れる程度に土をかけて、皮や肉が腐ってしまってから、骨をひろい集めて槨の中に収める。一つの家族の骨はみな同じ槨に収められ、木を削って生前の姿を模し、死者の数だけその像をならべる。また土製の鬲(三足のうつわ)の中に米を入れ、ひもでしばって槨の入り口あたりにぶら下げる」(今・小南約1993,455-456頁)
⑤ 東夷伝・馬韓条
「その埋葬には槨(墓室)はあるが棺は用いない。牛や馬に乗ることを知らず、牛や馬はすべて副葬品にあてられてしまう」(今・小南約1993,465頁)
⑥ 東夷伝・弁辰条
「大きな鳥の羽根を死者に随葬するが、死者に天高く飛んでいかせようと意図してそうするのである」(今・小南約1993,468頁)
⑦ 東夷伝・倭人条
「死ぬと、棺に収められるが槨はなく、土をつんで冢を作る、死ぬとすぐ十日余りの停喪(モガリ)をし、その間は肉を食べず、喪主は哭泣し、ほかの者はそのそばで歌舞し酒を飲む。埋葬が終わると。家中の者が水中に入って身体を洗うが、その様子は中国で行う練沐とよく似ている」(今・小南約1993,472頁)*練沐:一周忌の祭りの時におこなう沐浴か(今・小南註)

上記の訳文(引用文)はすべて陳寿 裴松之注 今鷹真・小南一郎訳1993『正史 三国志4 魏書?鶤』(ちくま学芸文庫より)

特徴
a) 遊牧民である烏丸・鮮卑の埋葬習俗記事がもっとも詳細であり、東夷の国々については簡素な記述にとどまる。
b) 他界(魂のゆくえ)に関する記述は烏丸伝と東夷伝弁辰条にあり、前者は中国の泰山と の比較で記述され、後者は飛翔するものと示唆する記述になっている。
c) 棺と槨の有無を中心とした記述の体裁が採られている。
d) 朝鮮半島南部の埋葬習俗にみる多様性が目立ち、倭人条の「澡浴」もそのひとつで近隣地域に類例がなく、当時の中国人にとって解釈を要する習俗であったことが知られる。

                  黄泉国はどこか(第3回)

1 坐西朝東から坐北朝南へ 
 今回は「黄泉国」に関連する思想と方位との関係を検討します。古代中国において宇宙の軸線は東西方位優位から南北方位優位へと転換したことを前回お話ししました。中原地域において、秦王朝から紀元前の前漢代までは神仙思想に即した東西方位が優勢でしたが、新の王莽の時代に大転換があり、おそらく遊牧民の宇宙観を取り入れて南北方位優位に変わりました。この間の変化は太陽の運行を基本に宇宙の構造を考えた農耕民である漢民族が古来抱いていた古相の宇宙軸から、遊牧民にも説得力がある、より普遍的な新相の宇宙軸への転換だと考えることができると思います。中国の古代都城の代表的研究者である楊寛氏は古相の宇宙軸を指して「坐西朝東」と呼び、新相の宇宙軸を指して「坐北朝南」と呼びました(楊寛1987『中国都城の起源と発展』、学生社)。古代中国の(中原地域周辺一帯の)都城や帝陵は、すべてこの原則に従っています。日本の条坊制を備えた都城である藤原京・平城京なども、もちろん、この新相の宇宙軸に即して造営されています。よく知られた「天円地方」(蓋天説)の宇宙観も、これに則っています。
2 青銅鏡にみる両宇宙軸 
 この宇宙観と方位の問題をよく示すのが青銅鏡です。後漢代の方格規矩鏡は基本的に「天円地方」を象徴しており、方位を示す四神が正確に配置されています。いっぽう神仙思想の宇宙観を象った画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は、すべて東西方位です。古代中国における古相の宇宙観を体現しているのです。西暦3世紀後半の日本列島には、古相の宇宙観と新相の宇宙観の両者が入ってきたと言えるでしょう。本来は相容れないふたつの宇宙観は日本列島においてどう受容され、「黄泉国」=他界と結びついたのでしょうか。
3 埋葬施設と方位観念 
 そこで次に具体的な埋葬の場に焦点を当てます。弥生時代後期後半から、弥生墳丘墓のなかの「列石型」には明確な方位観が生まれます。「北枕の思想」(都出1979)です。それに続く吉備地域と畿内地域における初期の前方後円(方)墳も「北枕の思想」を踏襲しています。この方位観の成立と相前後して、墳丘墓や古墳の立地は尾根上から山頂へと次第に高い場所へ移動していきます。要するに「山頂への志向性」と「北枕の思想」は相互に密接な関係を示しているのです。さらに前方部の向きにも法則性がでてきます。吉備地域や畿内地域では、「北枕の思想」を取り込みながら、前方部はその軸線に平行させるか直交させるかのどちらかを選択したうえで、平野部側に向けて開かれることを原則とするのです。このうち直交原則を取る古墳の場合には、前方部の向きだけが東西方位を示すという仕儀になります。なお故小林三郎氏(明治大学)は、埋葬施設との直交原則をもち前方部西向きか東向きの古墳には、三角縁神獣鏡が多量に埋葬されるという法則性があるのではないか、と生前に私に語ってくれました(残念なことですが、本件については活字にはならないまま死去されました)。前方後円(方)墳の場合、南北主軸と東西主軸は古墳の内部で共存が図られた可能性があるものとみることができるでしょう。もちろん、四国地域では、初期前方後円墳の埋葬施設はかなり厳密に東西方位を指向するので、日本列島内部でも古相の宇宙軸線を重視した地域はあったようです。

車輪石と石釧の誕生

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現在執筆中の原稿について、少しだけ触れておきます。古墳時代石製品の原稿ネタです。

上段の写真2点は福井県龍ヶ岡古墳出土ゴホウラ製腕輪です。ゴホウラ腹面貝輪は鍬形石の祖型であることが知られておりますが、背面貝輪のほうは、車輪石の祖型である可能性が濃厚になりました。本例はその証拠です。熊本大学の木下尚子さんがゴホウラであることを解明し、私はその所見を追認したに過ぎません。

2段目は環体部の裏側ですが、貝本来の軸線に沿って撮影したもので、奥が螺頂側、手前が水管溝側です。奥の面には螺塔の弧線が2重にみえ、それを丁寧に削り込んでいることがわかります。要するに腕輪自体の軸線は、貝本来の軸線から約80°振って(要するに螺軸とはほぼ直交させて)作られているのです。こうすることで外舌部の背面をもっとも広く取ることができるのですが、同時に左右の安定性は損ないますので、きわめて変則的な製品です。古墳時代になると、ゴホウラ製貝輪の一部には繁根木型と呼ばれる背面貝輪が誕生するのですが、このような軸線の振れは起こしておりません。したがって本例は唯一の事例となります。

ところで本例は、京都府芝ヶ原12号墳出土の青銅製釧とそっくりであることがわかります。放射状の沈線は、螺肋の隆起を利用し、その両側に数条の溝を施すことで出来上がっています。端部をみると、螺肋間に弧状の切れ込みを繰り返し入れて波状に仕上げております。だから本例は、より直接的には車輪石系青銅製腕輪の祖型というべきでしょう。

このように、最初の材質転換の試みは、まず青銅製品化が先行したことがわかっています。しかしその次の段階で、碧玉および緑色凝灰岩への材質転換になったわけです。ちょうど鍬形石の誕生の前史に、有鈎銅釧があるのと同じです。もともと楽浪系銅釧(円環系銅釧)が弥生時代の日本列島にはたくさん入ってきておりましたから、金属製釧は珍しくなかったのでしょう。その意味では、貝から青銅への材質転換が生じたのも自然な流れだったと考えられます。事実、石釧についても円環系銅釧や帯状銅釧を祖型とするものがあるのです。つまり一旦は貝から青銅器への転換が模索され、その模索が破棄されたのちに石製品として誕生することになったのです。つまり本例と芝ヶ原12号釧との関係は、車輪石の成立過程についても途中に青銅器化が試みられた事実を垣間見せてくれているのです。

車輪石の祖型はオオツタノハガイ釧であるといわれてきました。しかし収まりが悪かったのです。なぜならゴホウラガイとイモガイは奄美・沖縄諸島に生息する、いわゆる南海産の希少性に富む貝であるのに対し、オオツタノハガイだけはそうでないからです。北部九州弥生社会での貝輪スタンダードはゴホウラ製腕輪を男用の威信財とし、イモガイを女用の威信財とするものでした。オオツタノハ腕輪は、幼児に着装されるケースがあるものの、完全な脇役的存在で、いうなれば縄文系腕輪の末裔ともいうべき過去を引きづった遺物です(北部九州弥生社会にこうした縄文系遺物が残る事実も、それはそれで重要なのですが、今は問いません)。

だから古墳時代になって、鍬形石の次に置かれる車輪石がオオツタノハ製腕輪からの材質転換だということになると、イモガイ製腕輪を祖型とする石釧との間で重み付けが逆転するという、奇妙な理解になってしまっていたのです。そのような収まりの悪さを解消する意味でも、本例の存在は重要です。要するにゴホウラ腹面貝輪ーゴホウラ背面貝輪ーイモガイ製貝輪という3層構造が弥生時代の終末期には成立しており、それを踏襲する形で材質転換が生じた結果、鍬形石ー車輪石ー石釧の誕生となった。そのように理解できるのです。

最下段の写真は、同じく龍ヶ岡古墳出土のイモガイ製貝輪です。縦の沈線と、横方向に2段に施された匙面状の加工を確認できます。私が第1群石釧と呼ぶ規格の祖型です(2段の匙面だけで作られた奈良県下池山古墳例も、本群の仲間であったことを、この資料をみて気づかされた次第です)。では、なぜこのような縦の沈線が施されたのでしょうか。それこそが石製品への材質転換に付帯する現象だったと考えられるのです。祖型は貝であることの表示・表象・記号以外のなにものでもありません。アカガイなどの二枚貝に由来する表現を、あえてイモガイに施すことで、それが貝であることを表明したのです。だから祖型腕輪がなんたるか、をよく知るものが本例を見つめると、邪道に映ります。上段のゴホウラ背面貝輪も同様です。本来は乳白色のにぶい光沢を放つなめらかな表面こそが、この貝輪の価値を高らしめたのです。そこに沈線や刻線など「ありえない」のです。しかしそれを知らない者にとっては、こうした記号が施されていないと、いったい祖型は何であったのかが伝わりません。いわばお節介な解説役を放射状沈線は担ったのだと考えられます。

なおこの点について付言しますと、大阪府紫金山古墳出土の3点のゴホウラ貝輪について、木下尚子さんは同じように感じました。邪道だと。だから鍬形石を逆に模倣した珍妙な製品だとみなしたのです。本来の伝統をよく知る方にとっては確かにそうでしょう。しかし邪道側の目線に立つ私にはそう映りませんでした。適度な記号が付加されていないと、価値がわからないのが貝本来の形状や色味の妙を知らない山国育ちの人間なのです。だからこの3点も龍ヶ岡例と同様の位置に置かれる存在、すなわち鍬形石の直接の祖型貝輪に違いないと踏んでいます。

では、なぜ貝輪から石製品への転換が生じることになったのでしょうか。解答は至って単純明快です。貝輪資源の枯渇です。ゴホウラガイの乱獲によってサイズは小型化し、内舌部だけを使う腹面貝輪用の大型貝は入手困難になり、外舌部までをも取り込む背面貝輪への転換が余儀なくされたのでしょう。弥生時代中期後半の北部九州社会における膨大な消費量をみれば、よくわかります。同時に気候の寒冷化が追い打ちをかけたに違いありません。海洋生物は気候の変動の影響をもっとも強く受けるからです。

こうして北部九州弥生社会では、貝輪を青銅釧に置き換える試みが後期から始まりました。原材料としての地金は華北産ですが、楽浪を通じて比較的調達が容易だったからです。しかしこの容易さは、ただちに威信財としての価値の低下に直結します。あまたの青銅製品のなかに埋没させてしまうことになるからです。

乳白色の鈍い光沢をギラギラの金属光沢に置き換えた瞬間に、形状がいかに似ていても、もはや貝の表象ではなくなってしまうのです。代替措置としての素材候補は、角か玉しかありません。しかし腕輪を作り出すことが可能な象牙のような大型の角資源は日本列島内では到底確保しえません。唯一残された選択肢は玉素材に置き換えることだったのでしょう。そうすれば素材は北陸グリーンタフ地帯の広い範囲で確保可能です。だからあえて困難な石製品への転換を倭王権は選択したのだと思います。青銅器生産工人に委ねることを避け、北陸地域一帯の玉製作工人に石製品の製作を委託することになったのです。

そもそも古代中国の玉器が乳白色を指向し、それを「徳」としたのは、乳白色の精子に生命力の源泉を見いだしたからである、と林巳奈夫先生は指摘なさっておりますが、緑色の碧玉製品についても、大元をたどれば古代中国の玉=「徳」に行き着くので、「徳」つながりで貝製品と玉製品とのカップリングが起こった、ともいえるでしょう(なお乳白色の石材が日本列島の広範囲で確保できたら、緑色の碧玉やグリーンタフを捨てた可能性すらあると踏んでいます。このことをうかがわせるのが奈良県メスリ山古墳の小型鍬形石の存在です。蛇紋岩製のこの製品と、愛知県東之宮古墳出土の鍬形石の2例だけが白色系なのです)。

実は貝製品とのカップリングをめぐる上記のような駆け引きの背後には、鉄生産集団も関与していた可能性が高いと思います。なにせ弥生時代の中期後半以来、青銅器生産集団と鉄生産集団は日本列島における覇権をめぐりしのぎを削っていましたし、玉生産集団は鉄器生産集団との連携のもので生産体制を維持していましたから。石製品専用に考案されたであろう刳り貫き穿孔用の、縦軸ロクロの先端に鉄板を曲げた円筒形の管状錐を装着する「石鋸」は、鉄生産集団と玉生産集団のコラボのもとで、おそらく布留1式期直前には開発されたものと推測しています。

このようなことを、2011年の冒頭に考え、ツラツラと打ち込んでいます。大賀克彦さんが見れば「相変わらず進歩がない」と一蹴されるかもしれません。しかし現在執筆中の原稿の柱は、実は未定C群(半島系管玉)と石製品との関係になります。いわば舶載管玉の一括入手と倭製石製品の製作および配布が、前期古墳の築造を導いたという図式になります。大賀さんには再々指摘されておりながら、今まで気がつかなかった私の不明を恥じつつ、です。

双方の対立を越えて

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 件の問題について、これまで私は、理事会側の立場から正当性を主張し弁明を重ねてきました。海外への放出を反対する意見の方とは、筋論と形式論をめぐる議論に終始しました。しかしこのまま臨時総会を迎え、決議をやり直しても、それだけでは絶対に生産的な方向性は出てきません。それどころか学会自体が分裂・瓦解する危険性さえ孕んでいる、と心配してもいます。
 そこでこの2日間、ない知恵を絞り、荒削りな私論ないし思考実験ですが、双方の対立を越えて合意できる途を私なりに探ってみました(以下「である調」で論じます)。

 私案の前提条件は、一切の損失金を出さず、会費の値上げもせず、かつ海外への所蔵図書放出反対有志の会の方々が主張されてきた、学会の本来あるべき姿への方向性を汲み取るものとする。汲むべき要件とは、まず第1に、日本考古学協会が寄贈先への丸投げをやめ、主体性を回復させることである。第2に、いつでもどこでも協会HPにアクセスさえすれば、所蔵図書(に限らず日本考古学関連図書全般)を網羅的に検索・閲覧・ダウンロード可能な体制の実現に向けて軌道修正することである。
 これらすべての条件を満たす解決策とは、セインズベリー日本芸術文化研究所への寄贈はそのまま進めながら、同時平行的に日本考古学協会版サイバー(デジタル)図書資料センターの構築を即時開始し、所蔵図書の検索・閲覧・ダウンロードが可能な環境を作出することである。
 その構築へ向けて、考えられるシナリオを4段階に分けて以下に示す。長い文章に飽きた方は「みだし」をたどっていただくだけでよい。

第1段階 図書目録の共同作成(覚書の一部修正)
 まず次回の臨時総会後、日本考古学協会はただちにセインズベリー日本芸術文化研究所に対し、寄贈予定図書の目録(カタログ)作成を今後日本考古学協会も共同で実施する旨の申し入れを行い、同意を取り付ける(今年度における実施形態と関連予算の支出については後述)。併せて日本在住の研究者へのサービスについては、原則として日本考古学協会側で構築する旨を通知する。

第2段階 分類と仕分け、PDF化
 当該図書目録を共有したうえで、日本考古学協会は寄贈予定図書の全貌を把握し、次の3種への分類と仕分けを行う。A群:報告書類、B群:雑誌類 C群:A・B両群の重複図書。A群については、2−①主要な大学・研究所・行政機関等にリストを配布し、所蔵の有無を申告していただいたうえで協会において集約する。2−②日本国内全域に検索をかけ、PDFファイルの存在の有無を集計し、現時点でダウンロード可能なものとそうでないものを把握する。いいかえれば、今後PDF化が必要な図書の総計を把握し、必要な全作業量を算出したうえで、年次単位計画を練り上げる。B群については、2−③すべての雑誌について連番と欠落を把握する。2−④欠番誌については首都圏の大学に当たって目次を入手し、協会において集約する。C群についてはそのまま寄贈手続きに入るか、上述のPDF化作業に回す。

第3段階 公開(準備)
 日本考古学協会が所蔵するA群の図書については、協会HPにリストと所蔵先を公開し、所蔵先検索、所蔵元別検索、RDFダウンロード可能先へのリンク等によって、閲覧者への便宜をはかる仕様のもと公開を進める。B群の図書については、年次ごとに各号の目次作成計画を策定し、作業の進度に応じて可能なところから順次目次の公開をおこなう。同時に編集著作権者(学会)および著者からの同意が取り付けられた論文等からPDF化を進め、順次目次とリンクさせる形で公開準備を進める。

第4段階 デジタル化によるサイバー図書情報センターの構築
 第3段階までの資産を基礎に、A群図書のうち、今後PDF化の必要なものについては、首都圏所在の大学等で分担し(原本のコピーを取る等の作業の上)PDF化を進める。同時に最近の刊行図書については極力PDFの提供を発行元に依頼し公開への道筋を構築し続けることで、今後とも国内各地の学術図書類が常に最新の状態に近づくようアップデート可能なものとする。もとより現在西日本の国立大学法人を中核として進行中のリポジトリ仕様デジタル報告書類へのリンク作業や、会員からのPDFデータ提供も積極的に受け入れる形でデータの充実をはかる。

解説
 ごく荒削りであるが、以上の4段階の手順のもとで、現状の対立状態を多少なりとも解消し、現実的な解決を図るというものである。現在の寄贈予定先をキャンセルすることによって生じる損失金は一切支払わなくて済む。2009年度まで支払ってきた仮保管倉庫代の約100万円を今後各年度の経費に振りかえるので、全事業費は現状維持となり、会費の値上げも必要ない。唯一こらえていただかねばならないのは、印刷形態の図書については英国に寄贈することになり、協会にはデジタルデータしか残らないことである。紙に触っていただくのは、国内の所蔵先で、ということになる。しかし上記の手続きをおこなうことで、日本考古学協会は現在所蔵する図書の全貌(学会として蓄積してきた歴史的資産の内訳)を把握するとともに、海外寄贈分に関する国内での閲覧可能場所はどこにあるのかを会員に明示できる。今年度の目録作成関連経費については来年度の予算に組み込むことでしのぐ(あるいは結果責任を感じる前理事が一口5〜10万円をカンパ、というのでも可か ...痛いが)。
 第2段階と第4段階の作業については、とくに首都圏所在の大学への負担を強いることになる。しかし今回の事態を招いた前理事のメンバー構成をみても、早稲田大・東京大・明治大・専修大・東海大関係者らがいる。彼ら現職の大学教員は、結果責任を自覚するのであれば、当然の義務として上記の分担作業を負うべきであろう。ちなみに私の大学における専攻所蔵分の図書は6万5千冊余であるが、学生諸君の尽力によって書名検索等可能な(データベース形のデジタル化された)目録は整っているので対処可能であり、各地の自治体からの寄贈を30年間受けている以上、この点については恩返しの意味でも可能な限り力を割く所存である。既存のデジタル所蔵文献リストは、第1段階の目録作成に有効活用できるはずである。もとより前理事としての(実際に海外寄贈を主張した私を除く)彼らの面子を次回の臨時総会で潰さないことが最低限の条件である。そうでなければ合意を取れない。もしこの点が合意されるのであれば、関係各大学の在学生や院生の動員もかけやすくなる。もちろんアルバイト代については一部協会が負担することになろうが。
 課題のひとつは、受け皿をどこにどう作るか、である。この点については、協会図書対応検討小委員会を、反対有志の会の面々にも参画いただく形で再編成し、理事会とは別建てのものとして常置委員会化させ、持続的に機能させればよい。
 そして最大の課題は、次回の臨時総会において最終的には理事会側と海外放出反対側の双方が非和解的結末を回避し、相応の儀礼行為(混乱を招いたことに対する理事会側からの謝罪等)のもとで、この後の基本的方向性について妥協・合意に達することである。

 私とて理事の一人でしかない。権限も小さい。他の理事との摺り合わせをする時間もない。しかし回復不能な非和解性へと向かうことを回避し軟着陸の可能性を最後まで探る、というのも理事に課せられた責務だと思う。臨時総会までの残り日数も限られているが、落としどころの試案として提示する。会員の方々にいくばくかの参考になれば幸いである。

ひねり出した私案は以上です。議決行使書の集計結果如何に関わらず、今後のコストを最小限に抑えた、かつもっとも生産的な打開策だと思うのですが、いかがでしょうか。代案があればお教え下さい。


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