私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

考古学の話題

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私は現在、日本考古学協会理事の末席を汚しています。ご承知の方も多いと思いますが、去る5月におこなわれた総会の「報告」の場で、協会所蔵図書の寄贈先に反対の声が上がりました。総会の場ではそのまま収束し緊急動議の声などはあがらなかったものの、その後活発な署名活動が展開され、現在は「日本考古学協会蔵書の海外放出に反対する有志の会」(以下「海外放出反対会」)が立ち上がるとともに、彼らの要請に従って来月16日には臨時総会が開催される運びとなり、理事会案の可否が問われる事態にまで立ち至りました。

協会のHPに掲載されている7月30日付けの「反対有志」(「海外放出反対会」の前身)による「日本考古学協会理事会見解に対する私たちの意見」をご参照ください。要するに私は、この文書のなかで悪口雑言罵詈讒謗よろしく指弾されまくっている理事会側の当事者の一人です。ここまで口を極めて糾弾された以上、黙っているわけにはいきませんので、私個人の責任においてコメントを記すことにします。

まず不可思議なのは、7月30日付けの文章を糾弾されている側から読めば、現理事会への不信任決議案のほうが相応しいものと受け止められる内容であるのに、そうではなくて現実の要求は理事会案の白紙撤回にとどまることです。

とりわけ項目4の「議決に至る経緯についての重大な疑念」では、まるで前理事会がセインズベリー日本芸術研究所への寄贈をあらかじめ織り込み、そのような方向へ誘導したかのような疑念が表明されています。よくここまで詮索できるものだと感心してしまいますが、ともかく前理事会ないし現理事会側への重大な不信以外のなにものでもありません。

したがって、なぜ不信任決議でないのか、という不可思議さを前提にして、そこに無理矢理理屈をつけるとすれば、次のようになるのでしょう。つまり「海外放出反対会」は、5月に行われた総会決議の無効を要求するが、総会を仕切った前理事会の不信任案などは現時点では無意味であるため、今年度5月の総会決議を踏まえて粛々と手続きを進める姿勢を変えない現理事会の図書寄贈問題にかんする行動だけを規制する。しかしいっぽう、その他の諸々の理事業務は現理事会にお任せしますから、どうぞ従来どおりよろしくやってくださいね、ということになるのでしょう。
そのような提案だとしか理解できないのですが、もしそうだとすれば、現理事会のメンバーを相当馬鹿にした話しですね。7月30日付けの悪口雑言のありようをどうか顧みていただきたいものだと思います。開示された論調を素直に読めば、常識的には現理事会の解任ないし解散を叫ぶのが筋ではないでしょうか。

ちなみに現理事会はあくまでも5月の総会決議に拘束されています。そうでなくては理事会の暴走になりますから。その意味においても「反対有志」による文面は重大な問題を孕んでいます。

問題箇所を引用しますと「署名者数は最初に協会に提出した時点ですでに総会員数の1割を超えており、誰もが想到する臨時総会開催の要件を満たしている。しかし、私たちはここまであえてそれを求めることをしなかった。なぜなら、それによる協会内部の亀裂と学会としての求心力の低下を恐れるからである。また、マスコミなど協会外部に働きかけることも、思いとどまった。社会問題化する以前に理事会自らが謙虚にその原点に立ち返って欲しかったからである。また、理事会の自浄能力に期待したからでもある。だがこの『見解』に接してみて、私たちの自重、理事会に対する配慮や期待は、意味がなかったといわざるを得ない」(協会HP当該文書から)。

問題はこの引用文の後半の部分です。このような主張は、それこそ笑止千万ものだといえましょう。仮にも現理事会が、彼らが期待したという「自浄能力」なるものを発揮して、総会決議と矛盾する方向を模索しようものなら、それこそ理事会の横暴以外のなにものでもありません。学会運営の根幹を理解していらっしゃらないのはどちらでしょうか。

だからこそ、総会当日に記した私のブログでも「緊急動議」はありだったのに…と記述した次第です。もし緊急動議が提起され、それに応じた議決がなされれば、現在のような事態は回避できたはずなのです。それをせずに今になって声を上げる、というのも誠におかしな話しです。

さらに先の引用文の前半は、この時点では「脅し」の意味で挿入されている将来への懸念ですが、現在では、その後彼らが実際に行った行動の予言ともなりました。つまり現在の「海外放出反対会」は臨時総会の開催に持ち込んだことによって「協会内部の亀裂と学会としての求心力の低下」を主体的に導く途を選択し、「マスコミなど協会外部に働きかけ」を行ったことによって社会問題化を誘導した張本人にもなったわけです。それがどのような結果を招くのかについての自覚ないし期待を明記したうえで、です。恐れ入りました。

では今後はどうなるのでしょうか。あくまでも私個人の勝手な見立てですが、放出に反対した方々の行為は「日本考古学と文化・文化財保護行政に取り返しのつかない不利益をもたらした者として、末代まで広く記憶されるであろう」(協会HP当該文書から)側に立ったと推測いたします。もとより「広く記憶される」ことがあるか否かについては、保証の限りではありません。

お断りしておきますが、悪口雑言罵詈讒謗を投げかけられた側の当事者からは、この程度の応答があっても許容の範疇かと判断いたしました。ですから当該文書を執筆した面々にはご容赦いただくことにしましょう。

次に、7月30日付け文書に記された項目4の「議決に至る経緯についての重大な疑念」について、私が承知している範囲での事実関係を記しておきます。私が1期目の理事になった2008年度、就任直後に開かれた理事会で協会図書の寄贈問題が話し合われたとき、一括寄贈を前提とし、かつ今後も総会が開催されるごとに増加する図書類(この時点では今後も協会は図書の寄贈を受け続けることが前提だったように記憶しています)を、国内で受け入れる先などみあたらないであろうとの心証を抱いたのは事実です。現在の大学の図書館の状況を踏まえての心証です。

当然ながら、はたして具体的な受け入れ表明の事実があるのかどうか。この点についての質問が出され、担当理事から、セインズベリー日本芸術研究所からの打診があるとの報告を受けたのです。

その報告を受けて、ならば「積極的に海外への寄贈を進めるべきだ」と主張したのは私自身でした。日本の貴重な「文化財」を救済するためにこそ、との趣旨です。日本国内が図書の取り扱いにかんする構造的な<氷河期>に襲われている現在、それを国内だけで防御しようとしても所詮は無理があります。むしろ海外に拠点を移すことのほうが危険の分散になると考えたからです。幸い1遺跡の報告書は最低でも300部はありますし、学術雑誌類も数百部以上のストックがあるはずですから、そのうちの1冊を寄贈という形で海外に避難させることは、なによりの保険になると考えたからです。

日本の国内に置いていたのでは、現実の埋蔵文化財に対してですら廃棄が叫ばれている昨今ですし、報告書の「死蔵」状態もたびたび指摘される現実ですから、報告書が「焚書坑儒」の憂き目にあう可能性だって充分に考慮すべきでしょう。その一部をイギリスに避難させ、そこでの活用を実現させることで、50年後100年後に救われることを目論む方が文化財の保存に資するに違いない。そう考えた次第です。

このとき念頭にあった実例はマンローコレクションの環頭形石製品です。102年前にスコットランド博物館に避難されていなかったとしたら、それを贋作だと決めつけた当時の権威的日本人考古学者の元で、もみ消され抹消されていた可能性が大であったと推測します。そうした過去の歴史的事実を踏まえての発言でした(興味のある方は、北條芳隆2001「環頭形石製品の再評価」『日本考古学』第11号をご参照ください)。

しかし私の意見は、はなはだしい暴論だといって厳しい反対意見と糾弾に晒されました。それは予想に反して厳しいもので、たちどころに数名の前理事からの怒気を帯びた叱責および反論を受けたのです。要するに私一人を除く前理事会の方々の大多数は、そのとき、国内への寄贈を暗黙の大前提にしていたことを痛みと共に思い知らされた次第です。この事実について証言いたします。現在の「海外放出反対会」の中には、このときの理事会に出席なさっていた方もいらっしゃるのではないでしょうか。このやりとりを知らないかのような詮索ぶりを発揮されていますが、どうぞ裏を取ってみてください。

さらに私の意見への強い拒絶反応を受けて、このとき「寄贈先を国内に限定する旨の国籍条項を入れましょうか」との再提案も実際にありました。しかし受け入れ先が見あたらない可能性や、国籍条項を付すことによる閉鎖性を指摘する意見もだされ、議論は収拾が付かない雲行きになりました。そのため私は「現実に可能性の高い国外からの申し込みも充分に担保される形での募集を図りませんか」と申し上げた次第です。私が記憶している限り、前理事会での協議においてセインズベリー日本芸術研究所への誘導があったとしたら、上記の私の発言が最たるものでしょう。

その後、複数の理事の方々は国内の機関への働きかけを従来以上の危機感をもって模索したとも伝え聞いています。もちろん当時の総務理事を含めてです。それでも国内の機関で最終的に応募手続きに踏み込むところは皆無であった、というのが事実です。

さらに申し添えます。2009年10月に山形で開催された理事会の席上、申し込みの期限までに具体的な応募にまでこぎ着けたのはセインズベリー日本芸術研究所だけだった、という白井理事からの報告を受けたとき、理事会全体は非常に重苦しい雰囲気と沈黙に包まれました。菊池会長を始めとする総務理事の面々が苦渋の表情を浮かべていたことを鮮明に憶えています。

唯一の積極的推進発言をおこなったはずの私ですら、まさか本当に国内からの応募が一件もないことは予測していませんでしたので、この重い事実を前にして、一言も発言できませんでした。こうした事実関係については特に強調しておきたいと思います。

そのような次第ですので「反対有志」による7月30日付け文書の項目4「議決に至る経緯についての重大な疑念」は事実無根の詮索以外のなにものでもありません。海外放出への誘導があったとして責められるべき前理事がいるとすれば、おそらく私一人だけでしょう(続く)。

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誇張しすぎた環濠

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研究室に溜めていた書類やら資料やらを整理していたところ、先日ポロッとこぼれ落ちたトレース図面がありました。阪大の院生だった頃、確か1990年夏だったのではないかと思いますが、大阪府の、とある弥生時代集落遺跡の保存問題に関わった際に描いてみたものです。シンポジウム資料の挿絵にと描いたもののなかの1枚です。ドローイングペンは使わずロットリングだけで描かれています。

画面は北から南を見た状態で、左側に薄い2本のラインで描いた弧線は第2阪和国道です。この道路の工事に先立って実施された発掘調査成果に依拠しながら、遺跡の全体を想像するとどうなるか、という趣旨で描いたものです。

集落の総面積は81,000㎡と、かなり大きな環濠集落であろうといわれております。この絵を描いた当時は、佐賀県吉野ヶ里遺跡で望楼が復元された頃でしたので、その影響をもろ受けていることも容易にわかります。吉野ヶ里遺跡以上に重要ですよ、というアピール性が込められていますね。原画のサイズはB5版ですので、集落内を歩く親子などの人物もシルエットで描写しています(下段)。

しかしよくもまあ、ここまで見てきたように描いたものだと呆れかえります。事実、当時大阪府教育委員会にいらっしゃり、この絵をご覧になった禰宜田佳男さんからは間接的にお叱りを受けた記憶があります。ただ、どの部分がお叱りの対象になったのかは、直接伺えませんでした。

全体に誇張が過ぎるという趣旨なのか、望楼など個別付帯施設の実証性の問題なのか、集落内部が分節化された状態で描かれていること、つまり単位集団ごとに自律性を示すかのように描かれていて統率性が見えないではないか、という構造認識に関わる事柄なのか(この点については、実は意図して描きました)、あるいはすべてなのか、いまだにお聞きできず仕舞いです。

なお多重環濠については、これを描いた1990年当時は、2重(部分的には3重)環濠であるとされておりました。しかしその後の調査によって、同時に存在したのではないことが明らかになっています。

この点について、岡大の先輩である秋山浩三さんの文章から引用しますと「中期のある段階における環濠の景観は、一条だけであり、しかもその規模は、幅約1.3〜2.5m、深さ0.6〜0.9m程度だったと変更されるにいたっている。また、埋積土の観察からは、環濠に接して土塁などの施設が設けられていた痕跡は把握できない」(秋山浩三2007『弥生大型農耕集落の研究』青木書店 ,326頁)とのことです。

したがいまして、この部分については、あきらかな誇張だったといわざるをえません。先にアップした多磨全生園の外周を巡る環濠や土塁のサイズと比較してみれば明らかなように、弥生集落の環濠は相当貧弱であったと考えなければならないようです。

そして弥生中期集落の環濠が秋山さんのご指摘のとおりの実態だったとすれば、環濠の意味そのものを考え直さなければなりません。少なくとも対人防御施設ではありえなかったことになりますね。集落内への水の侵入を防ぐ排水路でしょうか。あるいはより精神的な意味での悪霊を祓う結界としての区画だったのでしょうか。はたまた形骸化し痕跡器官化した、かつての防御性の記憶だったのでしょうか。もちろん、先の所見がどこまで普遍化できるかどうかについては、今後とも吟味されるべきであろうとも思います。

懐古趣味でアップするわけですが、こうしたいくぶん誇張気味の復元想像行為は当時もさほど珍しくなかったのではないかと思います。大阪府弥生文化博物館にも卑弥呼の館を再現した集落?居館?都市?模型が常設展示されています。

もちろん、私自身も加担者であることを改めて表明するものですが、たとえ保存運動の過程でのイメージ化であれ、こうした行為が処断される日は、そう遠くはないと予感する昨今です。

ところで、スキャナで取り込むと、原画の繊細な表情が損なわれてしまい、残念です。

隔離の記憶を掘る

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今からちょうど101年前にあたる1909年(明治42年)、多磨全生園(癩療養所)の患者地区二万坪の周囲には、患者達の手によって、深さ一間半(2.7m)、幅二間(3.6m)の空堀が掘られたそうです。

掘られた土砂は患者地区側(内側)にそのまま盛られ土塁となりました。こうして堀と土塁で区画された隔離療養所が誕生したようです。このような堀と土塁を構築した理由は、管理者の手記によれば「第一に患者の逃亡を防ぐ」、「第二に伝染非伝染の区域を厳重に分ける」「第三に外部の襲撃に備える」だったそうです。

諸般の事情のもと、1929年までにはこの堀と土塁はほぼ埋められ、生け垣による遮蔽へと変化したようですが、開設当時に出現した大規模環濠は、患者を伝染区域に押しとどめ世間から完全に遮断する意図を、すなわち先に列挙した理由の第二を、景観化したものとしか言いようのないものだったはずです。悲しさと同時に、自己嫌悪にも似たやりばのない感覚を抱かずにはおれません。

なお多磨全生園患者自治会編『倶会一処』(1979)には、この堀や土塁がどのような存在だったのかをうかがわせる次のような文章が採録されているそうです(孫引きになりますがご容赦ください)。
「一人の少女が入院してきた。収容されてすぐ入浴。その短い間に監督のすすめもあって送ってきた親は逃げるように去っていく。残された少女は本能的に不安を感じ、絆の切れることを恐れ、親の姿を求めて走り回る。百メートルも行けば高い土手、きびすを返してまた走る。黒い収容門にぶつかる。泣き叫びながら堅い門扉を拳で打つ。鍵のかかった扉はびくともせず、振り上げた手は、監督につかまれる。陽も落ちはじめ涙もかれかけたとき、一緒に泣いてくれる保姆に抱かれていた。 ―中略― 

そのうち少女は病院の生活に慣れていく。いや慣らされていった。十二畳半の部屋に子ども十二人、小さい子はひとつ蒲団に二人で寝た。痛い痛い大風子油注射も仲間と励まし合いながら耐えた。勉強は午後からなので、午前中はガーゼのばしの作業に行き、少しばかりの小使い銭を小さな手で稼いだ。それでふかし芋などを買って食べた。運動会、盆踊り、お会式などの楽しみもあった。夕方になると仲良し同士は手をつなぎ土手へ遊びに行った。土手の上には逃亡防止用にからたちが植えられ向こう側には深い堀があった。遠くに富士山や秩父の山々が影絵のように浮かんでいた。」(黒尾和久2010「全生病院『患者地区』を囲んだ『堀・土塁』」『シンポジウムの記録隔離の記憶を掘る』<国立ハンセン病資料館ブックレット1>30頁)。

この引用文が完全なノンフィクションだとまではいえないようです。が、幼い子どもたちが突如この療養所に収容されることになった場合にどのような辛さを味わったのか、このあたりの実情を伝える文章であることに間違いないでしょうし、土塁と堀が、この少女と世間とを遮断する象徴的な構造物であったことがよくわります。

ハンセン病に罹患したというただ一つの理由で、この少女は一生涯をこの病院で暮らさなければなりませんでした。名前は療養所や病院であるものの、癩病は不治の病として周知されており、世間体を気にする肉親からも罹患者は忌避されることが多かったようで、実際は片道キップの収容所であったようです。つまり土塁と堀は、そうした「永久隔離」の遮蔽性を象徴する構築物でもあったわけです。

その後も国のハンセン病患者隔離政策は変わらず、昭和初期から昭和30年代までは、官民一体となった「無癩県運動」という、ハンセン病患者を町や村から一人残さず療養所に強制隔離政策も推し進められたようです。こうした施策は当然のことながら患者への忌避や差別をさらに助長させたのでしょう。すでに特効薬が普及し、ハンセン病は完治できる病気だということが判明した後にも、隔離政策はなかなか解消されなかったようです。

そんな隔離施策の引き金になった多磨全生園の堀と土塁を、考古学の手法によって調査しようという機運が高まっています。近代化という名の一連の施策とはどのようなものだったのか。いわば負の側面にも余すところなく焦点を当てることは、この問題を考える上でとりわけ重要なことと思います。

以上の文章は、先日黒尾和久氏から頂戴した国立ハンセン病資料館ブックレット1『シンポジウムの記録 隔離の記憶を掘る―全生病院「患者地区」を囲んだ「堀・土塁」―』2010年(国立ハンセン病資料館)に依拠するものです。

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表題は先日開催された日本考古学協会の総会で、桜井準也氏が行った研究報告の副題から借用しました。

ちょっと気になったものですから、第4会場の最後にあったこの報告に顔をだしてみた次第です。
親しみやすい話題だといえるでしょう。自分は他人からどう見られているのかを気にするのが日本人だそうですから、なおさらなのかもしれません。

桜井氏によれば、最近は「トトロ」や「カードキャプターさくら」などで考古学者の父親が登場し、彼らは一様に娘にやさしく包容力に満ちた存在であり、また相応のステータスもあり、かつ普段は自宅を空けて不在なので使い勝手がよいのだそうです。私も他人事ではないですから、逐一自分自身に引きつけてみては、最後だけは当たっているかもしれない、と思いながら楽しく聞いていました。

しかしながら、このテーマを人文科学的な「学問」と呼べる領域にまで引き上げるとなると、道のりは相当遠いな、とも感じました。たとえばメディア論の専門的手法がどのようなものかを、本学の広報メディア学科水島久光先生との共同研の過程で、少しばかり覗いてみた経験からの率直な感想です。その道のプロの分析は脱帽モノの凄まじいものがあります。詳細な観察にもとづく仮説の提示と検証作業の繰り返しですから(素材が異なるだけで、考古学の資料整理から考察までの過程とまったく同じ)。それを欠く考察は、単なる「心証」ないし「印象」以上の意味をもたない、といわざるをえません。

また「考古学者はどう描かれてきたか」を問えるという状態が意味するところ、そここそを問うべきだとも感じました。
たとえば「国文学者はどう描かれてきたか」とか「日本史学者はどう描かれてきたか」という問いが成り立つかどうかを、少しばかり比較点検してみればよいのです。管見による限り、同じ土俵で議論することは不可能ですね。

ですから、ここからは次のような仮説が提示可能です。すなわちこうした問いが成り立つのは、およそ人文系の「学者」と呼ばれる職業のなかで、考古学者は映画やアニメの脇役として高度に選択されやすい特異な、もしくは象徴的な位置に置かれていることの反映であると。

つまるところ学者一般の中でみても、考古学者は世間の価値観からもっとも異質なところに位置づけられている、との仮説です。いいかえれば、世間から見た場合、それは存在が許容されること自体が不可思議で非合理的である職業の象徴であり、それゆえもっとも世間離れしていて超世俗的であり、なのに一定の収入を享受できるという希有な存在である、との仮説です。ロマン(夢と空想)を追い求めることが職業として許容される、信じがたい(一般には許されがたい)存在の究極なのではないか。だからこそ冒険映画の主人公や、アニメの主人公の父親に選ばれるケースも頻出する、という仮説です。

そしてこの仮説の検証は、桜井氏が提示なさった一覧表と突き合わせてみても、さほど難しくないと思うのです。

だから私たち考古学者は胸を張っていいのです。世間様からみれば社会の余剰が生み出した権化であることを、です。好奇の眼差しを受ける対象であることを、です。

そうした自己の正しいポジショニングこそが、今後私たちはどうすべきなのか、なにをすべきではないのか、を洞察するさいの前提認識にもなろう、というものです。

そんなことを帰りの電車の中で考えていました(福永さんところの学生さん、本記事は5月23日の帰宅時に小田急線の車中で打ち込んだポメラ原稿がベースですからね。正しく執筆経緯を伝えてくださいね)。

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イラレ関連記事3部作の最後です。

私の研究室では、報告書や論文に掲載する図面類は完全にデジタル化していますし、DTPソフトで版組までを仕上げています。写真の処理や台割表についても、アルケーリサーチの藤波さんに教えていただいてやっています。こうすることで、印刷経費が大幅に削減できるというメリットもありますし、世間様の動向に即応可能な卒業生を輩出することにつながると思うからです。なけなしの研究費をアドビ・クリエイティブスーツの購入に充てていますし、今後も購入し続けることでしょう。現在はCS,CS2,CS3,CS4とバージョンはバラバラですが、5セットが稼働(可能)状態です。

とはいえ、私はアナログ世代ですので、図面については、やはり気持ちのどこかでデジタル化に抗うところがあるように思います。

しかしもっとも抗い難い魅力は、網掛け表示(トーン掛け)がいとも簡単に可能になったことにある、と思います。(印刷屋さんに網掛け範囲指定をするだけだった裕福な機関の方々は別として)これだけは誰しもが実感することではないでしょうか。スクリーントーンをせっせと貼り込んで、擦りつけ、フキサティーフで固定する作業からは完全に開放されました。

そしてきわめつけはカラー表示です。範囲を指定しグラデーション処理しただけで、白黒のイラストはカラーへと変化します。空の部分をそうしただけで、スケッチが与えるインパクトは各段に高まるのです。
これについてだけは、納得しました。この絵も今回の概要報告書で使用しています。


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