|
先のシンポジウムの際に、会場から誹謗されたことをお話ししました。
今回お示しした画面がそれです。これに激しく反応されたのです。表題は、だから保身のために鞍替えを目論むというのではありません。もとより堅持するなどとはいえませんが、暫定的に畿内説を維持していますし、それを主張すらしています。
さて箸墓古墳の被葬者問題とは別に、笠井新也説のなかでもう一つの焦点となるのは邪馬台国までの道程記事の解釈です。笠井は「投馬国」出雲説を唱えました。それまで主流であった瀬戸内航路を否定したのです。
この説を、仮に邪馬台国が奈良盆地の東南部であったとしたばあいにはどちらがより蓋然性が高いといえるのか、この点を紀年銘鏡を素材に検討したものが、先の論文の続編として書いた本論です。上図を改めてご確認ください。日本海沿岸航路は幹線でした。対する瀬戸内航路は難所つづきです。このような地理的環境は、そのまま両地帯の考古学的状況に反映されているのです。こうした状況証拠のもとに点検作業をおこなったのです。
本日の夕方、執筆を完了しました(だからこうして今、さぼりまくった埋め合わせにと、深夜まで記事を書いているのですが)。
この論文は、先の論文とは打って変わって楽しく一気に書けました。掲載誌は先のものと同様『青藍』次号です。
なおこのブログをずっとご覧の方々にはご了解いただきたいのですが、先の論文とこの論文は、本ブログで6月の初頭に執筆を宣言した、箸墓古墳の放射性炭素年代測定結果への批判論文の第一弾に当たります。『考古学研究』誌上で新納泉さんが批判文を公開されたので、私は馴染み深い古巣から生み出された結晶でもある『青藍』誌上で活字化することにします。『考古学研究』に比べたら読者層は限定されるかもしれませんが、私の身の丈にあうような気もしているのです。
なぜ笠井新也説の邪馬台国説の学史整理論文のなかで現時点の議論へ向けた批判を展開するのか、との疑問の声もあるかもしれません。しかし邪馬台国の所在地論や道程論は、ともに古墳の開始年代に依拠する議論なのですから、学史的経緯のもとに今回の問題を位置づけることもできて格好の舞台だといえるでしょう。
査読論文では絶対にゆるされない反則ですが、今回も編集担当の栗林さんにはご容赦いただき、論文の冒頭部分と後半の一部を切り取ります。文面をご覧になって関心を抱かれる方は、どうぞ本誌をご購入ください。「考古フォーラム蔵本」のホームページでも予告されるはずです。
3月には刊行されるものと思います。もちろん、笠井新也説の再検討が特集の眼目ですので、編集担当の栗林さんも執筆なさっており、徳島発の意欲的な論文が集まるものと思います。
邪馬台国所在地論とそこへの道程
北條芳隆
1.もうひとつの先見性
先の論考で私は、笠井新也説の再評価が現在の考古学界で高まりつつあることを述べた。そこでは白石太一郎氏の1985年文献(白石1985)を紹介するなかで、三角縁神獣鏡の紀年銘が古墳時代開始年代観の起点になっている構図に言及した。交差年代決定法に依拠する考古学では、その製作年代の絞り込みが重視される。この点にかんする現在の学界情勢は、福永伸哉氏による一連の研究成果(福永1991)を共通見解として採用している。すなわち三角縁神獣鏡に特徴的な方形鈕孔は、中国北方系の魏鏡系統に属するとの考察結果である。この成果は、三角縁神獣鏡の製作地をめぐる議論に終止符を打つ決定打として賛同する研究者が多い。若干の躊躇を覚えながら私自身も暫定的に支持している。私が躊躇する理由は、菅谷文則氏の主張するような国産説(菅谷1989)にも傾聴すべき点が多々あるからだ。
ではこのような現時点における暫定的共通見解に立脚したばあい、独自の邪馬台国畿内説を構築した笠井新也説(笠井1922,1923)のなかで、箸墓古墳の年代観をめぐる議論と同時に、考古学側の見解として整理しておくべき点はなにか。それは邪馬台国までの道程にかんする問題であろうと思われる。というのも、笠井の重要な業績のひとつは「投馬国」出雲説を唱えた点に求められるからである(矢吹2007)。ここでは文献解釈にかかわる側面には踏み込まないが、紀年銘鏡の分布や墳丘墓等の展開状況など現時点の考古学的所見を加味すれば、この問題についてはいかなる整理が可能なのかを簡単に述べておきたい。(以下つづく)
*注:後半の文章は久住さんと内山さんのご指摘を受けて再検討した結果、2月21日に大幅な改訂をおこないました。その結果、完成版は前回アップした内容とは異なっておりますので当該部分を削除しました。趣旨は異なりませんが、文章表現については、学界の現状を反映させ、かつ誤解の少ない表現へと変更しております。コメントいただいた「その可能性も捨象しきれない」の部分も完成版では大幅に変更しておりますのでご了解下さい。
|