私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

考古学の話題

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先日は吉留秀敏さんの現場にお邪魔してきました。現場をここまで楽しく興味深く(しかも大規模に)しっかりと掘り下げまくるたぐいまれな才能と行動力の持ち主は、私の知る限りこの人だけです。現在は福岡市教育委員会の調査第二係長で多忙な業務をこなしていらっしゃいます。

そんな吉留さんが今回突き止めたのは、弥生時代中期中頃の溜池跡かと推定される巨大遺構でした。三苫永浦遺跡の溜井灌漑施設の発見に引き続き、今回は溜め池そのものの可能性の高い遺構。遺構といっても谷そのものです。推定4000トンの貯水量を誇るりっぱな溜め池になるとのことでした。ただ堤の遺存する可能性が濃厚な地点については、残念ながら調査範囲の外で現在道路が走っている場所。したがって厳密には溜め池それ自体の検出とはならなかったようです。

遺跡は元岡遺跡と呼ばれる九州大学の移転地内。私がお邪魔したときは、今年度調査区の埋め戻しと旧石器時代の遺構面の調査中でした。吉留さんの案内で埋め戻し中(といっても「コンマ7のパワーショベル2台を稼働させて2週間目だというのに全然埋まらんで困った」との状態)の現場を歩き回ってみましたが、立ち枯れ状態の樹木が散見されて、一気に水没してしまった状態をよく示しているようでした。

須玖2式期以降にはこの溜池内に投棄されたさまざまな遺物が認められ土器類はコンテナ1万箱分あるようです。木器類も豊富で驚かされました。そして「まあ、どの遺跡でも普通に出る遺物で観るべきものもないけどな」といいつつ見せられたのは、小指の先大の辰砂(水銀朱)塊であり数枚の貨泉であり五珠銭であり、見たこともない青銅製の柄尻金具であり銅戈の鋳型であり、と、鋳型を除けば、それが当時の廃棄品になってしまうあまりの贅沢さに絶句。

弥生時代の伊都国、誠に「恐るべし」というほかありません。

移住と拡散の人類史

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表題の問題を日本考古学でどう扱うべきかについて、同僚の松本建速さんとしばしば話し込むようになりました。彼の博士論文『蝦夷の考古学』は、こうした人類の性を自明の前提として書かれています。

松本さんいわく「人間は基本的に移動する動物なのです。移住も入植もどんどん累積されます。行く先々の環境に適応しながら拡散するものですから、形質には地域的な偏在性が生まれます。先に到達した者達と、後からやってきた者達との軋轢もはらみます。しかし場所ごとに相互の混血も進みます。20万年間の人類の歴史は移住と定着そして拡散の累積じゃないですか。そうやって地球上にはびこってきたのです。ホモサピエンスという種は」。この松本さん特有の断定口調には、しかし否応なく納得させられます。いや、文句なく同意します。

弥生文化の成立が、朝鮮半島からの農耕民の入植の結果であることは広く知られているとおりです。日本列島内での拡散の過程で、やがて大和水稲農耕民の担い手としての相貌を備えることになりました。

次の古墳時代の成立も、本ブログでしばしば言及するように、移動と入植の産物でしょう。

その後今日にいたるまでの歴史の展開過程についても同様です。私および私の家族の来し方を振り返ってみても、実際にそうだからです。
結婚は大阪でしたが、その後徳島に10年居住し、秦野市の前の借家に5年、今の住居に移って3年目になります。18の歳に長野県の伊那谷を旅立って以来30年以上にわたり、よく移住しています。そして行く先々で、先住民との間で緊張関係をはらみながら融合を遂げることもあり、ときにはじき出されケツをまくったりもし、要するに、なんとかやってきたのです。

私たちの移住パターンが(知的)労働者に特有のプロレタリアート的流動性を示すものにすぎず、自営農民や商人のそれでないことは、さほど問題ではないでしょう。社会環境や生業形態によって違いはでますが、旧石器人たちの遊動性やら、先島先史時代人たちの回遊性やら、いろいろな移動生活のパターンがあり、その中の一バージョンにすぎないからです。

ホモサピエンスはよく移住します。動きます。特に若い頃は動き回ります。そして肝心の大和水稲農耕民たちも、過去から現在までよく動き回りました。各地の入植村や新田がそうです。そうやって農耕を拡散させてきたのです。現在は北緯40度の上川盆地にまで水稲農耕は進出しています。

血についても振り返ってみましょう。私は父(南信)も母(北信)も、拠点は異なるものの長野県域の地付きでした。それぞれ3代以上前までは完全な中部高地系。系統は南方系とも北方系とも言い難いほど混じり合っていることは確実ですが、数世代前から居住地と通婚圏はどちらもおおむね固定的だったようです。そのため比較的濃い血のようです。

いっぽう妻の父方の系譜は、沖縄県浦添市から大阪への移住者。母方の系譜は奈良県の法隆寺界隈の地付き。そのため妻は南方系と北方系の混血です。そんな私たちの間に生まれた娘は、単純計算でも1/4南方系1/4北方系1/2中部高地系になります。この2世代間の混血を通じ、娘は日本列島の中部から南西諸島までの人々の形質の一端をわけもつことになります。彼女は南方系でも北方系でもありません。

こうして21世紀の日本人は形成されていきます。日本列島内での形質上の偏在性はどんどん薄れていきます。理由は単純。ごく一部の階層を除き、みなよく動き回っているからです。婚姻の相方は都市部に集まってきた者同士のなかで見いだされるばあいが多いので、否応なく出自が遠隔地であるカップル誕生の可能性が高まります。混血が進みます。文化は融合してゆきます。

かつての納豆は、東方世界から大阪への快進撃を遂げました。醤油に砂糖や甘味料を入れる「漬けダレ」文化は逆に東方へと進出中です。着実に足下を浸食しています。我が家のような刺身には絶対にスダチが欠かせない、との需要が東方でも高まったので、「スダチ酢」もこのところ比較的容易に手に入るようになりました。スダチ文化の普遍化です。その背後には人の移動や移住があることはいうまでもありません。その際、婚姻による日常生活への導入が一番の導引役になるとの実感もあります。

このような見方で人類史を考え考古学を見据えることは、きっと面白いと思います。

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私の自宅のすぐそばにこの遺跡はあります。東田原中丸遺跡です。

実朝首塚の目と鼻の先にあって、一帯は中世波多野氏の居宅跡として有名ですが、その下層は古墳時代前期の集落遺跡です。秦野市域で唯一の古墳時代前期の集落遺跡ですので、業界筋では、ときに話題になることもあります。

なぜなら、古墳時代前期(4世紀代)に忽然と現れ、忽然と姿を消す集落遺跡の典型例だからです。土器は相模湾沿岸部的な変容を遂げた(とおぼしき)台付き甕や東海系の高坏があって、これらが主体ですので、金目川下流域からの一時的な移住(入植)であったと考えられます。

この遺跡では、2次にわたる発掘調査の結果、25棟の竪穴式住居址が見つかっています。しかし、そのうち13棟は切り合っているので、同時併存はおよそ12棟であろうと考えられます。切り合い関係からみると最低でも2時期に区分されなければならないのですが、報告書の図版をみるかぎりでは土器様式は単一にしか見えません(一部に庄内新段階併行のものが含まれるとの立花実さんの鑑定結果ですが)。

特徴的なのは、住居一棟のサイズが比較的小さなものを含むことです。床面積20㎡のものと14㎡のものとが相半ばするのですが、なかには9㎡というものがあります。
西相模考古学会の現会長は、こうした小規模住居を若夫婦の居住跡だと推定されたことがあるそうです(出典未確認)。先日西川修一さんからその話をお聞きしました。卓見なのかもしれません。あるいは北海道の開拓時にそうであったように、若い男達だけの仮住まいだったのかもしれません(竪穴式住居址ですので、仮住まいとするには苦しく、前者の案のほうが蓋然性は高いような気がします)。

この遺跡は北から南へと刻まれた浅い谷の西側斜面にあって、谷の最奥部から流れでる湧水帯を水源とする、ごく小規模な溜井灌漑水稲農耕を目論んだ開拓村であったと推定されます。

このような湧水利用の溜井灌漑でしたら、現在の周辺地形をみると南北に長い半町歩(5000㎡)程度の土地は問題なく開墾可能かもしれないと思います。でもこの程度の水田面積でどれだけの人口を賄えたのか、不安が残ります。また一気に引き払ってしまうかのような忽然とした集落の消滅も不思議です。何棟かが残ってこの地に定着すれば、そこから新たな地域文化も芽生えたでしょうに。

この湧水地のすぐ脇がポチの散歩コースにあたるので、3年ほど前からなじみ深い景観となりました。初夏はホタルの名所になります。

最上段の写真は、谷の最奥部から南をみたところです。右奥の白い建物が「ふるさと公園」の建物で、中丸遺跡の調査地のすぐ手前に立っています。

撮影地付近は湿原となっており、どこか間近に古墳時代前期の溜井跡が設けられていた違いない、と秘かにふんでいます。3段目の写真に写る、冬でも水の引かない湧水地直近の水田は、間違いなく湿田でしょう。

ちなみに北海道の復元開拓小屋の写真も再アップしておきます。東屋(吾妻屋)のイメージです。

【参考文献】
秦野市教育委員会 2004『秦野の遺跡1―東田原中丸遺跡2000-03調査―』
(秦野市文化財調査報告書8)

見瀬丸山古墳にて

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最後の巨大前方後円墳として有名な見瀬(五条野)丸山古墳です。

昔は畑だったのですが、現在は用地買収が進んだのか、一面に緑の草が生い茂る丘の風情でした。

ひさしぶりに出向いた理由は、前方部の向きや横穴式石室開口部との関係、あるいは後円部の先に何があるかを確かめるためです。

永谷君から「前方部は畝傍山に向けて軸を定めているようにも見えますよ」と教えられたからでした。前に訪れたときには、もちろんそんなこと考えもしなかったのですが、いざ指摘されてしまうと、やはり気になります。3段目の写真がその状態を確認したものです。たしかにそう見えました。

偶然だというのでしょうか、いや必然だというのでしょうか。この問題のみでは水掛け論に終わるでしょうから、どうしたら必然性のほうに向けられるのかを思案しながら全周を散策しておりました。

ちなみに本古墳の横穴式石室の開口方向はほぼ正確に南に向くようです。では南になにかあるかと探してみても、特段の変化はみうけられません(最下段の写真)。前方部の外堤前面側には、北から下ッ道が取り付くと指摘されていますので、ちょうど正反対の方向に入り口が設けられていた格好になります。

横穴式石室の入り口が南向き、というのは近畿に限定されない大原則ですが、なぜそこまで厳格に守られたのでしょうね。

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先のシンポジウムの際に、会場から誹謗されたことをお話ししました。
今回お示しした画面がそれです。これに激しく反応されたのです。表題は、だから保身のために鞍替えを目論むというのではありません。もとより堅持するなどとはいえませんが、暫定的に畿内説を維持していますし、それを主張すらしています。

さて箸墓古墳の被葬者問題とは別に、笠井新也説のなかでもう一つの焦点となるのは邪馬台国までの道程記事の解釈です。笠井は「投馬国」出雲説を唱えました。それまで主流であった瀬戸内航路を否定したのです。
この説を、仮に邪馬台国が奈良盆地の東南部であったとしたばあいにはどちらがより蓋然性が高いといえるのか、この点を紀年銘鏡を素材に検討したものが、先の論文の続編として書いた本論です。上図を改めてご確認ください。日本海沿岸航路は幹線でした。対する瀬戸内航路は難所つづきです。このような地理的環境は、そのまま両地帯の考古学的状況に反映されているのです。こうした状況証拠のもとに点検作業をおこなったのです。

本日の夕方、執筆を完了しました(だからこうして今、さぼりまくった埋め合わせにと、深夜まで記事を書いているのですが)。

この論文は、先の論文とは打って変わって楽しく一気に書けました。掲載誌は先のものと同様『青藍』次号です。

なおこのブログをずっとご覧の方々にはご了解いただきたいのですが、先の論文とこの論文は、本ブログで6月の初頭に執筆を宣言した、箸墓古墳の放射性炭素年代測定結果への批判論文の第一弾に当たります。『考古学研究』誌上で新納泉さんが批判文を公開されたので、私は馴染み深い古巣から生み出された結晶でもある『青藍』誌上で活字化することにします。『考古学研究』に比べたら読者層は限定されるかもしれませんが、私の身の丈にあうような気もしているのです。

なぜ笠井新也説の邪馬台国説の学史整理論文のなかで現時点の議論へ向けた批判を展開するのか、との疑問の声もあるかもしれません。しかし邪馬台国の所在地論や道程論は、ともに古墳の開始年代に依拠する議論なのですから、学史的経緯のもとに今回の問題を位置づけることもできて格好の舞台だといえるでしょう。

査読論文では絶対にゆるされない反則ですが、今回も編集担当の栗林さんにはご容赦いただき、論文の冒頭部分と後半の一部を切り取ります。文面をご覧になって関心を抱かれる方は、どうぞ本誌をご購入ください。「考古フォーラム蔵本」のホームページでも予告されるはずです。

3月には刊行されるものと思います。もちろん、笠井新也説の再検討が特集の眼目ですので、編集担当の栗林さんも執筆なさっており、徳島発の意欲的な論文が集まるものと思います。

               邪馬台国所在地論とそこへの道程
                                           北條芳隆
1.もうひとつの先見性
 先の論考で私は、笠井新也説の再評価が現在の考古学界で高まりつつあることを述べた。そこでは白石太一郎氏の1985年文献(白石1985)を紹介するなかで、三角縁神獣鏡の紀年銘が古墳時代開始年代観の起点になっている構図に言及した。交差年代決定法に依拠する考古学では、その製作年代の絞り込みが重視される。この点にかんする現在の学界情勢は、福永伸哉氏による一連の研究成果(福永1991)を共通見解として採用している。すなわち三角縁神獣鏡に特徴的な方形鈕孔は、中国北方系の魏鏡系統に属するとの考察結果である。この成果は、三角縁神獣鏡の製作地をめぐる議論に終止符を打つ決定打として賛同する研究者が多い。若干の躊躇を覚えながら私自身も暫定的に支持している。私が躊躇する理由は、菅谷文則氏の主張するような国産説(菅谷1989)にも傾聴すべき点が多々あるからだ。
 ではこのような現時点における暫定的共通見解に立脚したばあい、独自の邪馬台国畿内説を構築した笠井新也説(笠井1922,1923)のなかで、箸墓古墳の年代観をめぐる議論と同時に、考古学側の見解として整理しておくべき点はなにか。それは邪馬台国までの道程にかんする問題であろうと思われる。というのも、笠井の重要な業績のひとつは「投馬国」出雲説を唱えた点に求められるからである(矢吹2007)。ここでは文献解釈にかかわる側面には踏み込まないが、紀年銘鏡の分布や墳丘墓等の展開状況など現時点の考古学的所見を加味すれば、この問題についてはいかなる整理が可能なのかを簡単に述べておきたい。(以下つづく)

*注:後半の文章は久住さんと内山さんのご指摘を受けて再検討した結果、2月21日に大幅な改訂をおこないました。その結果、完成版は前回アップした内容とは異なっておりますので当該部分を削除しました。趣旨は異なりませんが、文章表現については、学界の現状を反映させ、かつ誤解の少ない表現へと変更しております。コメントいただいた「その可能性も捨象しきれない」の部分も完成版では大幅に変更しておりますのでご了解下さい。


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