私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

日常

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5月23日は、浦添市教育委員会での資料調査に充てました。朝から土砂降りの雨のなか、安斎君と嘱託のM城さんがホテルまで迎えにきてくれました。朝から手分けして文化財パトロールだそうで、現場の点検の帰りに寄ってピックアップしてくれたのです。途中で教育委員会御用達の文具店に寄って方眼紙を購入し、教育委員会に到着すると、課長さん以下数名が慌ただしく出かけるところでした。聞けば近世の橋が増水のために水没の危機に瀕しているのだそう。そのような大雨のなかでの資料調査となりました。

文化部長の下地安広氏にご挨拶し、資料調査をお願いした嘉門貝塚、城間古墓群調査時のお話をお聞きすることができました。嘉門貝塚については7万㎡を1年半で調査せざるをえないという、すさまじい政治的判断のもと、米軍用地内でもあって相当な苦労を強いられたとのことでした。

そうした先達のご苦労の賜ですから、申し訳なく思いつつ、同時に感謝です。一日をかけて両遺跡出土の貝製品を実測・写真撮影させていただきました。

城間古墓群の貝製品で気になっていたのはオオツタノハ貝輪のサイズでした。たしかに腕に通すには小さすぎ、唯一腕に通すことが可能なのはオオベッコウガサの腕輪だけ。ゴホウラ背面貝輪にも同様の小規模貝輪が認められるのです。埋葬に伴う副葬品としての位置づけが可能ならば、ミニチュア貝輪への志向性が意味するところはなにか、という設問の設定も可能なのかもしれません。

今回の調査で最大の成果といえるのが、組み合わせ式イモガイ横割り貝輪と、石釧のうち私がいう第1群石釧(手元にある実測図を最下段にアップしておきます)との間のプロポーションの酷似を再確認できたことです。先日の読谷村の資料2点に、嘉門貝塚B地区出土品からも3点を確認できました。このほか、まだ実見していないものを含めると6点程度となります。今後増える可能性は濃厚です。

この一群の特徴は、内部を丹念に削り込んで繊細な造作を施すことにあり、形状的にみれば側面の上半部を斜めに削り込むことによって、上半部は斜面、下半部は直立面となるのですが、この様相は第1群石釧のそれとみごとに一致するのです。サイズ的に見ても高さは1.6cmから2cmで、石釧とまったく同じです。もちろん貝輪のほうは組み合わせ式ですから、径は一致しません。

貝塚時代後期前半のどこにくるか、年代的な問題は依然として残りますが、貝塚文化のなかにこうした一群の腕輪が含まれることは非常に重要だと思うのです。ようするに貝塚文化人の貝輪の伝統を、倭王権側は模倣したという理解が可能になるからです。ひょっとすると、第1群石釧の成立は北部九州を介していないかもしれない、そんな可能性含みでもあるのです。

とはいえ、側面のプロポーションが似ているというだけで、石釧との近似を論じるなど言語道断であるとの批判も予測されるところです。そしてこの点については、表面の仕上げに際して浮き立つ生長線の縦縞模様に由来する可能性(殻頂部側を上にした場合、横からみれば右側に張り出し気味の縦縞)と、仮に死貝の使用であれば、この境界部分が意図せざる沈線として作出されてしまう現象が、石釧へと模倣される段になって沈線・刻線表現へと受け継がれたという可能性の両者によって説明づけることを考えています。後者の実例は、読谷村中川原貝塚出土品で確認できます。もとより、刻線自体を施す貝輪探索も継続してゆきたいと思うのです。もちろん、その実例も今回の調査で確認できました。

そんな新発見に気を良くしながら、安斎君とふたり、この一群に型式名を与えるとすればどのような名称が適当か、という議論を行いました。「嘉門・中川原タイプ」とでもしましょうか。なお当該資料の細部写真については「本貝塚の資料がこれまで以上に注目されるようになればなによりですから」との安斎君からの許可を得られましたので、ここにアップさせていただきます。

明日売り出される同成社の『古墳時代の考古学』第4巻には間に合いませんでしたが、第2章②に載録された拙著「腕輪形石製品」の本文中(168頁)で触れた祖型貝輪としてのイモガイ製横割貝輪とは、この一群をさしてのことです。

全力で実測を進めましたが、夕方5時までに作図を完了したのは17点で、城間古墓群は終えたものの、結局嘉門貝塚資料については見切れず、次回にもう一度資料調査をお願いすることとなりました。嘉門貝塚の資料は、確かに可能性を秘めた重要資料であることを再認識させられました。下地文化部長を始めとする浦添市教育委員会の方々には心から感謝します。もちろん安斎君には本当にお世話になりました。

夕方は吉岡さんご夫婦と安斎君とが相談した結果、山羊料理の店にご案内いただくことになりました。しかし朝の車中でそのことを聞かされた私は、少したじろぎつつ、同乗していたM城さんに地元での反応をお聞きしてみたところ、「私は山羊、絶対にダメです!」とのご返答。いかに山羊料理が辛いかをお聞きしながら、いよいよビビッてしまいました。

お店は国際通りから少し脇に入ったところの”話題の店”だそうで、鴨田さんはすでに馴染み。安斎君は7年目だから当然かもしれませんが、吉岡さんのご主人もなんら気にせずにパクパク食されるし…。出された山羊の刺身、金玉の刺身、炒めものまではなんとかなったものの、山羊汁はダメでした。

それとビールでは山羊の香りに勝てないので、早々に泡盛を注文して、泡盛を注ぎながらの“賞味”となったため、後半はほとんど酩酊状態のなか、途中から来てくれた安斎君の奥様も「君のために残しておいたから」と安斎君から出された金玉の刺身を躊躇なく口に入れて「いけるわね!」との反応を呆然自失に近い状態で見ていました。私を除く二組の夫婦が平然と山羊を食する状況のもと、ひとりだけ異邦人がそこにいるという、いままで経験したことのない疎外感、というか気が遠くなりそうな感覚(こちらは酔いのせいか)を味わいました。

おかげさまで後半の記憶がありません。昆虫類や爬虫類などが平気でゲテモノ喰いで通ってきたという私ですが、今回のもうひとつの発見は、私はゲテモノどころか、れっきとした伝統料理でもある山羊肉が苦手だという事実でした。臭いに弱いようです(そういえば、昆虫類についても蚕のサナギだけは苦手、それも味ではなく、口中に広がる匂いですから、その点で私の弱点には共通性があるようにも思います)。

鴨田さんからは「目が冴えて眠れなくなるわよ!」とか聞かされたおぼろげな記憶はあるのですが、記憶はそこまでで、朝、なぜかホテルで普通に寝ている私に気がつきました。

それと鴨田さんご免なさい。せっかく頂戴したお土産、おそらくお店にそのまま置いてきた気がします。
そのような次第で、今回の調査旅行、真に充実した時間を過ごさせて頂きました。

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5月23日には朝10時から沖縄県立博物館にお邪魔しました。私と同郷の片桐千秋さんが出迎えてくださり、学芸員室で班長(学芸課長)の久場政彦氏と民俗担当の大湾ゆかり氏を紹介いただき、その後、私の網取での聞き取り調査の内容や、にわか仕込みの民俗的知識について、専門的見地からのコメントをいただくことになりました。途中からはこの4月に館長に就任なさったばかりで多忙の安里進先生も加わって、しばし先島地域の民俗談義となりました。

たとえば私の調査地である西表島網取遺跡四辻の角に遺存している東西1対の「ビジリ」については、名称の由来はたしかに「ビジュル」信仰ではあるものの、辻に設けられているという立地状況や、左右1対というあり方は、明らかに石巌当のそれであり、前者は仏教からの影響、後者は風水思想からの影響であって、由来そのものには相互に関連性はないものの、網取遺跡の場合は名称と機能の両者が融合(習合)したものと理解できるのではないか、との暫定的結論で合意、ということになりました。

この間、さまざまな解釈の可能性について逐一ご点検いただき、その都度関連文献をご提示くださったので、非常に勉強になりました。傍で聞いていた片桐さんいわく「たった30年前(網取村の廃村時)までは当たり前だったはずの遺構の理解にこれだけの時間と手間暇を要するのに、2000年前の出来事をまるで見てきたかのように語るわれわれの感覚って、いったいなんなんでしょうね!」。まさしくそのとおりです。

そのほか御嶽の機能や類型についての話題、若者組の機能や残存状態についての話題と、時間が経つのを忘れて議論に花が咲き、大いに学ばされました。安里先生はこれから福岡出張だといって昼前に中座されましたが、ご対応いただいたお三方には深く感謝いたします。

そして午後からは片桐さんに館内をいろいろとご案内いただきました。その過程で教えられた事柄のひとつは、かのルイス・ビンフォードが沖縄県立博物館に寄贈した考古資料の存在でした。この問題については安里嗣淳先生がお詳しいとのことでしたが、戦後まもなくビンフォードは植物学者として沖縄を訪れ、地元の考古学者とともに沖縄各地の遺跡踏査を実施したのだそうです。この意外な事実に驚かされました。片桐さんの言葉を借りると「もし沖縄訪問がなかったら、プロセス考古学(旧ニュー・アーケオロジー)も誕生していなかったかもしれない」ということになるのかもしれません。その当該資料を第3段目にアップします。伊波貝塚出土の貝製品です。

なお前回の記事で紹介した貝塚時代のゴホウラ利用について、現在の沖縄考古学界では死貝をイノー(礁池内)で拾い集めて利用したのが基本、であるとの認識が共有されており、かつての果敢なダイバー説は陰を潜めているという現状を伺うことができました。千葉県立博物館の黒住耐二さんの学説が強い影響力をもって浸透しているとのことでした。

展示中の貝殻集積遺構にも死貝が目につきます。たしかに黒住さんは貝殻の観察に超人的な能力を備えていらっしゃいますので、彼の主張はつよい説得力をもって考古学者に響くのでしょう。その意味では私の対極にある研究者かもしれません。しかし負けてばかりいるわけにはいきません。俄然、来月以降の北部九州での資料調査に意欲が湧いてきました。

さらに前日貝製品の調査を終えたばかりの木綿原5号石棺墓について、私が承知していなかった興味深い事実も教えられました。この男性人骨の額にはシャコガイが被せられていたのですが、額の部分は陥没しており、その傷が致命傷となって死去した人物だったことが解明されたというのです。ようするにシャコガイは傷隠し、ないし“後生”での治癒をまじなう役割を負って額の上に被せられたと考えられるようです。

片桐さんの許可を受けて、館内の様子をアップします。なお考古部門の展示コーナーについては、通常写真撮影禁止となっています。ご承知おきください。このブログも、開設時本来の趣旨は考古学専攻生との対話ですから、そこは名目上教育目的(半分は)、ということでお許しいただけたのであろうと解釈しています。

なお常設展で今回是非とも撮影を、と希望したのは、琉球弧全体の地形模型と、方言札でした。前者については地形の把握ですから解説不要かと思いますが、後者については是非とも紹介したいと思う考古(民俗・歴史)資料です。琉球処分以後実施された本土への同化政策のもと、このような札が教育現場で実際に使用され、方言撲滅運動が行われたという事実に、私たちヤマトンチュウは真摯に向き合う必要があると思うのです。これが教育なのか、教育の名を借りた調教なのかを考えさせられます。もちろんこの資料の脇に展示されているのは伊波普猷(沖縄学の祖)の写真ですから、それは衝撃的です。沖縄県立博物館にお越しの際には、このコーナーだけは見落としのないようにとお勧めします。

そのいっぽう、片桐さんの解説を受けて初めて知ったのですが、常設展示でもっとも人気のあるのは不可思議な板碑状の絵文字資料だそうです。本島の西海岸に偏在するようですが、年代も不明、記された記号か文字か、その意味も不明という奇妙な資料。考古学に浸ってしまうと、遺跡からは出土することのない、こういった資料に目が向かないふがいなさ(目が向いたとしても対処不能として処理し去ってしまう考古学者の性向)を改めて教えられた気がします。

気がつけば午後3時半、非常に有意義な時間を過ごさせていただいた県博を後にしました。半日以上お付き合いいただいたばかりか、今後の研究計画にも耳を傾けてくださった片桐さんには返す返すも感謝します。

帰りがてらミュージアムショップに立ち寄ってみれば、昨日ジュンク堂では見つからなかった民俗学書が売られているのを見つけ、思わず購入。沖縄での図書買い付け額は合計5万円超となりました。普通の観光客の方々がお土産品に使う金額とそうは変わらない額かもしれませんが、私にとっては少なからぬ出費となりました。

博物館を辞すと外は雨でした。そんななか、読谷村の資料調査の際に方眼紙を使い尽くしてしまったので、夕方、浦添市の安斎君に電話して、那覇市内で方眼紙の買える店を紹介してもらい、行ってみると、「あいにく現在品切れです」とのこと。こちらのほうが私にとっては痛い。明日は安斎君に方眼紙を貸してもらう(もらう)ことになります。

夜、沖縄本コーナーに置いてあった谷川健一氏の『日本人の魂のゆくえ』(2012,冨山房インターナショナル)を読みました。その第10章「祭場と祭所―『山宮考』覚書」には感銘を受けました。午前中に再確認させていただいた御嶽=祖霊祭の場、との理解は、じつは日本列島全体に普遍化しうる問題で、神道の本来は祖霊祭祀であったことと、その対象は葬場でもあった山中であり、山宮祭の次第は葬儀と同形であることが論じられていたからです。

なんということはない。拙著「『大和』原風景の誕生」や「黄泉国と高天原の生成過程」で論じたことは、戦後まもなく柳田国男によって開示された神道理解をそのまま考古学的な見知からなぞったにすぎないことを確認できました。すなわち御嶽=マラエ=祖霊祭祀=本来の神観念という図式は、民俗学では周知の事実であることを改めて知ることになったのです。谷川氏が論じるとおり、柳田の「山宮考」は民俗学と考古学の架け橋になりうる書なのでしょう。同時に私の見解は民俗学的見地からみれば正解であったことを確認することになりました。

ホテルでビールを片手に「なんだ!そのまま書かれていたのか!」と独り言を発する中年オヤジを傍から見たら異様な光景でしょうが、こうして沖縄の旅の中盤は、充実した時間に浸りながら、これまで漠然としていた断片がつながってゆく感覚を実感することになりました。秘やかな興奮に包まれてもいます。

それはそうと、今朝から突然出た偏頭痛が止まりません。エアコンのかけ過ぎが理由なのか、肩凝りが原因なのか。電話で妻に教えられたとおり浴室にお湯を貯めて体を浸かってみたら楽になるので、なるほどと納得しましたが、さりとてエアコンを消すと蒸し暑く、悩みはつきません。

喜名番所前

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読谷村での貝製品調査の際に、二日にわたって昼食をここでごちそうになりました。「番所亭」という沖縄ソバのお店です。国道58号線から座喜味グスク(グスクの入り口に読谷村立歴史民俗資料館)へと向かう交差点が「喜名」なのですが、歴史的な背景をもつ番所跡でもあるのです。

ちなみにこの国道58号線は、那覇市内の旭橋を南端に鹿児島まで(海中は仮想的に)通じる、日本が国家的威信をかけた道路でもあるのですが、琉球王朝の時代から沖縄本島を南北に縦断する主要幹線路でもあり、この喜名番所は、那覇からも名護からも等距離に当たる場所として宿場や休憩場所としても栄えたのだそうです。

その角にある「番所亭」が出すランチメニューは圧巻です。私が2日目に食したのは「Aセット」750円ですが、写真のとおり、ソーキ丼と三枚肉入りソバのセット。このソーキが真に美味いのです。ソーキは八丁味噌に似たミソで煮込まれ(仕上げられ?)ており、絶品でした。ソバも「ウコン練り込み自家製」だそうで、沖縄ソバにありがちなパサツキは適度に抑えられています。スープも化学調味料は一切不使用で、しかも深味があるのです。それにこの店では、ソバに必ず刻み生ショウガ(通常の店では赤いショーガ)がトッピングされています。

不肖私、沖縄に通うようになって10年が経ちますが、これまで石垣島でも那覇市内でも贔屓の店(飲み屋を除く)というものがありませんでした。しかし今回だけは自信をもってお勧めできます。

もちろん店内には有名人の色紙がたくさん貼られていましたから、おそらく話題の店ではあるのでしょう。私の場合は2日ともウィークデイでしたから、店には地元の方と覚しき客や、昼食に立ち寄ったタクシーの運転手だけで、さほど混でもおらずスムーズに入れただけなのかもしれません。だから改めて紹介するまでもないところかとも思います。ですが私の場合は、たまたま立ち寄って実際に食してみての、しかも感動を伴った証言です。

座喜味グスクに観光なさる際には是非お立ち寄りをお勧めします。もちろんグスク前にある読谷村立歴史民俗資料館も、考古学関係(弥生・古墳・近世)の方々には必見の資料が満載です。

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5月18日から沖縄本島での調査旅行に来ています(ホテルのインターネットが有線ランだったのでアップは帰宅後となります)。今回はおもろまち(新都心)に6泊して貝製品の調査(読谷村と浦添市の教育委員会)、文献の探索(県立図書館)と、県立博物館にご挨拶の予定です。

18日の夜には、さっそく私のところの卒業生諸君と吉岡さん(旧姓鴨田さん)ご夫妻と呑みました。吉田君と安斎君の奥様のお二人が揃って那覇市の正式職員に就任されたことを祝いしたのと、沖縄生活2年目になる吉岡ご夫妻の“沖縄観”をお聞きする会でした。吉田君が準備してくれた会場はなんとホテルの目の前。久しぶりの面々と楽しい時間を過ごしました。

吉岡さんに沖縄の生活を聞けば、冬の寒さが懐かしく、真冬の羽田に降り立つと、肌を突き刺す冷気に「これだ!この寒さを俺の体は欲していたんだ!」と叫びたくなるとのこと。ようやく寒い冬を脱して一安心している私にとっては、まったく信じられない心境ですね。それにオスプレイの騒音について聞くと、ヘリコプターとは比べものにならない騒音だそうです。

皆で揃って記念撮影としゃれこみましたが、店の人のシャッターですからなんとなくぼんやりしています。これも湿度のせいかもしれません。

翌19日には時折土砂降りとなる曇天の中、県立博物館の情報室と県立図書館に行き、文献あさりをしました。目的は沖縄の民俗に関する文献。さすがに地元だけあって各種揃っていました。大量のコピーを手に吉田君の勤務先である壺屋焼博物館にお邪魔したところ、那覇に新しくできたジュンク堂書店を紹介され、夕方行ってみれば、そこの「沖縄本コーナー」には、コピーをしたばかりの書籍のいくつかがまだ新刊として売られていたことに驚かされました。思わず総計2万5千円となる書籍数冊を購入。隣のカフェのドリンク無料券がおまけで付いてきました。

週が明けた20日と21日はレンタカーを借りて読谷村歴史民俗資料館にお邪魔し、貝製品の実測と写真撮影を行いました。初日は館長の仲宗根求さんにご対応いただき、2日目には小原裕也さんにご対応いただきました。2年前からの宿願だった中川原貝塚、片江口原貝塚、大久保貝塚、木綿原貝塚などからの出土品と格闘し、2日間の成果には大いに満足。これでようやく石釧と車輪石の祖型問題に結論が出せそうです。お世話いただいた仲宗根さんと小原さんには改めて感謝です。今後早い段階で論文に仕上げ、ご高配に報いたいと思います。

それと驚いたのは、ゴホウラについては死貝の利用頻度が相当に高いことでした。死貝の利用はイモガイにも確認できました。老貝の場合にしばしば見うけられるような、ごく小さな無数の貝が殻を溶かすかのように中に入り込む状態とは異なって、3年〜5年程度のサイズのものにも多数の穴があいて、ところどころ気泡状を呈する箇所があり、死貝を貝輪として加工した状態があきらかなものが指摘できるのです。こうした貝殻の場合、それを腕輪に加工しようとしても表面に乳白色の光沢を出すまでには、相当削り込まなくてはなりません。死貝の表面がどのようなものか、自宅にある標本の写真を3段目に貼っておきますのでご確認ください。

つまりこのことは、貝塚時代後期前半(中)―(弥生中期から後期前半併行期)の人々も、礁斜面を水深30mも潜って生貝を獲るなんてことは、通常の感覚ではしなかった可能性があることを示しています。しかしそうなると、波打ち際に打ち上げられたものの「再利用」製品が一大消費地である北部九州弥生中期の社会ではどうだったのか。来月以降に予定している資料調査の課題となりそうです。

それと、今回の資料調査において当初予想していなかった成果のひとつに、ゴホウラ背面貝輪の未製品とされてきた資料のなかに、1点、魚網錘と判断されるものを見いだしたことが挙げられます。ゆえあって写真はアップできませんが、該当品は有名な木綿原貝塚2号石棺上の「ゴホウラ貝輪未製品」です。穿孔の位置が通常の資料とは異なる状態であったために不思議に思っていたのですが、実際に手にとってみれば、錘として利用された形跡が明瞭でした。縁部の削痕が人為的な研磨ではないのです。つまり外唇部の縁辺を除去していない「未製品」については、今後要注意かもしれません。ゴホウラの貝殻(本例も死貝の利用)は交換財や装飾品としてだけでなく、産出地の近隣一帯では日常生活の中で息づいていたことを再確認できたこと。これも収穫のひとつでした。

資料館を辞した後、貝塚が集中して発見された海岸段丘上の一帯をドライブしつつ帰路につきました。この一帯、90年代のリゾート開発によってあまたのホテル建設計画が立ち上がり、その予定地で多くの貝塚が発見されたとのこと。しかしほとんどのホテル計画は立ち消えとなったために、アクセス道路だけが整備されて今にいたったようです。そのおかげで貝塚の多くはまだ保存され残っていると小原さんに伺いました。

レンタカーを返し、ホテルに帰って数え直してみれば2日間で30点の実測と写真撮影を終えたことになります。ひとりホテルで祝杯をあげました。外は小雨がぱらつく曇天です。

参考文献 当真嗣一他1978『木綿原』(読谷村文化財調査報告書第5集)沖縄県読谷村教育委員会

5月中旬の最終金曜日

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もう5月の中旬も終わろうとしています。大学でお会いする先生方からは、口々に「活き活きしていますね」と挨拶をされる毎日。新主任の松本建速さんは、新たな境遇に戸惑いつつも頑張っていらっしゃるよう。

そういえば先日、近藤英夫先生も「松本さんは4月から変わったね。会議でも松本節が出なくなって最近は主任らしくなったようだよ」との仰せでした。当のご本人は、といえば、日に日に表情が冴えなくなり気味で、昨年までの私をみるかのよう。とうとうヘルペスが出てしまったと嘆いていました。これからの6年間、真にお疲れ様です。鬼門は学会出張やシンポジウムの依頼と会議や入試業務が重なること。秋の依頼が舞い込む季節ですから特に要注意です。

松本さんは、どちらかというまでもなく「挑む」タイプなので、蝦夷関連学会などがあると自分から手を挙げてしまいがち。秋の入試業務や会議の日程をにらみながら相当注意していないと、ダブルブッキングということになってしまいます。そうやって、私も始末書を書きましたから。

そのようななか、今年の鈴木コレクション整理は本格始動しています。今週水曜日の夕方も早稲田チームから数名が参加してくれ、わが大学のメンバーと一緒に注記作業を進めてくれました。馬場さんも明治大学での講義の後で駆けつけてくれ、カラニス出土のガラス片の注記を頑張ってくださいました。

現在の主体は旧石器・新石器なのですが、ガラス片については分析依頼が舞い込んでいるために、注記を急ぐことになり、別動隊を組織?してもらっています。私も1時間程度お手伝いしましたが、山花先生の指示する場所が狭く、中年オヤジにはきついところです。私のような戦力外はともかく、順調に進んでくれることを期待します。

今朝は、朝日新聞の朝刊に掲載された「耕論」に目が止まりました。大学生の文章能力をめぐる議論です。お二人の主張には、どちらにも説得力があり、現場で同じ取り組みを進めてきた身としては、バランスのとれた記事だと感心させられたところです。ようは「やる気」になるかどうか、そう仕向けられるかどうかに関わっているものと思います。

今週は南の庭の草取りをおこないました。妻が2年ほど前に職場の裏庭から採ってきた紅葉の苗も、順調に育っています。スイレン鉢も綺麗にしたところです。もうすぐ花が咲きます。

少しショックだったのは、1992年夏に購入した腕時計が修理不能になったことです。順調に動いているようでいて、思わぬ時に2・3分遅れるという症状がでてきたので分解修理を依頼したところ、部品調達不可能だとの解答がメーカーよりあったとのこと。気圧計と高度計が付いており、なにかと便利だったのですが、20年間で寿命がきたようです。

明日からは那覇に出張。一週間の予定を組んでいますが、吉田健太君からのメールでは、那覇は集中豪雨に見舞われ、本格的な梅雨シーズン到来だそう。滞在中に陽の目をみることはないかもしれませんし、太陽が出ても蒸し暑いのでしょうね。


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