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5月23日には朝10時から沖縄県立博物館にお邪魔しました。私と同郷の片桐千秋さんが出迎えてくださり、学芸員室で班長(学芸課長)の久場政彦氏と民俗担当の大湾ゆかり氏を紹介いただき、その後、私の網取での聞き取り調査の内容や、にわか仕込みの民俗的知識について、専門的見地からのコメントをいただくことになりました。途中からはこの4月に館長に就任なさったばかりで多忙の安里進先生も加わって、しばし先島地域の民俗談義となりました。
たとえば私の調査地である西表島網取遺跡四辻の角に遺存している東西1対の「ビジリ」については、名称の由来はたしかに「ビジュル」信仰ではあるものの、辻に設けられているという立地状況や、左右1対というあり方は、明らかに石巌当のそれであり、前者は仏教からの影響、後者は風水思想からの影響であって、由来そのものには相互に関連性はないものの、網取遺跡の場合は名称と機能の両者が融合(習合)したものと理解できるのではないか、との暫定的結論で合意、ということになりました。
この間、さまざまな解釈の可能性について逐一ご点検いただき、その都度関連文献をご提示くださったので、非常に勉強になりました。傍で聞いていた片桐さんいわく「たった30年前(網取村の廃村時)までは当たり前だったはずの遺構の理解にこれだけの時間と手間暇を要するのに、2000年前の出来事をまるで見てきたかのように語るわれわれの感覚って、いったいなんなんでしょうね!」。まさしくそのとおりです。
そのほか御嶽の機能や類型についての話題、若者組の機能や残存状態についての話題と、時間が経つのを忘れて議論に花が咲き、大いに学ばされました。安里先生はこれから福岡出張だといって昼前に中座されましたが、ご対応いただいたお三方には深く感謝いたします。
そして午後からは片桐さんに館内をいろいろとご案内いただきました。その過程で教えられた事柄のひとつは、かのルイス・ビンフォードが沖縄県立博物館に寄贈した考古資料の存在でした。この問題については安里嗣淳先生がお詳しいとのことでしたが、戦後まもなくビンフォードは植物学者として沖縄を訪れ、地元の考古学者とともに沖縄各地の遺跡踏査を実施したのだそうです。この意外な事実に驚かされました。片桐さんの言葉を借りると「もし沖縄訪問がなかったら、プロセス考古学(旧ニュー・アーケオロジー)も誕生していなかったかもしれない」ということになるのかもしれません。その当該資料を第3段目にアップします。伊波貝塚出土の貝製品です。
なお前回の記事で紹介した貝塚時代のゴホウラ利用について、現在の沖縄考古学界では死貝をイノー(礁池内)で拾い集めて利用したのが基本、であるとの認識が共有されており、かつての果敢なダイバー説は陰を潜めているという現状を伺うことができました。千葉県立博物館の黒住耐二さんの学説が強い影響力をもって浸透しているとのことでした。
展示中の貝殻集積遺構にも死貝が目につきます。たしかに黒住さんは貝殻の観察に超人的な能力を備えていらっしゃいますので、彼の主張はつよい説得力をもって考古学者に響くのでしょう。その意味では私の対極にある研究者かもしれません。しかし負けてばかりいるわけにはいきません。俄然、来月以降の北部九州での資料調査に意欲が湧いてきました。
さらに前日貝製品の調査を終えたばかりの木綿原5号石棺墓について、私が承知していなかった興味深い事実も教えられました。この男性人骨の額にはシャコガイが被せられていたのですが、額の部分は陥没しており、その傷が致命傷となって死去した人物だったことが解明されたというのです。ようするにシャコガイは傷隠し、ないし“後生”での治癒をまじなう役割を負って額の上に被せられたと考えられるようです。
片桐さんの許可を受けて、館内の様子をアップします。なお考古部門の展示コーナーについては、通常写真撮影禁止となっています。ご承知おきください。このブログも、開設時本来の趣旨は考古学専攻生との対話ですから、そこは名目上教育目的(半分は)、ということでお許しいただけたのであろうと解釈しています。
なお常設展で今回是非とも撮影を、と希望したのは、琉球弧全体の地形模型と、方言札でした。前者については地形の把握ですから解説不要かと思いますが、後者については是非とも紹介したいと思う考古(民俗・歴史)資料です。琉球処分以後実施された本土への同化政策のもと、このような札が教育現場で実際に使用され、方言撲滅運動が行われたという事実に、私たちヤマトンチュウは真摯に向き合う必要があると思うのです。これが教育なのか、教育の名を借りた調教なのかを考えさせられます。もちろんこの資料の脇に展示されているのは伊波普猷(沖縄学の祖)の写真ですから、それは衝撃的です。沖縄県立博物館にお越しの際には、このコーナーだけは見落としのないようにとお勧めします。
そのいっぽう、片桐さんの解説を受けて初めて知ったのですが、常設展示でもっとも人気のあるのは不可思議な板碑状の絵文字資料だそうです。本島の西海岸に偏在するようですが、年代も不明、記された記号か文字か、その意味も不明という奇妙な資料。考古学に浸ってしまうと、遺跡からは出土することのない、こういった資料に目が向かないふがいなさ(目が向いたとしても対処不能として処理し去ってしまう考古学者の性向)を改めて教えられた気がします。
気がつけば午後3時半、非常に有意義な時間を過ごさせていただいた県博を後にしました。半日以上お付き合いいただいたばかりか、今後の研究計画にも耳を傾けてくださった片桐さんには返す返すも感謝します。
帰りがてらミュージアムショップに立ち寄ってみれば、昨日ジュンク堂では見つからなかった民俗学書が売られているのを見つけ、思わず購入。沖縄での図書買い付け額は合計5万円超となりました。普通の観光客の方々がお土産品に使う金額とそうは変わらない額かもしれませんが、私にとっては少なからぬ出費となりました。
博物館を辞すと外は雨でした。そんななか、読谷村の資料調査の際に方眼紙を使い尽くしてしまったので、夕方、浦添市の安斎君に電話して、那覇市内で方眼紙の買える店を紹介してもらい、行ってみると、「あいにく現在品切れです」とのこと。こちらのほうが私にとっては痛い。明日は安斎君に方眼紙を貸してもらう(もらう)ことになります。
夜、沖縄本コーナーに置いてあった谷川健一氏の『日本人の魂のゆくえ』(2012,冨山房インターナショナル)を読みました。その第10章「祭場と祭所―『山宮考』覚書」には感銘を受けました。午前中に再確認させていただいた御嶽=祖霊祭の場、との理解は、じつは日本列島全体に普遍化しうる問題で、神道の本来は祖霊祭祀であったことと、その対象は葬場でもあった山中であり、山宮祭の次第は葬儀と同形であることが論じられていたからです。
なんということはない。拙著「『大和』原風景の誕生」や「黄泉国と高天原の生成過程」で論じたことは、戦後まもなく柳田国男によって開示された神道理解をそのまま考古学的な見知からなぞったにすぎないことを確認できました。すなわち御嶽=マラエ=祖霊祭祀=本来の神観念という図式は、民俗学では周知の事実であることを改めて知ることになったのです。谷川氏が論じるとおり、柳田の「山宮考」は民俗学と考古学の架け橋になりうる書なのでしょう。同時に私の見解は民俗学的見地からみれば正解であったことを確認することになりました。
ホテルでビールを片手に「なんだ!そのまま書かれていたのか!」と独り言を発する中年オヤジを傍から見たら異様な光景でしょうが、こうして沖縄の旅の中盤は、充実した時間に浸りながら、これまで漠然としていた断片がつながってゆく感覚を実感することになりました。秘やかな興奮に包まれてもいます。
それはそうと、今朝から突然出た偏頭痛が止まりません。エアコンのかけ過ぎが理由なのか、肩凝りが原因なのか。電話で妻に教えられたとおり浴室にお湯を貯めて体を浸かってみたら楽になるので、なるほどと納得しましたが、さりとてエアコンを消すと蒸し暑く、悩みはつきません。
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