私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

日常

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今日は午前中に天理市埋蔵文化財センターにお邪魔し、青木さんをつかまえて先週登った石上町604mピーク付近の古墳状の高まりや磐座の名称をお聞きしました。

しかし青木さんも松本さんもご存じないようでした。そのあたりは開発の予定もなく山深いところなので、文化財地図にも未登録でした。

場所は氷室と両墓制で有名な、かの福住地区にあるので、いっそ地元の方にお聞きするのが一番だろう、ということになりました。青木さんと昼をご一緒したのち、センターを辞して一路、天理市福住公民館に向かいました。

山間部の谷間にある集落ですし、まだ雪が残る旧国道25号線には若干のたじろぎを覚えながらのノロノロ運転でしたが、公民館に到着後、職員の方に事情を説明したうえで郷土史に詳しい方を紹介していただきました。「普段は外出されていることが多いのだが、今日は雪も残っているから自宅にいらっしゃるかも」との言葉に勇気づけられ、直接ご自宅を訪問したところ、幸いにもご在宅で、お話を伺うことができました。

お会いできたのはOさん、地元の文化財や伝統文化の保護や保全に長期間取り組んでこられた方でした。非常に熱心に郷土史を研究されていることは、お話ぶりからもすぐにわかり最適な方とおみうけしましたし、私の知りたかった設問にも即座に答えていただきました。

まず古墳上の高まりについてですが、古墳ではなく入会地として利用されていた当該ピーク一帯の境界に設けられた近世の塚だとのことでした。土地争いの末、奉行所に願い出て裁定を受けた結果つくられた2基の塚だそうです(『天理市史』にある近世の「高橋山の山論」のことかと推測)。これで、なぜあんな山間部に古墳状の高まりが二基も近接してつくられたのか、という疑問は解けました。

そして最大の収穫は、現地一帯は通称「八つ岩」と呼ばれていたことを教えていただいたことと、名称の由来は、私も先日眺望の良いところを求めてさまよったあげく裏側からとりついた件の磐座にあるようでした。

この磐座の名称が「八つ岩」で、由緒はなんとスサノウや八岐大蛇にまつわり、石上神宮境内にある出雲建雄神社と深い因縁があり、この磐座こそが石上神宮の奥宮だとする伝承もあるようでした。興味のある方は天理市観光協会HPをご検索ください。

私がこのピークと唐古・鍵遺跡からの日の出の位置との関係や、西山古墳の軸線がここを向いていることなどをお話しすると、Oさんは、さもありなんという、非常に前向きな反応を示して下さいました。そのうえご自身も都祁地区で冬至の日の出を撮影しようと試みられた体験談を語ってくださり、「じつは私もおなじ穴のムジナです」といって去る冬至の日の出撮影時の様子を申し上げたところ、俄然話しは盛り上がりました。

山そのものの名称については、最初「高橋山」かな、というお答えでしたが、今後ともお調べくださるとのことでした。この「高橋山」とは、武烈紀に出てくる山の名称で、布留川を上流に向けてさかのぼってゆく途中で登場しますので、文脈上はまったく一致します。写真は現在の天理ダム近辺から東側を写したもので、谷の最奥に少しだけ顔を覗かせた、左側が高く途中が窪む台形上の高まりが石上町604mピークと私が仮称してきた「八つ岩」なのです。この谷を抜ける格好で「八つ岩」からの眺望は西南西(と大国見山をはさんで西北側)に開けているのです。

突然の訪問者であるにもかかわらず、ご丁寧に対応してくださったこと、Oさんには心から感謝します。

明日は奈文研での資料調査に向かう予定です。

石上604mピークへ登る

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長らく記事の更新をサボってしまいました。何人かの読者の方から問い合わせを頂戴してしまい、恐縮しております。なにも体調を崩していたわけではありません。相変わらす元気です。

もちろん病気をしていたわけでもないつもりです。ただ、いまお世話になっている女子大学の副学長の影響を強く受けていますので、「それなら間違いなくビョーキだ!」と断言される向きもあるかもしれません。この点についても相変わらずです。

週に一度は夕方に私の部屋に現れ、呑みに連れ出されていますが、彼はよく呑みます。それに強いのでしょうね。前々回は私のほうが責め役にまわり「近代史の再構築はどうなるんだ!」などと口走っていたものの、2軒目では私が酩酊状態となり、気がついたら朝でした。どうやって宿舎に戻ったのかまったく思い出せないのです。

たしかに某副学長には煽られっぱなしです。12月にシンポジウムをやって私のノルマはこなせたかな、と思っていましたら、お礼奉公だから、ということで3月の末にもう一回、市民講座をやることになりました。

さて、本日は天理市にある「石上町604mピーク」に登ってきました。今年の冬は天候が不順でなかなかタイミングが掴めないまま時間が過ぎてゆきましたが、今週も今日と明日ぐらいしか日中に日が差さないとの天気予報でしたので、強行しました。

さすがにGPSは強力で、途中から道はなくブッシュ漕ぎになったのですが、目的地には迷うことなく2時間半の行程でたどりつけました。このピークこそ、唐古・鍵遺跡の古相の大型建物の位置からみたときに夏至の日の出の場所となるところです。西山古墳の墳丘主軸線もここに向けられています。

なんとピークの付近には古墳らしき高まりが2基確認できて、これには驚かされました。後期古墳なのでしょうか。それにしては標高580mもある尾根の上ですから、少しばかり違和感を感じました。

さらに少し降りたとこには磐座まであるし。来週にでも天理市教育委員会に遺跡名をお聞きしようと思います。しかしなにせ雪のなかのハイキングでしたから、靴と靴下は完全に濡れてしまいました。

ところで、さきほど登頂成功を妻に報告したところ、痛く叱られてしまいました。そんなところで遭難でもしたらどうするの!と。

しかし私としては奈良市内の飲み屋街で遭難する確率の方がはるかに高いだろうな、との確信があるのです。もちろん火に油を注ぐことになるので、もちろんそんな風には答えず、二度と無理はしないから、といって電話を切りました。

心配していただいていることに感謝しながら、部屋でひとり祝杯をあげています。これなら遭難の可能性はありません。

明日は京都府に石製品の資料調査に出向きます。大賀克彦さんと一緒です。

2014年、年頭のご挨拶

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2014年の年頭にあたりご挨拶申しあげます。明けましておめでとうございます。

本年もどうかよろしくお願いします。

写真は2013年の冬至の日の出を唐古・鍵遺跡から写したものです。確かに三輪山山頂からでした。とはいえ、撮影に成功したのは12月25日朝でした。

昨年は12月22日が冬至でしたが、計算上、前後7日間程度は同じ場所からの日の出となりますので、身構えておりました。しかし21日までは連日の雨、22日の朝から24日の朝までは曇りがちで、龍王山山帯は日の出の時刻に厚い雲に覆われてしまいました。

暁より前の6時30分には決まって雄鶏が鳴き声を上げてくれ、まず生駒山側から紫色に霞む朝焼けになることもわかって、それはそれで感動的ではあったのです。しかし7時前になると決まって三輪山の背後は厚い雲で覆われて....。ようやく成功に漕ぎ着けたのが25日朝というわけです。

私の大和原風景、大和東南部古墳群の基本構図は、この光景にあったと考えておりますが、なんとか実証できそうです。といっても唐古・鍵界隈からみた冬至の日の出が三輪山山頂からだ、というのは地元の方々の間ではほとんど周知の事実です。

妻も前日には奈良に来たので、このご来光をふたりで観ることになりました。前日までは残念な結果に終わっていたのですが、そうなると今回の成功もじつは妻のおかげなのかもしれません。

山辺赤人墓にて

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本日12月13日の金曜日は、朝から冷え込み曇りがちでした。予期せぬ知人の死を知らされ、榛原に向かいました。

唐古・鍵遺跡についてちょっとした発見があったものですから、彼にも話しを是非聞いてもらいたいと思っていたのですが、叶わぬことになりました。

水曜日にお邪魔した田原本町教育委員会で、藤田さんから訃報を聞かされ、動揺を隠せませんでした。

彼とは四国で何度かお会いし、弥生土器についていろいろと教えて頂いた思い出があります。その真面目で真摯な姿勢が印象深く刻みつけられており、その後も彼の論文には何度か眼を通させて頂きました。

冷たい雨が降るなか、思い立って式の後に訪れたのが山辺赤人の墓です。額井岳の東の斜面にあって、今は五輪塔が建てられていますが、万葉歌人の墓として地元の方々から慕われているようです。周囲は薄霧に包まれて、沈む想いを深みへと誘うかのようでした。

救いだったのは奈良への帰り道、雨の合間に龍王山の山並みに向けて、西から大きな虹がかかっていたことです。

奈良も本格的に冷え込んできて、冬に入ったことを実感させます。

12月7日の準備

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本日は朝から腕輪形石製品関連の資料整理とKeynoteづくりに励みました。イベントは来月7日に滋賀県草津市役所で開催される予定だとうかがっている「第29回草津市遺跡調査報告会 草津の古代を掘る2013〜中沢遺跡出土鍬形石にみる古墳時代の近江と草津〜」で、昨年中沢遺跡から出土した鍬形石に関する評価をめぐってのシンポジウムです。

調査担当者の北中恭裕さんからのご依頼で、私にも60分の講演を割り振っていただきました。

当日は北中さんが遺跡の概要や鍬形石の出土状況についてのご報告をなさった後、滋賀県文化財保護協会の細川修平氏や、栗東市の近藤広さんも演壇に立つ予定だとのことです。

私が担当する講演の題目は「中沢遺跡出土の鍬形石」で、鍬形石とはどのような性格の遺物なのか、なぜ古墳への副葬品としてではなく、溝へ投棄されたかのような”そっけない”出土状況を示すのか、似た出土状況を示す奈良県平等坊・岩室遺跡との関係はどのようなものか、という3項目に関する解答を求められています。

鍬形石とはなにか、この4月からの特別休暇を利用し、祖型貝輪の実情を理解すべく沖縄と九州の関連資料を見て歩きましたので、次回の講演では、その調査成果の「まとめ」を紹介させていただくことにしたいと思い、あれこれと写真類を引っ張り出してはスライドに貼り付けました。

要するに弥生時代以来、ゴホウラ腹面貝輪は一貫して死者に装着する腕輪であり、倭王権はその基本的性格を踏襲し、古墳祭祀に組み入れたという理解が可能だということ(つまり南方系の葬送習俗が象徴化されて古墳祭祀に組み込まれ、鏡や武器・工具の副葬に代表される北方系葬送習俗との混合ないし融合になったという理解)です。さらに腕輪形石製品は貝輪の代用品であったと同時に、素材は玉との共通性を帯びるので、集落や“首長居館”で執り行われる祭祀にも投じられる宿命にあったという内容になります。

また平等坊・岩室遺跡出土鍬形石との関係については、共に材質4だという点で一致しますし、奈良市菅原東遺跡出土の車輪石も材質4ですから、前期後半の奈良盆地一帯の動向のなかでこれらの資料は理解可能だという点と、なぜもう一点が草津なのかについては、同遺跡出土の伊勢湾型二重口縁壺や子持ち勾玉、それに滑石製模造品が鍵になるという趣旨の話になるかと思います。要するに原東山道の起点としての重要性を帯び始めていたのであろう、ということです。

車輪石の祖型はゴホウラ背面貝輪だという提言や、材質の整理が腕輪形石製品の編年の基礎になるといった点についても時間が許す限り触れようかと思います。

気がつけばいつしか日没となり、作製したスライドは40枚を越えてしまったので、これではとうてい60分間に収まりません。これからスリム化を試みなければならないようです。60分間の講演ですから、どうやっても30枚が限度でしょうね。先週もなす風土記の丘資料館では、「速すぎて着いていけない」との苦情が寄せられたところですし。

私の報告はともかく、細川氏や近藤さんの報告を通して、滋賀県域の古墳時代前期の腕輪形石製品や玉類に関する最新の調査・研究状況を知ることができるよい機会になりますので、石製品オタクとしての気持ちがうずき、実は楽しみです。

ともかく気分転換にと、夕食をとった後には、部屋の窓の目の前に見える、暖簾がたなびく例の銭湯「勇湯」に誘われることとなり、大学を後にしました。


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