私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

日常

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去る11月16日には栃木県にお邪魔し、栃木県立なす風土記の丘資料館にて前方後方墳に関する講演をさせていただきました。会場には77名を越える方々がお集まりくださったようで、深く感謝です。

館長の篠原祐一さんによれば、前期古墳関係の講演だと人が集まるというジンクスがあるようです。確かに那須地域は関東でも指折りの前期古墳が集中するエリアですし、水戸光圀以来の伝統でしょうか、郷土の歴史については非常に熱心な文化人を代々輩出する土地柄だということでした。

先週の郷里での講演とは異なって、主題は前期古墳ですから私の本来の得意分野。Keynoteのスライドも45枚に膨らみ、否応なく熱が入るという状況でしたし、お聞きいただく方々の反応も上々で、相乗効果といいましょうか、私にとっても最近では珍しいハイテンポな講演となりました。

会場には群馬県の深沢さんや福島県の佐久間さん、栃木県の小森さんなど数名の業界関係者の方々もお見えでした。他界観や黄泉国あるいは高天原にたいする最近の私の考え方については、ご納得いただけるか否かは別問題としても、どのような根拠で提示しているかについてはご理解いただけたかと思います。

また途中に入れた10分間の休憩中に参加者の方から頂戴した感想は、「予想していた内容とはまるで違う話で驚いた」というものでしたが、予想よりつまらない話だというわけではなく、むしろ大風呂敷の広げぶりに驚いたという趣旨のコメントでしたので、少し安心。

ただ別の方からは「早くて着いていけない!」という声もあって、そこはお許しください、とお詫びするしかありませんでした。そりゃそうでしょうね。なにせ「日本列島の歴史をどう捉えるか」で始まり、「水稲農耕民の拡散過程である」として、南は北緯24度の西表島、北は北緯42度の北海道上川盆地までの拡散を現在の到達点です、といってお示しし、その過程の中に前方後円(方)墳の時代を置くという内容でしたので。

また講演会の後には、今回の企画展の会場となった大田原市立那須湯津上資料館の方々を含む2館の関係者の皆さんが温泉での会食を開いて下さり、そのまま篠原さんとは同宿。滑石製模造品の話にも花が咲き、温泉に浸かりながら大いに呑みました。

さらに篠原さんには翌日も近隣の遺跡めぐりでお世話になり、東山道がらみの諸遺跡をご案内いただきました。最下段の写真は、現在も残る古代東山道の痕跡です。この残りの良さには驚かされました。

さらに、講演会前日に収穫を終えたばかりだという古代米の籾を束ごと頂戴することもできました。ちょうど稲籾は弥生時代からずっと地域内通貨だった可能性について話をしたところでしたので、大助かり。次の講演のネタにさせていただくことができそうです。

そして再度驚かされたのは、古代の金山と那珂川・東山道の近さでした。ひょっとして川崎古墳がつくられた6世紀後半代には金山が発見されていたのではないか、との邪推が頭をもたげてしまいました。

ちょうどこの時期に北海道の富良野では須恵器のハソウも出るわけですから、東山道(およびその北側延伸線)とは、金をはじめとする鉱物資源を求める山師のゆきかう道路だったのではないか、とも考えたくなります。詳細については瀬川拓郎さんのブログをご参照ください。

ともかく今回の機会を与えてくださった篠原さんには返す返すも感謝します。

ちなみに今回の企画展の図録、非常に力の入った内容で、私の拙文は措くとして、関東の古墳時代前期の問題に興味のある方は必見です。聞けば300部を刷ったものの先週で完売し、会期中に完売では今後の来場者に申し訳ないからと、50部だけ増刷したそうです。

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時折霧雨のような雨の降る文化の日の今日、奈良女子大学では「恋都祭」と称する学園祭が開かれていました。

出店はうちの大学でもよく見かけるそれでしたが、キャンパスの雰囲気は伝統に包まれていて、それが小雨とよくあって趣がありました。重要文化財でもある正面の講堂が一般公開されていたので中に入ってみると、高等女学校の頃からの歴史を語る品々が展示されていて眼を惹きました。

一階の生物標本の部屋に置かれていたニシキヘビの剥製など、おもわず笑い出してしまいそうなポーズ。それが往年の子女教育方針に沿ったものか否かはわかりませんが、色あせた鱗には幽愁の年月を感じさせるものがありました。この蛇君は、いったい何人の高等女学校生を驚かせたのでしょうね。

ただ別の部屋にあった「石釧」には、おもわず日常に引き戻させられる観があって、それもまた別の意味で感慨深いものでした。どなたの寄贈なのかはわかりませんが、さすが奈良ならではってところでしょうか。

この建物の二階は講堂として今も時折使われるようで、じつは私も一昨年の今頃、この壇上に立たせてもらったことがあります。ただここでパワーポイントとマイクを使うのは、興ざめというものですね。次の機会があったら、黒板にチョークですよね。絶対。

ところで私が今使わせて頂いている部屋は、事務局の裏手にある放送大学棟の1階にあります。そしてその部屋からは目の前に銭湯の入り口が見えるのです。それも歴史を感じさせる佇まいで、日中はしばしば観光客が写真を撮りに訪れます。

暖簾がかかる夕方になると、今度は銭湯に来るお客さんと眼が会うことがあって、それもまたよい雰囲気です。もう少し寒くなったら気分転換に風呂通いもしようかと思います。

秋の明日香散策

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奈良に来て早くも1ヶ月がたちました。奈良の方々ともよく呑み、語らっています。

先般など、とある用事で夕方に奈文研にお邪魔したら、そのまま研修中の方々主催の飲み会にご招待されたのですが、結局日付が替わるまで呑んでしまい、徒歩で宿舎まで帰ったこともありました。深夜の大極殿裏は冷え冷えとしていたことを思い出します。

小路田さんとは「人類史研究会」なるものを立ち上げました。メンバーはふたり。今後どうなるか、まだ形は見えません。ただ今月の末には明日香村で邪馬台国関連のシンポジウムが開催されることとなり、創設メンバーふたりの対談となりますから、方向性がどのようなものかをうらなうことになりそうです。コメンテーターに抜擢されたのは今尾文昭さん。きっと呆れかえられるのでしょうね。

纏向学研究センターにもお邪魔して、今年の発掘調査をちょくちょく見学させていただくお願いをしてきました。纏向遺跡の土に直接触れることができそうで、非常に楽しみです。

そんななか、昨日は那覇市立壺屋焼博物館の吉田健太君と明日香村を中心に、奈良盆地内の主だった遺跡や古墳を散策してきました。彼は先週まで奈文研に瓦の研修に来ており、最終日に夕食を共にしたところ、研修後の一日を明日香散策に当てたいとの意向。私も飛鳥宮址や飛鳥寺の立地や周辺の景観には特段の興味がありましたので、思惑が一致したというわけです。

そのため、朝8時半に吉田君を研修棟で拾い、唐古・鍵遺跡―同ミュージアム経由で明日香村に向かいました。

明日香では飛鳥資料館―飛鳥寺―飛鳥宮(京)址―水落遺跡―明日香村埋蔵文化財資料館―甘樫丘展望台―都塚古墳―石舞台古墳と回りました。地形の様子を知るために、と、天樫丘までは徒歩で巡りましたので、時間を要しましたし、いささか疲れました。

また明日香の後は、見瀬丸山古墳―奈良県立橿原考古学研究所―桜井市埋蔵文化財センター展示室―箸墓古墳―西山古墳を回ったところで日没となり、169号線を北上して吉田君のホテルであるJR奈良駅前の天然温泉LOHASスーパーホテルまで送りました。

ちなみにこのホテル、私の定宿です。

吉田君は本日の午前中に正倉院展を見てから沖縄に帰るそうです。吉田君、ともかくお疲れ様。

奈良女子大学は目下学園祭の最中。湘南もきっと建学祭で慌ただしいのでしょうね。

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朝、洗濯を終えてGPSを片手に10時過ぎに大学方面に向かってみれば、東大寺方向からの車列がもの凄く、道も狭いので自転車すら通れない状態であることに驚きました。秋の休日の奈良界隈を、少しなめてかかっていたようです。

テレビでは鹿の角切り行事があるとのことでしたが、そのためにこれだけの人や車が殺到するとも思えず、なんのイベントがあるのかといぶかしながら、車で出ることを諦めて、近鉄で向かうことにしました。

本日午後の目的地は唐古・鍵遺跡と唐古ミュージアムです。「石見」駅で降りて遺跡に向かい、唐古・鍵遺跡から東がどう見えるのかを再確認したいと思ったからです。

確かに龍王山の麓にある西殿塚古墳は、その横腹をこちらに見せていました。西殿塚古墳後円部中心点と同緯度地点から東をみた写真が第2段目のものです。それに、ここまで視線を引くと、龍王山は正しく山頂が最高峰に見えることも確認できました。

しかし改めて考えてみれば、この同緯度地点のごく近隣には、唐古・鍵4号墳と呼ばれる6世紀前半代の前方後円墳が前方部を西に向けた格好で築かれているのです。さらに西方には石見型埴輪で有名な石見遺跡、笹鉾山古墳群、黒田大塚古墳などが展開していることに気づかされました。

この6世紀前半代に活発化する古墳造営の舞台が西殿塚古墳の西側に展開することも興味深く、今後考察してみる必要性があると思われました。なにせ西殿塚古墳のすぐ下には西山塚古墳と呼ばれる6世紀初頭の前方後円墳が築かれてもいるからです。要するに「継体朝」を迎えた段階の倭王権や、そこに集う新規の諸勢力が、大和東南部古墳群の配列とどのような結びつきの表明を試みたのか、というテーマが浮上してきます。

ちなみに3段目の写真は、私がいう「計算値1」と同緯度地点から真東を見た情景です。家並みで西殿塚古墳は隠れてしまいましたが、箸墓古墳と西山古墳のちょうど中間地点を西に延伸した同緯度地点ということになります。それと4段目の写真は、中世の中街道、古代の下ッ道を再興させた街道です。田原本界隈では一旦街中にクランプ状で取り込んでいたとのことでした。

夕方までかけて現地を歩き、ミュージアムでは出土遺物を見学させていただきながら、唐古・鍵遺跡の様相を私が考える大和原風景のなかにどう位置づけ整理すべきか、いろいろと考えさせられることの多い半日でした。

ところで午後6時30分すぎに「近鉄奈良」駅に帰り着いてみれば、そこは朝と同様、もの凄く活気に満ちた人の山で埋め尽くされた観がありました。日曜日の夕方はこんな状態になるのか、と、weekdayとの落差の凄さにたじろぎを覚えたところです。やはり奈良って凄い!と思いました。

娘の奈良観

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本日12日は、娘が遊びに来たので若草山山頂までドライブし、まず朝の奈良盆地北部一帯を眺めることにしました。平城京の三山の一つだとも指摘されている鶯塚古墳の後円部中心から真西をみた情景を確認したいと思ったのですが、盆地は春霞のような霞で覆われており、よく見えませんでした。

そこで生駒山から逆に見ようと思い、西に向けて走り出したのですが、途中で娘の“奈良観”に話題が及んだところ、娘にとっては、幾度となく母親や祖母に寺院を連れ回され疲れた、というマイナスの印象に包まれているのだ、ということがわかりました。しかも季節は真夏か真冬。相当な距離を歩かされ、暑さに負けたか寒さに凍えたか、そのどちらでしかない、とのこと。ほとんどトラウマです。

しかしこの感覚は、ちょうど私自身が幼少時に連れ回された美術館巡りに似て、とくに油絵には負の印象しかないのと事情は同じであるように感じました。だから娘は、東大寺や薬師寺、法隆寺など由緒深い観光地には一向に関心を示さないのです。

ところが誰もが訪れるはずの石舞台古墳にはまだ行ったことがなく、さらに高松塚古墳の壁画や飛鳥には興味があるとのことでしたので、急遽ハンドルを左に切って一路南下することにし、石舞台と飛鳥資料館を見てきました。

現地で父親の口から漏れ出てくる「うんちく」を適当に流しながら、でもあからさまな「またいつもの癖か」感を示さず、相応の反応を表現してみせる様子に、娘の成長ぶりを実感させられました。

また奈良の環濠集落は是非見たいとのことでしたので、帰り道に稗田の環濠集落に立ち寄ってみました。結局、娘がもっとも楽しんだのは、この稗田集落散策でした。なぜかと推測するまでもなく、ここだけは父親もまったく同次元の観光客だったからです。


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