私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

日常

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表題はコラム3の見出しです。なんのコラムかといえば、10月22日から弥生文化博物館で開催される「吉備と邪馬台国―霊威の継承―」展の図録に収録されるそれ、です。

楯築弥生墳丘墓の調査を主題に据えた特別展の図録なのですが、ほとんど回顧趣味に浸ったかのようなコラムで、そこには「調査で活躍したもと学生たちの証言」欄が設けられており、滋賀の用田正晴さんを筆頭に、瀬川拓郎、宇垣匡雅、秋山浩三、石川悦雄、乗岡実、丹羽野裕、田中裕介、大久保徹也さんまでの9名が各430字以内で思い出話しを寄せているのです。

その末席を汚す格好で私の「証言」も載ることになるのですが、中心埋葬の木槨検出に成功した1979年の第3次調査に焦点を当てた展示図録ですから、あの年の4月に大久保さんや??井健司、宮原文隆、関沢聡さんらと一緒に岡大に入った私は、ただの新入生。当時はすでにリーダー格だった用田さんの証言から読み進めてくると、最後に登場する2名は「活躍」とはほど遠く、相応の末席感がにじみ出る内容になっています。だって当時は18歳でしたし。大久保さんの文章など「ただ単に同時代にいただけにすぎない」とか書いてあるし(いかにも彼らしい文章ながら、この特別展に関連するセミナーの講演者なのだから、そこまで書かなくてもよいだろうに、と独り言)。

昨日、弥生文化博にお邪魔し「弥生人の船」展を見せて頂いたのですが、その後、この4月から副館長になっていらっしゃる秋山浩三さんと、校正がてら、閉館後にこのコラムを肴に「若かったあの頃」について話をしてきました。

入稿直前の原稿を見せて頂くと、ほとんど忘れかけていた「あの頃」が鮮明に甦ってきます。もちろん懐かしさが7割です。先輩方の活躍ぶりについては10割の懐かしさ。ただし自分自身のこととなると、なんとも表現しようのない苦味というか、蓋をしておきたい記憶を開けてしまった感が3割で、複雑な心境にさせられます。そんなことも含めて「君もぼくも若かった」ということなのでしょう。

すべてを承知している秋山さんが相手ですから、若手の学芸員のおふたりをそっちのけで同窓会よろしく会話もはずみ、まことに楽しい時間を過ごさせていただきました。

さらに少しだけ格好をつけさせていただくとすれば、確かに当時4年生だった秋山さんや宇垣さん、瀬川さん、そして研究生だった今は亡き吉留秀敏さんは、1年生の私にとってはとても輝いて見える「若き究道家たち」でした。だからこそ、以後、私は彼ら先輩方の背中を追っかけることになりました。とても厳しかった近藤先生への接し方や、近藤先生からの「学び方」を含め、ほぼ丸ごとです。

そして本日10日は、午前中にN谷君の申請研究への推薦文を書き上げ郵便局に投函したのち、自転車で大安寺杉山古墳、郡山新木山古墳、宝来山古墳、平城京朱雀門を回ってきました。二番目の目的地では宮内庁による立会調査が実施されており、その現場を学会の立場から見学させて頂く、というイベントがあったためです。

自転車で回ると周辺地形の凹凸を実感できるので、奈良盆地を「識る」には絶好の機会だと、かねてより楽しみだった古墳巡りの第一弾を敢行した次第です。

が、しかし宿舎に帰り着いてみれば、地形の凹凸はもちろんながら、自分の体力の衰えのほうをより強く実感させられるはめになりました。

当初の目的であったコナベ古墳とウワナベ古墳をパスして、午後4時すぎに奈良会館へ到着したのですが、汗だくだったのでとりあえずシャワーを浴びて、我慢できずにビールを一缶空け、次に気がついてみれば夜の7時過ぎでした。大学で夕方済ませるはずだった作業は明日に持ち越しです。まだまだやれるぞ、と、気持ちだけは若さを志向する、その実、ただの中年オヤジにすぎません。最下段の写真は、本日私が走った範囲を、朱雀門近くに展示されている模型で示したものです。

結局、近くのローソンへ出向いてビールと肴を買い込み、今日の「反省会」(ブログ更新)に臨んでいます。

しかし30数年前を思い返して「あの頃、君もぼくも若かった」といったって、当たり前すぎますよね。

6ヶ月間の研修開始

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この10月1日から奈良女子大学にお世話になっています。3月までの研修となります。「私学研修員」という身分で籍をおかせていただき、奈良盆地一帯を歩かせてもらおうと考えています。

この制度を適用される第1号が私だとのことで、奈良女にとっても前例のない案件のために窓口がわからず、先週は西谷地・西村両先生に奔走していただきながら事務的な手続きを済ませました。

そして本日は、車で湘南から荷物と自転車を運び入れました。国道52号線を走って天理に入ると奈良盆地の??腹から下る感覚で、さすがに「おお!奈良の都だ!」と感銘深いものがありました。

大学では小路田泰直先生の部屋をとりあえず使わせていただいています。ご本人はこの4月から副学長室へと居住地を移されたので主人は不在状態。

とはいえ新副学長の穴を埋めるべく急遽赴任されてきた『精神の歴史』の著者でもある新進気鋭の近代史学者、田中希生さんと同居状態となりましたので、急な居候の出現で、田中さんには申し訳なく思います。

そうはいっても来週からは、私も本部の建物の中に一部屋確保していただいたようです。

これから半年間お世話になる宿舎も素敵です。かつての学長官舎を改装したゲストハウス。パンフレットには「大正時代の様式を随所に残す」と書かれていましたが、確かに趣もあって非常に広く快適な部屋です。

このようなゲストハウスを利用させていただき、奈良女子大学には感謝の言葉もありません。今回アップする写真はそのゲストハウス「NWU奈良会館」の内装です。広いラウンジ(なんと天井は網代天井)の他に客室は4室あり、自炊も可能なのですが、当面は私ひとりで独占するような状態のようです。

目下原稿モード

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丹沢山麓も暑い日が続いています。記事の更新がままならないのは、暑さでバテているせいではなく、表題のとおりの状況下だからです。サバティカル前半の調査成果を論文にまとめようと日々奮闘中です。

この4月にこれまでの負債を(著書1件を除き)片づけたので少し肩の荷がおり、その勢いで弥生貝輪の問題に取り組んではみたものの、今度はこちらにはまり気味で、いつしか秋の講演会や特別展へと依頼されていた原稿の締め切りが間近であることを忘れておりました。うち2本は今月末だそうです。

しかし一度原稿モードに入ってしまうと、少なくとも下書きが一段落するまで、次の原稿には着手できない性分ですから、おそらく関係者の皆様にはご迷惑をおかけすることになるだろとの予感を抱いています。したがいまして、あらかじめお詫びしておきます。申し訳ありません。

朝日新聞出版社から写真の雑誌が届きました。松木武彦さんの全体編集となる企画で、私にも声をかけていただいたので、纏向遺跡と大和東南部古墳群の配列の話や、この遺跡群の展開を主導した人々は吉備地域や北部(北西部)九州出身の人々であった可能性が高いことを紹介させていただきました。

3月に『考古学研究』誌に掲載された件の拙著「東の山と西の古墳」からのダイジェスト版です。私の見解に対する反応は、すでに本ブログでも再々ご紹介したとおり、さんざんな悪評の一言に尽きますが、まだ正面切った批判文が活字化されるとの情報には接しておりません。しかしここまで“宣伝”してしまえば、業界筋からの本格的な批判が期待できるかもしれません。この問題についての議論が活性化することを期待します。

なおこの問題について、先月、佐賀県にお邪魔した際、吉野ヶ里遺跡の調査をリードされてきた七田忠昭先生と意見交換ができたことは幸いでした。吉野ヶ里遺跡の祭儀施設と雲仙とが一直線に並ぶという事実関係の詳細をお尋ねし、発見の経緯をお聞きすることができましたし、証拠となる写真も頂戴できたからです。グーグル・アースをもちいた位置関係の検証も実施なさっておられました。

ただし七田先生のこの発見に対する学界の反応も冷淡なもので、残念に思います。しかし黙殺されるのを放置しておく性分ではないものですから、次の機会には北西部九州や沖縄にも舞台を広げ、七田先生と共同で論陣を張る、という企画を立ててみるのも楽しいかと思います。

ところで本冊子の表紙に描かれた女性は、おそらく女王卑弥呼なのでしょう。私好み?の美人さんに描かれています。北方系の顔立ちですね。とはいえ、現実の卑弥呼さんは、ひょっとすれば南方系だったかもしれない、と秘かに考え始めているところです。記紀神話に登場するアマテラス像もスサノウ像も、さらにはイザナギ・イザナミによる国生み神話も、すべて南方系・オーストロネシア語族圏に起源をもつ神話だからです。仮にアマテラスのモデルが卑弥呼だったとしたら、当然彼女も南方系の血筋を引く人々に支えられ、象徴的存在として祭り上げられた存在だったとみることができるのではないか、というのが理由です。

それはそうと、この間、妻と一緒にマツバガイ料理にチャレンジしましたし、娘に会いに関西方面へと出掛けたついでに、京都の梅小路に立ち寄りSL見学を堪能してきました。暑い夏でしたし、今後とも当面は暑いままの状態で天候は推移するようですね。

遅くなりましたが、読者の皆様に暑中お見舞いを申し上げます。

本日午後は、久しぶりの“公務”。某市の文化財保護審議委員会に出掛ける予定です。研究休暇取得中の教員の派遣について、大学に派遣依頼が届いても回答のすべがない、と、4月に事務局から相談が持ちかけられた事案です。協議の末、学部長経由で学長宛てに理由書を提出し、ようやく“大学としても事情は承知している”旨の回答?許可?をいただきました。ようするに「休暇」に支障のない範囲で仕事をすることには目をつぶる、という真に有り難い思し召しです。

感謝の言葉もありませんが、だからこそ誰かも後ろ指をさされないような、しっかりした論文を書かなければ、と自分で自分にプレッシャーを与えてもいる今日この頃です。

播磨と四国の旅(3)

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月が変わり8月1日には、香川県観音寺市教委にお邪魔し、鹿隈箱式石棺墓群第8号棺の出土資料を調査させてもらいました。ご対応くださったのは久保田昇三さん。私と同世代のやり手文化財担当者です。徳島にいた頃にお会いしているはずが、完全に忘れてしまい、改めて大久保徹也さんに仲介の労をとっていただきました。とはいえ、駅にお迎えいただいたときには瞬時に顔を思い出し、改めてご挨拶させていただいたという少し恥ずかしい思いをしました。

この8号棺の人骨は真に興味深い資料で、身長120cmの少女なのですが、左腕に3点の貝輪を装着するかたちで埋葬されておりました。この貝輪3点セットというのがまず問題で、いわゆる南方から九州西海岸にかけての弥生期の埋葬の伝統的な習俗だと考えざるをえない状況。女性の左腕に装着というのも正しく伝統を継承している。肘側に最大サイズのものを装着し、手首側により小型サイズをはめるという状況。どうみても南方系のありかたなのです。ただし貝輪の素材は木下尚子先生によってマツバガイ製だと同定されており、いわゆる南海産の貝種とは異なるのです。

もしこの3点セットがマツバガイではなくオオベッコウガサであれば、との期待をもって調査に臨みました。というのも、オオベッコウガサ貝輪は、佐賀県大友遺跡まで北上していることが判明しているからです。

マツバガイの標本については、先日妻とともに伊豆半島の付け根の岩礁に出かけ、波打ち際で奮闘してなんとか貝輪サイズの殻長6.3cmのものを採取し、肉は賞味後にあつらえたものです。またオオベッコウガサについては西表島の遺跡出土品のなかから同サイズのものをピックアップし、両者を持ち込んで貝輪と比較することにしたのです。

結果としては、マツバガイ製の可能性の方に軍配をあげざるをえない状況でした。標本の上に資料を重ねてみると、マツバガイのほうが素直に収まったからです。ですから葬送習俗は南方系であるものの、あつらえた貝輪それ自体は現地調達であった可能性の方が高いという解釈を下さざるをえないかとも思います。なおこの少女の頭部にみられる大きな陥没孔については、読谷村木綿原5号棺を彷彿とさせられる状況です。この問題についても今後詰める必要があると思います。

本資料は、調査後にあつらえられた「柩形展示箱」に収められており、貝輪の装着状況も再現されています。ただ郷土資料館への展示には苦情も寄せられたという経緯もあったようで、現在は倉庫の中にひっそりと眠っておりました。今回の調査にあたっては、冷房の効かない倉庫内での調査もしんどいから、との久保田さんのご配慮のもと、柩ごと教育委員会の事務局まで運ぶこととなり、私と久保田さんとで柩を担いで久保田さんの自家用車に乗せ、運搬させていただきました。

このような貴重な資料の調査にご対応くださっただけでなく、観音寺駅までの送迎までしてくださった久保田さんには、本当に感謝です。

そして高松まで戻ってからは、大学から帰宅した大久保徹也さんと合流し、深夜まで呑むことになりました。本日の成果報告だけでなく、8号棺に隣接する7号棺付近からの出土品である鼓形器台の系統や年代をお聞きし、さらには讃岐の前期・中期古墳の評価についての話に花が咲き、気がつけば5時間の談義のあげく12時を回ってしまったという次第。秋には大久保さんを道連れに、再び九州南部の資料調査に出かけることになりそうです。

こうして今回の播磨・四国の旅を無事終えることができました。ご対応くださった皆さんに感謝です。

播磨と四国の旅(2)

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昨晩は大いに呑みました。主賓の久保脇さんを慰労する会に集まったのは、栗林さんと近藤さん、田川さんと大北さんで、考古フォーラム蔵本の主要メンバーです。このフォーラム、栗林さんと私が言い出しっぺでしたが、私が神奈川に移ってからは栗林さんが引き継いでくださり、栗林さんが編集する会誌『青藍』は今も健在です。

やはり新鮮なスダチを添えて食べる徳島の魚は旨い!というのが正直な感想です。久保脇さん、長年お疲れ様でした。そして皆さん、飛び入りの私を歓迎していただき、どうもありがとうございました。

本日31日は徳島県立博物館にお邪魔して、この4月から館長に就任なさった高島さん、学芸課長になられた長谷川さんを表敬訪問。ただ今回の訪問の目的のひとつは民俗部門の学芸員、庄武さんに熱帯系のヤマイモとタイモの話をお聞きすることでした。

というのも最近読んだ吉成直樹氏著『琉球の成立―移住と交易の歴史―』(2011年、南方新社刊)のなかで、吉成氏と庄武さんの連名論文「南西諸島における基層根栽農耕文化の諸相」『沖縄文化研究』26号(2000)が詳細に論じられていたからです。その後の研究成果を伺うためにお時間を割いていただきました。

庄武さんは妻が文化推進員として同館で働いたときにもお世話になった方です。当時の私はもっぱら東四国地域の古墳文化を学んでおり、学問の話での接点はなかったのですが、縁とは奇妙なものです。彼女の研究成果を現在必死になって追っかけることになったのですから。「いったいどこまで手を広げるのですか?」と呆れ気味の長谷川さんを尻目に、庄武さんには午前中いっぱい、私への「個人授業」にお付き合いいただきました。

午後からは新装なった鳥居龍蔵記念博物館を見学させていただきました。対応してくださったのは、なんと下田さん。私が徳島にいた頃は市教委の文化財担当として渋野丸山古墳の範囲確認調査を担当なさっていた方です。聞けば3年前からこちらに移ったとのことで、現在は主任。

下田さんの案内で館内を見学させていただきました。旧鳥居龍蔵記念館の収蔵資料を展示しておりますが、とりわけ目を引くの、なんといってもガラス甲板写真を引き伸ばした映像展示かと思います。午後3時過ぎに博物館を辞しましたが、真に充実した時間を過ごさせていただきました。

高島さんも長谷川さんもお忙しそうでしたが、庄武さんに下田さんも、変わらずお元気でなによりでした。そしてご対応いただき、ありがとうございました。


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