私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

日常

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九州の旅(中盤−2)

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本日12日には、吉野ヶ里遺跡調査事務所にお邪魔し、既報告分の貝輪類を見せていただきました。対応くださったのは細川金也さん。以前学会でご挨拶したこともあり、私の世代の空気を感じさせる方です。少しわがままな資料調査にも、快く応じてくださいました。

今回の眼目は、諸岡型貝輪8点を右腕に通した甕棺墓出土品の実態を理解することでした。昨日の大友遺跡の諸岡型古相の3点は3点セットで製作されたものでしたが、こちらはどうなのかに照準を当ててみたのです。

樹脂で硬化処理がおこなわれていたこともあったので、細川さんにお願いして、3点までを限度に積み上げる実験をお許しいただき、やってみましたが、重なり具合のよい個体間とそうでない個体間の境界が下から2段目と3段目のところに現れ、最初2個セットかとも思われましたが、そうとも断定できない状況が上の段で生じたので、もう少し検討が必要です。3点セットの組み合わせが基本とまでは断定できないように思われました。

本日拝見した資料のなかで、もっとも驚かされたのは、イモガイ製の円形横型貝輪でした。報告書の図面から受けた印象よりも格段にシャープな仕上がりで、真に優品です。円形に張り出す断面と高さ7mm前後に整った規格をみると、円環系銅釧を模造したとしか考えられないのではなかろうか、とさえ思われました。もちろん径は5cm程度と小さいので、大人の腕には絶対に通りません。発掘調査でも10歳前後の小児埋葬に伴ったとのことですから、これを着装して埋葬された子供とは、どのような招来を嘱望された存在だったのか、あるいは来世でいかなる希望を託されたのか、思わず想像したくなります。

報告書刊行後の発掘調査で出土した貝輪類もあって、明日もお願いすることとして、細川さんに吉野ヶ里公園駅までお送りいただき、夜の宴会に備えることにしました。

要するに明日の鉄器ワークショップのために愛媛大学の村上恭通さんが韓国から金武重さんを連れて佐賀に入るので、と、細川さんによって呑み会がセットされることになった次第です。細川さんと同期だという小林さんをはじめ國學院の面々が主体でしたが、前夜祭として大いに盛り上がりました。

九州の旅(中盤−1)

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7月11日には、神崎にある佐賀県の文化財整理室にお邪魔して資料調査をさせていただきました。朝博多を出るときからすでに気温は上昇気味でしたが、神崎駅に降り立ったらもはや灼熱の真夏。駅前のタクシー乗り場にタクシーもなく、地図でみれば徒歩15分程度かと思われたので歩きましたが、20kgは超えそうな荷物を引いての徒歩でしたので、たどり着くまでが大変でした。

本日の調査目的は大友遺跡の3次・4次調査分の貝輪。今回の旅のなかでも注目の資料ですので、気合いが入ってしまいます。対応くださったのは渋谷挌さんでした。

大友遺跡の貝輪資料については、報告書を木村幾太郎氏が執筆なさっており、記述は詳細で図面は非常に高精度ですから、資料調査はかなり楽です。もちろん現物を目の前にしながら報告文を読み直すと理解度が全然違います。記述内容に逐一納得しながら個別資料と向き合いました。観察した所見などは、持参した報告書の図にメモすることでおよそのところは済んでしまい、あえて再実測の必要もないところです。

がしかし現物を目の前にすると、どうしようもなく書きたい衝動にかられてしまいます。とはいえ、今回の主目的は内孔のサイズを中心とした計測ですから、ノギスを手にとって報告書の記載項目以外の部分の計測値を書き込む作業に徹することとし、諸岡型の最古相の資料として注目される3点の貝輪については、手首側の1点のみを、組み合わせ式の背面貝輪についても1組のみを実測することにしました。

大友遺跡の第3次3号石棺出土の貝輪3点は、3点セットとして製作され、受容者に納品された可能性が高いと理解されている注目の資料です。肘側にくる貝輪と真ん中にくる貝輪の2点については、それぞれ内孔の縁の外側に緩やかな凹面が削り出されており、この凹面によって、隣あう貝輪との隙間をなくすという非常に手の込んだ仕上げになっています。A型(血液型のこと)気質の、しかも時間に余裕がありあまって困るぐらいの男(退役漁撈民か)の手になる作品だと断定してよいかと思われます。

確かに木村氏の記述どおり、3点を重ねると見事に隙間がない状態でした。ただし後続の諸岡型諸形態や立岩型貝輪のような、肘側にくる貝輪のサイズが大きく手首側にくる貝輪が小さいといったサイズの段階的な差はなく、同サイズで3点を重ねるありようでした。この点も木村氏の指摘どおりでした。私が木村氏の記述に加えることがあるとすれば、手首側の1点には、縁辺部の割れを事前に修復した形跡が明瞭な(つまりその部分だけ台形状に隙間が生じる)ことと、肘側の1点だけは、死貝の加工品である可能性が高いということぐらいでしょうか。もちろん他の2点は生貝の加工品であるとみて差し支えないように思われました。

また3点ともに非常に残りがよく、内孔の端面はシャープな仕上げであって、側面には磨り減りなどは一切認められないという良好な状態であることも確認できました。昨日の諸岡遺跡例と同様です。つまりここに埋葬された熟年の男性は、まず間違いなく新品を装着されたと考えられるのです。たとえば成長期の若い頃に腕輪をはめられ、生涯にわたって右手は使わなかった、といったような理解は成り立ちがたいことを意味するといえるでしょう。なおこの問題については、立岩型に関し大分県の吹上遺跡報告書で言及され(ているようですし)、川口陽子さんが「日常的な着装ではない」と指摘するとおりです。さらに前回の記事への土屋君のコメントをみると、高倉洋彰先生も死装束としてのあつらえの可能性に言及されているようですから、最近の学界の見解は、すでに趨勢が定まっているとみてよいようです。

いっぽう、対極にあるのは第4次57号支石墓から出土したゴホウラ背面貝輪でした。分割され組み合わせ式になっていて、右手にはゴホウラ貝輪の他にベンケイガイの組み合わせ式貝輪も装着されていたという資料です。こちらは螺階の途中で折れたもの(ここはもっとも割れやすい部分)の端部付近に穿孔を施し、そこに紐を通して綴ったのでしょう。こうした再生組み合わせ式貝輪こそが、長期の使用をなによりも雄弁に物語っています。

ですからこちらの熟年男性については、生前に着装していた貝輪をそのまま墓に持ち込んだ可能性が認められる、ということになるでしょう。さらに、こちらの背面貝輪の残余分で、先の諸岡型貝輪は作製可能であることも確認できました。そしてこのことは、弥生中期以降の腹面貝輪と背面貝輪の使用のされかたの差違を示唆するものではないかとも思われました。もちろん後者は未確認ですが、たとえば日常性を帯びた装飾品として集落内で消費された可能性を考えたくなります。

こうして諸岡型貝輪の最初期の実態を確認できたことを嬉しく思います。明日は吉野ヶ里遺跡の貝輪と向き合う予定です。

渋谷さんには昼食にもお連れ頂いただけでなく、夕方には神崎駅まで送って頂きました。真にありがとうございました。

九州の旅(前半)

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7月8日から陸路、九州にお邪魔しています。今回は貝輪の実測・熟覧・写真撮影の旅です。1日目は別府大学にお邪魔し、大分市の世利門古墳の貝輪を見せて頂きました。

対応してくださったのは田中祐介さんと博物館の佐藤さくらさんでした。祐介さんは岡大の先輩です。積もる話をしながらゴホウラの背面貝輪とイモガイの組み合わせ式貝輪の2点と格闘しました。ゴホウラ貝輪の方は縁辺に列点と沈線を巡らす珍しい品で、その繊細な施文には唸らされました。鉄器を使用しなければ、こうは繊細な施文にはならないであろうという代物でした。遺存状態が良好で、使用痕(磨り減りの有無)の確認も容易で、まったくの新品を副葬したと判断して差し支えないものと思われました。さらに縁の端部は、斜面に対して垂直方向に仕上げられており、擦り切り技法で作製されたものと考えて差し支えないように思われました。

いっぽうのイモガイ貝輪は、4点で構成されていますが、まず驚かされたのはその薄さと、合わせた径の小ささでした。若い貝を使用して作ったのでしょう(ただし、うち1点は死貝の可能性あり)。こちらの貝輪は、5世紀代にまで組み合わせ式のイモガイ横割り貝輪が残ることの証明になるので、私にとっては是非とも現物を確認しておきたかった資料です。

夕方に別府を辞して博多に向かいましたが、出発直前まで祐介さんと話し込んでしまい、ブログ用の写真撮りを失念してしまいました。

翌9日は、筑紫野市歴史博物館と九州大学箱崎キャンパスを訪問しました。隈・西小田遺跡の諸岡型貝輪と立岩型貝輪を柄ガラス越しに見学したのち、奥村さんに資料調査を依頼してきました。重文ですので事前に資料の状態を確認する必要がありましたし、立岩型の装着状況を確認しておきたかったという理由です。秋口に予定している次の機会に実測させていただくことにします。

午後は箱崎キャンパスを表敬訪問し、辻田淳一郎さんにお世話になりながら、神奈川では入手できなかった資料のコピーをお願いしました。当然貝輪の話で盛り上がり、そのまま大学近くの居酒屋兼ラーメン屋に繰り出して一杯、ということに。3名の学部生諸君(二人のK君とTさん?だったか)とも考古学談義で、辻田さんの誘導に乗っかって、私ひとりが盛り上がっていたように思います。

本日10日は、朝から福岡市埋蔵文化財センターにお邪魔して、諸岡遺跡の貝輪と西新町遺跡の貝輪、それに金隈遺跡の貝輪の総計13点を見せていただきました。対応してくださったのは木下博文さん。10時から16時までの申請でしたが、9時過ぎから17時15分までお世話になりました。じっくり観察はできたものの、実測を終えられたのは、このうち12点。金隈の1点だけは時間の関係で実測できずに終わりました。さすがに歳を感じます。

ただし収穫は大でした。諸岡遺跡の8点は、表面には成形時のヘラ研き状の無数の凹面が残っており、端部にはどこにも剥離痕が見えません。やはり新品をあつらえて副葬したと考えた方が自然な状況です。つまり生前に長期間着装した痕跡はまったくみられないのです。しかも8点中7点は生貝を加工したと判断される状態でした。

もっとも興味深かったのは、全点を重ね合わせると22cmの高さになることでした。この状態とは、まさしく1尺を意識したあつらえだとしか思えません。要するに前腕をすべて貝輪で覆うという、北部九州弥生中期の人々が採用した思想なのでしょう。もともと諸岡型貝輪は8点の組み合わせが目立つし、一個体の高さは2.3cmから2.5cmなので、対応関係は明確です。ちなみに隈・西小田の立岩型貝輪は、右前腕に21点、左前腕に20点を重ねた状態で出土したのですが、1点の高さは1.1cmですから、諸岡遺跡でみられた状況が、そのまま継承されたと判断可能です。さらに金隈の2点は、明らかな死貝を加工した製品でした。初期段階には死貝の利用が目立つ、といえるかもしれません。

こうした成果に気をよくし、夕方に久住猛雄さんがセットしてくださった博多駅前での懇親会でも、弥生貝輪の話題を一方的に喋りまくってしまいました。集まってくださったのは久住さんと木下さんのほか、辻田さん、森本幹彦さん、谷澤亜里さん、石田智子さん、川口陽子さん、それに本田光子さんでした。本田さんにまでお越し頂き恐縮でしたが、甕棺墓の社会とはなにか、について、貝輪だけでなく、水銀朱の問題も絡めて整理し直す必要性を痛感します。

また川口さんは貝輪の研究をしていらっしゃるので、有益な情報を教えて頂くことができました。さらに久住さんからは、土器の併行関係からみると種子島の広田遺跡の年代は、現在提示されている年代観より1段階新しくなるとの所見を頂戴し、少し勇気づけられました。問題の大賀編年の話については、近々に解決すべき宿題のありかを提案し、向き合い続けることで一応の了解を得た、というところでしょうか。今回の呑み会でも話し続けたせいで、写真撮影を忘れてしまい、解散直前に店の前で写真撮影、ということになりました。お集まりいただいた皆さんに感謝します。

こうして九州の旅の前半を終えることになりました。明日(日付が変わって正確には今日)は佐賀に向かいます。

なお、写真はカードリーダー不調により、次回以降にアップすることにします。

6月26日(無題)

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沖縄と北海道に出向いて一段落し、少しブログから離れていたところ、先日、長野の母から「元気でいるの?」との電話をもらいました。先の山羊料理の記事を読んで「そんな息子に育てた覚えはない!恥を知りなさい!」とのきついお叱りを受けたところですが、記事をアップしないと、今度は心配になるようです。

不肖の息子のほうは、目下インプットモードに入っており、買い込んだりコピーしまくったりした文献類の整理やら熟読やらメモ取りやらにいそしんでおりました。図書館の書庫通いも増えました。サバティカル期間だからこそ浸れるモードです。

そうはいっても少しだけ疲れが出たのか、次回の九州旅行へ向けた準備が意外に進まず、資料調査の申請に少し手間取っているというところでしょうか。

この間、茨木大学の田中裕さんと学芸大学の日高慎さんにお越し頂き、長野県の埴輪に関する詳細なレクチャーをお願いしました。当面は郷里の松島王墓古墳や青塚古墳などの埴輪の位置づけを明確にしたいと考えており、秋に郷里の箕輪町郷土博物館で開催される特別展に成果を反映させたいと目論んでおりますし、資料報告を長野県考古学会誌に投稿すべく準備を進め始めようか、というところです。お二人から頂戴した数々の有益なコメントを今後にどう活かすかが課題です。

部屋の向かいの文学部展示室では松本建速さんの「ことば」展が開催され、オープンキャンパスや先週末に開催された旧石器学会でも公開されました。先の田中さんや日高さんにもご覧いただき、そのときの反応を見ておりますと好評だったように思います。しかし松本ワールドはよいとしても、解説文が細かく、老眼と近眼が同時並行的に進んでいる中年オヤジには、ちと辛かったというところです。

この2週間に読み進めた諸論考は民俗学・民族学のものが大多数ですが、それと密接に関わる考古学の問題のなかでとりわけ興味を惹いたのは、高畠孝宗氏の2011論文「オホーツク文化における刀剣類受容の様相―枝幸町目梨泊遺跡を中心にー」『北方文化研究』第9号掲載分でした。大賀さんが道立図書館でコピーしたものを又コピーして拝読しました。本論文からは副葬品に関する評価について学ばされるところが多く、この問題は弥生文化の葬送習俗へも波及するに違いなく、ひいては古墳の副葬品についても妥当するところ大ではないか、と感じました。ですから非常に不安になり、気がせいています。

ところで花粉対策にと、この3月に新調したバルミューダ製の空気清浄器は、花粉の季節が過ぎた今も自宅で大活躍中です。従来のものは2階の寝室に上げて、目下2台が稼動中。

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この話、関東地方にお住まいの方限定ですし目的地も道南地域限定です。

まず話は5年ほど前にさかのぼります。旭川キャンパスでのチャシ跡遺跡調査を始めた頃、飛行機での出張が当たり前だし、それが常識だと私は思っていました。事務手続き上も径路については「空路」で設定されるのが標準でした。今もそうです。

ところが北海道出身の松本建速さんは、「わたくしは、是非とも陸路で行きたいと思いますのでよろしく!」との強固な主張を展開。彼は飛行機嫌いですから、それ以上の理由はないものと軽く受け流していました。もちろん事務方からは標準外の鉄道を選ぶことへの「理由書」提出を求められ、何かと面倒でしたので、「松本さん、いいかげん21世紀の世の中に適応しようよ」などと冗談めかした軽口を叩いてもいました。

ところが、です。今回、奥尻島行きを計画してみると、飛行機を使うより新幹線と在来線の合わせ技を選択したほうが便利で格安だ、という事実に改めて気づかされたのです。

たとえば離島へのフェリーの出発時刻が朝の9時だったとすると、当日の朝の航空便で羽田から向かったのでは絶対に間に合いません。ですから前日の晩に港街まで行って、そこで宿泊する必要が生じます。そこで、ともかく港街へと簡単に行ける径路を探すことになります。

すると意外なことに、場所によっては飛行機で行った場合と鉄道を使った場合とで所用時間がさほど変わらず、むしろ鉄道を使ったほうがスムースに到着できることもある、という現実に直面します。目的地や出港地が空港から遠ければ遠いだけ、そうなる確率は高まるものと考えてよいでしょう。

こうして北海道への旅は、鉄道のほうが便利な場合もあることを実感させられたのです。少しだけ松本さんの気持ちを素直に受け止められる土壌が私の中にもできあがりました。

さらに値段の問題をみれば、鉄道運賃は航空運賃の6割〜7割ですから、出費の問題も無視できません。ちなみに秦野から江差まで、羽田から函館まで空路を利用すると所用時間は7時間15分で37.390円也、鉄道だけを使うと所用時間は8時間23分で21.580円です。1時間08分の差で15.810円の差額となります。目的地が新千歳空港に近い場合は、こうはならず、所用時間の差は開くいっぽうとなり、差額は1万円以下になりますが、一考の価値ありだと思いました。

本日の帰路、私は朝風呂を浴びたのち伊達紋別駅から特急に乗り込み、函館・新青森・東京経由で、新青森から小田原まで新幹線を使い、秦野まで帰りました。この間の所用時間は9時間23分、経費は24.080円也です。

最近の特急列車はシートが快適ですし、車内を自由に歩けるので、飛行機よりは格段に開放感があります。さらに室蘭線と津軽海峡線を走る特急列車の自由席は、指定席より空いているので文字通り自由な空間が確保できます(道内を走る特急は、たいていそうなるとも聞きました)。車窓から噴火湾(内浦湾)、津軽海峡を眺めながらの帰り道は、なかなか快適でした。北海道新幹線も函館までは近々開通するとのことですし、工事も着々と進みつつある様子。この路線をとった場合、新千歳経由で飛行機を使ったケースより2時間49分余分にかかるものの、肉体的な負担は思いのほか軽い状態で帰宅できました。こうなると、松本さんの主張には説得力があることを認めないわけにはいかなくなります。

なお余談ですが、自由席でもっとも混雑したのは、他を断然引き離し、東京―小田原間の「こだま」でした。往復ともに座れませんでしたから。

本題にもどしましょう。では北海道へ鉄道で向かう際には、どのような心構えが必要かを考えてみます。所用時間の差違は片道3時間程度ですから、この3時間をどう使うかです。一人旅の場合には読書用の本を持ち込めばよいし、私のようにパソコンを持参してブログ記事を書き連ねるというのも、ありでしょう。

このうち読書はとりわけお勧めだと思います。表題に釣られて購入してはみたものの、書棚に「積ん読」状態のままの単行本類を自宅でじっくり読む、という機会は、日常生活のなかでは意外なほど少ないことを実感する読者もいらっしゃるはずです。昨年までの私がそうでした。そうした日常では叶わない読書の時間を車中で確保するという手は、結構魅力的です。読書に疲れたら車窓を流れる景色に目を向ければよいし、眠くなったら寝ればよい。つまりまとまった読書には絶好の環境が与えられる、といえるでしょう。

ただし3時間を割くだけの余裕などあるはずもない、という心理状態の方も多いのではないでしょうか。事実、昨年度までの私がそうでしたから、この感覚のほうがよくわかります。日常的に時間に追われていると、分刻みで物事を処理する感覚に慣れっこになっているために、こういった出張のときにさえ、そのモードの延長線で考えてしまいがちなのでしょう。

気持ちに余裕のないまま空港へ向かい、ホテルに飛び込んで、地元の方とのお付き合いの後は、深夜になってから資料を繰ってみたりもし、あるいは翌日のプレゼンなどに備えてみたりもする。出先での仕事が済めば一刻も早く帰宅するし、帰路もメールチェックを怠らない。既に翌日の会議や授業の予定のほうに頭を切り換えている、などといった生活と時間感覚が当たり前になっています。

そのようなモードのなかでの3時間の差違は、とても耐えられがたいものと感じられるのです。常に何かに追われている感覚とでもいいましょうか、目前の課題をともかく無難に処理するだけ、といった「こなす」感覚に近いものがある、ともいえましょうか。そうした場合、なぜか時間の短縮だけには鋭敏になっています。

これが「大人の時間感覚か」とも感じ、前向きに受け止める方向で捉えようとしたこともありました。しかしその感覚は、長続きする保証のない“やせ我慢”であったり、”苛立ち”であったりするのだろうとも思います。

だとすれば、あえて鉄道を選び、こうした日常モードからの脱却を意図的に選択するというのも、ありではなかろうかと思うのです。健康的な選択であることは間違いないし、魅力的にさえ思えてもきます。

「21世紀の社会に適応せよ」などと失礼な台詞を向けた私のほうが、実際のところは「適応」とはなにか、をまったく自覚していなかったのではないか。松本さんの主張は、じつは日常モードからの脱却を願う切実な人間性回復要求だったのではないか。そのように5年後の今になって考えさせられてもいます。

こうして、松本建速さんの意見を、私もまたほぼ全面的に支持することになりそうです。ただし旭川までも含めるべきかどうかについては、なお検討の余地がありそうですが、函館から室蘭までの道南方面への今後の出張は、できる限り陸路をとろうと考え始めています。

そして21世紀前半の社会を健康的に過ごしたいと願う方々にも申し添えます。すなわち関東から北海道へは鉄道の旅がお薦めです。


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