私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

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先に会場の雰囲気をお伝えしたところですが、ではそこで私はなにをしゃべったのか。この点について簡単にご紹介します。

「東アジアの古代文化を考える」会の皆様にとってはおそらく聞き飽きた話でしょうし、神奈川考古学同人会の皆様や、以前市民講座で平塚市の方々にもお話した内容がベースです。今回はそこに若干の補足説明を加えた、というところです。

画面を上からたどっていただければ、内容のおよそはご理解いただけるかと思います。ただしここで強調したいのは、西川修一さんや立花実さんによって突き止められた、弥生時代後期の集団移住と入植が、私の研究の基礎になっている点です。この研究成果がなければ私の話も成り立ちません。私のスライドのなかでも引用させていただいたところです。

画面の4段目が西川さんの作成なさった図です。なんとわかりやすいことでしょうか。今回のシンポジウムで苅谷俊介さんが会場からの妨害を制止したのも、こうした地道ながら先鋭的な研究を切り開いた方々への敬意を払うべきでしょうとの諭しでした。

今回のシンポジウム記録については、小田原市教育委員会から、いずれ出版されることになるものと思います。しかしフライングマンとしては、ピストルの音を待ちきれませんので、ここでもさわりだけをご紹介することに。諏訪間さんにはご容赦いただくことにしましょう。

                 
                「前方後円墳の展開と相模国」
                                  東海大学文学部 北條芳隆
                      概 要
1. 前方後円墳が築かれた時代とは

① 耕地開拓との密接な結びつき
 巨大な古墳だけに目を奪われると、それは「王や首長などといったごく限られた支配者のために、想像もつかないほどの浪費をいとわず盛大に墓を造り続けた時代のことである」と理解されがちである。しかし以前からも指摘されてきたことではあるが、集団移住や大規模耕地開拓が各地で活発におこなわれた時代であったことが実証的に解明されつつある。群馬県榛名山麓における前方後円(方)墳の展開過程と耕地開発との深い関係を解明した若狭徹氏の研究成果は、その代表である(若狭2002)。耕地開拓と大型前方後円(方)墳の展開は連動しており、「開発指向領域」を舞台に両者は展開するという新たな視座が導かれたのである。
 となれば、巨大な墓造りもまた集団移住や耕地開拓と密接不可分な現象ではなかったか、との捉えなおしが必要になってくる。たとえば入植先で新しい社会を組織する際に不可欠な連携の証であったり、「始祖」を新たに誕生させて今後構築しようとする社会の由緒づけを目論むといった開拓の記念碑であったり、という側面からの再検討が求められるのである。
 また墳丘を盛り上げるための膨大な土量をどこからどう確保するか、という問題についても、周辺一帯で同時に耕地の開墾が進められたとしたらどうなるか。開墾事業によって生じる残土の総量と比較してみれば、実はさほど驚くにはあたらない。余剰の残土を墳丘の造営に向ければ一石二鳥である。相応の合理性が伴っていたと理解すべきであろう。冒頭で示した理解は、いかに素朴で一面的でしかないかがよくわかる。
 現在の学界情勢は、こうした古墳時代観の再点検・再構成の渦中にあるといえよう。もとより定説的な見解は、いまだ冒頭で示した素朴な解釈の延長線上にある。前方後円(方)墳の築造をもっぱら「首長」層の政治動向として取り扱い、大和政権との間の政治史として解釈しようとする見方がそれである。しかし関東地方を素材として試みられつつある古墳時代研究こそは、いま紹介したような「現象を構造的に把握する」という新しい視座を切り開きつつあるし、それが正解への近道でもあると私は確信している。

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シンポジウムの風景をご紹介します。最上段の写真で会場からコメントしてくださっているのは柏木善治さん。手前には伊丹さんも写っていました。そして壇上の風景は2段目以降です。2段目の手前が司会の諏訪間順さんです。このアングルをものにするために、壇上で挙動不審な報告者を演じてしまいました。3段目でこちらを向いて失笑しているのが立花実さんです。手前は解説する必要もないでしょうが苅谷俊介さんです。ここまでは穏やかな時間の流れる会場の風景です。

さて問題の、会場から受けた激しい反応の話題に入ります。ひとつは私の発表への質問を、と司会者に促されて会場から寄せられたご意見、というかお叱りです。古稀ぐらいのご高齢の方でした。種を蒔いたのはもちろん私です。

報告の最後に、「おまけ」と題し、ちょうど桜井茶臼山古墳からの「正始元年銘」鏡片がみつかったという時事問題に絡め、魏王朝関連の紀年銘鏡の分布図を作成しキーノート(パワーポイント)にして上映したのです。
当然のことですが、日本海側をたどり出雲から丹後、そこから上陸して由良川―加古川つたいに瀬戸内海まで南下し、淀川か大和川をさかのぼるルートが復元されるわけです。
最終目的地はもちろん桜井茶臼山古墳。瀬戸内側は山口だけでそこから東は空白ですから、経路の候補としては失格です。この間をアニメーションで西から点線を伸ばして順次東側へとたどるわけです。

こうした日本海ルートを前提に「投馬国」出雲説を唱えたのが笠井新也でした。
この笠井新也説再評価論文を書きかけている最中でしたので、そのさわりを紹介した次第(後でお聞きしたら苅谷さんもこのルートを復元可能だとして論文をお書きになっていたとのことでした。存じ上げず申し訳なく思いました)。

そして、この「おまけ」話に噛みつかれたのです。いわく「そんな明らかに間違った話を公共の場でするなんて大問題だ!」との趣旨のお叱りでした。どうやら邪馬台国九州説の支持者のようでした。

私としては、分布をたどってみたらこうなるというだけの話のつもりでしたし、新聞に書かれていたコメントの内容を具体的に解題したにすぎないとの思いもありました。もちろん、こうした経路の解釈は今後不正解になるかもしれません。この点についての論文を執筆中なのですから、邪馬台国畿内説が抱える問題点の深刻さについては、おそらくこの方よりは熟知しているつもりです。
現実の資料それ自体に当面のところ嘘はないのです。もちろん製作地と製作年代には誤認があるかもしれません。それとて論争中の問題です。ともかく、私の本題のほうへのご意見やご注文でなかったことだけは残念でした。そこに噛みつくのか?との思いも隠せません。

しかしこれだけでは収まりませんでした。今度は明らかに事故がおこったのです。

それはシンポジウムの終了間際のことでした。西川修一さんの講評の最中にそれは発生したのです。話の途中でそれを遮って、会場から、やはり古稀ぐらいの方でしょうか。やにわに「もうそんな個人的な思い出話などはやめさせて、苅谷さんにお聞きしたいことがある!」との司会者に向けた叫び声。

驚いた西川さんは「失礼しました」といって講評をはじめたばかりなのにマイクを返してご着席。

しかしさすがに苅谷さん。すかさず「この地域の研究を地道にリードしてこられた西川さんご自身の話を途中で遮るなど、とんでもなく失礼な態度です。質問は後でお受けします。そしてこの場を借りて私から西川さんにお詫び申し上げます。西川さん、私が原因でご迷惑をおかけしました。誠に申し訳ありません。どうぞ先ほどの話を続けてください」と、きびしく制止なさいました。

この苅谷さんの言葉には会場のあちこちから拍手が。しかし気の毒だったのは西川さんでした。話の腰は折られるし学史の経緯を「個人的な思い出」だと処断されてしまうし。とはいえ、さすがに高校の教頭先生。無難にこなされました。

さて西川さんのご講評を終えてからのその御仁とのやりとりは、やはり海部の関与如何の問題やら邪馬台国所在地にかかわる苅谷氏の見解への疑義。騎馬民族征服説との絡みであったかとも推測されます。

そしてこの方、以前にもどこかでお会いしたような気がして記憶をたどったら、そうでした。6月の東海史学会の大会で、蝦夷とは何かをめぐる議論の最中に、私の強引な司会進行に会場から猛然と異を唱えられた方だったような。

そういえば日本考古学協会総会の会場でも似たようなことがありました。私が協会理事の権限で司会をしていたとき、制止するのも聞かずにホケノ山古墳の銅鏃の問題はどうかなるのか、と春成秀爾先生に詰め寄った方もいらっしゃいました。私も壇上まで行って無理矢理止めさせた、そのような過去を思い出します。

そうすると、私が壇上にたったときに混乱が生じるという法則性がみいだせるのかもしれません。特に司会進行の場面では、こうした傾向が明瞭なのかもしれないと、若干の考察が可能です。

ともかく西川さんの講評にたいし、あからさまな妨害をなさる御仁は、はっきり申し上げて迷惑です。

邪馬台国九州説論者の研究者や、それを理性的な態度で支持なさる方々を存じ上げているつもりでしたが、今回のようなケースは初めてでした。邪馬台国九州説を唱える方の講演会の席で、その講演内容を誹謗し、議事を妨害する畿内説論者がいるのでしょうか。

お話の筋や展開の仕方をお聞きすれば、論文を書いた経験のある方かどうか、聴衆の面前で話すことに慣れた方か否かはたちどころにわかります。お二人ともそうではないようです。もし予測に反して学問をなさっている方だとしたら、僭越ながら論理性の欠如と修辞法の問題をご指摘せざるをえません。

私の知る九州説論者は、皆さんとても知的で理性的。かつユーモアの感性もお持ちです。会場でのやりとりも、そうとは見せずにこちらの弱点や問題の核心を突いてくるのです。だからやり取りを楽しめるのです。今回のお二人はおそらく熱心な、あるいは狂信的な九州説支持者なのだと推察されます。

とはいえ、お元気なことはなによりです。今後考古学全体もご高齢の方々向けに開放されるべきだし、それが日本考古学の生き残り策のひとつであることも間違いありません。ただしご自身の日頃の不満の解消策として、あるいは自己実現ないし自己顕示欲の発露のために、こうした公共の場をご活用なさることだけはどうかご勘弁を。

今回のシンポジウム。邪馬台国畿内説論者の受難の日となりました。もちろん、とばっちりを受けた西川さんが一番の受難者であったことも確かです。ところで西川さんは邪馬台国をどちらだとお考えなのでしょう。
地元の業界人同士でこんな些細なことを話しあうはずもありません。箱根のふもとからみたら、邪馬台国などは近畿にあろうが九州にあろうが、はるか僻遠の地なのですから。けし粒のような存在なのですから。

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先日の1月30日には、小田原市立かもめ図書館を会場に「古墳時代の始まりと足柄平野」と題するシンポジウムがありました。古墳時代前期の前方後方形周溝墓の発見が相次ぐ千代南原遺跡や、壺型埴輪片がみつかった小田原城内八幡山などが話題を呼んだので、小田原市教育委員会の諏訪間順さん(3段目の右側の方)が企画したものです。

会場には主催者側発表で180名の方がお越しになったそうです。市民の方々が主だったようですが、業界人も10名前後ご参加くださり、私の大学の学生は2・3名。ちょっとさびしいか。
報告者と題目は以下のとおりでした。

 渡辺千尋「森戸川流域の墓域の周辺の集落」
 大島慎一「八幡山の壺形埴輪片と周辺の集落」
 立花実「土器からみた西相模の古墳時代の幕開け」
 苅谷俊介(記念講演)「古墳の出現期を考える」
 北條芳隆「前方後円墳の展開と相模国」

この順で壇上に立ちました。前のお三方は馴染みの顔ぶれです。渡辺さんには酒匂川左岸(上流からみたときの左側)の遺跡の状況を手際よく整理していただいたのと、大島さんには右岸の遺跡の状況をわかりやすく説明いただいたので、業界人として大いに勉強になしました。

立花さんは本学でも教えていただいているため内容は事前に把握できましたが、相変わらず淡々とした調子で、しかしテンポ良いお話。こちらはどちらかといえば考古学専攻生向けの話だったともいえましょうか。

そして苅谷さんのお話は、氏が携わっていらっしゃる纏向遺跡の調査成果と考察結果。方位の問題や法格地割の可能性やら、斎山(穴師山)を山立て基準に施工された大型建物の話。
恥ずかしながら苅谷さんこそが、現在私が主張している「大和」原風景の先行研究者でいらっしゃることを教えられ、ただ頷くばかり。現在抱えている論文を終えたら、さっそく読みあさろうと思います。
こちらもかなり高度な専門家向けの話でした。とはいえ、さすがに元?俳優さんだけあって声の渋いことといったら。聞き惚れてしまいました。

そして最後は私でした。最近考えていることを相模に引きつけながらお話しました。会場でお聞きになり、シンポジウムの最後に会場からのご講評をいただいた西川修一さん(最下段の写真)からは、「北條さんのお話は、まるで考古学漫談でしたね、これからは漫談家としてもやっていけるよ!」と言われてガックリ。お褒めのことばでは決してないですよね。

さて今回は会場から予期せぬ激しい反応があったのですが、この件については記事を改めます。

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先週末から3日間、雑務に追われるなか思い立って関西方面に出張ってきました。初日は岡山です。
午後から開催された標記のシンポジウムに参加しました。報告者は草原孝典氏・松木武彦氏・光本順氏・高田健一氏の4名でした。
弥生時代の社会とはどのようなものであったのかを実像として見直すという課題設定のもと、生業としての水稲農耕の側から集落の動態はどう整理できるのか、また埋葬のありようや分銅形土製品に現れた身体表現など観念的な側面からはどう見えるのか、が検討されました。
また吉備だけを見つめるのではなく、日本海側伯耆の様相も視野にいれて、そことの比較のなかで吉備の問題をあぶり出そうという目論みもあったようです。

個人的には草原さんの報告と高田君(後輩なので君づけ)のそれが、とくに興味深く感じられました。どちらも事例紹介と動態整理に主眼が置かれていたのですが、現在の学界情勢や主流となっている作業仮説を前提にし、あるいはそこへの提言を含むものだったものですから、具体的なイメージや今後の議論の展開方向がイメージしやすく感じられたのです。

なお高田君の口頭発表を久しぶりに(初めてかも)聴きましたが、その冷静で理路整然とした口調には、院生時代からの飛躍的な成長ぶりを印象づけさせるものがありました(上から2段目)。

いっぽう岡山大学の2名の研究者の報告については、ともに予備検討報告という性格づけを持たせ自制的であったためか、今後の展開の方向が見えにくく感じられたところです。
ちなみに松木さんの話しぶり、誰かに似ているような印象を抱き、誰だろうと思いを巡らせているうちに思い至ったのは稲田孝司先生のそれでした。強調の際の間合いの取り方といい個別用語のアクセントの置き方といいい、そっくりだと感じた次第です。

なお会の終了後に駅前で開かれた懇親会には岡大の頃の面々(5段目)や阪大の頃の面々(6段目)が参加していて、同窓会の趣を呈していました。写真に写ってないところでは宇垣匡雅さんや清家章君がいます。互いに歳をとったことを再確認してどうするというものでもないのですが、やはり昔話に花が咲いてしまいます。

平井典子さんや宇垣匡雅さんらと2次会にまでもつれ込みながら、楽しいひとときを過ごしました。久しぶりに松木さんと語らえたことも収穫でした。

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昨日CORNER君から、19日に大阪で開催された古代学研究会のシンポジウム資料集を見せてもらいました。そのまま自宅に持ち込んで読んでいます。参加してもいない学会の話題を取り上げる非礼は承知の上ですが、以下、資料集へのコメントを記します。

まず最初に驚かされたのは、講演に立った蒲原宏行さん(佐賀県教委)の講演資料。主題は学史整理なのですが、個別文献の解題と論点の仕分けが丹念でかつ詳細。なかには私の把握していない論文まで数件拾われていて、さらに個別文献の解題の末尾には蒲原さんご自身のコメントまで付されているという徹底ぶり。さすがです。
学史整理とは、過去を知るというより今を知る、ということですが、その手本ともいうべき仕事だと思います。ここからは実に多くを学ばされました。

ただし、ひとつだけ気になったのは車輪石の祖型にかんする木下尚子氏の1990年代後半の所見と、中司照世氏のやはり1990年代後半のイモ貝製釧にかんする所見が拾い上げられていないことでした。

両者ともに福井県の龍ヶ岡古墳出土資料の再調査・再実測にもとづく見解で、木下論文については車輪石の祖型がゴホウラ背面釧になる可能性の示唆、中司論文については、石釧の上半斜面にみられる肋状沈線が、イモ貝釧祖型の時点で人為的に刻まれていた事実を指摘したものとして、重要な意味を有するものと私は考えます。

特にゴホウラが車輪石の祖型だなんて誰も考えなかったでしょうから、以前にも本ブログで紹介したとおり、木下氏の示唆はもっと注目されるべきだと私は思うのです(本ブログ11月4日の記事参照)。もちろん蒲原さんがこれら2件を意図的に落とすことはまず考えられないので、貝輪研究だからとして省略することになったか、なんらかの手違いでしょう。

次に眼を引いたのは高橋幸治氏(明日香村教委)の研究報告でした。奈良盆地の集落遺跡出土の腕輪形石製品が網羅的に拾われており、これには驚かされました。こんなにあったんだ。というのが正直な印象でしたし、こうした出土事例は布留1式期から存在するのだという指摘が改めてなされていることにも驚かされました。かつてこうした出方は終盤の様相だと述べたのはほかならぬ私自身ですので、これまでの見方はもはや成立しないのかもしれません(とはいえ、挿図に掲載されている遺構出土の腕輪形石製品類で、布留1式にまで確実にさかのぼるものを、纏向遺跡以外には確認できませんでした。要は古そうな甕はあっても他地域系の土器が新しかったり高坏がやはり新し目だし、と混在するとの印象を持ちました。どなたか詳細をご存じの方、お教えいただければ助かります)。

高橋氏の材質観察も適切で、というか、私がかつて設定した指標をよくご理解いただいた上で批判的に作業に取り組まれているという印象を抱かせるものでした。さらに巻末には日本列島各地の集落遺跡出土腕輪形石製品一覧表まで添付されていて、その充実ぶりにも感心させられました。資料全体を見渡せば、高橋氏が今回のコーディネーター役であったことがよくわかりました。若い方で、確か下池山石釧を実測なさった方だと推察いたしますが、目下各方面で大活躍の北山峰生さん(橿原考古学研究所)をも含め、若い方が育ちつつあることも実感させられました。

しかしもういっぽうで、腕輪形石製品の研究を今後生産的に進展させるには、まず玉類の研究との連携が不可欠だということにも同意いだだけるはずだと思うのです。この点で、現在は10年前の段階とは比較にならないほど優位にあるものと思います。玉類の研究が飛躍的に進展したからです。

かつては河村好光さん(石川県)お一人がこの分野を背負って立っていたところがありましたが、現在は大賀克彦さんも加わり、急展開しています。併せて再検討を要するのは祖型の一翼を担った貝輪の研究の深化です。今後の展開の肝心な部分はこれらふたつかな、と、真面目に思うところです。

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