私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

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西相模考古22号の予告

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東の庭の薔薇も咲き誇り、ようやく春も本番かと思いきや、本日夕方、丹沢山麓は猛烈な風と雨に見舞われました。この記事を書いている午後11時過ぎになっても雨は止む気配がなく、外には一歩も出る気がしません。

さて表題のとおり、わが西相模考古学会誌の宣伝です。さきほど西川修一さんから送られてきたpdfファイルをカットして貼り付けます。編集はもちろん立花実さんです。「わが」とはいっても、じつのところ私はほとんど幽霊会員ですが、こういう特集記事となると俄然やる気になってしまうという、いわゆる嫌みで目立ちたがり屋の役回りです。

前回の関連記事でもお伝えしたとおり、【企画論集】「東日本の古墳出現期をめぐってー出現期古墳見学会の成果と展望 沼津市高尾山古墳を中心にー」には、24名の研究者(西川さんと私を含む)が小文を寄せてくれています。

西川さんがおっしゃるとおり、そして業界人の方々であればすぐにおわかりのとおり、たしかに蒼々たるメンバーが揃っていることに驚かされました。前回の記事では関東在住の…と記述したような記憶もありますが、完成した目次をみれば、関西や北陸などからの寄稿もありますので、全国的展開になっているのです。この点にも驚かされました。

もちろん内容に関し事前の摺り合わせなど一切ないものですから、たとえば私の示す見解と、真逆の見解をどなたかが書いていらっしゃる、ということも充分に予測されます。ようするに読者にとってみれば、誰の記述がもっとも妥当か、だれのはその逆か、というようなジャッジ観を味わえる特集になっているかもしれません。

本号の中核となる【論考】は、会長の岡本孝之さんの「江戸時代の橋場型石斧」と、斎藤あや・田村朋美ご両名の「小田部古墳出土のガラス玉の再検討」の2本建てです。さらにお馴染みの方も多いと思われる【おまけ】には、伊丹さんの「東北生活2012」と、立花さんの「編集秘話」がしっかりラインナップされています。

雑誌の値段を聞くのを忘れていましたが、本文230頁超で2.000円です(値段について、昨日の記事を訂正いたします。pdfを確認したら、しっかり付いていました。ここに訂正いたします)。

来週末から始まる日本考古学協会の総会会場で発売されます。内容的にも分量的にもお買い得感が満載です。高尾山古墳に興味関心のある方、または論考に興味を抱く方々、さらには常連の方々も、どうぞご購入のほどをお願いします。

さんざんな「話題作」

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先にアップした考古学研究会総会の初日に行われた懇親会の席上、幾人かの方から、私の近著「東の山と西の古墳」に対するコメントを頂戴しました。それが散々な“評判”でした。悪評に包まれている、といった方が正確なところのようです。

大阪市立大学の岸本直文君からは「読みましたよ…!」だけ。後は微笑みで終わり。先の記事で紹介した仙台市の斎野さんからは「10年前のH君はもっとさわやかな印象だったのに、今回の論文には清涼感がない!年配者が書くようなテーマで魅力に欠ける。それよりも沖縄の話の方が面白いから、そちらの方を早くまとめてよ!」との厳しいご指摘。この「年配者」云々の一見奇妙にも響くコメントは、2005年に刊行された『縄文ランドスケープ』が下地になっているからだと受け止められます。天体の運行と縄文遺跡の位置関係を点検した著作で、関東・東北在住の研究者にはなじみ深いはずだからです。その著作に対する学界の大筋での評価を布石にしたコメントであることは、容易に推察されました。沖縄については、ごもっとも、としか言いようがありません。

痛いところを突かれましたが、このように頂戴したコメントのほとんどは悪評でした。岡山大学の新納泉さんも、意味深な微笑みを私に向けるだけだったし。いっぽう長くNHK解説員を務められた瀬戸内港町文化研究所の毛利和雄さんからは「今回の論文は『季刊考古学』とを併読してみれば、Hさんの主張の概要を理解できるでしょう。しかし東遷説のにおわせなど、定説とは異なる多くの含意や仕掛けが眼につきます。ですから国家論を含めた体系的な議論に早めにもってゆかないと、現状のままでは誤解を生みかねない危うさを伴っていますよ」との趣旨の、真に丁寧なご忠告と励ましのお言葉を賜りました。ご指摘のとおりかもしれません。

ただし奈良文化財研究所の石村智君からは「私もこのテーマには興味を抱きます」との、彼ならではのニュートラルで旗幟を控えたコメント。大阪文化財センターの井上智博君からだけ「今回の論文は面白かったです!非常勤をやっている大学の次回の授業で使わせていただきます」との高評価が与えられました。唯一の慰めです。しかし井上君は岡大の後輩ですから、身内贔屓の気配がないとはいえません。

そして最悪だったのは2次会での会話。K大学のS君からは「Hさんの論文を、ここで話題にしてよいものか、今まで迷いに迷いました」で始まり「今回の論文を『考古学研究』はよう載せたな、と心底驚きましたよ」で終わる辛辣なコメント。別のK大学のS君にいたっては「こんなHさんだけの妄想を…よう、そのまま書くわ!それに『始祖霊の住み処』なんて用語、普通の感覚では絶対に使用しないでしょうが!」との捨て台詞。身近な後輩諸君ならでは、の歯に衣着せぬ批判でしたが、大方の雰囲気を代弁してくれたのかもしれません。なお前出のS君からは、中沢新一氏が私の主張と関連する議論を展開しているとの貴重な情報を教えられましたし、後出のS君とも学生時代からの因縁ですが、終始和やかな雰囲気であったことを申し添えます。台詞の紹介だけだと、凄まじい雰囲気だったかに誤解されかねないようです。

さらに岡山県教委の宇垣匡雅さんからも、目立つ誤変換を指摘され「緊張感をもって読んだのに、これでは台無しだろうが」との厳しいご指摘。この点については弁明のしようもなく、誠に申し訳なく思います。次号での訂正を依頼します。

加えて翌日、会場を辞す直前に前夜の話題を振ってみところ、岸本道昭さんのもとには、「なぜあのような論文を掲載したのか」という問い合わせ、苦情、重大な疑念が刊行直後から寄せられていることを知りました。なかには「これ、考古学の論文なの?」との根源的な疑念の声さえあったそうです。大久保徹也さんにいたっては「あなたに今更何を言っても聞かないだろうし…」との諦め口調。山本悦世さんからも「だから方法論をもっと丁寧に説明しないと…」とのご忠告を受けました。でも20頁に収めつつ主張内容を展開するためには相当圧縮しないとしょうがなかったのです。

ところで、この場を借りて事実関係を弁明しておきます。拙著が『考古学研究』に掲載されたのは、私が2012年度まで長らく常任委員であったがゆえ、ではありません。身内贔屓では決してなく、むしろ常任委員からの投稿原稿だからこそ、慎重に慎重を期しての査読を経ましたし、掲載に関わる審議も(私はそのとき退席させられた形で)厳正に行われたはずの、その結果です。

常任委員からの投稿論文であっても、手続きは他の投稿論文とまったく同列に扱われ、複数の査読者(もちろん、査読者が誰か私は知りません)の判断に依拠しつつ、平均10ヶ月をかけて採否が決せられているのです。今回の拙文についても9ヶ月でした。こうしたプロセスの公正さには、特に気をつかっています。このことだけは是非とも申しあげておかねばなりません。

さらに複数誌での査読経験からいえば、査読者からの評価は4段階程度に分かれます。最上位は「即掲載可」、最下位は「返却が妥当」であり、中間に「要修正」が程度に応じてはさまります。双方の査読者の評価が揃っていれば査読を完了し、評価値が大きく異なる場合には第3の査読者を立てて再度評価を依頼することになります。編集担当の委員のなかからも専門分野の近い研究者が熟読します。査読者や熟読者は、当然投稿論文の本文内で示された先行研究や、著者の関連文献に逐一当たります。

特に論拠となる重要な部分については、相当入念に点検します。その上での評価ですから、査読というのは非常に疲れる作業ですし、加重な負担となります。こうした査読を終え、著者からの再提出を受けるという手続きなのです。

そのうえで、考古学研究会の場合には常任委員会の審議を経て最終結論が出されるのです。この間の手続きに要する時間が、上記の平均10ヶ月となるわけです。私の場合にどのような経過を経たのかについて、もちろん委細は知らされていません。査読者からの修正要望意見や、編集委員会からの要点検事項が細かく知らされたうえで、私から再度原稿を提出し、受理されました。

そのことから推測しますと、私の投稿論文については、最上位から2番目の評価というところで一致した可能性があるものと推察されるにとどまります。拙著の末尾に記された「2012年11月10日受理」との記載は、査読から微調整、再提出を経て、最終的に常任委員会で「掲載可」との結論が出た日付です。このような経緯であることを改めて記しておきます。

ですから、この間の経緯を別の側面からみれば、常任委員会や編集委員会の裁量権が、じつはあまり発動できないシステムであるともいえるでしょう。ようするに査読を通ってしまえば、編集委員会はもとより常任委員会で、その査読結果を覆すことなど不可能に近いといえるのです。

さて本題に戻しましょう。岸本さんからは「Hさんも当然厳しい反論を予想されているでしょうから、論争が誌上で活発になれば、それは会としても歓迎すべきことです」との、さすが代表委員ならでは、のコメントをいただきました。しかし即座に大久保さんから「でも論争は紳士的かつ生産的な方向でよろしく!」との補足が入りました。旧友というのは、これだから困ります。ともかく今後誌上での論争が展開されるのであれば、私にとっても大歓迎です。

そのような次第で、本ブログの読者のみなさまのなかに、拙著への反論執筆を希望なさる方や、今後繰り広げられるであろうと予期される論争に関心をお持ちの方がいらっしゃれば、さらにそうお思いの方の中に、まだ考古学研究会に入会なさっていない方がいらっしゃれば、是非入会をお願いします。

私もすでに常任委員ではなく一会員ですし、論争は本誌上で繰り広げられることになりますから。考古学に興味のある方であれば、「専門家」でなくとも自由に入退会可能な考古学研究会です。前身は「私たちの考古学」。敷居を取り払いつつ、学術水準を高度なところに維持したいと願いつつ運営されている学術団体です。委細は同会のHPなどでご確認ください。

そして学生の皆さんには、在学中だけでも構いません。入会を強くお勧めします。年会費3,200円で4冊が自宅に届くのですから、出費は比較的安いはずですし、なによりも今回の私のケースと同じく論文や研究ノート、さらには展望記事、会員通信などへの投稿権が手に入るのです。今年の松本建速さんや寶満君のように、ポスターセッションへの参画権も自動的に与えられます。

そうした参画権をもつ、あるいはそのような権限を保持しつつ会誌を読む、という日常生活、それが専門家への第一歩でもあるのですが、そのような生活を一度体験してみてはいかがでしょうか。もちろん投稿論文には査読というハードルがあります。そのハードルは決して低くはないものと思います。しかしみなさんの卒論や修論を『考古学研究』誌に投稿する権限も与えられるのですから、チャレンジしない手はありません。ネット上で発信される「言葉」と活字とでは、実感において次元の異なる意味をもつことを体験していただきたく思うのです。

もちろん、みなさんの大学で『考古学研究』は、ほぼ例外なく定期購読されている学術誌のひとつでしょう。ですから大学に出向いて関心のある記事だけを拾い読みすることも可能です。私の勤務校でもそのような環境を整えています。

しかし現在は、そうした環境が今後保証されないかもしれない、危機的な情勢へと着実に向かいつつあることも事実です。会費収入によって刊行が支えられている学会誌ですから、会員数の減少が下げ止まらないことには、会誌の刊行が危ぶまれる事態になるのです。会費の値上げになることは是非とも避けなければなりません。最悪の負のスパイラルに陥ってしまいます。ですからこの際、喜捨という意味でも構いません。今持ち直さなければ、今後が本当に危ういのです。

そのようなわけで、さんざんな悪評のもとにある拙著「話題作」を起点に、これから予期される論争の展開が、会員の増加につながればなによりかと思います。

ちなみに最上段の写真は西山古墳の前方部から後方部を見たところ、中段は「南の中心軸線」の起点であると私が考える百舌鳥古墳群中の石津ヶ丘古墳(履中陵)、下段の2枚は北緯34度33分17.2秒ラインの現状を写したものです。

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去る4月20日と21日に岡山大学で開催された表記の学会、例年どおり参加してきました。総会では、会員減が止まらない状況への打開策として、大幅な緊縮財政を打ち出すことが提案されました。一時は5000人を越えた会員数も、今は3000人台半ば。毎年100名以上の減がつづいています。こうした危機感を前に議論は予想以上に白熱し、会場はのっけから緊張感に包まれました。

今年はかつて考古学研究会の運営の中枢にいらっしゃった春成秀爾・小野昭両先生がお越しでしたので、御両名から厳しい質問が矢継ぎ早に出され、庶務委員長の大久保徹也さんが終始答弁に追われる展開。応答の様子を聞けば、現常任委員会が現在の事態に決して手をこまねいているのではないことを参加者に印象づけることになった、とは思います。大久保さんには心から「お疲れ様」と申しあげます。

ただし学会の根幹は魅力的な会誌であることも間違いなく、春成先生のおっしゃるとおり、読み応えのある会誌を今後とも刊行し続けることが、やはり肝要だと私も考えます。この点に関し、この2年間の震災特集は、本会の魅力をアピールすることになった企画であったと思います。同様に論文の方も、読みやすく充実したものにさせたいと思う次第です。なお最新号に掲載された拙著「東の山と西の古墳」への反応については次の記事で紹介したいと思います。

さて20日の小野昭先生の講演「現代社会と考古学の交差」は、先生の語調や、登場する用語も引き合いに出される実例も含め、確かに30年前に受けた授業もこんな感じだったなあ、と非常に懐かしく思わせるものでした。my historyかyour historyか、the historyか、との問にどう向き合うべきかという設問に対し、小野先生らしく一直線で取り組む姿勢を前面に打ち出された講演だった、ともいえるでしょう。2008年には先生から誘われ「歴史は誰のものか」と題するシンポジウムに招かれたときのことを思い出しつつ、です。

あのとき、私は設定された共通テーマの方向性をひねり「歴史は農耕民の専有物である」との報告を行いました。その成果は『メトロポリタン史学』第7号に「歴史を領有する農耕民」と題し掲載されています。パネラーのひとりとしての私が、他の面々からいかに浮いていたかを如実に示すものです。とはいえ時制を現在に置くと、設問はとても難解になってしまうので、あのようにせざるをえなかったし、当時は歴史が与件であるという私たちの感覚自体を相対化できないか、との思索に浸っていたものですから、その素直な思いを表明してみたのです。あのときの小野先生の困った表情をひとり思い出していました。

次の斎野裕彦さんによる「自然災害と考古学」と題する報告は、地道で着実な実践に裏付けられているだけに、聞き応えのある見事なものでした。学問的にも行政手腕についても「やり手」という形容は斎野さんのためにある、といっても過言ではないように思います。逐一納得させられる内容でしたし、今後の埋蔵文化財調査の指標として学ぶべき点は多いと思いました。

翌21日の坂井秀弥さんの報告は、文化庁の主任調査官を経験された当事者ならでは、の説得力に満ちたものでした。実体験に裏打ちされた報告だからこそ醸し出される言葉の重みなのでしょう。小野先生と同様、パワーポイントなどを使用しない、言葉と表情に依拠した講演でしたが、そのトラッドさが逆にダンディーさを誘うのでしょう。恥ずかしながらエンターティナーを志向する私には、そのような自信はありません。

つづく吉井秀夫さんの「朝鮮古蹟調査事業と『日本』考古学」には、大いに学ばされました。吉井さんには同成社の『古墳時代の考古学』第7巻でもお世話になりましたが、日本の植民地時代を経た朝鮮半島の人々にとっての考古学史が、いかに重い問いかけを伴うものであるかを紹介されただけでなく、日本考古学界にとっても、あのときの経験値がその後に与えた影響には多大なものがあることを主張され、逐一納得させられた次第です。

私は午後から倉敷考古館にお邪魔しなければならなくなったので、吉井さんの報告を最後に会場から抜け出しました。ですから、その後の方々の報告は聞けていません。ただし今回の総会報告は、私にとって学ぶところ大でした。

入り口で大久保さんと代表委員の岸本道昭さん、それに編集委員長の山本悦世さんにご挨拶して会場を離れました。その場での会話の中身も次の記事で紹介します。

ポスターセッションには松本建速さんや、松本研の院生である寶満君も参加しており、東海大学からの積極的な参画を実感させられるものでした。

それはそうと、今年の気候はどうなっているのでしょう。冬に戻ったかのような、風の冷たい岡山でした。

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昨日16日は、青山学院大学で開催された沖縄防災環境学会シンポジウム「発掘調査が証す歴史津波の実態」に行ってきました。明和大津波による災害痕跡の実態把握を目指す、考古学と防災科学の共同研究会でした。

会場が青山学院大学になった理由は、三上次男先生が宮古島の友利元島遺跡を発掘調査されてから今年で40年になる、という事実と、その遺跡で明和大津波の津波堆積が発見されたという「由来」にちなんでのことと伺いました。

沖縄県域で現在確認されている同津波堆積(災害痕跡)は大きく分けて3遺跡。先の友利元島遺跡が最北端で、この遺跡は宮古島の南東海岸付近にある先島先史時代後期から近世までのもの。ここでは海岸砂丘上に多量の枝サンゴや貝殻を含む堆積が検出されています。

次は石垣島東部の新空港予定地近隣の嘉良嶽周辺。嘉良嶽東貝塚、嘉良嶽東方古墓群、盛山村跡、白保竿根田原洞穴遺跡の4地点です。ここでは地震によって生じた地割れの内部に多量の枝サンゴや貝殻類が充填された状態や、それら地割れ痕を完全に被う、やや構成粒子の細かな枝サンゴや貝殻片の堆積(嘉良嶽東貝塚の場合)などが確認されています。石垣島の東側海岸一帯は、津波の波源にも近く、甚大な被害を被った地区ですので、巨大な津波石が点在する様相とともに、実際の遺跡調査で、津波堆積が確認されているのです。

そして最後は西表島西部の網取遺跡となります。近世前半に造成された水田遺構が厚いシルトで被われた時期判定の結果と、同村に残された津波伝承との一致から、同津波に関連する堆積の可能性を想定したものです。

当日の考古学側からの報告は、それぞれの遺跡を実際に担当なさった盛本勲さん、久貝弥嗣さん、山本正昭さん、の3名の研究者でした。テーマの重要性だけでなく、どなたもよくお世話になっている方でしたから、これは聴かなければならないと思い、参加した次第です。このシンポが開催されることは、浦添市教委の安斎英介君がメールで教えてくれました。安斎君にも感謝です。

上記3遺跡のなかに、私たち東海大学が調査を実施している網取遺跡を加えていただいた盛本さんや山本さんにはありがたく思います。ただし網取遺跡については、他の2遺跡と異なって、現時点では埋没年代による推定に止まるという限界を抱え込んでいることです。波源の裏側へと回り込んだ津波によるものである可能性が高く、そのシルト層が津波関連堆積であることをどう実証するかという課題が残されています。

また、今回のシンポジウムでは、明和大津波以前の津波堆積が現存するか否かも話題となり、その解明が急がれる状況であることも学ばされました。

真に有意義なシンポジウムでしたし、コメントに立たれた青山学院大学の手塚直樹先生が上映されたスライドのなかには、内離島への船を操る青年時代の池田さんが写っていたのには驚きました。青年米蔵さんの写真と、青山学院大学で対面することになろうとは思いもよらず。歳月の流れを実感させられ、感銘を覚えました。

先月の24日には、鎌倉にて災害痕跡のシンポジウムが開催されましたし、考古学的調査の重要性も認知されつつあるものと感じます。

ただし昨日は、考古学関係の諸行事が重なっていたこともあったようで、会場への参加者が少なかったように思えたのが、少しばかり残念でした。

なお写真は、石垣島東部に点在する「津波大石」(大浜津波大石)です。巨大な珊瑚が根こそぎになって浜に転がり上がったものと推定され、放射性炭素年代測定が実施されています。脇にN谷君が立っているので、大きさの目安になるものと思います。そこから海岸に出てみると、さらに異様な光景が眼に入ってきます。大小の津波石が点在する様は、言葉に言い表せない衝撃を与えます。

島嶼部考古学の集い

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記事のアップが前後しましたが、去る3月4日と5日の2日間にわたり、関西外国語大学を会場にして表題の研究集会が開催されました。

慶応義塾大学の山口徹さんからのお誘いを受け、私は西表島網取遺跡での調査状況や今後の課題について報告させて頂くことになりました。網取遺跡の調査は、近森正先生の『サンゴ礁の景観史』(慶応義塾大学出版会)に学びながら調査を進めてきたという経緯がありますし、お弟子さんでもある名島弥生さんの助言を受けつつ貝塚調査を進めてきたわけですから、素性はともかく、私はいわば近森先生の「隠れ孫弟子」筋。そんなこともあって、直弟子の山口さんからのお誘いとなりました。

1日目は山口先生と環境研の山野博哉さんからの報告。山口先生の石垣島での環境史復元は、さすがに入念なデータ収集と解析に依った緻密な研究戦略をとられていることを教えられました。またサンゴ礁の専門家である山野さんの報告は「地球温暖化によるツバル環礁水没」問題の実態解析でした。要するに人口増や湿地開発など複合的な要因が絡んでいて、単純な海水準の上昇ではないことを教えられました。

2日目は、私の発表と沖縄県立博物館の片桐千亜紀さんの発表、それに関西外大の片岡修先生によるジャワ島とポンペイ島の発掘調査概要報告でした。片桐さんの報告は、どの学会でも聴衆の興味を惹きつけるとのもっぱらの噂(たとえば近世考古学の学会で、妻は片桐さんが報告されるときには絶対に逃さないという)ですが、その噂に違わず、狩猟採集経済段階における具志川島の特性に焦点を当てた、みごとな研究成果を紹介してくださいました。目から鱗とはこのことをいうのでしょう。きわめて魅力的な仮説でした。少し見方を換えれば八重山にも充分に当てはまると思いました。

さらに片岡先生の報告は、出土遺物を実際に手にとって見せていただけたこともあって、興奮させられました。要するに非常に充実した研究集会でした。発表者を除く参加者は4名という、ごく小規模な集会でしたが、個人的にはきわめて有意義かつ充実した会でした。

島嶼部に照準を絞った考古学・人類学・文献史学・民俗学の領域横断的な研究会が出来上がればきっと楽しいに違いない、そう確信させられた機会でもありました。若手の研究者も育ちつつあるようで、今後が楽しみです。お誘いいただいた山口さんに感謝です。

余談になりますが、2010年の夏には、吉留秀敏さんにも網取遺跡に来ていただき、調査現場の様子をご覧頂けました。このことは、唯一の恩返しになったかもしれないと今になって思います。吉留さんが息を引き取られたという時刻に、ちょうど私は本研究会で網取遺跡の調査成果を報告中でした。

吉留さんは、旧石器や古墳の専門家というだけでなく、初期水田の専門家でもありました。特に灌漑施設には造詣が深く、三苫永浦遺跡の溜井灌漑や元岡遺跡の溜池などは、調査現場で直に教えていただきましたし、吉留さんが解明された3パターンの用水路のありかたは、網取遺跡の調査でも常に参照させていただきました。さらに明和大津波の問題を現場で議論できたことを思いますと、吉留さんに与えて頂いたさまざまなヒントを、よりよく活かす責務は私にあることを再認識させられてもいます。


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