私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

学会・研究会

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第17回東北・関東前方後円墳研究会は、2012(平成24)年2月18日(土)〜19日(日)の2日間、神奈川県横浜市都筑区の横浜市歴史博物館 講堂にて、西相模考古学研究会と共催で実施することになりました。

シンポジウムのテーマは『東日本における前期古墳の立地・景観・ネットワーク』です。

2000年に三浦半島の基部で発見された逗子市・葉山町長柄桜山古墳1号墳と2号墳は、相前後して築造された全長100mクラスの前期前方後円墳です。2号墳からは相模湾や富士山まで一望でき、近接する1号墳も丘陵頂部に位置し、古くは奥深くまで湾入していたと思われる逗子湾を眼下に望み、かつ遠く東京湾をも視界に含むといった立地・環境にあります。

両墳はこの10年間の調査の進展により、少しずつ内容が明らかにされつつありますが、なかでも「交通と物流の結節点」と深い関係にあることはその理解のベースであり、なぜ両墳がここに築造されたかを分析することは、当該期の社会構造の一端にアプローチすることでもあると思われます。

また当該期は首長墳としての定型化した前方後円墳が、広範に東日本各地に定着する時期でもあり、これらの中には長柄桜山古墳群と同様の立地や景観が類推されるものが多く存在します。まさに古墳時代前期の列島東部では、必要財の流通や情報ネットワーク網の掌握がエリート層の存立基盤と深く関わっていたと推察されます。

今回の研究集会では、列島東部の前期前半の首長墓クラスの前方後円墳とその立地・景観とネットワークを分析し、往事の社会構造の一側面に迫りたいと考えています。

2月18日(土)
●2011年度総会 11:00〜12:00 (会員のみ)

●シンポジウム『東日本における前期古墳の立地・景観・ネットワーク』 13:00〜
1)趣旨説明  北條芳隆(東海大学)  13:10〜13:50
2)報  告  
①事例報告 14:00〜14:40  山口正憲(葉山町教育委員会) 「長柄桜山古墳群の調査成果」
②基調報告 14:40〜15:20  佐藤佑樹(富士市教育委員会) 「駿河湾岸」
③基調報告 15:20〜16:00  伝田郁夫(大田区博物館) 「東京湾東岸(南武蔵〜多摩川下流域)」
④基調報告 16:00〜16:40  田中 裕(茨城大学) 「太平洋沿岸(房総東岸〜茨城県東部)」
懇親会

2月19日(日)
⑤基調報告  9:30〜10:10  稲木章宏(木更津市教育委員会) 「東京湾西岸(上総を中心に)」
⑥基調報告 10:10〜10:50  柳沼賢治(郡山市文化財C) 「東北南部(福島県浜通り〜名取)」
⑦基調報告 10:50〜11:30  深澤敦仁(群馬県教育委員会) 「関東北半部(内陸部)」
⑧基調報告 11:30〜12:10  小黒智久(富山市教育委員会) 「日本海沿岸(北陸)」

昼 食 12:10〜13:00

3)討  議 13:00〜16:00
〈司会〉西川修一・北條芳隆

以上、事務局の西川修一さんからお送りいただいた開催要項とチラシを公開します。

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12日土曜日は、久しぶりに岡山大学に顔を出し、考古学研究会の常任委員会と午後からあったシンポジウムに参加してきました。

行きの新幹線では岩国駅で発生した信号機の故障のためとかで、姫路から先は新幹線の大渋滞となり、予定時間を1時間オーバーしての到着。急いで津島へタクシーで向かったら、いつもの法文棟は全館工事中で会場がわからず迷子に。非常事態とばかり幹事長役の大久保さんの携帯に電話して会場を教えてもらおうとしたら「….もう議事は半分以上終わったよ」と、冷ややかな返答。遅れた私が悪いのですが、その後の会議でも、KY(というらしい)状態の私に、終始彼からはお叱りを受ける展開でした。

さて今回のシンポジウムですが、若い世代の研究者3名が、吉備と近畿と出雲のそれぞれの弥生墓を論じてくれました。藤井整「墓制から見た近畿弥生社会の変化」、坂本豊治「山陰における弥生後期の墓制ー特に四隅突出型弥生墳丘墓を中心に」、河合忍「吉備弥生社会の特質を考えるー墓・集落の検討から」が報告で、その後は高田健一君(鳥取大)と松木武彦さん(岡山大)のコーディネートでシンポジウムが展開されました。

3報告共に、意欲的で興味深い内容でした。中でも私が印象づけられたのは「墓制から見た近畿弥生社会の変化」と題する藤井整氏(京都府教委)の報告でした。彼の方形周溝墓の研究にはかねてより注目していたのですが、今回も綺麗な図式のなかに弥生後期から終末にかけての北近畿地方の展開を位置づけ、拡張3類(血縁原理の下で、被葬者数を増やすことによって族内での優位性を表現する型)に赤坂今井墳丘墓も含まれることを強調されました。

藤井さんの把握法は、例えば小児埋葬を含むか否かを階層分化の指標にすることなど、溝口孝司さんの分類に共通するものがあり、近畿と北部九州の動向をパラレルに把握可能な点でも有用だと思います。小児棺のサイズの変化に着目している点も興味深く感じました(3段目の写真)。要するに、近畿弥生文化や墓制の展開過程の中からは、前方後円墳が生み出されるような変化の要素は認められず、むしろ変化を拒絶する保守性や持続性が顕著であるという趣旨の報告でした。私にとっては非常に有り難い援軍。要するに近畿の弥生社会は「国家に抗する社会」であり、階級社会を拒絶する共同性が終始維持された、そういう状況だというのです。

そして、こうした主張にも会場から異論はだされず、近畿側の代表としてコメントに立った若林邦彦氏(同志社大)からも「近畿の弥生文化をどこまで掘り下げても、けっして古墳時代への展開はわからない」との趣旨の発言が飛び出してきました。いいかえれば吉備地域だけは例外だということになります。古墳の出現に関し、大和主導説をめぐる雲行きは、弥生研究者の中では大きく変わってきたようです。いいかえれば、若い世代の研究者層は、資料の実態を忠実にみつめるようになってきた、ということなのかもしれません。

ただし、今回吉備地域を取り扱った河合忍氏(岡山県古代吉備文化センター)は、楯築弥生墳丘墓の出現や木槨の導入について「偶然性」を強調されてもいました。勾玉や棗玉については北部九州からの入手である可能性が高いことを考慮しつつ、です。こうした「偶然性」は、大賀克彦さんが最近強調する、弥生後期から終末機にかけての墳丘墓で認められる副葬品の基本的性格論を強く意識してのことだと推察されます。先の藤井さんも副葬品については同様の理解をとっているのが印象的でした。となると、偶然性の累積や蓄積が吉備地域には顕著であり、近畿や山陰には顕著ではない、という道筋で当該期の事象を整理し直さなければならない、との提言だとも受け止められました。そうなると、偶然性が必然性に転換する過程として前方後円墳の出現を議論すべき段階に来ている、ということになるのかもしれません。

がもう一方で、偶然性をあまりに強調し過ぎると、やがて卑弥呼がイニシアティブを握ることになり、畿内が中枢になった原因も、たまたま魏王朝からのお墨付きを受けることに成功したからだ、という「偶然性」の産物としての解釈に誘われかねない危うさを、同時に感じ取らざるをえません。吉備側から厳しいコメントを出した宇垣匡雅さんと河合さんとのやり取りを伺いながら、そのようなことを考えさせられた今回のシンポジウムでした。

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イベントの多かった10月もようやく終わりました。9月後半から行事が目白押しで、なんとか乗り切れた感があります。しかしようやくシーズン前半の山場を越えたというところでしょうか。来春2月に予定している「関東前方後円墳研究会」(逗子が会場)まで、後半のイベントが続きます。

明日から始まる11月中に私が参加するイベントの代表格は、表題のワークショップとなりそうです。さまざまな経緯から、次回の東京会場では、私がパネルディスカッションのコーディネータを仰せつかることになりました。
                  
                 http://rarcom.lib.shimane-u.ac.jp/

昨年の12月に阪大での講演をお受けして以来、私設応援団を買って出ることになり、はたまた『考古学研究』3月号の展望記事などで物議を醸しつつ今日に至るのですが、次回はどのような討議を誘ったらもっとも生産的で、かつ参加者に楽しんでいただけるのか。これから開催日まで、色々な方面からのご意見を物色して回ろうかと思います。なお全国遺跡資料リポジトリの推進者であり、事務局を担当なさっている島根大学学術国際部図書情報科の昌子さんと福山さんのご意見については、『考古学研究』9月号(58-2、通巻230号)に掲載された「座談会『発掘調査の手引き』その後」の中の「デジタルデータの保存と利用」(福山栄作・昌子喜信著ー106頁〜108頁)をお読みください。本プロジェクトの意義や必要性が非常に分かり易く書かれています。

要は本プロジェクトが文化財保護行政サイドに認知され、参画していただく道都府県をいかに増やしてゆくか、です。今回東京での開催が計画されたのは、もちろん関東地方への周知化をはかり、参画していただく都県を増やしたい、との切なる願いが込められているからであろうと推察されます。というのも関東地方の現状は、目下茨城県のみの参加にとどまっており、誰の目から見ても心許ない限りだからです。

私の地元神奈川県教委だって、担当者に話しはしてみたものの動きはなく、完全に様子見を決め込んでいるように見うけられ、残念です。今後、福岡市のような覇気ないし主体性を発揮されることに期待しましょう。

とはいえ、行政ばかりを責めるわけにもいきません。関東各地の自治体と地元国立大学との関係は、また国立系博物館との関係は、関西方面のような訳にはいかないようで、課題は山積です。むしろ関東地方の場合は、国立系より私立の伝統校の方が、受け皿としての寛容性も許容性もありそうに思います。

ポスターのセンスも良く、なによりです。しかし開催日が11月26日とは…..トホホです。

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この二日間を総括すると表題のようになります。初日は記念館でのシンポジウム。明治42年築といわれる重要文化財のなかで、私は奈良盆地内の噴砂の確認事例紹介から入って、後半は西表島の津波被害とその後の人口停滞がどのような関係にあるのかを話させていただきました。

もちろんメインスピーカーは地震学の権威尾池和夫先生(元京大総長・現国際高等研究所所長)でしたので、参加者も多く盛会でした。NHKのカメラも入り、夕方にはニュース報道もされたようです。

また西谷地さんの報告は、奈良盆地の東縁を南北に貫く活断層の今後30年間に動く可能性についての話。西谷地さんは警鐘を喚起させる趣旨で取りあげられましたが、私は、それが大和東南部古墳群をもろに縦断する事実を知って驚かされ、その意味するところはなんだろうか、などと考え込んでいました。

会場となった木造の講堂は、それは格調高い雰囲気に包まれており、座席も木製の長椅子。そこでの講演となれば、自由民権運動の際の演説はこのようなものではなかったかと、想像をかき立てるものでした。とはいえ、現実にはパワーポイントを上映しつつマイクで話しをする形態でしたので、想像した映像とは異なって少しミスマッチ。こんな雰囲気の会場なら、一度でいいから扇子を右手で握りしめながら大声で演説をぶってみたい、と思わせるものでした(デジカメの充電をし忘れていたため、会場内は撮影できず終いでした)。

翌日の今日(記事を打ち込んでいる間に日付が替わったので昨日)は、保立道久先生と小路田さんとの3名でのシンポジウム。3名ともに火山と神観念の対応関係の話。私は先日アップしたレジュメに沿って、雲仙と吉野ヶ里の関係は、漢魏洛陽城の配列関係からの影響であると捉えられ、そうなると雲仙は天界の象徴としての意味づけになることと、北部九州にはそうした外来の神観念がいち早く入り込んできたものの、その後倭王権の時代になるとなぜ天界の象徴が黄泉国と交錯してしまうのかを論じた次第です。

保立先生は、神話に登場する場面には、火山の光景を基本モチーフとして描くものが多い事実を指摘なさり、それゆえにタカギムスヒもスサノウも火山や地震の神としての性格を有することを論じられました。特に日本や朝鮮半島で類似したモチーフが共有されるのは、ともに火山を抱え込んでいるという共通の環境によるものであろうとのご指摘は、なるほど、と納得させられました。

小路田さんの報告は相変わらずの小路田節で、徹底的な演繹法の議論。過去認識をめぐって180度見方を変えた現在の歴史学が今後どうあるべきかを論じた基調報告から、農本主義の本質はなにか、という独自の視点にもとづく切り込みに即して神観念の三層構造を語ってくださいました。

今回は奇しくも3名ともに神観念については新旧の、あるいは土着と外来の重層構造としてとらえる点が共通しており、響き合うものが多かったと感じました。それにしても保立先生は私の拙文をじっくり読み込まれており、参照してくださったのには恐縮しました。考古学界の内部では完全に無視されているのに、心から有り難く思いました。

写真は2日目に会場に来てくれたN谷君撮影のもの。メールで送ってくれました。今回も彼のおかげです。上段が一日目の会場であった記念館。3段目の写真の中央が保立先生、右端が小路田さんです。

しかし小路田さんほど右手に扇子が似合う方も少ないのではないかと、今回も改めて感じさせられました。ようするにカリスマなのでしょう。そして二日目のシンポジウムの方が、内容的には記念館を会場に語るのが相応しかったに相異ない。そう思った次第です。

 

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上段のポスターをご覧になれば、表題の意味をおわかりいただけるかと思います。今週の週末22日(土)には、奈良女子大学記念館を会場に、自然災害から古都奈良を守るための学術的シンポジウムが開催されます。

が、しかし、講演の最後には私が登壇し「地震考古学の立場から」との演題で話す予定が記されているのです。地震考古学といえば誰をおいても寒川旭先生でしょうし、古都奈良の防災を考古学の立場から考える方としては、適任者が多数いらっしゃるはず。間違っても私の名前が候補にあがるはずはない、と誰しもが思うところです。

しかしながら昨日の記事の内容に引き続き小路田さんにやられたというか、私の前に講演をなさる中世史の西谷地晴美さんに引きずり込まれた?というか、こういうことになりました。想定外の事態です。

要は西表島の調査で津波痕跡云々をブログで記述していたことが西谷地さんの目にとまり、西谷地さん経由でそのことを知った小路田さんは、どうせ翌23日の古代史シンポジウムのためにf-manは奈良に来るわけだから前日の面子に加えてしまおう、と画策された模様。昨日の記事でも紹介した小路田さんからの携帯電話の際には、当初「後のディスカッションの際に10分程度で若干のコメントを」との依頼でした。軽い気持ちでお受けしたら、数週間後の電話で「その後の準備会で君のコメントは本格的な講演に格上げされたからよろしく」とのこと。しかも「個別事例の紹介ではなくて、是非社会構造や変化の観点から話してね」との難しい注文。

私に振られても西表島における津波痕跡の話しかできないので、奈良の問題とも無理矢理関連させながら話を組み立てるしかありません。まあ、小路田さんご自身がパネルディスカッションの司会なので、後はお任せするだけです。とはいえ本日、N谷君がネットを覗いてみたら、非常に格調高いポスターが奈良女のホームページ上で公開されていることが判明。このポスターを見るにつけ、改めて場違い感を実感させられています。真に冷や汗ものですね。まあ年に2回しか公開されることのない貴重な文化財でもある奈良女の記念館に立ち入れることは、唯一の楽しみだといえるでしょうか。

そんな訳で、先ほどまで大学でN谷君に手伝ってもらいながら資料作成を進めてきました。下段のグラフは明和大津波(1771年発生)による耕地被害状況です。オレンジ色が畠で緑色が水田、棒の高さは被害の高さを示しております。N谷君の力作です。一目瞭然、被害を受けた耕地の大半は畠であったことがわかります。こうした特性が、その後の復旧を困難にさせ、放棄地を生みだし、人口推移を停滞させた要因であった可能性を考えています。

ついでに、といってはなんですが、昨日に引き続き、出来上がったばかりのレジュメをアップすることにします。ご注文に応じた題目とし、気づいた項目を列挙してみましたが、すべての項目を話してたら20分の講演では絶対に収まらないでしょうから、これから力点の置き場所を考えます。
小路田さん、西谷地さん、もしこの記事をご覧になったら適宜アドバイスを下さい。題目も内容も、いかようにも替えられます。パワポのデータを事前に送るように、とのご指示を今日いただきましたが、それはちょっと無理です。場合によっては現在作成中のパワポ上映を省略することも考えます。

          自然災害との相互作用を重視した歴史認識への模索
       ―考古学における地震・津波・噴火の認知過程との関連において―
                         東海大学文学部歴史学科考古学専攻 北條芳隆

1.過去の大規模自然災害に対する調査・研究の現状
(1)先行した火山灰(噴火と降下火山灰による災害痕跡)の認知過程
① 広域降下火山灰(テフラ)の同定と考古学での活用は1970年代に活発化
② 年代判定のための「鍵層」としての利用が主体(旧石器時代遺跡から近世遺跡まで)
③ 縄文時代前期における九州南部の文化途絶(壊滅)に関心が払われた
④ 群馬県黒井峰遺跡の調査、古墳時代水田遺跡の調査以降、降下火山灰による災害と土地開発との相互作用に関する学問的関心は高まる

(2)地震痕跡の認知過程
① 寒川旭氏による先駆的研究業績、「噴砂」=液状化現象痕、断層等への注意喚起
  【寒川旭1992『地震考古学』中公新書】
② 1995年1月17日発生の阪神淡路大震災以降、急速に注目され、各地で噴砂の検出が相次ぐ
  【埋文関係救援連絡会・埋蔵文化財研究会編1996『発掘された地震痕跡』】
③ 地震の周期性との関連で、遺跡調査と噴砂認定を連動させた学術調査が成立
④ 1990年代以降、地震による墳丘崩壊・石室崩壊の確認事例事例が増加

(3)津波(水害)痕跡の認知過程
① 沖縄県八重山地域における明和大津波(1771年)の被害状況に関する調査研究の蓄積
  【牧野清著1968年『八重山の明和大津波』自費出版】
② 近畿地方における水田遺跡調査の過程で、大規模洪水砂層への認知度は高まり、水害と耕地開発の相互作用に対する学問的関心は1980年代以降高まってきた
③ 2008〜2009年度の宮城県仙台市沓形遺跡における弥生後期(2000年前)の津波痕跡の確認
④ 2011年3月11日発生の東日本大震災を受けて、津波痕跡への関心は急速に高まりつつある
⑤ 復興調査の準備過程で過去の遺跡の立地と津波との対応関係に注目が集まる

2.ケーススタディとしての西表島における考古学的調査
(1)津波痕跡の確認(網取遺跡)
① 明和大津波によるシルト層(推定)に覆われた近世水田跡の確認
② 津波伝承とのクロスチェック(記録と実態の間の齟齬)
③ 復興水田にみる基盤整備(床土礫敷き)の近世と中世の差違

(2)史料の点検と被害状況のデータ化
 「大波寄揚候次第」(1772年までの間に八重山側から王府に提出された上申書)
 「大波之時各村之形行書」(1776年頃に八重山側から王府に提出された報告書)
(3)人口の推移にみる自然災害との相互作用
① 水稲農耕の本格化により飽和状態を迎えつつあった18世紀の八重山地域社会
② 部分復興と放棄による人口の長期停滞(飢饉と疫病の頻発、畠と水田の構造的問題等)
③ 隆起サンゴ礁の「低い島」(18世紀までの最大人口供給地)における土壌環境復旧の困難さ


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