私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

学会・研究会

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昨日まで2日間にわたって開催された表題の大会に参加してきました。

今回の私の仕事は10月15日土曜日の懇親会の司会。なぜかここ3回ほど、理事会から選出される司会業は立て続けに私に割り当てられることになり、釈然としないものを感じます。というのも、マイクを持って前に立っていると、落ち着いて飲めないし、料理もほとんど食べられず、元の取れなさ感が強いからです。懇親会費については司会者減額措置があってしかるべきだ、と思うのです(とはいえ、次の理事会の際には完全に忘れているので、一向に改善の兆しはありません)。ちろん今回も、元の取れなさ感をこれまで同様に感じさせられた次第です。

それはともかく、今回の懇親会では、地元政界のお歴々が歓迎の挨拶に立つという前代未聞のプログラムが準備されていたことに驚かされました。栃木市長に会場校の学園理事長に市議会議員に、と、来賓の歓迎挨拶が三本連続。私が名前を読み間違うことがないようにと、大きな字のフリガナ入りのメモまで周到に用意されておりました。

その結果、開会から乾杯までの儀礼的行事に約30分を費やすことになりました。とはいえ、地元の市長さんや議会の方々に歓迎して頂くのは誠に有り難いことです。

懇親会には160名の方がご参集くださり、盛会の内に終えられたと思います。実行委員会側の司会を務められた日本窯業史研究所の水野順敏氏に感謝いたします。それと、水鳥形埴輪を研究していらっしゃる栃木美人の賀来さんと久しぶりにお話できたのは、今回の収穫のひとつです。2次会は小雨の中を岡安さんに連れられて、福永・上田・内山さんと蔵の街を堪能しながら呑みました。

そのような次第で、私は翌二日目の日曜日には業務がなく、ゆっくりとシンポジウムを聴くことができました。私が座ったのは第二会場の「考古学からみた葬送と祭祀」。午前中の縄文・弥生時代の話を特に興味深く拝聴しました。

午後の古墳時代の話については、内容自体が私自身の現在の興味関心とも深く関わっていることもあって、質問を会場に振られたら出しゃばりたくなってしまうに違いないと確信したものですから、設楽さんと石川さんのバトルを聴きたいとは思いながらも、そそくさと会場を後にしました。

石製品の問題を取り扱った篠原さんの報告について若干のコメントを添えれば、子持勾玉の位置づけについてはまったく異論がないし同意するものです。同様の見解を私も書いています(青木書店から今度出る予定の講座本にて)。ただし祭祀のなかでの石製品の位置づけについては、全体把握へ向けた意欲に敬意を表したいと思うものの、論旨や根拠について、なお粗いものを感じました。今回の大会では篠原さんとも直接ご挨拶できたので、今後はじっくり議論ができればよい、と思います。

『古墳時代の考古学』第3巻の会場での売れ行きもまずまずだそうで、一安心です。

おなじ関東だといっても丹沢山麓と栃木との距離は遠く、片道4時間を費しました。

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去る10月1日には、鳥取県米子市で開催されたシンポジウムというか対談というかミーティングに出向き話をしてきました。9月30日に同成社での出張校正を終えたその足で羽田から最終便に乗り、夜10時に米子空港に到着。今回のサミットの運営役である田中文也さん(島根県立大学北東アジア地域研究センター市民研究員)にお出迎えいただきました。田中さんは邪馬台国山陰説の提唱者。市民の力を結集して山陰の古代史を掘り起こそうと頑張っていらっしゃる方です。

私がなぜ呼ばれたか、というと、田中さんは私の「箸墓類型」論などをご存じで、考古学の立場から邪馬台国畿内説の話しをせよとのご依頼。昨年は岡山大学の松木武彦さんが同様の役回りを演じ、松木さんからの紹介で私に白羽の矢が立てられたという経緯。

対する邪馬台国九州説の方は誰か。話をお受けした当初は知らされていなかったのですが、かの安本美典先生だと聞かされた時には驚きました。真の大御所だからです。私としては僭越かつ恐縮の観が否めません。

なにせ1968年に安本先生が著された『神武東遷』(中公新書)は戦後の古代史に旋風を巻き起こしたはずの名著。最近改めて御著書を拝読し、その意義と重要性を再確認させられたところでしたので、そのご本人と対談できる機会を与えられたことは誠に光栄だと思いましたのと、真剣に議論を進める必要性を感じ、相応の文章をしたためてサミットに臨んだ次第です(『古代史サミットin伯耆資料集』に「神武東征と巨大前方後円墳の誕生」として採録―17頁〜29頁)。

相応の文章とはどのようなものか、といえば、2000年に出した『古墳時代像を見なおす』の暫定的発展版で、いいかえれば「邪馬台国東遷大和説」。「神武東征」に類する外部からの作用を前方後円墳の成立期にはみいださざるをえないし、纏向遺跡の祭儀施設には当初(庄内期)、北部九州地域からの強い影響が認められる事実が確認できる、という所見の披露と、では後半の布留期になって強い影響力を発揮した吉備や東部瀬戸内地域は邪馬台国畿内説で解釈すると「魏志倭人伝」に登場するどの国に該当することになるか、という点に関し、それは「狗奴国」であろう、との憶説の開示でした。邪馬台国へのルートは日本海沿岸ルートだという笠井新也説と小路田泰直説を私は支持していますのと、たとえば「有棺無槨」が邪馬台国一帯の墓制だとすると「馬韓伝」に類する吉備地域や東部瀬戸内の墓制の様相は、邪馬台国の傘下に含まれないと見るのが妥当だという所見も根拠のひとつです。要は北部九州からの東遷を第一段階とし、吉備地域や東部瀬戸内からの東遷を第二段階とする東遷邪馬台国畿内説になります。

多くの方が仰け反るような珍説かもしれませんが、暫定的にはそう解釈することで、考古資料と「魏志倭人伝」との整合性は保たれるという理屈を披露した次第です。

会場には主催者側発表で300名の方が参加されたそうで、活気に満ちておりました。私は病み上がりの状態で臨んだのが悪かったのか。あるいは安本先生や先生を慕う方々の熱気に気圧されたのか、会場からの反応は今一つだったようです。

ともかく、安本先生ご本人と対談できたことは、このうえなく有意義でしたし、田中さんをはじめとする米子の市民の方々の熱意に触れることができて、なによりでした。

なお安本先生が編集なさっている『季刊邪馬台国』の次号には、私が昨年『青藍』7号に書いた笠井新也説の学史整理論文を転載・再録してくださるそうです。笠井新也の邪馬台国畿内説を安本先生も入念に点検していらっしゃり、今回のサミットでも冒頭で好意的な紹介をなさったことが深く印象に残りました。
あたふたと米子に出向いたのでカメラを自宅に置き忘れてしまいました。ですから当日の写真はありません。

東海史学会2011年度大会

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本日、表題の大会が開催されました。事務総会は3月11日の震災を受けた会員に対する今後の対処が主題となり、会費免除のあり方についての議論が交わされました。事務局の実務を担っていただいているのは秋田かな子先生と宮原俊一先生。最上段の写真は会計報告中の宮原先生ですが、背を向けて座っているのが会長の近藤英夫先生、司会席にいるのは3研所属の修士1年、M鍋さんです。

引き続き開催された研究報告ですが、考古学専攻からの今年の発表は大学院生の千本真生君。「先史バルカンにおける溝の年代と機能―デャドヴォ遺跡の事例を中心に−」と題する研究発表をしてくれました。紹介に立った禿仁志先生(2段目の写真)と共に長年調査を継続してきた前期青銅器時代のテル遺跡で発見された、集落を巡る内外2重の溝(環濠?)の歴史的評価についての報告でした。

千本君が丹念に集めてくれた周辺各地の事例を画面で追いながら、日本の事例を重ね合わせ、どんな可能性があるのかを考えていました。なおこの問題については後の懇親会の席で、禿先生から興味深い集落構造のもとで把握可能だとのお話を聞き、納得したところです。ところで千本君、情報量が多くて個人的には面白かったのですが、持ち時間は30分なのですから、次回は焦点を絞りこんだ研究報告を期待します。ともかくお疲れ様でした。

記念講演は中央大学の杉崎泰一郎氏による「中世ヨーロッパの人々が求めた聖なる宝―コレクションとしての聖遺物、入れ物としての協会」。イエス・キリストを核とする聖人に由来する各種の聖遺物が中世ヨーロッパ社会で権威や権力の源泉としていかに重要視されたのかを、ルイ9世とサント・シャペル礼拝堂の建造に焦点を当てながら紹介していただきました。聖なる遺物は「金や宝石よりもはるかに価値が高い」とされ、それを求めて東側世界へと殺到した中世ヨーロッパ社会の権力者たちの世相をお話いただきました。

あいにくの雨模様のなかで開催された今年の大会でしたが、学部学生の参加が多く、特に1年生の参加が目立ったことが印象に残り、感心させられたところです。

明日は今年度最初のオープンキャンパス。学科説明や模擬授業は私の担当です。

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今年の総会は國學院大学を会場校として去る28・29日に開催されました。私は前日27日午後の理事会からの参加でしたが、会場の國學院大学が高層建築へと大変貌を遂げ、お洒落な校舎になっていることに驚かされました。理事会後に行われた実行委員会の面々との会食は道玄坂の「くじら屋」。鯨づくしの料理を楽しみました(会費はもちろん自弁です)。また28日の総会・記念講演・セッション1の終了後の懇親会では國學院大学の谷口康浩氏とペアで司会を仰せつかり、最後まで抜け出せない状態でした。ここでも高層タワー18階の見晴らしの素晴らしい会場に驚かされました。

写真はその後、渋谷に集まった4年前の卒業生達との飲み会の光景です。今回の唯一の写真です。鴨田さんや吉井君も参加しており、大いに盛り上がっていました(私は翌日も朝から出なければならなかったので11時過ぎに早引しましたが、彼らの何人かは朝まで飲んでいたそう)。

29日は第1会場での司会。私は午後の担当になったため、午前中には第2会場の研究報告を聞くことができました。縄文時代晩期のものと報告されたイモガイ縦割り貝輪が、実は弥生時代中期末から後期初頭であった、との贄さんの発表や、福岡市元岡遺跡の弥生時代中期溜池についての吉留秀敏さんの発表、それに忍澤成視氏のオオツタノハガイ生息域に関する発表などを興味深く拝聴しました。

贄さんは発表の最後に、報告書において恣意的な解釈が生じたことに対し豊橋市教育委員会の埋蔵文化財担当者を代表する形で謝罪されたのですが、この重要な資料が本来あるべきところに落ち着き、なによりだと思いました。貝輪の型式学的特徴に通じた方なら、本例が弥生中期後半以降の縦型2類(木下尚子氏分類ー2は正確にはローマ数字)であることは一目瞭然ですから、従来からも報告書に記載された年代観には疑義が表明されてきたのです。このような懸案も晴れて解決されたことになります(現実の天候は台風の影響のもと大雨でしたが)。

また吉留さんは年末に手術をされたこともあって心配しておりましたが、なんとか報告をこなされたので胸をなで下ろしました。報告内容は昨年夏に網取遺跡の宿舎で私や学生達を前に2時間を費やした大講演がベース。そのときのパワーポイントを使いながら話だけを25分に圧縮したものでしたから、時間配分に無理があったことは否めません。元気だった頃の吉留さんだったら力技でねじ込んだでしょうが。

なお忍澤氏の発表内容については非常に興味深く拝聴しましたので、会場で質問もし、さらにいささか不躾かとは思いましたが、会場を出てから直接ご本人をお呼び止めして、オオツタノハの生息状況についての詳細をお聞きすることができました。私も是非生息調査をしてみたい気持ちに駆られたところです。このオオツタノハ貝輪の問題は、同一会場の最初の発表であった大坪志子氏の縄文時代装身具に関する研究成果とも深く関連してくる課題であろうと感じました。

第1会場の午後の司会も、実行委員会側から出てくださった山梨県の今福利恵氏がまことに手際よく仕切ってくれましたので、私がしゃしゃり出る幕もなく楽をさせていただきました。この点についても感謝です。

今年は私の理事の任期最後の総会でもあったのですが、久しぶりに学問的なインプットの面で充実した総会であったとの感想を抱きました。28日に笹生衛氏がコーディネートされたセッション1「考古学から古代の祭祀構造を考える−神道考古学の方法論と展望−」も、國學院大學らしいテーマでしたし、報告内容についても興味深い指摘や示唆に富む言及が多く、啓発されるところ大でした(他のセッションや研究発表会場には顔を出せませんでしたが、それぞれに充実したものだったものと推測します)。

とはいえ、結局新装なった考古学資料館を見学する暇もなく、かつて20年前に資料調査をさせて頂いた遺物と再開する機会を逃してしまいました。これについては次の機会に果たすことにします。

追記:28日夜は新宿駅前のカプセルホテルに泊まったのですが、フロントは長蛇の列で30分待ち。その混雑ぶりには驚かされました。ただし湯船に長々と浸かり休んで、を繰り返したら、心なしか右肩の痛みが治まった(もしくは痛みが麻痺した?)感じがしています。

第5回考古学セミナー

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去る5月15日には豊橋市美術博物館で開催された表題の研究会に参加してきました。参加者は東海地域の若手研究者を中心として、そこに私を含む4名の中年が加わって12名。

私の論文「大和原風景の誕生」については予想どおり、贄元洋さんから手厳しい批判を受けました。論文として有効か無効か、書く意義のある論文かない論文か、この2項目についての贄さんの判定は、前者が無効(というか意味を充分には理解しえない箇所が多数あって、にわかには判定不能)、後者については問題提起としての意義はあるだろう、とのことでした。特に前方後円(方)墳の方位観念や立地の分析を示した第4章を読み進めることは苦痛以外の何物でもなかった、との指摘には耳が痛く感じられました。

浜松市教委の鈴木敏則さんもお越しくださったのですが、「何を言いたいのか、全く掴めない論文だった」とのご感想。酷評でした。もっとも執筆者本人は、執筆当時完全なトランス状態でしたから、説明すべき前提認識や基礎認識の部分を飛ばして、書きたいところを猪突猛然と突き進んでいたつもりだったことを思い出します。そのような反省も込めて「歴史を領有する水稲農耕民」を書いたのですが、説明不足の点を含めすべて次の課題でしょう。具体的なご指摘をいただけたのは何よりです。

とはいえ、唯一救いだったのは岡崎市教委の荒井信貴さんからのコメントでした。山との関連づけや、古墳群の配置をどう理解するかについて真正面から取り組んだ、意欲的な試論であるとの評価をいただき、なんとか面目を保つことができたような次第でした。

一方の「様式と型式」については、私ともう一人の村上さんが批評に立ったのですが、論点が多すぎたのか、充分な討議の時間を取れず、意見表明に終わった観がありました。この理論的な問題、もっと組織的に取り組むべき課題であるに違いないのですが、イマイチ盛り上がらないところが本当の問題なのかもしれないと思いました。

なにはともあれ、有益な議論ができたこと、主催者の贄さんをはじめ、ご参加くださった皆様に感謝申し上げます。

さらに翌16日には水神貝塚出土の5点のイモガイ縦割り貝輪の実測をさせていただきました。この貝輪の帰属年代については、次回の日本考古学協会で、贄さんが調査報告書の時点の所見(縄文時代晩期)を訂正する発表をなさる予定です。


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