私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

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諫早直人さんの著書『海を渡った騎馬文化―馬具からみた古代東北アジア―』(ブックレット<アジアを学ぼう>17、風響社)を読みました。江上波夫氏の「遊牧騎馬民族説」を朝鮮半島における現在の考古資料の状況から点検し、問題状況を解説するとともに、著者の見解を開示した読みやすい本でした。

この騎馬民族征服王朝説は、その後韓国の考古学界へと伝播しており、三国時代の初王朝の系譜を解釈する際にも重要な命題として取り扱われてきたという学界動向のありようを理解するにも好著といえるでしょう。本書では、江上説や申敬?斐氏の「騎馬民族説」はどのような根拠のもとで成り立たないのかが、朝鮮半島各地で出土する馬具の系譜関係に照準を合わせて論じられており、軍事力として優れた騎馬文化の各地への波及は、それぞれの王権が主体的に導入を図った結果であると述べられています。

その際には服飾と装飾馬具をセットとする新しい身分表象を生み出した慕容鮮卑が、その後の東夷世界への騎馬文化の導入へ、強い影響力をもった可能性が強いと結論づけられています。なお倭国への馬の導入か朝鮮半島南部より遅れた理由については、倭王権側における馬への需要が4世紀代にはさほど高くはなかった、という理由の他に「北に高句麗と対峙する朝鮮半島南部諸国が、背後に位置する大国である倭の騎馬武装化を警戒したためとみることも可能である」(諫早2010同書、53頁)とも述べられていて、興味深く拝読したところです。

慶北大学大学院での2年間の留学の成果が本書に結実しているものと思いました。諫早さんからは本書を昨年頂いておりながら、今になってようやく拝読することができた次第です。

定価は800円と安く、学生諸君にも買い求めやすく勧めの本です。

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昨日大学に配送されてきた『メトロポリタン史学』第6号(2010年12月刊)の特集1<地域世界論の新地平>をみると、國學院大学の金子修一氏が「古代東アジア世界論とその課題」と題する興味深い論考を著していらっしゃいました。

拝読して、私が自明の事柄だと考えてきた西嶋定生氏の「冊封体制」論には、日本側からみた際の理論的枠組みとしての有効性とは別に、実態としての性格的な偏差ないし変転が認められることから、通時的な適用には再検討の余地が大いにあるという事実を教えられました。

また「冊封体制」論は、日本列島の歴史を日本の側から見据える際には効力をもつものであっても、朝鮮半島や中国諸王朝にも妥当するものでは必ずしもない、という、言われてみれば当たり前の事柄にも気がつかされたところです。本概念の構築過程では「漢奴国王」の金印それ自体も根拠の一翼を担っていたという事実関係や、中国諸王朝側の用例としては「冊」や「封」より「羈縻」の方がむしろ古く、「冊封」という政治的事象を文字記録の上から帰納法的に導けるものではないことも知りました。

ちなみに「羈」は馬の面繋(オモガイ)、「縻」は牛の鼻綱のことを指すようで、熟語の意味は「牛馬をコントロールするように異民族を繋ぎ止めておく」(金子2010,同上論文66頁)ことだそうです。

そして日本考古学における「冊封体制」論の適用に関連して、その今日的課題を知る上で参考になるのは、大賀克彦さんの近著「ルリを纏った貴人―連鎖なき遠距離交易と『首長』の誕生―」(『小羽山墳墓群の研究』、福井市郷土歴史博物館2010所収)だと思います。

近藤義郎先生によって提唱された「弥生墳丘墓」概念の今日的な意義と「首長」の問題を取り扱った、まさに好論と呼ぶに相応しい力作で、拝読して感銘を受けた次第です。近藤先生の本概念を古代中国諸王朝との関係に沿って強いて単純化すれば、西嶋定生氏の「冊封体制」論を前方後円墳の時代に適用し、その前提条件としての地域首長(受け皿としての政体)の誕生と成長を、弥生後期後半に瀬戸内や山陰で登場する過剰な墳丘装飾を伴う埋葬祭祀に適用させたものだとみることができます。

その受け皿の生成過程に後漢王朝の中枢とは別の、長江流域に所在する政体等との個別的直接的な交易の成功が重要な役割をもった事実を本論文は実証的に解明しています。ガラス製品の系譜を分析の主柱に据えたことによって、具体的な論証に成功しているとみてさしつかえないでしょう。大風呂南墳丘墓のガラス釧だけでなく、当該期のガラス玉やそれ以前のガラス璧の問題にも見事に切り込んでいます。眼が覚める思いでした。

さらに、そこから描かれる弥生後期後半の首長(貴人)像は「’祭りから’祭りごと’へ」、という従来からのなじみ深い命題を巧みに組み込んだ、誠に唸らされるものでした。大久保徹也さんの首長論批判とも真摯に向き合い、威信財の理解については河野一隆さんの提言の重要性を汲み取っており、学史的な位置づけについても学ばされるところ大でした。冊封体制論との関連づけについては、私が勝手にそう評価しうる可能性を主張しているだけですので大賀さんの具体的提言とは異なりますが、前方後円墳の成立に興味関心のある方には必読文献だといえるでしょう。

なお「メトロポリタン史学」本号のもうひとつの特集<歴史は誰のものなのか>には、拙文「『歴史』を領有する水稲農耕民」も収録されておりますが、先の二著に比べたら色あせてしまいます。先週入稿を済ませた原稿ともども、上述の金子氏の論文と大賀さんの論考をもう少し前に読んでいたら、と悔やまれるところです。

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昨日、地下の遺跡調査団室にお邪魔したとき、居合わせた田尾誠敏先生から「こんなマンガもありますよ」と紹介されたのが本書です。さっそく本日購入してきました。

帯の台詞が振るっていて、赤杝に黄文字で「考古学って正直、かなり地味…」とあり、*当作品では、兵馬俑もツタンカーメンの墓も発掘されることはありません。との断り書きがあり、帯裏には「あやしげ(?)な教授が率いる穴掘り集団。掘り出される破片たちに、いったいどんな価値が…!?」とありました。裏表紙のあらすじ紹介には「なんでも器用にこなしてしまえるため、進路を決めかねている高2の飛鳥。やることも無いので、夏休みは実家の合宿センターの手伝いをすることにしていたが、合宿客として現れた、考古学を専攻する変人女子大生・香乃に巻き込まれ、なりゆきで発掘調査の手伝いをすることに!? 地味で地道な考古学に「本気」で挑む香乃たちと、汗だくドロまみれの夏休みを過ごすことになった飛鳥はー」とありました。

内容はなかなか感心させられる青春ものです。調査の様子や地味さかげんも丹念に描かれていて、リアリティに富んでいるし。そして読後感は、うちの大学もこういう学生に来て欲しいな、でした。ちなみに主人公の設定と同じく、実際に高2の我が娘は、初めて拾った陶器片に感動する主人公に、まったく共感できないそうです。物心つく前からあまたの遺物が目の前にあり、現場の土壙の中で遊んでいたものですから、それもしかたないか。と、今度は妻が「山茶碗の底部片に感動するって、本当のところどうよ」と茶々を入れてきました。上方で育つと、鎌倉の質実剛健さがわからないのでしょうかね。

東海地方というより中京地方の某私立大学がモデルですが、作者である野口芽衣氏自身が考古学専攻生だったそうで、ご自身の実体験にもとづく作品だからでしょう。連日同じ作業の繰り返しで遅々として進まない遺跡調査や、出土する山茶碗片へのラベル書きなど、場面描写は結構リアルでした。コンターラインを引くときのスタッフの読み値の許容範囲がプラマイ5mmだとあり、うちは1cm、場合によっては2cmだよな、と、いつしか自分のところと比較してみたり。田尾先生もニヤニヤしながら言ってましたが、ここで描かれている釜倉教授が実際には誰で、彼と確執のある先史の教授が誰なのか、丸わかりだというのも楽しめました。

しかし地味目な日本考古学のなかでも、中世の山茶碗を焼いた穴窯調査って、相当ですよね。西表島の近世水田調査も先島先史時代貝塚調査も地味ですから、張り合えるかもしれませんが。

秋の気晴らしに、お勧めの一冊です。発行所はマックガーデン、本体571円プラス税(2010年10月30日刊)。それにしても書店のマンガコーナーで本を漁るのって、難しいですね。3周ほどウロウロしてようやくたどり着けました。

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岡大時代の後輩でもある大西寿男君の著作です。学生時代の大西君については近藤義郎先生を偲ぶ会の記事で少し触れました。楯築弥生墳丘墓の第5次調査に岡大から参加した仲間の一人です。

彼は学生の頃から哲学と思索の人であり、たぐいまれな感受性を備え、既存の価値観や世間の常識に抗った経験をもつ、気骨のある後輩です。

なぜ俗物の私がそんな大西君と仲良く付き合えたのか、といえば、中国山地にある権現谷岩陰遺跡で見つかった、ハンセン氏病患者の残した逗留跡遺構の報告を私が担当し、執筆した文章を大西君が目にしたことがきっかけでした。社会的弱者に寄り添う眼差しを大切にし、思想的にも先鋭的だった彼は、そのつたない文章に感心してくれたのでした。なぜ歴史を学ぶのか、歴史から何を学ぶべきなのかについて、私が大西君から受けた影響は大きいと思います。

卒業後は出版業界に就職し、校正の専門家として活躍中です。近藤義郎先生の著作の校正も大西君が受け持ったことがあると聞いています。

そんな彼が最近世に問うた『校正のこころ―積極的受け身のすすめ―』(創元社刊)には、感銘を受けました。校正のノウハウ本ではありません。校正の現場とはどのようなものであり、仕事としてのやりがいはどこにあって、そこで今なにが起こっているのかを紹介する、という体裁をとっています。

しかし出版業界をはじめインターネット上の交信にいたるまでの、あらゆる“言葉”が使用される場面に引きつけながら、深いところで現代の日本社会を見据え、そこに潜む問題を静かに告発する書だともいえるでしょう。かといって決して悲観的でなく、むしろ前向きに現在の事象を受け止める姿勢のもとで語りは貫かれている、そんな魅力に富んだ書です。

本書の構成は以下のとおりです。

  第1章 引き合わせー校正の仕事(1)―
  第2章 素読みー校正の仕事(2)―
  第3章 言葉を「正す」という校正
  第4章 言葉を「整える」という校正
  第5章 受け身であることー校正の原則(1)
  第6章 言葉世界の相対性―校正の原則(2)
  第7章 言葉のあるべき姿―校正の役割(1)
  第8章 信じることと疑うことー校正の役割(2)
  第9章 組織としえの校正
  第10章 編集の時代
  第11章 言葉の客観化
  第12章 校正のこころ
  校正のためのQ&A

なぜ校正にあたって著者は積極的受け身をすすめるのか、については次に引用する部分をお読みいただければ、およそが推察可能です。

「これは個人的な感覚で一般化はしづらいのですが、素読みでゲラの言葉と私のあいだに一対一の信頼関係が生まれたとき、不思議な現象が起こります。校正する私の耳に、著者の肉声でもなくだれの肉声でもない、ある内的な声が聞こえてくるのです。それはゲラの言葉自身がもつ肉声としかいいようのないものです。(―中略―)校正者が受け身の立場に徹するとは、このように編集者を介して、ゲラの言葉との一対一の信頼関係を築くのに不可欠な条件を指しているのです。それはたんなる受動ではなく、校正者が積極的に主体性をもって受け身となって言葉に寄り添う― ゲラの言葉にとってどうなのかということだけをつきつめ、言葉の自律性を尊重し、支え、援助する― 受け身であることを言葉の理解のために、よろこびとも武器ともする、という意味で、私はこれを『積極的受け身』(active passive)の態度と呼びたいと思います」(大西2009、 同書 68頁より)。

本書で展開される大西君の言葉は平易ながら研ぎ澄まされているように私には思えました。読者は軽妙なリズム感とともに本書を読み進めることができると思います。

しかし私には、そのような読みはできませんでした。一文一文に大西君の肉声が重なってしまうからです。だから随所で本から目を離しては遠くを見つめ、過ぎ去ったあの頃を思い出していました。

もちろん、巻末のQ&Aのところではネット上での発言にあたっての注意点が記載されており、私には耳の痛いところもありました。

“言葉”に関心のあるすべての方にお勧めの本です(本体2000円)。                

そういえば、本日でブログ開設からちょうど1年が経ちました。1周年記念の記事となりました。また来訪いただいた方々は延べ54000人。感謝です。

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先週、奈良女子大学の小路田泰直研究室から『日本史の方法』第8号が届きました。懐かしさを感じながら誌面をめくりはじめてみたら、「本号をもって廃刊にする」旨を記した挨拶文が挟み込まれていました。複雑な心境です。

廃刊の背景には、もちろん諸般の事情やら資金繰りやら、いろいろあるのでしょう。私も購読者を増やす勧誘などしませんでした。大学院生には是非読むようにと薦めながらも、学部生には躊躇するところがありました。今の私の立ち位置に引き込むことには、どこか腰が引けるところがあったのかもしれません。周囲の専門家から「学問」じゃない!との烙印を押されかねない空気は、いまだに感じとられるからです。

特に日本考古学の分野では、学界の<トンデモ雑誌>などと一部で陰口を叩かれる存在であることは、事情通の学生諸君ならとっくに承知の事柄でしょう。しかし私にとって『日本史の方法』には深い思い入れがあります。旧友の大久保徹也さんからの紹介で、数年前ようやくお目見えの叶った小路田泰直さんに共鳴したというか惚れ直したというか、氏にそそのかされたというか。

ともかく学ぶところの多い学会でしたし魅力的な雑誌でした。奈良女子大学の学生さんの論文をみても「甘味の歴史」あり「大麻の日本史」あり「荒れる成人式の歴史的考察」あり、と、課題設定が斬新でした。本誌と連動しながら企画された、網野史学を捉え直すというシンポジウムにも大いに学ばされたものです。事情通の大学院生諸君には意外だと思われるかもしれませんが、私自身は学史整理の重要性を、この会に参加する中で学びとった次第です。

とりあえず過去形で語らなければならない、というのは少し残念ですが、私も本誌には都合3本の随筆?迷文?駄文?を書かせていただきました。『考古学研究』やら『考古学雑誌』やら『日本考古学』やら、といったメジャーな学術誌には絶対に載らないであろうという内容の文章です。もちろん小路田さんの迫力にははるかに及びませんが、ああいう文章を載せていただいた本誌には、というか、煽られまくり、書くまで許していただけなかった本誌には、今現在の時点から思い返してみて、心から感謝します。

なぜか。それは本誌に関わる機会を通じて、私自身の思考に初めて腰が据わったと思うからです。恥ずかしながら思考上の自律(開き直り)って、なかなかできないものです。なにせ小路田さんご自身の指摘する命題であるところの<依存の系>の中で生きる存在なのですから。こうした省察へと無理矢理誘ってくれたのが本誌であった、というところでしょう。20世紀少年である私に、間違いなく夢を与えてくれた本誌でした。

なおこの間、傍目にみていても、小路田さんの歴史理論構築の過程がよくみてとれたように思います。近代史を<私利私欲>をキーワードに捉え直す目論みから始め、その後は古代国家観や進化論を見据えながら、全体構図は反転してゆきます。その結果、現在の<依存の系>理論へと収斂されてきたように思います。

「人は決して利己的であることを本質としない。そうではなくて、他者依存的(無主)であることを本質とする。人が一見自由であるのも、自律的だからではなく、他律的だからこそ、である」(小路田泰直2010「依存理論からみた人と生命の進化」『日本史の方法』第8号,65頁)より。

いずれ開幕するであろう第2幕に期待するとろ大です(他者依存を再び吐露するようで申し訳なく思いながら、ですが)。

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