私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

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稲作渡来民と輝きの時

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池橋宏氏の講談社メチエ『稲作渡来民』を福岡までの新幹線のなかで読み終え、博多駅到着直前に「あとがき」をたどっていて驚かされました。
著者の兄である達雄氏は郷里の淀江に在住で、高等学校の先生を退職後に郷土史家をなさっており、本書の執筆の際にはお世話になった、と書かれていたからです。ひょっとすると、この「あとがき」に記された達雄氏とは、故池橋幹君のお父さんではないのか。

出張からの帰宅後、書棚をあさってみて確かめることができました。やはりそうでした。

著者の池橋宏氏は、私の一学年下の後輩で岡山大学に入し大学院の修士課程1年次に癌のために亡くなった池橋幹君のまさしく叔父さんにあたる方だったのです。なんとも感慨深いものがあります。

表題の『輝きの時』とは、幹君の一周忌に間に合わせようと学生達で編んだ追悼文集です。青い表紙は彼のイメージを投影させたものです。そういえは生前に彼は「古墳や権力などよりも、もっと身近な実生活に即した問題に取り組みたい」と言っていたことが思い出されます。

そのためもあって、彼は卒業論文のテーマに吉備の弥生終末期の土器を選びました。誰しもが認める非常に優秀な卒業論文で、学会誌の水準に充分到達しているものでした。

遺作となってしまったそれは、近藤義郎先生のご配慮もあって『考古学研究』誌に掲載されています。

そんな幹君の叔父さんが『稲作の起源』から次作である『稲作渡来民』まで、矢継ぎ早に意欲作を執筆なさっているのです。水稲農耕の拡散について、移住と入植の過程をもっと重視すべきだとの主張をなさっています。ごくごく身近な問題に引きつけて体系的な歴史像を組み上げようとなさっています。

本書の中では故家根祥多さんの業績が積極的に取り上げられていることも印象的でした。故人となってしまった池橋幹君も家根祥多さんも、学史上の人物として、また私達の記憶のなかで輝いています。

お二人ともお酒が好きでしたし議論も好きでした。仮に彼らが今に生きていたとしたら、弥生時代像にたいする現在の学界情勢をどう受け止めるのでしょうか。

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先に書いた笠井新也説の学史整理論文の準備過程で、教えられることの多かった書物がこれです。
安本美典氏の有名な『神武東遷』(中公新書)に続く、数理モデルに立脚した文献批判の書だといえるでしょう。

著者の小澤一雅氏は大阪電気通信大学の教授で情報工学がご専門。改めて紹介するまでもなく前方後円墳の形態分析において数々の業績を残していらっしゃいます。ここ数年は、私も小澤氏の科研の分担研究者としてお世話になっています。

本書の核になる部分だと私が思うのは、第3章「古代天皇の崩年を合理的に推定する」で開示された、崇神天皇崩年の推計法でした。安本美典氏は平均在位年数をとりましたが、小澤氏は昭和天皇までの全天皇の3代平均在位年数を算出したうえで、異常値を示す古代院政期(86代〜105代)だけを除外して崩年推定式を導くのです。

その結果「驚くべき規則性が浮かび上がってきたのである」(同書76頁)として、天皇の在位年数には一見すると偶然の累積にしか過ぎないものの、その背後には必然性が潜むことを述べています。

そして肝心の崇神崩年については、西暦364年と算出されています。安本氏の推計結果とごく近しい数値になりますが、その推計方法には特筆すべきものがあるように思いました。

また第4章では古代の人口推計がおこなわれ、第5章ではその結果を踏まえて、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるかどうかの点検作業もおこなわれています。その際には、箸墓古墳の体積計算と「魏志倭人伝」段階の人口推計結果および崇神朝期の人口推計結果との比較がもちいられます。

点検結果は、邪馬台国時代の支配人口をもってしては箸墓古墳の造営など不可能だとし、逆に崇神朝の際の支配人口をもってすれば、同等の規模のものを次々とつくることも可能であるとする。こうした刺激的?魅力的?な話題が満載でした。

小澤氏は、上記のほかにも多角的な数値情報の整理をおこなったうえで、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありえず、邪馬台国の所在地も九州に比定するのが妥当だと述べていらっしゃいます。

出自の関係から、私はもちろん邪馬台国畿内説の側に身を置いておりますし、箸墓古墳を卑弥呼の墓だとこれまでにも書いてきました。しかし小澤氏の本書からは教えられるところが大でした。特に記紀の読み方についての姿勢には唸らされるばかり。
たとえば小澤氏は情報の信頼性(誤差の大小)を測る基準として距離を問題にし、時間的な距離よりも空間的距離のほうが重要であって、空間的距離が少ない場合は誤差も少ない傾向にある、と述べておられます。与那国島で400年に起きた、済州島からの漂流民と村人との交流という史実が、伝承として現在まで正確に語り伝えられてきた事実などを想起させられます。そのとおりだと納得させられてしまうところです。

なお私が本書をとくに勧めたいと思う理由は、第1章において次の一文が目に飛び込んできたからでした。

記紀に対する津田史学的な視座を批判しながら、小澤氏は「ここで付言しておきたいことがもうひとつある。記紀の読み方において、津田イズムが数理的な視点を欠いていることである。たとえば、百歳を超えるような古代天皇の長い寿齢を記紀が記載している点について、数理的な考察を行った形跡はいっさいみあたらない。ただ、そうした非現実的な寿齢が、古代天皇の実在そのものを疑う根拠になるかのような感想が述べられているだけである。
 記紀は、まぎれもない立派なわが国の古代の記録である。
 前述のように、すくなくとも国内の事情に関するかぎり、『距離差のない』場所における記録である。そういう意味で誤差も平均的にはさほど大きくないと考えてよい。記紀の編者がありもしない物語をいきなり創作したという話もあるが、同一場所における記録であるという点でみれば、そういう話自体がありもしない空想にすぎない」(同書25頁)と述べるのです。

傾聴すべき明快なご意見だというほかありません。

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本日の田尻祐一郎先生の大学院講義で、表題の論文(もちろん昭和期に活字化された論集『日本思想闘争史料』を通じてですが)を拝読する機会をいただきました。いや誠に衝撃的でした。

江戸時代の学者は『古事記』や『日本書紀』を、これほどまでに柔軟に読みこなし、現在でいうところの日本文化起源論を展開していたことに、です。

さらにそこで展開されている主張内容は、「日本文化」の源流は朝鮮半島からの影響「スサノウ系」を下地とし、そこに中国「呉」系の影響が「神武系」として奄美経由で後から被さってくるというものですが、素材や提示された証拠、およびどちらの系が先かという順序などはともかく、南北両系の融合として語られるという、その基本視座の現代的感覚にも驚かされた次第です。

私自身も「資料に即した解釈を」と常々主張しているつもりですが、その実、思考の方向は、既成概念からのバイアスを強く受けていることを改めて思い知らされました。特に神話の解釈については、江戸時代の学者の方がむしろ柔軟な思考であったといわざるをえないのかもしれません。

田尻先生の講義は、スサノウをめぐる解釈が時代ごとにどう変容したのかをたどり、どのような理由のもとに、明治政府によって負のイメージとして固定化されるのか、を紹介するものでした。話しの内容も興味深いものでしたが、とにかく私は、冒頭で紹介された「衝口發」の内容に参ってしまいました。

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今朝、小路田泰直さんから電話が入り、以前に本ブログで私が触れた「西表島での交換や稲が貨幣であった話し」が気になるとのことでした。

一日かかった会議を終えて、うろ覚えのままだった記憶をたどり原典にあたってみましたら、やはり本書が必読文献であることを痛感させられた次第です。その本書とは、安渓遊地氏の大著『西表島の農耕文化ー海上の道の発見ー』(法政大学出版局,2007年刊)です。案渓氏は文化人類学の大御所で、私が尊敬する学者の一人です。2年前には網取遺跡の調査もご覧頂きました。

では本題に入ります。

サンゴ礁の島である黒島と稲作可能な西表島西部との間では、豊富な無機質を含む黒島産ソテツの灰と西表島西部の稲束とがさかんに交換された時期がありました。黒島のソテツの灰は、稲の穂が稔る際にカルシウムを補給する貴重な肥料だったからです。こうした交換は1910年代から20年代が中心で、蓬莱米が波及する1930年代初頭には廃れてしまったようです。安渓氏は1974年から1986年まで延べ22ヶ月の現地調査を実施したうえで1984年に島の住民への集中的な聞き取り調査をおこない、ここで問題とする交換の様子を明らかにしました。

この交換の構造と背景を紹介したのちに、著者安渓氏は、稲がまさしく貨幣であることを淡々と論じます。本文の一部を抜粋すると次のようになります。

「先に灰をもらい、稲の収穫後に稻束で借りを返す物々交換はあったのに、その逆は知られていない。この違いを、収穫時期が限られているからという生態的側面だけで理解するのは、やや早計であろう。稲束を持つ者は灰を借りることができ、灰を持つものは稲束を借りることができなかった、あるいは稲束には借りを返す能力があるのに、灰にはそれがなかったと理解することもできるからである」(398頁)というのです。鋭い指摘です。

さらに「このように考えると、黒島との交易における西表島の稲束を貨幣(「原始貨幣」、限定目的貨幣)として扱うことができるのに気づく。稲束は〔マルシ〕という単位を持ち、灰や麦をはじめとするほとんどすべての品目と優先的に交換され、唯一借りを返す力を持ち、何年にもわたって貯蔵され、大きく積んだ稲叢は富の象徴であった。すなわち、貨幣の性質である交換の媒体、交換の基準、後払いの手段、価値の保蔵の機能を稲の束は備えていたことになる」(398頁)と明快に論じています。

本書ではさらに、こうした稲を貨幣とする状態から現金に置き換わる過程も論じられているほか、私が特に印象づけられたのは、同じ物々交換にみえても、贈与と交換は厳密に区別され一切の混同がないという状態が観察されたというところでした。

案渓氏の著書から紡ぎ出される数々の重要な指摘には、改めて学ばされた次第です。
そしてこうした実例をふまえて考えてみれば、たとえば古代の「出挙」って、まさしく金融ですよね。

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昨日の大学院の授業「1970年代の学界情勢を振り返る」では故網野善彦氏の『無縁・公界・楽』(平凡社新書)を取り扱いました。私が学部学生だった頃に話題となった書です。

ただし当時は手にしてはみたものの、読みづらい印象しかなく、長らく「積ん読」状態でした。しかし友人達の何人かは「面白い」と言うし、いっぽう先生方は対極的に強い批判を口にするし、で、置いてけぼり状態の自分のふがいなさに苛立ち、不安な気分に浸っていたものです。

そんな状態でしたから、当時は岩波新書黄色版の『日本中世の民衆像』(1980) に代替させて、網野善彦理論を理解した気になっていました。

本書の主張内容が頭の中にすっと入ってきたのは、恥ずかしながら40代に入ってからです。章立てや構成の特徴は、一見すると事例列挙型なので、冒頭から目的地の方角がどこかをイメージしながら読み進むことは不可能です。しかしそのような構成にも目論みがあって、通読したときには、読者が抱く既成観念を根底から揺さぶるよう意図されているものと感じました。要はキーワードの心象付けとキーワード間の関連付けに大半は費やされているのです。それが成功すれば、第23章の結論が鮮明になるという仕掛けです。構成ないし体裁それ自体は有名な『ハーメルンの笛吹男』と類似しています。

とはいえ、現在の私は、藤木久志氏の著作の方にも、より一層の興味を抱きつつあります。急激な気候変動と中世社会の相互作用を見いだしながら、歴史を再構成しようとの目論みです。この視座を汲み取れば、網野善彦自身がその著作のなかで高校生からの質問への返答に窮したと紹介している逸話「なぜ新仏教は鎌倉時代にだけ集中して生み出されたのか?」への解答の糸口も見つかるのではないか、そのように思いました。

ちなみに学生諸君に聞きますと、すっと読めたというDELL君と0嶋君、読めなかったというK籐さん、さらには苦痛で中途放棄したというN谷君の対照性がきわだって、非常に面白く感じました。

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