池田雄二の夢旅日記(流Ikepedia)

夢日記、外語日記、研究記事を公開しています。夢の示すままに旅してます。

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2.大陸における義経
(1)大陸渡海説の始まり
 北海道渡海説が発展して大陸渡海説が広まったということではないようだ。1643年(寛永20年)、越前新保の船が韃靼に漂着し、その後、北京から朝鮮を経て帰国した事件があった。その乗組員が北京で義経と弁慶のような像が描かれた札が門々に貼ってあったと証言した。この供述は後に『韃靼漂流記』として流布した(原田109頁)。
 この頃から義経が北海道からさらに大陸渡海説が受け入れられるようになったという(原田120頁)。つまり北海道渡海説と同時並行的に生じた伝承だった。
 
(2)金渡海説
 大陸渡海説が初めに知識人レベルで取り上げられた古い例は延宝年間(1673-1681年)以降に成立した京都養源院住職による『可足記』である。これは蝦夷地から金(1115-1234年)に渡り、源義澄と名乗ったとする。ただこの書は個人的日記で公表されていない。
 刊行されたもので義経大陸渡海説に言及したものは18世紀以降に出てくる。1717年(享保2年)刊行の加藤謙斎『鎌倉実記』巻17である。同書は『金史別本』という典拠を示した上で義経が金に渡海し、章宗に仕えたとする。なお『金史別本』という文献は存在しないとされている。従って、この伝承は捏造だったのが、これを信じた歴史研究者があり、佐久間洞巌は異国の書=『金史別本』に符合しており、間違いないと論じた。そして義経北海道渡海説でも言及した新井白石もこの説に興味を示した。後に同書写といわれる書物を入手したが、偽書であることを見抜き、憤慨した。
 金渡海説はその発生から凡そ100年後の寛政の頃には少なくとも庶民レベルにも浸透していた。義経蝦夷地英雄化でも言及した串原正峯は『夷言俗話』(1792年)巻一で義経が蝦夷地から金に渡ったという言い伝えが存在していることに言及している(原田119-121頁)。
 
(3)清始祖説
 既に義経樺太王説と金臣下説が出ているが、これに止まらず、義経は大国の国王レベルまで引き上げられてゆく。
 滕英勝が1768年(明和5年)に著した『通俗義経蝦夷軍談』の凡例では、清の北京で貼られていたという義経のような像を描いた札の人物は確かに義経であるとし、義経が韃靼に渡った後の子孫が中華を統一し、清を建国したとした。
 この話は森永見が著した『国学忘貝』(1783-1787年)によって広まった。という訳は、義経清始祖説の根拠を清の歴史書に求めたからである。清に『図書集成』という1万巻に及ぶ歴史書があり(これ自体は実在)、この中に『図書輯勘』という130巻の書があり、その序文で清皇帝自ら自分を義経の子孫だと記しているというのである。ただし『国学忘貝』では肝心のその文献を未確認であると断っている。そうだとすると根拠が無い話なのだが、同様の記述をする書物が増えて行った(原田119-128頁)[1]
 
(4)義経チンギス・ハン説
 やがて義経は中国史上最大の英雄チンギス・ハンとなる。この説を始めに唱え、論陣を張ったのは1823年(文政6年)に来日したシーボルトだった。シーボルトは1852年(嘉永5年)に『日本』という著作を出した。その第1篇「日本の地理とその発見史」第5章注10でこのことを論じた。根拠は彼の通詞だった吉尾忠次郎から義経が蝦夷から韃靼に渡り、元祖となったことを確信的に語られた事と新井白石が義経韃靼渡海説の結論を出していることだった。さらに①チンギス・ハン即位年と義経自害年が1189年であること、②チンギス・ハンが即位に用いた旗が白旗、源氏の旗も白旗であること、③ハン=汗の日本語の守と語源が一緒であること、④白尊重が日本朝廷と一致していること、である。
またシーボルトは中国に渡って、「建靖寧時記」という碑文をみた。中国人からその大意を聞いた所、元太祖は日本人で兄の勘気に触れて蝦夷に渡り、彼らを服従させた後、蒙古に渡り、中国を治め、国号を源を借りて元としたと聞いたという話が伝わっている。松浦武四郎が1863年(文久3年)に著した『西蝦夷日誌』第2編にそういう話が記されているという。
ただ論陣を張った最初の人物はシーボルトだが、似た説はシーボルトがこの説を唱える数年前にも読本の類にはあった。例えば、モンゴルに渡った義経の子がチンギス・ハンになったという話である(原田129-133頁)[2]
 
小括
 義経北海道渡海説自体は室町時代に生じ、これを下敷きに義経生存説が17世紀中葉に発生した。その内容は蝦夷渡海説と蝦夷・大陸渡海説がほとんど併存的に生じ、やがてスケールが大きい方の話が選択され、優勢になった。大陸渡海後の義経の地位は金臣下から清元祖、元太祖と最大限に引き上げられた。義経生存伝説からここに至るまでの間は約200年だった。


[1]松前藩家老であった松前広長による「『夷酋列像附録』(1790)、古川古松軒『東遊雑記』(1789年)巻七、神沢杜口『翁草』巻186「清朝天子源義経裔の説再考」、恩田瀟亜竈北瑣 ( そうほくさ ) ( ご )』(1813年以前)七、松浦静山『甲子夜話』(1821-1841年)正編巻6388、続編18、間宮林蔵『窮髪紀譚』(1826年)。その他、読本だが、都賀庭鍾『義経盤石伝』巻6下では義経は宋を助けて元と闘い、一部の地域に清和国を建国したと描いた。
[2]永楽舎一水『義経蝦夷軍談』(1850年)序文。

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