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ぷろろーぐ
秋の中を出発した。
車の後部座席には、やはり秋の景色を乗せている。
彼岸花の油彩画で、夫が描いたものだ。愛媛県の秋の県展に出展するため、夫に代わり、松山の美術館まで車を走らせる。
国道の両側には、たんぼや畑が広がっている。
稲はとりどりに実っているが、二週間前にはあれほどあぜ道を彩っていた彼岸花が、今は一本も見当たらない。
彼岸花は、不思議な花だ。気がつくと、村娘が宴を開くようにあぜ道を埋め尽くしている。目を楽しませ、幼女の遊び相手になりながら、地中で翌年の球根のために養分を貯える。 そしてある日、姿を消している。
彼岸花が咲くと、私は自分の母方の祖父母を思い出す。
う な ぎ
祖父は、がっしりして背が低く、土色に日焼けして、野良着を着ていた。足には、自分で編んだ草履か地下足袋。
私が幼い頃、祖父は時々魚籠を下げてやってきた。母がいそいそ出迎えて、台所に通す。そこには、包丁とまな板がすでに準備されている。
祖父は、たわしのような手で魚籠の中のうなぎをつかみだした。大暴れするその首根っこを、親指でまな板の上に抑え込み、容赦なく鉄のくいで固定。のたうちまわるぬるぬるの胴体をしごくように伸ばしたかとおもうと、一気にうなぎの腹を裂き、頭をごりっと落とした。
まだひくついている胴体が骨と内臓を外され切り分けられた頃、流しに捨てられた頭は目を見開いてゆっくり口を開き、最後の刻を迎えていた。
その後うなぎはかばやきに仕上げられ、家族全員に食べられてしまう。
新鮮・天然もの・料理上手な母……さぞかしおいしかったろうと思うのだが、私は、祖父の手さばきばかり印象が強く、味は覚えていない。
瀬戸内海沿岸は、雨が少なく、農業用のため池が多い。
祖父は、田んぼ仕事の合間に近所の池や海でうなぎを獲り、娘の嫁入り先に振る舞って帰っていくのだった。
母の実家は、当時の私の家から歩いて10分ほどのところにあった。
ひんやりした土間、‘おくどさん’と呼ばれていた煮炊き用のかまど。天井には、むきだしの太い梁。
すべてのものがすすで黒く光る家で、祖父母は暮らしていた。
平たいざるには、いつもねっとり茹でられたさつまいもが並べられ、それがおやつ。麦ごはんが常食だった。
お年玉は、中学生になってもいつも50円ぽっきり。母は、
「孫が多いんだから、しょうがないよ」と笑い、自分の財布から足してくれた。
あのころの私は、サラリーマンの家に初孫として生まれ、ちやほやされて育っていたので、正直、母の実家はあまり楽しくなかった。祖父母はいつも働いており、孫が来たからといって膝に抱いてあやすということがない。
いま考えると、母は二人の11番目の子供である。孫などいちいち抱いていた日には、膝も時間も足りなかっただろう。
それでも、祖母の方は気を配って言葉をかけてくれたが、祖父は表情が乏しく口数の極端に少ない人だった。話せばしわがれ声で、叱られているようでこわい。なるべく近寄らないようにしていた。
けれども、祖父がうなぎをさばくときだけはこわいことなど忘れ、
「あぶないっ!のけっ!!」(危険だ。どけ)
と叱られても、背伸びして流し台にしがみつき、うなぎの口があんぐり開くまで見届けなければ気が済まない、おかっぱ頭の私だった。
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