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[ 海洋文化交流・貿易振興 ]
2016/7/18(月) 午前 7:32
1602年、仙台藩領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還された。
以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、中山は最後までこれに応じなかった。
1608年9月には、家康と徳川秀忠が舟師を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて大慈寺龍雲らを遣わして、尚寧王及び三司官に対し、家康に必ず朝聘するよう諭したが、謝名利山は聴従せず、かえって侮罵に至り、大いに使僧を辱めた。
こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となった。
このため、本事件の根本的原因については謝名の人格的要因のためとされている。
もっとも、16世紀の後半に戦国大名として領国支配の強化を目指していた島津氏は、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求して、琉球側がこれを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつあり、その両者の緊張関係が琉球征伐の至る過程に大きく影響したと考えられている。
親日国トルコとの友好関係強化を!
日本史
[ tero19632001 ]
2013/3/6(水) 午前 6:03




