古今亭日用工夫集

最近はSNSに移行していますが…

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

今年は島津氏の琉球侵攻(1609年)から400年ということで、琉球侵攻に関するシンポジウムや書籍で賑わっております。ただ、その中には400年に便乗しただけの内容の薄いものもあり、玉石混淆の状態のようです。
そんな中、今、最も注目されている新進気鋭の琉球史研究者(私の畏友でもあります)が、ついに「決定版」とも言える本を世に問うことになりました。まさに満を持しての登場。これは必読ですよ!!



http://borderink.shop-pro.jp/?pid=17127337より引用↓

本格的歴史ノンフィクション登場!
独立王国・琉球、最大の危機
戦の嵐、迫る

最新の歴史研究の成果で「島津軍の琉球侵攻」を、琉球王国、日本、そして海域アジアを巡るダイナミックなスケールで描き出す。
独立王国・琉球を狙う「九州の覇者」、薩摩島津氏。そしてアジア征服の野望を抱く豊臣秀吉、対明講和をもくろむ徳川家康。ヤマトの強大な力が琉球に迫る。これに立ち向かう尚寧王と反骨の士・謝名親方。海域アジア空前の「交易ブーム」の中、うごめく海商・禅僧・華人たちが情報戦(インテリジェンス)に絡み合う。『目からのウロコの琉球・沖縄史』『誰も見たことのない琉球』で大注目の若き琉球歴史研究家、満を持しての書き下ろし!




「はじめに」〜より

 一六〇九年(万暦三七、慶長一四)、薩摩島津軍が琉球王国に侵攻した。首里城を包囲された琉球国王尚寧は降伏し、わずかな家臣とともに日本の江戸へ連行された。尚寧は二年後には帰国するが、以降、琉球は日本の幕藩制国家のもとに組み込まれ、さまざまな政治的規制を受けることになる。
 この島津軍による征服は琉球の歴史にとって一大事件であった。一五世紀初頭に沖縄島に統一政権を成立させ、海域アジア世界における交易活動によって繁栄した独立国家としての時代が大きく変わることになったのである。
 琉球は一四世紀後半から中国(明)の朝貢・冊封体制下にあったが、島津軍の征服以降、日本の強い政治的影響のもとに、いわゆる「日中両属」の立場を生きていかざるをえなくなり、やがて一八七九年(明治一二)の琉球処分で日本の近代国家に併合され王国は滅亡、「沖縄県」として今日の体制につながっていく。
 誤解を恐れず言えば、近世から近代、そして現代にいたるウチナー(沖縄)とヤマト(日本本土)がたどってきた歴史的関係の「原点」ともいえる事件がこの一六〇九年の島津軍の琉球侵攻とも言えなくはないのであり、おそらく、場合によっては薩摩藩の侵略と圧政、近代の沖縄差別から沖縄戦、戦後の米軍基地問題の「源流」をここに見出す者もいるであろう。確かに、そうした面はなくはない。
 だが私は、ただちにこの一六〇九年の事件を「告発」し、「薩摩」やヤマトを糾弾することはしない。歴史は歴史的事実としてひとまずは冷静に検討されるべきであり、なるべくその時代の「現場」に立って歴史像を描く必要があると考えるからである(現代に生きる私にとって完全にそれを実現させることは無理であるとしても)。このような基礎的な作業のうえに立ってこそ、その歴史的意義を明らかにできるのではないだろうか。
 島津軍侵攻事件についての大方のイメージは、おそらく次のようなものだろう。

 《貿易の利権を狙う強藩・薩摩島津氏は一六〇九年に琉球王国を侵略した。一六世紀の尚真王の時代に武器を捨てた琉球は、わずか三〇〇〇の島津軍の攻撃に対してほとんど抵抗らしい抵抗もできず、早々に降伏して首里城を明け渡した。ごく一部では抗戦する動きもあったが、島津軍の強力な鉄砲隊の前に、クワやカマを持った琉球の人々たちは「棒の先から火が出た!」と初めて見る火縄銃に驚き敗走した》

 このようなイメージは、ある部分においては史料の記述を若干反映しているものの、事件の全体像を忠実に描いたものとはいえない。実は島津軍侵攻についての研究は、事件の背景や歴史的意義などは詳しく分析されてきたが、事件それ自体の経過については意外なほど解明されていないのが実情である。「イメージ先行」のうえにさまざまな史料がバラバラに叙述されていて、これらを統一して事件の実態を分析したものが少ないのである。
 例えば紙屋敦之「薩摩の琉球侵入」(琉球新報社編『新琉球史・近世編(上)』琉球新報社、一九八九)が事件の経過をまとめており、拙稿「島津軍侵攻と琉球の対応」(『新沖縄県史 近世編』沖縄県教育委員会、二〇〇五)でも両軍の軍事的対応を簡単に紹介した。最近では上原兼善『島津氏の琉球侵略』(榕樹書林、二〇〇九)が刊行されたばかりだ。
 ここ二、三〇年の間に琉球史研究は格段に進展しており、またこれまでほとんど取り上げられていない史料もあるので、それらをもとに事件を再検討し、全体像をあぶり出す作業が求められよう。
 さらに、これまでの研究でも明らかにされているように、侵攻事件は単に琉球・薩摩二者間の問題だったのではなく、背景には日本の幕藩制国家と当時の中国・明を中心とした東アジアの国際情勢が深く関わっていた。本書は事件そのものの詳細な検討にくわえ、事件前後の状況を海域アジア世界の広い視野からとらえていこうと思う。また事件に立ち会った当時の人物たちにもスポットを当て、琉球・薩摩それぞれの立場から真相を浮きぼりにしたい。

琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻 内容


第一章 独立国家、琉球王国 〜プロローグ・琉球の章〜 
 
   (1)南方の海洋王国  
   (2)嘉靖の大倭寇  
   (3)衰退する中継貿易  

第二章 九州の覇者・島津氏と琉球 〜プロローグ・島津の章〜 

   (1)戦国大名・島津氏への道  
   (2)あや船一件  
   (3)九州の覇者・島津氏  

第三章 豊臣秀吉のアジア征服戦争 

   (1)秀吉のアジア征服への野望  
     (2)琉球使節、聚楽第へ  
     (3)琉球発インテリジェンス、明を動かす  
     (4)王府内部の確執  
     (5)「鬼石曼子」と泗川の戦い    
 
第四章 徳川政権の成立と対明交渉    

   (1)朝鮮からの撤退と琉球・島津氏  
  (2)日明講和交渉と聘礼問題  
   (3)戦争回避、最後のチャンス 

第五章 島津軍、琉球へ侵攻 

   (1)奄美大島制圧  
   (2)徳之島での奮戦  
   (3)今帰仁グスク陥落  
   (4)つかの間の勝利  
   (5)首里城明け渡し 

第六章 国敗れて

   (1)尚寧王、徳川将軍に謁見 
   (2)掟十五カ条  
   (3)「日本の代なり迷惑」  

第七章 「黄金の箍(たが)」を次代へ 〜エピローグ〜 




上里隆史(うえざと・たかし)

 一九七六年生まれ。琉球大学法文学部卒業、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。現在、早稲田大学琉球・沖縄研究所客員研究員。
 主な著書・論文に「古琉球・那覇の「倭人」居留地と環シナ海世界」(『史学雑誌』一一四編七号、二〇〇五)、「島津軍侵攻と琉球の対応」(『新沖縄県史 近世編』沖縄県教育委員会、二〇〇五)、「琉球王国の形成と展開」(桃木至朗編『海域アジア史研究入門』岩波書店、二〇〇八)、『目からウロコの琉球・沖縄史』(ボーダーインク、二〇〇七)、『誰も見たことのない琉球』(ボーダーインク、二〇〇八)、ほか多数。

ハウステンボス美術館所蔵のエッシャー作品および同時代の作品120点を展覧。2009年10月10日(土)〜11月16日(月)
____
M.C. エッシャー(Maurits Cornelis Escher, 1898-1972)は、オランダ北部フリースラント州の町レーワールデンに、土木技師ジョージ・アーノルド・エッシャーの5男として生まれました。21 歳でハールレムの建築装飾美術学校に進学し、当初建築を学ぶも版画科へ転じます。そこで生涯の恩師となるド・メスキータ(Samuel Jessurun de Mesquita, 1868-1944)と出会い、版画技法を学びました。1922年に卒業するまでの間にイタリアやスペインなど南欧を旅し、各地の風景を多く版画にし、特に、1922年9月に訪れたグラナダではアルハンブラ宮殿の幾何学模様に衝撃を受けます。この時の感動は彼の芸術に大きな影響を与えました。

1923 年以来エッシャーは、ラヴェッロやローマなどイタリア各地に住んでいました。しかし、戦争の影響で1935年にスイスへ移住。愛するイタリアから引き離されてからは、風景や静物といった具象的で身近なものから、幾何学的なものや心象風景的なものへと作風が変化していきます。1958年にはユトレヒトの共同墓地壁画、1967年にはハーグ中央郵便局壁画など多くの公的な作品を手掛け、国の内外からの人気を不動のものとしました。

本展は、ハウステンボス美術館のコレクションの中から、イタリア風景版画や『24の寓意画』シリーズのほか、《昼と夜》に代表されるような視覚トリックを駆使した不思議な世界を表現した作品を展覧いたします。さらに、オリジナルの版木やエッシャー家ゆかりの資料類、そして同時代作家作品もあわせ、 120点あまりの作品で皆さまを迷宮へと誘います。
(そごう美術館HPより)




招待券を手に入れたので、会期終了ギリギリに行ってきました。
日本のハウステンボスが世界有数のエッシャーのコレクションを持っているというのは意外の観もありますが、それだけ日本人がエッシャー好きであるということですかね。エッシャーが「あしたのジョー」連載時の週刊少年マガジンの表紙に使われたことがあるとは知りませんでした・・・・・・


今回の展示は初期作から晩年作まで並べてくれたので、エッシャーの画業の継続性と発展性が明瞭に見てとれました。エッシャーと言うと、幾何学的・結晶学的な不思議絵が有名ですが、旅先のアルハンブラ宮殿でアラベスク模様に魅了されるまでは、普通の風景画も描いていました。今回の展示ではそうした初期作も展示されており、初めて見る作品ばかりで新鮮でした。そうした初期の作品も精密さの中に幻想的で謎めいた雰囲気を持っていたのが興味深かったです。

そして前述のように「アルハンブラ神話」があるエッシャーですが、実はハールレムの建築装飾美術学校在学中から「八つの頭」など平面の正則分割の手法を用いた作品を描いていた、というのも驚きでした。もっともエッシャーが正則分割を多用し始めるのは「アルハンブラ」以降であり、またアルハンブラ宮殿で庭園などには目もくれず、ひたすらモザイク模様を方眼紙に模写していたという事実からも、アルハンブラ宮殿との出会いが決定的なものであったことは間違いないわけですが。

他にも、1934年の「雪景色上の飛行機」は、平面の正則分割とは全く関係ない作品ですが、その構図は明らかにエッシャーの代表作の1つである「昼と夜」(1938年、エッシャーがその独自の作風を確立した最初の作品)に活かされていることが分かりました。



さてエッシャーは晩年の20年間、地質学者、結晶学者、数学者、更には知覚心理学者と交流するようになります。
彼自身は子供の頃から数学を苦手としていて、数学の論文の中味は全然理解できなかったらしいですが、論文で例示される図は大いに参考になったと、本人は述懐しています。実際、数学者ロジャー・ペンローズが考案し論文で図解した「ペンローズの三角形」や「ペンローズの階段」は、エッシャーの代表作である『上昇と下降』や『滝』に直接的な影響を与えています。そしてエッシャーの不可能図形も数学者たちに刺激を与えたとのこと。エッシャーの作品を鑑賞していると、「数学は美である」という言葉の意味が分かるような気がします。あ、そうそう、「滝」の中にエッシャーの大好きな正多面体が描かれていることに、今回初めて気がつきました・・・



エッシャーは自らを「グラフィック・アーティスト」と定義しており、「私は 私の作品を見てくれる人々の心に驚きを呼び起こそうとしているのです」という趣旨の発言もしているそうです。確かにエッシャーの作品には芸術でござい、という肩肘張ったところがなく、哲学的でありながら、どこかユーモラスで、親しみが持てます。エッシャーはこうも言っています。「私は子供のように何事にも驚くことができるという点に関しては、自信があります」と。世界に対する純粋な好奇心。センス・オブ・ワンダー。そこにこそエッシャーの最大の魅力があるのかもしれません。

全1ページ

[1]


.
yjisan
yjisan
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

ブログバナー

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事