|
大前研一の「産業突然死」時代の人生論 |
生きる
[ リスト | 詳細 ]
|
(としまえん公式サイトより引用) |
|
国際組織「日本は自国解釈のみ反映」 歴史教科書“一方的”勧告 |
|
|
|
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100217/211251/?P=1
花岡信昭の「我々の国家はどこに向かっているのか」 「記者クラブ 諸悪の根源」論に反論する! 2010年2月17日 (前略) 既存メディアも「改革」に向けての努力が必要 上杉氏らの要求もあって、一部では、記者クラブ加盟社以外のフリーライターなどに記者会見を開放し始めた。だが、まだ交通整理が完全にはできていない。 民主党の小沢幹事長は以前から週刊誌などにも会見をオープンにしていたが、省庁レベルでは、岡田外相、原口総務相、亀井金融担当相らが開放に踏み切っている。 だが、記者クラブ側との調整がつかず、亀井氏の場合など、記者クラブだけの会見とフリーライターなども含めた会見の二段階方式を採っているようだ。 記者会見の全面開放を求める上杉氏らの主張も分からないではない。 メディアの形態がこれだけ多様化した時代にあって、既存メディアが旧来型の発想にとどまっているのであれば、ここは改革に向けての努力が必要だ。 だが、とあえて言わなくてはならない。 報道界が100年以上かけて獲得した「権利」 記者会見全面開放論は「記者クラブは諸悪の根源」論とリンクしているのだ。 上杉氏は「記者クラブの存在自体をうんぬんしているのではない。記者会見の開放を求めているのだ」と言うのだが、記者クラブと記者会見を切り離して論ずるのは、やはり無理がある。 そのあたりの整理を試みたい。 まずは、記者クラブとはどういうものか、なぜ必要なのか、というそもそも論から始めなくてはならない。そうでないと、一般の理解を得るのは難しく、実態を知らない人たち(かなりの識者も含まれる)による「記者クラブ性悪説」がはびこってしまうからだ。 そこからメディアへの不信が生まれているというのであれば、これは誤解を解いておかないといけない。記者クラブをめぐる不毛の議論を続けていても生産的ではない。 記者クラブは日本の報道界が100年以上かけて獲得した「権利」である。 記者クラブ拠点に「報道の自由」を勝ち取る 筆者がささやかにやっているブログ、メルマガでそんなことを書いたら、「思い上がりの特権意識だ」といった批判が来た。こちらは「特権」といっているのではない。国民の「知る権利」を代弁する立場から獲得した権利という意味だ。 省庁、政党などの公的機関・組織や主要政治家など公的存在に対して、報道側が密着取材をより可能にするために、記者クラブというシステムをここまで完備してきたのである。 100年以上かけて、と書いたが、これは明治時代の帝国議会発足当時に、国会取材をスタートさせた取材側が記者クラブの原型をつくったという意味合いである。 戦時中の大本営発表の時代には、日本のメディアは国家の宣伝機能に組み込まれたのだが、戦後、GHQ(占領国軍総司令部)の指導を経て「自由な言論報道」を担う存在として再生する。 かつて、公的機関は「寄らしむべし、知らしむべからず」が基本的体質であったことを想起したい。情報公開、説明責任といった言葉はなかった。 その時代に、新聞が軸となって公的世界に切り込み、取材報道の自由を勝ち取っていったのである。その拠点となったのが、記者クラブであった。 「親睦組織」の位置づけを「取材重要拠点」に変更 以前のコラムでも触れたと思うが、筆者は新聞社在勤中に、日本新聞協会の記者クラブ問題小委員会(各社の編集局次長クラスで構成)のメンバーとして、記者クラブ見解を作成した経験がある。1997年の見解だ。その後、この見解は修正されているが、基本的な内容は変わっていない。 97年見解で最も重要な部分は、それまで「親睦組織」という位置づけであった記者クラブを、取材のための重要拠点と規定したところにある。 公的機関は国民に対して情報公開、説明責任という重要な責務を負う。報道側は国民の知る権利を背景として取材報道の自由をどこまでも追求する。その双方の責務が重なりあう部分に記者クラブが存在するといった意味合いである。 公的機関が記者クラブに対し、その建物の中に無償で記者室を提供するというのは、以上のような見解が根拠となっている。無償と書いたが、これは部屋の賃料の意味である。近隣の相場並みの賃料を払えという主張があるが、これをやったら、大手の新聞社はおそらく数億、数十億円の出費となる。そんなことになったら、新聞社の倒産相次ぐという事態も招きかねない。 これは自由な言論報道機関を多数擁するという民主主義国家の根幹を揺るがすことになり、ひいては国民の不利益を導く。 「電話代・コピー代の役所丸抱え」は通用しない なお、あえて言及するが、かつては確かに電話代だのコピー代だのといった経費を公的機関側に丸抱えしてもらっていた時代もあった。 いまはさすがにそういったことは通用しない。公的機関の内部に記者室を持ち、常駐記者がいることは、権力の監視機能を持つことも指摘しておきたい。 記者クラブ問題小委員会の作業をしていた当時、全国に記者クラブがいくつあるか、という現状把握を試みた。某紙がカウントしてみたところ、7000ぐらいまでは勘定できたが、あとは不明という非公式な話があったのを記憶している。 これほど記者クラブが多い国はほかにない、という議論がある。これも誤解を生む。日本のメディアはそれだけ公的機関に深く食い込むだけの力を持ちえたのである。 ネット時代になって、中央省庁や地方自治体などはそれぞれのホームページで情報を発信しているから、メディアが介在しなくてもそういうものを見ればすべて分かる、という議論もある。これも完全な勘違いである。 (後略) 「先進国の中で記者クラブなどという閉鎖的・特権的組織があるのは日本だけ」という批判に対して、 「むしろ日本が一番、報道の自由がある。公的機関に食い込むことで彼等が隠そうとする情報をオープンにしてきたのだ」という反論をするとは恐れ入った。さすがに私も、こういう反論の仕方があるとは思いもよらなかった。ぜひ花岡氏には、海外メディアや国境なき記者団に対しても堂々と自説を披露して彼等を説き伏せていただきたい。一般的には「公的機関に食い込む」ことを「政官との癒着」と表現する。上杉隆氏が批判していたが、現在世情を賑わしている密約問題にしても、外務省記者クラブ「霞クラブ」は共犯者と言わざるを得ない。情報公開どころか情報の隠蔽に協力しているようなものである。 記者クラブは特権を持っているのではなくて、国民の「知る権利」を代弁しているだけである、記者クラブが無くなって困るのは、記者クラブ会員ではなくて、むしろ国民であるという強弁にも驚いた。 問題の核心は、何の資格があって記者クラブが国民の「知る権利」を代弁しているのかというところにある。ネットどころか雑誌すらロクになかった百年前ならいざしらず、現代において所謂「大マスコミ」のみが国民の代表として君臨する必然性はどこにもない。国民の「権利」を勝手に代弁・独占しているから「特権」と批判されるのである。中国共産党が「共産党が国民の権利を代表しているから問題ない。複数政党制に移行して困るのはむしろ国民である」と言うようなものだ。 保守派の花岡氏はしばしば中国の独裁制(非民主制)を批判しているが、その前に身内の記者クラブの排他性を批判してはいかがだろうか。 花岡氏が記者クラブのメリットとして具体的に掲げているのは、管見の限りでは、政局情報ぐらいのものである。http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100224/212478/ 確かに、政界大物の出処進退をスクープするには、いわゆる「夜討・朝駆」は不可欠であり、もし記者クラブがなくなったら、今ほどに迅速なスクープはできなくなるだろう。 しかし「○○首相、きょう退陣表明」というニュースを少し早く報道できることに、果たして如何ほどの意義があるのかは極めて疑問である。そもそも「抜いた」「抜かれた」と一喜一憂するのも、横並びの記者クラブにあっては、他社との優位性を打ち出す要素が他に存在しないからではないか。 はっきり言って55年体制下では、自民党が政権を担うことは揺るがなかったので、国会の表舞台で政策論争が行われることは殆どあり得なかった。勢い、政治報道の興味関心は、権力闘争やら根回しといった政局に向かうことになる。というより、他に書くことがないのだから仕方ない。 だが二大政党制が定着しつつある現在において、55年体制時代の思考パターンを引きずって、政局スクープに血眼になるだけで良いのだろうか。大マスコミには発想の転換こそが求められると思う。
|

- >
- 政治
- >
- 政界と政治活動
- >
- その他政界と政治活動




