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大前研一の「産業突然死」時代の人生論
こんな無駄は省いて、政策実現の財源に回せ

2009年9月1日

 衆議院は、大方の予想通り、民主党が大勝利を収めた。しかし、わたしもずっと批判してきたように民主党の政策はばらまきそのものであり、その財源をどうするのか、今後は一層厳しい目にさらされることになるはずだ。

 民主党は「役所の無駄をなくすことで財源を増やすことができる」と答えているが、ではその役所には具体的にどのような無駄があるのだろうか。ほかではあまり議論されない視点から、役所の仕事に内包されている無駄を考えてみたい。

「使われないまま国庫に戻せない金」があるのは釈然としない

 まずは住宅取得支援策を例に挙げよう。

 緊急経済対策として2009年度補正予算で盛り込まれた住宅支援策は、政府が想定した額の4割程度しか使われていなかった。補正予算では住宅金融支援機構への出資金積み増しに2600億円も計上したのだが、実際の利用は想定の半分以下だった。このまま利用の低迷が続けば、巨額の「使われないお金」が住宅金融支援機構に積まれたままになる。

 ところが、国土交通省は「一度出した出資金は国庫に戻せない」としている。国民から見たらまったくもって、納得のいかない無駄だ。現在、日本の借金は860兆円を超えている(前回の当連載を参照)。この借金返済のメドが立たない状況なのに、「使われないまま国庫に戻せない金」があるのは釈然としない。

 このような嘆かわしい状況に陥るのは、が原因だ。麻生首相は「緊急対策だ」として巨額の金をここに積み増したのだが、もともと国民が必要としていたものかどうか、と言う問題に加えて、使い方がわかりにくかった。利用条件には「but、however(しかし)」という注釈があまりにも多かったのである。

(中略)

自治体のシステム共通化にはクラウドコンピューティングを

「役所の無駄」のもう一つの例は、地方自治体のコンピューター・システムにある。

 いま総務省は、各自治体のシステム共通化に動いている。市町村ごとにバラバラだった地方税の業務や役所内の人事、文書管理などを県ごとに統一し、管理するソフトやデータセンターを一元化するという。そのための実験に「北海道や京都府などの5つの地方自治体が参加する」というニュースが先ほどあった。

 このニュースを聞いてわたしは、総務省、つまり旧自治省は今頃になって何を言っているのかと思った。現在、自治体ごとにバラバラなシステムを使っているのはなぜか。旧自治省のやり方がまずかったからではないか。地方自治体での作業は、日本全国似たり寄ったりで、基本的にはどこでも同じだ。であれば、総務省が自分たちでシステムを作って、自治体に使わせればいい。ボランティアの自治体がクラウドコンピューティングをやるのを支援しますよ、と外野席で応援している場合ではないのだ。

 クラウドコンピューティングとは、インターネット経由で他人の開発したコンピューター処理のアプリケーション・サービスを利用するIT技術のことだ。みなさんもGoogle上でスケジュール管理をしたりWebアプリケーションを利用したりしているだろう。企業でも社内にシステムのサーバーを用意せずに、他社が公開しているネットワークのサービスメニューを利用する例が増えている。そうすることで企業はシステム開発やメンテナンス業務を軽減できるのだ。

 地方自治体も共通する業務は、クラウドコンピューティングを活用すればいい。総務省が用意したシステムにインターネットを経由してアクセスし、そこで必要な業務をやるだけのことだ。一般の利用者(ここでは公務員)にとっては従来の業務と何ら違いはない。役所内のサーバーにアクセスして仕事をするか、国が用意したサーバーにアクセスして仕事をするかの違いだけである。さらに一般国民にとってはこのサービスを使えば、世界中どこにいても、つまり役所の窓口に行かなくても、いいことになる。

 だから、5つの地方自治体が実験に参加するという行為自体がナンセンスだ。5つの地方自治体にやらせると、またお互いに違うものができあがる。今、約1800の自治体が全部違うシステムを作っており、それらを開発する「サイバーゼネコン」が大もうけをしたわけだが、今回もまたそれと同じことが起こってしまうだけである。

 総務省が地方自治体に要求している仕事のやり方があるのだから、それに合ったシステムを全国で1つ用意すればいい。もしテーラーメイド(個別対応)が必要な地方自治体があれば、システム内にそういう余裕を設けておけばいいのである。今は個別の自治体の注文を聞いてテーラーメイドする(という理由で)バラバラな開発が行われ、その自治体でも結果としてIT化は大幅に遅れている。中央省庁の手がけたITシステムはビザ(外務省)にしても納税(財務省)にしても惨憺たる結果になっている。建築の許認可などはこのやり方に最も適したものであり、シンガポールなどでは進んでいるが日本では端緒にもついていない。新政権は役人主導ではなく生活者主権の国作り、ということを言っているので、是非これには優先的に取り組んでもらいたい。

行政費用が何十分の1になり、職員の数も減らせる

 クラウドコンピューティングのシステムを作るときは具体的に何をすべきか。2、3のシステム開発会社に提案競争をさせればいいのだ。提案の段階では各システム会社が現場の作業を盛り込むために地方自治体と組んでもいいだろう。例えば3つのシステムを提案させて、そこから一番よいものを国民が厳選し、選ばれたものを全国の地方自治体が一律で使う。そうすれば行政費用は、何分の1どころか、何十分の1になる。つまり、それだけ役所の無駄が省けるということだ。これについては、わたしが16年前(1993年)に上梓した『新・大前研一レポート』(講談社)に記してある。

 行政費用が何十分の1になるうえに、行政担当者も削減できる。削減の対象になるのは、窓際にいて何もやっていないような役人だ。わたしが地元の区役所に行くと、受付の後ろのほうで新聞を読んだりコーヒーをすすっている役人を見かける。わたしが窓口に立っても、わたしのほうを見たら負けだとばかりに新聞や窓の外を見続け、気が向くまで決してこちらを見ようとはしない。そういう役人を削減するのに反対する国民はいないだろう。

 国民から見た役所の不便さとは、何かにつけ役所に行かないと手続きができないことだ。しかも役所の開いている時間は短い。普通に会社に勤めていたら、週末など、役所に行くことすらままならない。だが、用事そのものは役所へわざわざ出向かなくても済む程度のものが多い。それも無駄削減のポイントだ。
(後略)


財部誠一の「ビジネス立体思考」
財務省は民主党政権誕生を利用しろ

2009年9月2日

 「予算の全面見直し」を迫る民主党に霞が関が戦々恐々としている。

 なぜか。

 ある財務官僚の見立てはストレートだ。

 「霞が関が浮き足立っている理由は、業界団体とグルになった予算にメスを入れられたら厄介だからです。そんなことになれば、再就職の機会が激減してしまう」
浮き足立つ霞が関の官僚たち

 お粗末な話だが、それが霞が関の現実だ。個人レベルでは人品骨柄、能力ともに優れた官僚が少なからず存在する。滅私奉公の四文字を体現したような見事な役人ぶりを発揮する人たちも現にいる。だが役所という組織の論理は腐りきっている。

 彼らの「省益」とは「天下り先をどれだけ確保するか」だけだと断じていい。ことに役所の実効支配を受けている特殊法人や公益法人への天下りが悪辣なのは、役人OBが働かずに高額の報酬や退職金を掠め取っていることに尽きる。

 人口が減り、経済成長もままならず、地方経済が崩壊しているのに、役人は天下り先の確保、拡大に最大の価値を置いている。役所の権限拡大とは予算を大量に獲得して、それを関係諸団体に流し込み、そのおこぼれをOBに横流しする。これが役所の実態だ。

 役人の意識がどれほど腐っているか。

補助金が各種団体を通じて得体のしれぬ公金に

 民間企業に天下ったOBたちの態度をみると、その腐敗ぶりがさらに鮮明になる。現在はベンチャー企業の経営者として成功しているある役人OBは、かつての同僚や先輩たちの所業にあきれ返りながらこう話す。

 「民間企業に天下ったOBの中にはひどいのがいて、『なんで俺がいつまでも平取なんだ。早く常務にしろ』と官房に電話をしてくる奴までいる。多くはこんな感覚ですよ」

 私は民主党の個別政策については多くの異論を持っているが、脱官僚を本気で志向する態度には大いに共感できる。民主党の藤井裕久最高顧問は「自民党は霞が関の下にある」と評したが、まさに至言だ。

 役人たちの合法的な税金ネコババを見て見ぬふりをするどころか、族議員たちは一緒に国に寄生してきた。今回の衆院選で民主党が大勝した最大の背景は、民主党のばらまきマニフェストへの評価ではなく、自民党と霞が関が二人三脚で創りあげてきた私利私欲の国のカタチに国民がレッドカードを突きつけたということではないか。

 財務省の幹部にこの点をただしてみると、こんな返事が返ってきた。

 「東南アジアの一部の途上国のように、役人が横領するような明らかなネコババがある訳ではありませんが、日本の補助金は、余計な人員を抱えた外郭団体や業界団体を経由させることで、得体の知れぬ公金となって使われていることは間違いない」

財務省は役人の無駄遣いを見直せるか

 脱官僚とはまさに、予算の全面見直しを通じて、各省庁の合法的ネコババをなくし、必要な財源を必要な支出に回すことだ。

 しかし考えてみれば、本来ならその役目を果たすべきは財務省だったはずだ。財務官僚は日本の財政危機を煽り、増税の機会をうかがうことしかやってこなかった。

 財務省が自ら本気で財政再建を果たす気概があったら、霞が関がここまで堕落することはなかったはずだ。財務省主計局は霞が関随一のエリート集団だが、その実態はフリクションを恐れ、人事にしか興味の持てない唾棄すべき小役人集団だ。

 だが財務省はその汚名をそそぐ歴史的チャンスを手に入れた。

 財務省は民主党を徹底的に利用すればいい。

 民主党の暴走を許して国家財政を破綻させてしまうか、それとも民主党の「予算の全面見直し」を通じて財政再建への道筋をつけるか。

 それは財務官僚の矜持ひとつにかかっている。

財部誠一の「ビジネス立体思考」
景気対策に名を借りた埋蔵金作りを許すな
2009年5月8日

 14兆円という史上まれにみる巨大な補正予算が国会で審議されている。そのほとんどが国債という新たな借金によってまかなわれる。その全貌が見えてくるにしたがって、私は怒りを超えて、めまいがするようになった。

計46基金に総額4兆3600億円を投入

 連休明けの5月7日に民主党の管直人代表代行が予算委員会で14兆円補正は単なるバラマキではないかと噛み付いた。

 「wise spending(賢い使い方)ではない」

 そもそも公共事業によって有効需要を創り出そうというケインズ政策が効果を発揮するためには大前提がある。ただでたらめに予算をばら撒いても、新たな需要が連鎖的に生まれていくような公共投資はできない。ケインズ政策が実効性を発揮するためには、間違いなく実効性が発揮されるプランを考え出す「賢人の存在」が大前提なのである。

 賢人たちによる「wise spending」がなければケインズ政策は、投資に見合うリターンなどとうてい獲得できものではない。この前提をロンドンに住んでいたケインズの住所にちなんで、「ハーベイロードの前提」という。

 菅氏が具体的に問題にしたのは計46基金に、総額4兆3600億円もの予算を投じることへの是非だった。本来、予算は単年度に使い切るものである。ましてや100年に一度の景気対策として緊急かつ大規模に執行すると政府は言い続けてきたのだから、各省庁が管掌する基金にカネをプールして複数年にわたって予算を執行していく「基金」に4兆3600億円もの予算が配分されるのはどう考えても合点がいかない。

使い切れない予算をプール

 霞ヶ関の各省庁は財務省以外、笑いがとまらないだろう。財政再建で厳しく予算管理され、窮屈な予算繰りを強いられてきたこれまでとは一転、年度内に使い切れない莫大な予算が永田町から降ってきたのだから。

 政府の重要な審議会の委員長をつとめ、既得権死守に執着する官僚たちと厳しいツバ競り合いを演じている人物が、このでたらめぶりを一言で切り捨てていた。 「ばらまかれた予算がとても使い切れないから“基金”を作ってカネをプールしているだけだ」

 これが現実だろう。なぜなら今回の補正予算は初めに「14兆円ありき」だったからだ。「選挙と政局」以外のことが考えられない政府与党は「百年に一度の経済危機」に対して、「百年に一度の予算規模」だけで勝負をするという決定をまず下した。

 しかしそこには理念も哲学、そして景気回復後の国家ビジョンのかけらもない。ただただ総選挙で与党を利するために14兆円をばらまく。そこには国家、国民に対する誠実さのかけらもない。党利党略、私利私欲だけだと断言できる。

国民には莫大な借金

 驚くべきことに、永田町を日々取材している政治部の記者たちに「補正予算の中身はどのようなプロセスで決まったのか」と尋ねてみると、例外なしに、同じ答えが返ってくる。 「各省庁からかき集めてきたプランをそのまま並べただけだ」

 14兆円の補正をぶち上げたまでは良かったが、使い道がわからないから、各省庁にプランを出せと丸投げしたようなものだ。政治家のお粗末振りに、官僚たちはペロリと舌をだしながら、これまで財務省からはねつけられてきた予算を満たした上で、それでも使い切れない分は「基金」として貯金をしようと官僚たちは考えたのだ。きわめて当然の成り行きだったと言わざるを得ない。

 なんということはない。国民に莫大な借金を背負わせて、役所にミニ埋蔵金を作らせるようなものだ。こんなデタラメが許される道理があるか。

 賢人なきケインズ政策は国を滅ぼすだけだ。



猪瀬直樹の「眼からウロコ」
出先機関の庁舎ばかりか、官舎建設も進む
第2次勧告後も合同庁舎の建設計画続出、地方分権論議に逆行

2009年7月14日

 大阪府の橋下知事らが与野党のマニフェストに地方分権を盛り込むよう要求して、総選挙のテーマとして話題になっているときに、地方分権に逆行する庁舎建築計画が進められていた。霞が関は何の痛痒も感じずに、無駄遣いを続けている。

分権委員会の第2次勧告後も、次々に庁舎の建設計画が進む

 昨年12月にこの連載で書いたように、地方分権改革推進委員会が国の出先機関を移管・縮小するという第2次勧告を準備している最中、仙台第1地方合同庁舎の「増築」計画が進められていた。「増築」とは名ばかりの新築計画である。

 地方分権改革推進委員会でこの問題を取り上げたこともあり、金子国土交通大臣の指示で仙台第1地方合同庁舎の建設は凍結された。ところが、「義務付け・枠付けの見直し」と「国の出先機関の見直し」の2つを柱とした第2次勧告が12月8日に出されたあとも、霞が関は数多くの庁舎建設計画を進めていた。

 6月5日に国交省が地方分権改革推進委員会に提出した資料によれば、2009年度予算で36件の出先機関庁舎について整備事業費が計上されている(そのうち、仙台第1地方合同庁舎と長崎第2地方合同庁舎のみ凍結)。総事業費は2049億円である。

 そのなかには、第2次勧告が出されたあとの、2009年1月から3月のあいだに新たに建設契約が結ばれた庁舎も含まれている。鹿児島港湾合同庁舎など10件、計587億円の契約が、第2次勧告を無視する形で進められていた。

 昭和20年代の終わりくらいに、役所ごとにやっていた営繕(庁舎建築)を、田中角栄が建設省(現・国土交通省)に統一して、官庁営繕統一法をつくった。その結果、国交省がすべての官庁の営繕の予算をとって、毎年要求していくシステムになっている。地方分権改革は「霞が関解体」を意味する。解体される霞が関に予定通りの庁舎建設はいらない。

(中略)

「庁舎」だけでなく、「宿舎」の新築も進められている

 庁舎の建設が勝手に進められていることが明らかになる一方で、国家公務員宿舎の新築について、ある情報提供があった。

 広島県広島市のJR社宅跡地(土地は国に返還されている)で、780戸の大規模な国家公務員宿舎の建設が進められているというのだ。地上12〜14階建ての宿舎が4棟建てられる。2010年2月1日に着工し、2011年5月15日に完成予定である。
空き地を中心に780戸の国家公務員宿舎が新築される予定。アストラムラインという電車(手前)の牛田駅まで徒歩約3分の恵まれた場所だ

 立て札を見ると、建築計画の名称は「公務員宿舎牛田住宅(第1期)整備事業」となっている。第1期ということは第2期もあるものと思われる。どうやら、あわせて約1500戸もの国家公務員宿舎がこれから新築されることになりそうだ。場所は市街地まで約2キロ程度の住宅街で、アストラムラインという電車の牛田駅まで徒歩3分程度の便利なところで申し分ない。

 おそらくこれは広島県だけの話ではなく、全国で似たような宿舎の建築計画が進められているのではないか。全国的に地方公務員宿舎については、廃止・縮小が行われているなか、国だけが税金を大盤振る舞いしている。霞が関の役人は、どういう神経なのだろうか。

(中略)

庁舎・宿舎の新築問題は、地方分権という言葉と現実の風景とが結びつく、わかりやすいケースである。(了)

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地方分権のあるべき姿

慶応義塾大学 片山善博教授
核心インタビュー
「エセ地方分権的“道州制”では、日本は変わらない!」

衆議院選が迫り、各党のマニフェスト(政権公約)も出揃った中、地方分権への議論が活発化している。特に、各党と知事会による道州制の議論は注目の的だ。地方分権の要として重要視されている道州制は、本当に地方分権を実現できる手段なのだろうか。そして、自民党、または民主党が政権を獲得した場合、地方分権政策はどのように進むのだろうか。鳥取県知事時代に「改革派」として絶大な支持率を誇った慶応義塾大学・片山善博教授に、総選挙後の道州制の行方から地方自治のあるべき姿までを語ってもらった。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン 林 恭子)

霞が関主導の“道州制”なら地方分権は後退する

――究極の地方分権の形として“道州制”が提案されているのは、なぜか?

 中央政府は本来、外交や防衛、マクロ経済、金融などに専念すべきだ。しかし、現在は市町村がやるべきことまで中央政府が引き受けているため、我が国の中央集権体制は手詰まりになり、純化・解体再編が必要視されている。

 そこで解体再編を行なうとなれば、膨大な事務と権限が放出されるため、それをどこで処理するかが問題となる。それを現在の47都道府県で行なうことは難しいため、「受け皿として、広域で強力な権限や力量を持った道や州を作るべきだ」というのが、本来あるべき「分権型の道州制論」だ。

 ところが、そういう問題意識を持たないまま道州制を唱えている人たちがいる。

 特に霞が関の人々は、多少の手直しをするにしても、基本的な構造を変るつもりはない。地方を47ブロックから10〜11ブロックに再編して、チープガバメント(政府支出を必要最小限に抑えた政府)を作る「行政整理型」の“道州制”を考えているようだ。

 つまり、“道州制”といってもタイプが2通りあり、それが混同されたまま道州制が議論されている。そんな状況のまま道州制の是非を問うことは、非常に問題だ。


――政権公約によると、「自民党は民主党よりも道州制に積極的」というイメージが強いが、「分権型」と「行政整理型」のどちらの道州制を考えているのか。

 道州制という文言をつきつめなければ、「自民党は民主党よりも先行して推進しようとしている」と言えるだろう。しかし、自民党の道州制は、とにかく区域を拡大するだけのものであり、それが中央政府の解体再編の延長線上にあるとは言えない。

 なぜならば、自民党の政権公約を見ると、「道州制推進のために法案を作る」と書いている一方で、その先行モデルとして挙げているのが、北海道道州制特区だからだ。

 実は北海道道州制特区は、何のインパクトもなく、何も変化しない、ごくシャビーな権限委譲に留まっているケースだ。ということは、今の北海道が何も変わらないように、「ただ区域が広がり、国のあり方も新しい道や州の権能・権限も変わらない」ことになる。これは地方分権にはつながらない「行政整理型」の“道州制”だ。

道州制の議論をすること自体は、今の日本の状況に適っているため、大いに意味がある。ところが、最初の問題意識がないままだと、単に区域が広大化するだけで、周辺部の住民にとってはむしろ不便になってしまう。これまでの市町村合併の延長になるだけだ。

 実際、市町村合併で一極集中が加速し、周辺部の過疎化や行政サービスの劣化が起きている。「行政整理型」の道州制が導入されれば、これが一層加速するだろう。

 今でさえ住民にとって縁遠い自治体が、さらに縁遠くなる。そのような道州制なら、むしろ何もしない方がよい。

 仮に自民党政権になったとしても、今までとほとんど変化はないだろう。政権公約に「新地方分権一括法案や道州制基本法の制定を目指す」と書いているが、それは規定路線に過ぎない。結局は、「『安心してください、何も変わりませんから』と言っているだけ」という印象だろうか。

 つまり、“道州制”という文言が入っているだけで、地方分権につながるというイメージを持ってはいけないのだ。

民主党は“中央集権的エセ地方分権”から“草の根型地方分権”へ

―― 一方の民主党は、地方分権改革についてどのように考えているのか?

 今の自民党と同様に、従来民主党は、「自治体を300にする」といった『上から目線』の手法による自治体再編・権限委譲を発想していた。

 ところが、今回の選挙からその考え方を転換している。『インデックス2009』という政権公約では、「自治体が自発的・自主的に成長するのを支援し、自然に規模が大きくなる際に、その延長として道州制も考えたらいいのではないか」という意図を読み取ることができる。

 これは、上から強引に再編の音頭をとるのではなく、草の根から自治体を支え、自治体が自立的に成長するよう支援する、「本来の地方自治や地方分権」に根ざした発想だ。

 たとえば、「住民投票法の制定」だ。これは、議会がもっと機能するよう、定数などを自由に決められ、柔軟で多様な選択肢のある議会制度を目指すものだ。地味だが、「草の根から地方自治を発展させよう」とする姿勢がみられる。

 民主党は、“中央集権的エセ地方分権”から“草の根型地方分権”へ転換したと言ってもよい。

 彼らのマニフェストに「道州制や自治体再編という文言が入っていないから評価できない」という人がいれば、「地方分権を理解していない」と言わざるを得ないだろう。

 未知数ではあるが、民主党政権が成立すれば、場合によっては地方自治のあり方が大きく変化するかもしれない。民主党は霞が関改革を謳っており、それが実現できれば、国と地方の関係も変化する。

 そうなれば、国が上から自治体を再編しようとするのではなく、住民が自発的に自治を行なう地方分権スタイルになるのではないか。

 本当の地方自治というのは、「必要なものを自分たちで日々選択して行くこと」である。そういう選択ができる仕組みを整備していくのが、真の地方分権改革と言えよう。

「道州制導入」は知事会の総意ではない

――現在の知事会は、道州制に対してどういう認識なのか。

 実は、知事会の道州制への認識は一枚岩ではない。

 本当に中央政府の純化・解体再編から発想して、「その受け皿として道州制が必要だ」と考えている人もいないわけではないが、必ずしも多くはないようだ。

 むしろ、「大くくりにして強力な権限を持った“道”や“州”を作って、できれば自分のところに道都や州都を……」という思惑の人も多い。

 こういった首長は、政令指定都市を持つ都道府県に多く見られる。我田引水的で、非常に軽薄な道州制推進論者だと思う。


 一方で、兵庫、福井、富山、滋賀の知事など、反対派の知事も多い。今のまま道州制を進めたら、きっと霞が関の官僚たちにとって都合のよい、「霞が関流の道州制」になるに違いないと懸念し、反対しているのではないだろうか。私も、これを懸念している。

 本来、道州制は霞が関を解体再編することから始めるべきなのに、終わってみたら「霞が関は無傷で、地方だけが大くくりになって自治が後退した」などという、分権とは対極の状況になってしまう恐れさえあるのだ。

「住民自治」を無視した知事会の意向は住民の意思ではない

――道州制以外で、地方分権の仕組みとして考えられるものはあるのか?

 現在の47都道府県・約1700の市町村を前提としても、地方分権を行なうことはできる。

 究極の地方分権とは、住民の政治参加機会の拡大、つまり住民の意向・意識ができるだけ自治体行政に反映される仕組み作りであり、再編をすることではないからだ。それを実現させるためのポイントが2つある。

1つは、自治体へ権限を委譲し、霞が関の関与を廃止することだ。遥か遠方の霞が関に権限があるよりは、自治体にあったほうが住民の意向は反映し易い。

 もう1つは、住民にとって意向が反映され易い体質の自治体にすることだ。国と自治体との関係だけでなく、自治体内部の問題としてもそういう仕組みが必要である。

 たとえば、巨額の資金を使ったハコモノ建設は住民投票で決めるようにするなど、議会や首長を正し、場合によっては引きずり下ろせる仕組みだ。

 1点目の権限委譲を「団体自治」、2点目の住民の意思を反映し易くすることを「住民自治」という。その2つを進めるのは、今でも可能である。

 しかし、今知事会が騒いでいる“地方分権”とは、前者の「団体自治」だけだ。要するに、国と自治体との関係だけで「自治体を自由にせよ、権限と金をよこせ」というのが「知事会的な地方分権」だ。

 ということは、団体自治の根本がずれていたら、住民にとってはなんの意味もない。だからこそ、自治体を正せる住民投票や、議会へのチェック能力を高めるような改革が必要であろう。その両方があって、初めて地方分権と言える。

 道州制や地方分権の議論について、「知事会の言っていることが“是”であり、住民の総意だ」という印象を与える報道も多い。しかし前述のように、それは間違いであり、「住民に誤解を与えるのではないか」と懸念している。

 というのも、知事会の一番の悲願は、「消費税の税率を上げ、その分け前である地方消費税をもらうこと」だからだ。それは住民にとってありがたいことだろうか。「そんな増税をするくらいなら、もっと無駄をなくして身軽になり、行革をしろ」というのが、住民のホンネだろう。

 現在、知事会は各党のマニフェストを採点しているが、それは決して国民のためではなく、彼らのための採点基準に過ぎないのだ。増税論などをはじめ、知事会の地方分権は、住民と利害がバッティングすることが多い。名付けて「知事会の知事会による知事会のための地方分権」と言えるだろう。
(後略)

大前研一の「産業突然死」時代の人生論
民主党の政権公約では期待が持てない

2009年8月3日


(前略)

私は小泉改革は間違っていた、と至る所で述べているが、それは「官から民へ」の流れが間違っていた、と言っているのではない。「民」で十分機能しているもの、例えば郵便、貯金、保険、などは郵便局を民営化するのではなく、廃止すべきであった、と言っているのである。官のやっていたことで、民がすでに代替わりできるものは「廃止」ということを検討すべきだと述べてきているのである。

 また道路公団のようなものを民にするのは土台間違っている。廃止して「国道0号線」として無料化すべきだ、といってきたのである。もちろん道路公団が蓄積してきた借金は前回の本連載でも書いたが、現役世代が一気に返済する。そのために毎年個人には1万円を負担してもらい、商業車には10万円負担してもらう。その支払い時に特定の色のついたナンバープレートを発行して、高速道路を無料で使ってもらうのである。いまの民主党の「高速道路の無料化」では公団が民営化して残り、さらに膨大な借金が次の世代にまで残る。これではばらまきとなる。似て非なる政策、と言わなくてはならない。

 私は小泉改革の方向性を支持するが、内容が間違っていた、と思っている。審議会などへの検討課題の与え方がそもそも間違っており、官の利権を温存する形での民営化、という恐ろしい結果になっている。もし民主党がそのことを修正しないで、郵政は西川人事で報復し、道路公団を存続させたまま収入補填などの形で無料化するなら、誤った自公路線を延命、いや事後承認することになる。これでは政権を変える意味がない。

小泉改革を安易に悪者にする愚はさけるべき

 もう一つ良く出てくる識者の言葉に「小泉改革の行き過ぎた市場至上主義の過ち」という言葉がある。これも許し難い誤解である。小泉氏は市場に関しては何もやっていない。市場至上主義というよりは、金融庁などの誤った金融機関の過剰監視で市場が機能不全になったに過ぎない。ライブドア、村上ファンドなどは昔からある法律に則っても犯罪であって、小泉改革がそれを助長したということはない。勝者と敗者の二極化が進んだ、という指摘に関しても同じだ。この現象は90年代の中頃から進み、現在に至るまで修正されていない。日本の人件費が高くなり、メーカーは海外に移転せざるを得なくなっている。その結果、日本に踏み止まりたい企業が正社員を減らし雇用形態を多様化してきたために起こっている。企業社会においては、これは経営者の当然の打ち手であって、小泉改革がこれを加速、あるいは助長した、とは考えられない。

 日本においては市場主義を心配するほど市場に自由があるわけではなく、むしろ世界中から資本も企業も来ない、という淋しい状態である。これこそが雇用を創出したい、あるいは創出しなくてはならない、日本の最大の問題であり、日本が自由主義経済の原則、あるいは市場に任せる政策をとっている、という判断をしている人など世界中どこを見回しても、いない。

 もう一つの濡れ衣は「小泉の三位一体改革が地方を疲弊させた」というものである。これまたワンフレーズ政治においては分かりやすい表現であるが、全くの誤解である。日本の地方自治体の疲弊は今に始まったことではない。ましてや中途半端にしか実行してきていない「三位一体」改革では疲弊のしようがない。聖域なき構造改革、という言葉は確かに交付税や国庫支出金を削られた側から見ると悪夢のような響きを持ったろうが、冷静に考えて日本のように地方をジャブジャブの金漬けにしているところなど世界のどこを見回しても見つからない。そうした補助金によって自助努力が疎かになり、麻薬が切れて「疲弊している」というところはあるかも知れないが、基本的に国から地方に財源を委譲することが悪だとは考えられない。それで地方が疲弊するなら、その組織、統治機構そのものに問題があるのであって、改革はさらに大胆に進めなくてはいけない。

 小泉改革への反省が出発点、と自民党も民主党も異口同音に言っているが、反省すべきはその不純な動機、そして不完全な経済原則の理解、さらに中央官僚による骨抜き、という三位一体の欠陥プロジェクトの推進方法であって、「官から民へ」やスモールガバメント、自由市場原則、そして「中央から地方へ」という権限、財源、主導権の移行が間違っているとは到底思えない。日本は戦後、極端な中央集権機構を作り効率よく復興してきたが、今起こっている市場の閉塞感はすべて、その制度疲労したシステムが抜本的に直っていないことから発生している。この点に関しては、自民党にも民主党にも安易に小泉改革を悪者にする寓はさけてもらいたいと思っている。また必要なら選挙が終わった後に、ゆっくりその論戦をして、過去10年間の総括をしたいものと思っている。

(中略)

 廃案になった法案のほかに、わたしが残念に感じるのは石破農林水産大臣が提唱してきた「減反政策見直し」の頓挫である。従来から与党はコメの生産量を減らすために減反政策を推し進めてきた。彼はそれを見直そうと努力しており、「しっかり地に足の付いたことをやり始めている」とわたしは見ていた。農業基盤事業整備で膨大なカネを使って圃場工事などで農地を増やしておきながら、一方で減反をする、という支離滅裂な自民党の農政に終止符を打つキッカケになると見ていたからだ。

(後略)



財部誠一の「ビジネス立体思考」
霞が関解体なしに道州制なし

2009年8月4日

(前略)

“霞が関”という中央集権モデルは既に死んでいる

 霞が関の中央集権体制はもはや完全に機能不全に陥っている。

 霞が関が予算を独占し、全国一律のメニューを示して、地方はただそれに追随するという昭和のオールドスタイルは、高度成長時代には見事に機能した。

 だが、今はそのスタイルでは通用しない。地域の実情に応じた政策メニューを提示すべきなのだ。ところが、農水省も国交省も総務省も厚生労働省も、あらゆる省庁がそうした政策メニューを提示できない。
こっけいなくらい世の中の常識や地方の現実から遊離している。このこと自体が“霞が関”という中央集権モデルそのものが既に死んでいるということであり、それにかわる新たな仕組み作りの方向性として「地方分権」への期待が高まったということだ。

 つまり地方分権は霞が関の中央集権モデルの解体を意味している。国の予算や権限を少しばかり地方に委譲すればすむという話ではないし、近隣の都道府県が合併して道州制という仕組みができれば事足りるという話では断じてない。

 “中央集権”から“地方主権”へ。

 これが地方分権の本質だ。国民にもっとも近い距離にある市区町村(基礎自治体)をできる限りの予算と権限を与え、経営主体と自立させる。それが第一歩である。そして市区町村にできないことだけを道州が行い、道州ができないことを国がうけ持つ。これが地方分権の基本的な流れである。

(後略)


辻広雅文 プリズム+one
辻広雅文【第79回】 2009年07月29日
「官僚たちの夏」というセンチメンタルジャーニーの危険

(前略)
 そこには確かに、エリートたちの志があり、無私があり、懸命があり、少なからず私たちの胸を打つ。しかしながら、それは言うまでもなく、発展途上国型の官主導による開発主義経済、国家管理である。当時、政府のあらゆる仕組みが開発主義経済に呼応かつ構成していた。
 程度の違いはあれ、当時1970年代初めくらいまでは、先進諸国も同様であった。ありていに言えば、戦争時の統制経済の仕組みを改変し、国家管理による経済産業運営が行われていた。昨年来の世界的金融危機で抜本的見直しが必要ではないかと指摘されたブレトンウッズ体制とは、その国家管理システムを世界に拡大したものだったといっていい。
 だが、とっくに通産省や大蔵省、つまり国家が担っていた管理機能の大半は取って代わられた。何によって取って代わられたか。市場(マーケット)によってである。今、先進各国の政府は、いかに市場の調整機能をうまく作動させるかを日々、腐心する。
(中略)
 総選挙を前にして、「弱肉強食型の冷徹な市場主義経済から決別し、格差を是正し、安心を実現する」といった発言が、与野党の区別なく繰り返されている。どうやら、4年前の総選挙で大勝した小泉政権批判でもあるらしい。
 「弱肉強食の冷徹な市場主義経済」とは、誤解に満ちた常套句である。「弱肉強食」とは、強いものが弱いものに対していかなる手段を使っても叩きのめす、という意味が込められている。だが、考えて欲しい。そうした乱暴な市場経済を、どの国のいかなる政府が許しているというのだろうか。強いものが弱いものを不当な手段で圧力を加えれば、例えば、独占禁止法の「優越的地位の濫用」に抵触し、処罰を受ける。
 市場は法制度によって支えられている。仮に、その市場に機能がうまく働かないのであれば、さまざまな法制度の改変や運用の工夫による「市場の高度化」によって解決されるべきものである。こうした世界の常識を棚上げして、誤解に満ちた常套句を持ち出す政治家は、不真面目だとしかいいようがない。



規制でがんじがらめの日本経済。その鎖から解き放つことこそが、今求められている。

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大前研一の「産業突然死」時代の人生論
2009年07月28日
総選挙前に「みっともない」姿をさらす人々
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090409/145180/

(前略)
 今週中にも発表される、と言われている自民党のマニフェストも結局、選対委員長不在で、一斉に選挙区に散ってしまった議員達に代わって広告代理店などが語呂合わせと美辞麗句のスローガンでごまかすことだろう。かつて小泉政権のころ、自民党のマニフェスト作りを手伝った時の経験でも、実は彼らの多くが中味にはほとんど興味を示さなかった。今回はマスコミが各政党のマニフェストの比較一覧を作ることが目に見えているので、見栄えだけでやってくるであろう。まあ、マニフェストとはそう言うものだ、と思っておいた方がいい。

 民主党のマニフェストも派手なばらまきのオンパレードである。しかし、麻生首相が「財源が無責任で極めて曖昧」と記者会見で批判したのはお笑いを通り越してブラックジョークとしか思えない。選挙対策のために国民給付金2兆円をばらまき、第二次補正予算で16兆円をばらまいたのは誰なのか? 財源がなくても、国民の多くが要らない、と言ってもばらまいた張本人が発する言葉とは思えない。むしろ30日前に自分のやったことの記憶が薄くなり、すでに下野したかの如き評論である。首相として自分がやってきたことが何なのか、まともな総括の一つもできない、というのが実態なのだろう。

民主党にすり寄ろうとする経団連の見苦しさ

 次は日本経団連の「みっともない」である。

 経団連は自民党との距離を修正しようとしている。これまで自民党べったりだったのに、民主党に近づこうとしているのだ。そのため総選挙において自民党支持を明言せずに、各政党候補者の政策本意で判断すると言っている。

 これも自民党と同様に「みっともない」姿をさらしたと言えよう。本来なら「経団連は死んでも自民党を支持する」と宣言した方がいい。経団連の御手洗会長はこう宣言するべきなのだ。「我々は船長として、最後まで泥船に乗っていく。経団連は戦後、自民党と二人三脚で日本の経済を築き上げてきた。この誇りある歴史を見てほしい。経団連は最後まで自民党に手を貸す」――と。

 民主党はどのみち経団連と付き合う考えなど持っていない。それだけはハッキリしている。民主党は「経団連と距離を置く」「自民党のように経団連べったりという関係にはならない」と宣言しているのだから、今のような状況になってから経団連が民主党にすり寄ろうとしても、つれなくされるのは当然である。今頃、民主党に乗り換えようとしても遅いのだ。自分たちがいかに国民生活者を無視して自民党の応援団を演じてきたのか、記憶がないとしたらこれ以上のお笑いはない。先ほど述べた自民党、首相、そして古賀氏と同じように、非常に「みっともない」。
全国知事会の主張では今の中央集権システムは崩せない

 全国知事会は、各党が作るマニフェストを地方分権推進の視点から評価し、採点結果を公表する方針を明らかにしている。「全国知事会は地方分権を望んでいる。そこで自民党と民主党ではどちらがその意向に沿っているかを採点する」という。

 内閣府が7月16日に発表した地方再生に関する世論調査によると、地域活性化策として国の権限を地方自治体に移して、地方が自由に活動できるようにすることを支持した人は、2年前の調査に比べて19.5ポイント増えて41.9%に達したとのことである。

 ところが、この地方分権という考え方に大きな間違いをはらんでいることに気がついた人はいるのだろうか。

 地方分権とは、すなわち中央集権システムありきの概念である。そこには「国はすべての権限を持っている」「それを地方に(一部)くれてやる」という考えが分権なのである。つまるところ全国知事会の主張は、中央集権システムの概念を突き抜けるものではない。彼らの要求は、結局「もらえる割合を少しでも多く」ということに過ぎないのだ。

 だから私が提案しているのは地方分権ではなく、国家は道州が共同経営するのだ、という概念を持った「道州連邦制」である。中央からのおこぼれをもらうのではなく、「地方が自立した経済体として成り立つシステム」が道州制だ。分権という考え方に固執していては、地方の活性化は望み薄であろう。徴税権や立法権も、中央から地方に移せばいい。それによって初めて、努力した地域が世界から繁栄を呼び込んで栄える時代がくる。

 今の分権論では地方が栄えるはずはない。無理やり地方分権を進めても「地方に人がいないのに、金だけくる」ことになる。挙げ句の果てに「分けてもらった金で地方の役人と政治家が悪いことをする」ハメになる。それでは今までの地方自治体の悪い姿と何ら変わるところがない。民主党なども交付税などの配分をひも付きではなく一括にしよう、と言っているが、これでは自立した責任ある自治体はできてこない。


全国知事会が政党の採点をしても「外野」が騒いでいる程度の影響しかない。むしろ、過去の本連載で私が「新・薩長連合」という概念で説明してきたように、知事有志が結束し、真の地方自治を達成するために立法府に議員を送り込む、というやり方しかこの国の統治機構を変える方法はない。既存の政党は別な目的でできており、地方自治に関しては党内の意見も、信条もばらばらである。こうして間接的に連邦制への移行を主任務とした第三の政党を知事連合がつくり出すことが唯一の貢献である。制度疲労の自民党と政権直前になって小沢商店・ばらまきサービスを始める民主党の口約束を採点してみても始まらない。どのみち知事会も寄り合い所帯だから最後の採点では揉めるだろう。

 だからこそ長期的なボジョンを共有する一部の首長がこの作業をやった方が一大勢力になる可能性がある。横浜の中田宏市長、杉並区の山田宏区長、松山市の中村時広市長などの動きがまとまれば一つのキッカケとなるかも知れない。横浜市だけでも8人の衆議院議員を送り出している。小選挙区制の最大の欠陥は自治体の長の方が天下国家を論じ、国会議員の方が小さな自治体への「(交付金の)運び屋」になってしまった、という点である。全国知事会もここを突破口に国家の統治機構改革に本気で取り組んでもらいたいものだ。


地方分権は、「特別自治道」の韓国・済州島に学べ

 ここで一つ、韓国の例を挙げておきたい。韓国の南には「特別自治道」に移行した済州島がある。韓国はその「道」に立法権も徴税権もすべての権限を委譲した。その結果、済州島はこの10年間ですばらしい発展を遂げたのである。同じ対馬海峡に浮かぶ日本の対馬列島はどうか。済州島とは対照的に寂れる一方だ。

 この二つの島ではいったい何が違うのか。端的に言えば、済州島は立法権、徴税権、その他島の開発に関するあらゆる権限を持っている。ビジョンを持ち、自助努力していけば国からの補助を待たずに経済発展を自立的にできるということに尽きる。韓国からの観光客も多いのだが、済州島はただそれを待っていたわけではない。自前で航空会社チェジュエアラインを持ち、中国をはじめいろいろな国に飛ばして観光客を呼び込んでいる。7月の初めに大きな会議があって私もゲストスピーカーとして訪れたが、20年前、いや5年前とも、様変わりで、一瞬ハワイなどのリゾート地に来たのか、と思ったくらいである。わたしはその繁栄ぶりを見て、地方自治のあるべき一つの姿と感じた。中央集権の非常に強い韓国でも、そういうことが実現できているのだ。

 一方の対馬は島嶼をたくさん抱える長崎県の中でも特に僻地であり、中央から一番遠い、いわば見放されたところである。もちろんハコモノは一通りできているが、経済的には江戸時代の方が自立していた。いまは韓国からの観光客と釣り人が頼りで、日本人の観光客はまず来ない。ここは私の父の出身地で、子供の頃にはよく行ったところであるが、いまは産業もなく、明日の姿を描くのは難しい。しかし浅生湾はじめ景色から言えば済州島の比ではない。違いは地方に与えられた発展のための裁量、自由度である。お金を注ぎ込めば産業は死滅する。自由度を与えれば、とくに国境の島・地方は繁栄する、ということが中央の役人には分かっていない。この点、二つの島を比べて日本の分権論者には多いに勉強してもらいたい。

 全国知事会はマニフェストの採点よりも自分たちで将来の計画を出すべきである。本当に実現したいことをプランとして見せてほしい。そのプランを実現するためには、いまの権限のどこが不足しているのか、何を自由にできるようになったらそのプランを責任持って実現していけるのか、それを示すべきである。単にひも付き予算はやめろ、カネの使い方は任せろ、では子供のおねだりと変わらない。地方が望んでいる権限とは何か、委譲された権限をどのように活用するのか、を具体的に示してもらわないことには彼らに期待する気持ちにもならない。
(引用終わり)




「嫌韓」なんて言っている場合じゃないです。


http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090602/156944/


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