古今亭日用工夫集

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小笠原兵団長・栗林忠道中将(大本営は訣別電報を受けて栗林を大将へ昇進させたが、栗林本人にそのことを知る術はなかった)は硫黄島でどのような最期を遂げたのか。妻子を内地に残して硫黄島に渡り小隊長として部下を率いた30代の召集将校たちの苦悩とは。オリンピックの英雄としての奔放な言動で知られるバロン西中佐の、家庭人としての知られざる素顔。栗林の派遣参謀として父島に着任した堀江芳孝少佐の生涯の心の傷となった「父島人肉事件」の真相。皇室バッシングによって心因性の失語状態となられた皇后陛下が硫黄島慰霊訪問においてお声を取り戻すことができたのは何故か。

前著刊行後の取材と資料によって発掘された新事実を紹介する、『散るぞ悲しき』完結編。著者の初めての硫黄島渡島の思い出を綴った「わたしの硫黄島―あとがきに代えて」も感動的だ。



白眉はやはり第1章の「栗林忠道 その死の真相」であろう。栗林の最期については、最後の総攻撃の陣頭指揮をとった末の戦死(師団長クラスの将官が自決せずに突撃に参加するのは極めて異例)という見方が通説である。しかし硫黄島からの生還者の中には、栗林の死の瞬間を目撃した者がいないため、事実確定は困難であった。
そして近年、雑誌『SAPIO』2006年10月25日号において大野芳によりアメリカ軍に降伏しようとして部下に斬殺されたという異説(「栗林中将の『死の真相』異聞」)が唱えられた。著者はこの大野説を詳細に検討する。大野説の論拠は、防衛庁編纂の『硫黄島作戦について』(昭和37年)に収録された堀江芳孝元少佐の証言である。

著者は堀江証言について、
○堀江は硫黄島戦当時は父島を任地としており、栗林の最期を直接見たわけではない。伝聞情報にすぎない。
○堀江は防衛庁防衛研修所戦史室の聞き取り調査(昭和36年)以後にも、(平成に入ってからも)栗林投降説をしばしば語っているが、情報源に関する説明が二転三転している。
○堀江が情報源として掲げた証言や資料は確認されていない(「そんなことを堀江に言った覚えはない」と完全否定、など)。
といった点から、その信憑性を否定する。

また堀江が投降説と共に述べた、“栗林中将は米軍上陸後1週間くらいでノイローゼとなり、高石参謀長ら幕僚たちが代わりに指揮を取った。訣別電報も参謀が書いた”という証言に関しても、
○栗林は玉砕からおよそ20日前の3月7日、長文の戦訓電報を東京に発して、大本営の方針を痛烈に批判している。
○戦訓電報が栗林の陸大時代の教官である蓮沼侍従武官宛てとなっている。
といった事実に注目し、参謀の代筆ではなく栗林本人が戦訓電報を書いている点から見て、栗林が硫黄島戦の最終局面まで司令官としての役割を果たしていたことを論証している。


著者は、昭和27年2月1日付の毎日新聞に掲載された「栗林が8月15日に2名の幕僚と共に白旗を掲げて米軍に投降してきた」という米軍将校の証言(栗林の後任として第109師団長となった父島の立花芳夫中将の降伏と混同したもの)を紹介したコラムを基に、堀江が証言を捏造した可能性を指摘している。捏造の動機としては、日本の敗戦を見通した結果、戦うことを諦めてしまった堀江の、軍人として名誉の死を遂げた栗林に対する負い目や嫉妬が想定できよう。第4章「父島人肉事件の封印を解く」で明らかにされているように、軍人としての死に場所を得られなかった堀江の“戦後”は決して幸福なものではなかった。

降伏証言が創作され、それがある程度の広がりを持って信じられるようになった(何と現役の自衛官の中にすら信じた人がいる)社会的背景として、著者は戦後的価値観の浸透を挙げている。
昭和27年頃になると、あの戦争は間違いだった、駆り出された兵士達は犬死だった、という言説が盛んになり、その結果「どうして栗林中将は投降して部下たちの生命を救ってくれなかったのか」という怨嗟と、「兵士思いだった栗林中将なら投降を考えたこともあったかもしれない」という期待とがない交ぜになった空気の中で、降伏伝説が生まれたのではないか、というのだ。


現実の栗林は単なるヒューマニストではなく、一兵卒にも親身に声をかける一方で「ゲリラになってでも敵を苦しめよ」「負傷しても捕虜とならず敵と差し違えよ」と部下に命令する厳しい軍人であった。そうした栗林の非情さを現代の価値観によって指弾するのはたやすい。だが硫黄島が米軍の手に落ちれば本土が空襲を受け、多くの民間人が犠牲になるであろうことを、栗林は知っていた。大本営に対米和平を進言しても容れられなかった栗林には、どんなに戦死者を出そうとも、徹底抗戦してアメリカ国民の厭戦気分を喚起する以外の方法はなかったのである。栗林は戦略的・戦術的制約の多い中、現地の最高指揮官として最善を尽くしたと言えよう。

著者は言う。「現代の私たちの感覚で戦場を語ろうとするとき、多くのものがこぼれ落ちてしまうことを忘れてはならない」。彼等の死に勝手な意味づけを行うのではなく、死者の声なき声に謙虚に耳を傾け、ただただ祈ること。それこそが慰霊の正しい在り方なのだろう。


本書は星新一が父である星一のアメリカ留学時代を描いた伝記である。
星一の後半生を綴った『人民は弱し官吏は強し』の続篇に当たるが、
官吏に不当な弾圧を受ける星一の悲劇を描いた『人民』と異なり、
本作は非常に明るく爽やかで、何やら救われた気分になる。


星一は明治6年、福島県いわき地方の片田舎、江栗村に生まれた。
勉強のために上京し、そこで『西国立志編』に出会った星一は、
“アメリカで勉強し実業家になろう”と決意。
東京商業学校を卒業すると、
米国船チャイナ号に乗って横浜からサンフランシスコへ渡る。
明治27年、星一20歳の時であった。


星は明治38年まで、足かけ12年間にわたってアメリカに滞在した。
その間の彼の活動はあまり華々しいものではない。
彼は常に貧しかった。
白人家庭に住み込みで働きながら小学校で英語を学び、
ハンカチやレースの行商や、日本の新聞・雑誌の英訳をしてコロンビア大学の学資を稼いだ。
大学卒業後に、愛国心から友人と始めた事業「ジャパン・アンド・アメリカ」も赤字続きで苦しんだ。
星製薬創業後の八面六臂の活躍と比べたら、
滞米中に星が行ったことは、何とも地味でささやかなものでしかない。
そう、彼はまだ何者でもなかった。


にもかかわらず、星の生き方にここまで惹かれるのは何故だろう。
星の発想力は群を抜いているし、若さに似合わぬ計画性も称賛に値する。
しかし何よりも感動的なのは、その克己心だ。
進んで厳しい道を選び、常に誠意を以て人に接し、
苦しい時も常に明るく前向きで、愚直なまでに正面から難関にぶつかる。
その気高い精神は周囲の人たちの善意を呼び、彼を成功へと導いていく。
そこで得た経験と人脈は、後年の更なる飛躍の礎となるのだ。


桁外れの楽天家である星を厳しくも温かく育んだのは、「明治」という時代と「アメリカ」という国家だった。
四民平等と文明開化によって、才能に恵まれ大志を抱く青年の前には無限の可能性が広がった。
家柄が低くても、金が無くても、自分の才覚一つで成り上がることができるのである。
実際、滞米中の星は一留学生の身で、伊藤博文や後藤新平、新渡戸稲造らの知遇を得ている。
彼等の期待に応えた星も凄いが、星の才能と意欲を認めて星に活躍の場を与えた伊藤らの度量にも感心させられる。
「近頃の若い者は・・・」と愚痴るだけの現代日本の「大人」たちとはえらい違いだ。

そして当時のアメリカは活力漲る新興国として、今以上に「機会と自由」の国であった。
たとえ東洋からの留学生や移民であっても、独立心を持った人間には惜しみなく援助の手が差し伸べられる。
出自に関係なく能力と野心ある挑戦者は正当に評価される。
この時代、この国に巡り会わなければ、「クスリはホシ」は生まれなかったに違いない。

若き星一の努力の軌跡が、
明治日本とアメリカという若き2つの国の歩みとシンクロすることで、
一層輝きを増す。本書の構成は実に考え抜かれている。
単なる“父親自慢”に終わらず時代背景を広く見渡しているところに、
SF作品の形で人類文明の本質を見つめ未来を透視してきた星新一の鋭い洞察力が活かされている。
そして、淡々とした文章の向こうに、父への愛を静かに語る星新一の含羞に満ちた笑顔が見えてくる。

星新一のショートショートは没後10年以上を経てなお若い読者を新たに獲得し続けている。
だが、これからの日本を担う青少年の皆さんには、ショートショートだけでなく、ぜひ本書も手にとっていただきたい。
月並みな言い方だが、あなたも、星一になれるのだ。


今から65年前の8月27日、駐蒙軍最後の部隊が万里の長城に到着した。彼等を出迎えた時の様子を、駐蒙軍参謀長の松永留雄少将は、回想録にこう書き記した。
「暫くの後、後衛整斉たる縦隊を以て帰着す。志氣旺盛なるも、長き頭髪と髯とは無言に長期の労苦を示す。小官感極まり落涙あるのみにして、慰謝の辞を述ぶる能わず」
なぜ、松永少将は部隊の帰着にかくも感動したのか。話は2週間ほど前に遡る。


昭和20年8月15日、玉音放送を通じて終戦の詔勅が外地で戦う日本軍に伝えられた時、根本博陸軍中将は駐蒙軍司令官として、内蒙古の張家口にいた。
本国からは戦闘停止と武装解除が命令されたが、日本のポツダム宣言受諾後も侵攻の意思を見せるソ連軍と対峙する根本にとって、受け容れられる命令ではなかった。満州ではソ連軍が邦人に対し暴虐の限りを尽くしている。安易に武装解除に応じれば、同じ悲劇が張家口でも起こる。
たとえ命令違反を後で咎められようとも自分1人が腹を切ればいいだけのことと覚悟を決めた根本は、最前線の丸一陣地の守備隊に対して下達した。
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし。これに対する責任は、司令官たるこの根本が一切を負う」

根本の決死の覚悟に感動した駐蒙軍は必死の奮戦によりソ連軍の侵入を食い止め、その間に内蒙古の在留邦人4万人は無事に北京・天津方面にまで避難することができた。そして中国へと逃れてきた邦人と、撤退してきた部下将兵たちの内地への速やかな帰還に協力してくれたのが、戦争中は敵対していた蒋介石率いる国民政府であった。

在留邦人の引き揚げ・北支那方面軍の復員を見届け、根本は最後の船で帰国した。しかし、その後の国共内戦は共産党優位に推移し、1949年にはかつての恩人・蒋介石は総統の地位を李宗仁に譲り、故郷の浙江省で隠居することになった。

このままでは蒋介石と国民党の命運は尽きるだろう。恩義を返すには今しかない。根本は再び死に場所を求めて、台湾への密航を決意する――




太平洋戦争関連のノンフィクションというと、旧軍関係者をはじめとする当事者の体験記(回顧録)や、軍事知識や戦史に詳しい軍事史家の著作など、“専門家”の手によるものが主流であった。だが「あの戦争」から60年以上過ぎた近年は、“畑違い”のライターによる新しい切り口の作品が見られるようになった。硫黄島で米軍を徹底的に苦しめた闘将・栗林忠道の人間味溢れる意外な素顔に光を当てて話題を呼んだ梯久美子の『散るぞ悲しき』はその典型であるが、本書もまた、忘れられた名将の人間的魅力に「戦争を知らない世代」が迫った好著と言えよう。


軍人である根本博の晴れ舞台は言うまでもなく、内蒙古「奇跡の脱出」(既に稲垣武『昭和20年8月20日―内蒙古・邦人四万奇跡の脱出』で詳細に紹介されている)と、戦後、金門島において国民政府軍を指揮して共産軍を撃破した古寧頭の戦いであるが、この2つの戦闘に関する本書の記述は意外にあっさりとしている。(知勇兼備の軍人を主人公に据えているにもかかわらず)作者の関心が軍事的側面に向いていないことの証左であり、そこに単なる戦記・名将伝に留まらない本書のユニークさがある。



代わりに本書が重視するのは、根本の命懸けの密航や、古寧頭の戦いの後日談である。蒋介石に雇われて台湾に渡航した白団(旧日本軍将校を中心とする軍事顧問団)と異なり、根本の渡海は、蒋介石に助太刀したいという根本自身の義侠心と、根本に心酔していた通訳の吉村是二の情熱、そして台湾の共産化を阻止したいという旧台湾総督府関係者(明石元長、李麒麟ら)の熱意によって実現したものであった。もちろん金銭的な見返りを求めての行動ではなかった。
根本送り出し工作は、国民政府側からの援助を何ら受けていない自発的なものであり、そのため資金不足から計画は何度も変更され、出航後も、オンボロ漁船の度重なる故障によって漂流の危機にすら陥った。九死に一生を得てようやく台湾に辿り着くと、根本たちは「密航者」として逮捕される有様であった(その後、根本を見知っていた国民政府高官によって釈放された)。
根本の「共に“死ぬ”ために来た」という捨て身の気迫は弱気になっていた蒋介石・湯恩伯らを勇気づけ、その卓越した作戦指揮能力は、連戦連敗で滅亡の淵に立たされていた国府軍に「奇跡」をもたらす。

だが旧軍人への反感が強かった当時の日本では、根本渡台の背後には大掛かりな陰謀があり、巨額の資金が動いたかのように報じられた。また台湾では、金門島防衛が「日本人の手を借りたもの」であったという“不都合な真実”は国民政府によって隠蔽され、根本が台湾を救った事実は忘れ去られようとしていた。


作者による資料発掘・根本ゆかりの人物探しを1つの契機として、根本の偉業が60年の時を越えて輝きを取り戻す「エピローグ」はカタルシスに満ちていて感動的だ。当時を知る生き証人も少ない中、取材にはたいへんな苦労があったと思うが、60年後だからこそ生まれる新しい交流もある。そういった後日談を丁寧に拾っていった作者の努力に敬服する。




いわゆる「戦後民主主義」的な価値観から見れば、終戦後の抗戦は無駄な戦死者を出した犯罪行為であり、台湾への密航は国共内戦への不当な軍事介入、ということになるかもしれない。
しかし、第1次世界大戦後の“戦争はもうこりごり”という英仏両国の過度の厭戦気分がナチスドイツの台頭を許したように、“いかなる理由があろうと、あらゆる戦争に絶対に反対する”という空想的平和主義はかえって戦争を招くことすらある。太平洋戦争を“日本軍国主義による愚かな侵略戦争”とのみ評価することは、あまりに一面的であり、一種の“思考停止”とも言えよう。


風化させてはならない、語り継がなくてはならないことは、決して「戦争の悲劇」だけではないのである。

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 なぜ戦後の日本人は、戦争を行ったことをどこか自分と無関係のように思ってしまうのか。「大東亜戦争」を肯定する右派(保守派)は論外としても、「アジア諸国への侵略行為だった」と非難する左派(リベラル)の論者でさえ、どこか他人事のように「戦争責任」を論じている。この“戦後日本の戦争に対する「当事者意識」の欠如”という謎を解くために著者は、加藤典洋が1994年に発表した「敗戦後論」を手掛かりとしている。

 加藤の「敗戦後論」は、日本が「敗戦」によってアメリカに屈服したという現実を保守派も革新派も正面から受け止めてこなかったことを“戦後日本の最大の欺瞞”として指弾するものだった。保守派はアメリカの戦争犯罪や占領政策、東京裁判を批判する一方で政治的には親米であり、革新派はアメリカから押しつけられた「平和憲法」をあたかも自分たちの力で勝ち取ったものであるかのように語る。こうした「ねじれ」は、敗戦の「隠蔽」に起因する、と加藤は説いたのだ。この「敗戦後論」は右派からも左派からも批判され、近年は言及されることも少なくなっていた。そんな中、著者は「敗戦後論」の再評価を試みる。

 著者は「敗戦後論」に寄せられた諸批判に逐一反駁し、それらが本質的な批判になっていないことを論じる。そして、自己の戦争体験を「身から出た錆」と総括した作家・大岡昇平を、自己正当化を図らず自らの誤りから逃げることのなかった人間として加藤が高く評価したことに注目する。
 だが一方で著者は、加藤が吉本隆明を“負けを潔く受け止めている人物”として称揚するなど、「当事者意識」の問題に自覚的でなかったことをも明らかにし(吉本が自らを戦争の被害者と位置づけている点に著者は注意を喚起する)、大岡と吉本を同列視する加藤の限界を指摘する。加藤の議論は「アジア諸国にどう謝罪すれば良いか」という問題意識から出発しているため、どうしても「相手ありき」になってしまい、自分の内側から出てきた「戦争責任」論にならないのだという。

 そして著者は加藤説の意義と限界を踏まえて、戦後の様々な「戦争責任」言説を分析し、戦後の日本人から“自分も戦争に荷担した”“自分にも戦争責任がある”という「当事者意識」がこぼれ落ちていく過程を描写する。ただ戦中・戦後の一般国民に「当事者意識」がなかった要因については、「椅子」がどうこうと述べるだけで説明が一般的・抽象的すぎる(江藤淳が注目した「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」のような、具体的な分析を欠いている)。やはり本書の本領は、「戦後知識人」が戦争に対する「当事者意識」を持てなかった理由を解明した点にある。

 丸山眞男は軍隊生活に順応できないまま脚気で入院、召集解除で東京へ戻り、前線に1度も出ることなく終戦を迎えた。竹内好は体力不足のため兵隊としては落ちこぼれで、屈辱を味わった。鶴見俊輔は軍属に志願したため前線に出ることはなく、また結核の影響でしばしば療養生活を送った。彼らは戦時下にありながら戦争をリアルに感じることのできなかった傍観者的存在、つまり「補欠」なのである。この点で、第一線で兵士として戦い抜いた「レギュラー」たる大岡昇平や吉田満とは対照的である。
 したがって彼ら「戦後知識人」には、自らが戦争に参加したという意識が希薄で、 “戦争に抵抗できなかった”という通り一遍の自己批判に留まる。そして戦後思想の主潮をなしたのは、自身の手を汚した自覚のある大岡や吉田といった「レギュラー」の言説ではなく<、自己責任を負わない丸山ら「補欠」の言説であった。そのことが、「戦争責任」問題に限定されない、「戦後」から現代に至る日本の(知識人の)「当事者意識」の欠如の根底的要因であると著者は説くのである。


 著者の議論は「戦争責任」という壮大なテーマを対象としているにもかかわらず、「敗戦後論」に対する批判を5つに分類したり、「敗戦後論」の問題点を列挙したりと、その論理展開は意外なほど淡々としている。それは1つには、著者の主張に個人的体験の裏付けがないからだろう。丸山には「戦争体験」があり、加藤には全共闘の体験があった。小熊英二には父親がシベリアに抑留されたという背景がある。著者には何もない。上の世代から見れば、いかにも薄っぺらな思想に映るだろう。
 しかしながら、著者と年齢的に近い私はそうは思わない。しがらみの無さは強みでもある。「戦後知識人」に対する著者の批判の鋭さは群を抜いている。たとえば鶴見俊輔に思い入れのある小熊にはここまでは書けない。著者は言う。「実体験による私情に支えられた思想は、同じ屈辱や後悔を味わった人々には、過ちを二度と繰返させないかたちで機能するとしても、同じ経験をしていない者たちに通用する保証はない」と。

 著者の批判の矛先は、「戦後知識人」の「当事者意識」なき補欠ぶりを継承し、自分のことは棚にあげて高みから大衆に「自立」や「成熟」を説教する「現在の論者」たち(上野千鶴子など)にまで及ぶ。“権威”なき時代を生きてきた世代の著者は、「戦後」との葛藤の無さゆえに「戦後思想」を客観化することができるかもしれない。 


 日本列島最北部の寒村、青森県五所川原市飯詰地区に住む和田喜八郎が自宅を改築した際に「天井裏から落ちてきた」門外不出の秘本、との触れ込みで1970 年代に忽然と人々の前に姿を現した『東日流外三郡誌』。寛政〜文政年間に安東一族に関する歴史と伝承を蒐集した秋田孝季と和田長三郎吉次(和田喜八郎の直接の先祖)によって編纂されたというその大部な歴史書には、倭国(日本国)に滅ぼされるまで津軽地方で繁栄を謳歌した幻の古代東北王朝・荒覇吐王国の歴史が記されていた。

 和田がこの文書群の複写を津軽安東氏ゆかりの地である青森県北津軽郡市浦村に提供し(無償ではなく高額の複写料を取っている)、市浦村は1975年(昭和50年)に刊行した『市浦村史資料編』の中に『東日流外三郡誌』を収録した。
 公的機関のお墨付きとオカルトブームを追い風に、『東日流外三郡誌』は〈勝者である日本国の正史から抹殺・隠蔽された真実の歴史を語る超一級資料〉と全国的に話題を呼び、マスコミで大々的に報じられ、関連書籍も山のように出版された。あのオウム真理教にも影響を与えたという。
 しかし1992年に提起された「自分の著作物が和田に盗作された」という1件の民事訴訟をきっかけに、文書の真贋をめぐって大論争が巻き起こった。江戸時代に書かれたはずなのに近代以降に出版された本からの盗用疑惑が持ち上がるなど、次々と浮かび上がる『東日流外三郡誌』の不審点。内容や語法・文法の分析の結果、『東日流外三郡誌』を昭和中期以降に創作された偽書と推定した「偽書派」は、筆跡鑑定や誤字の特徴も踏まえて偽作の「犯人」を「発見者」である和田喜八郎と特定した・・・!!


 本書は、この戦後最大の偽書事件を最初から最後まで執拗に追いかけた地元新聞記者が、自らの取材記録を基に事件の全容をドキュメント形式で綴ったノンフィクションである。関係者への丹念な取材によって和田の嘘を1つ1つ暴いていき、天才詐欺師・和田の偽造と演出の全手口を白日の下にさらけ出す展開は臨場感たっぷりで、まさに「なまじの推理小説よりもはるかに面白い」(立花隆談)と言えよう。新聞記者だけあって真贋論争の複雑な内容を平易な語り口で説明してくれるので、畳みかけるような文体の妙もあって、純粋な読み物としても楽しめる。戦前の著名な偽書「竹内文書」との意外な接点など、皮肉の利いた和田批判にはニヤリとさせられる。霊感商法や新興宗教を含む「疑似科学」を見破るための指南書としても有用である。


 しかし本書の射程は「犯人のトリックを明らかにする」に留まっていない。和田が作成した『東日流外三郡誌』は、和田の近所の住民ですら「少し歴史の知識のある人なら、おかしいと思う内容です。逆に、あまりにお粗末すぎるために、だれも取り合わなかったのかもしれません」(本書66頁)と評する程度の稚拙な偽書であった。
 にもかかわらず何故、多くの著名な知識人や大手マスコミまで騙される戦後最大の偽書騒動へと発展したのか。筆者はその背景を丁寧に炙り出す。金銭欲と功名心に煽られた支援者たち、村おこしを目論む地元有力者、前例主義と横並び意識に凝り固まった周辺自治体、「謎の古文書」という甘美な響きに幻惑された郷土史家、売れれば良いという無責任な商業主義に走ったマスコミ・出版関係者、自らの政治的・思想的な主張の裏付けに利用した新左翼、地域的コンプレックスから「自分たちにはかつて栄光の歴史があった」(事件発生当初は三内丸山遺跡は見つかっていなかった)と信じたかった東北の人々・・・・・・その殆どに積極的な悪意はなかった。けれども彼等はこの滑稽かつ深刻な騒動に翻弄され、ある者は被害者に、またある者は結果的に和田の協力者となったのである。
 いやむしろ、彼等は被害者であると同時に加害者であったと言えよう。


 だが日本史を専攻する研究者の端くれとしては、アカデミズムの「不作為の罪」については重く受け止めざるを得ない。本書には『東日流外三郡誌』をはじめとする和田の数々の「作品」の写真が掲載されているが、私のような駆け出しの研究者でも、一見して怪しいと分かる代物ばかりである。学界関係者の殆どが「触れるに値しない」(本書347頁)と判断したのは無理のないことであろう。
 しかし「あれは素人が騒いでいるだけ。学界の人間は誰も信じていないのだから問題ない」と沈黙してしまったのは、如何にも残念だ。性質の違う本だから一概には比較できないが、学界が「つくる会」の教科書を「荒唐無稽」と徹底批判した時の10分の1、いや100分の1のエネルギーでも投入していれば、この問題は早期に収束していたかもしれないのだ。
 これでは世間から「象牙の塔」と批判されても仕方ないのではなかろうか。本書が明らかにしているように、この偽書に騙されたのは歴史に全く無関心な人々ではなく、むしろ歴史に興味があり一定の知識教養がある人々であった(オウム真理教の信者の中に高学歴の者が少なくなかったことに似ている。自分の知性に自信を持っているがゆえに騙されるのだ)。本書には中国人学者が「日本人の歴史好き」に驚くくだりがあるが、これだけ多くの一般人が歴史に関心を持つ国も珍しいだろう。だが、専門の歴史研究者と一般の歴史愛好家の距離が遠く交流が乏しいため、専門家なら絶対に引っ掛からないような幼稚な偽書に(インテリを含む)一般人が騙されてしまうのである。これは全く、世間への啓蒙活動を怠ってきたアカデミズムの責任である。自省を込めつつ。


 それにしても神社まで自分ででっちあげてしまった(石塔山荒覇吐神社の神官を称した)和田の偽作へのどす黒い情念には恐れ入る。『東日流外三郡誌』公刊後も和田家では次から次へと古文書が「新発見」されたため、『東日流外三郡誌』を含む「和田家文書」の総数は最終的に4817冊に及んだという(あくまで「これだけ大量の本を和田1人で作れるはずがない」という和田擁護派=真書派の調査結果であるから、誇張されている可能性はあるが)。個人による偽書作成としてはギネス級の分量ではなかろうか。何が彼をそこまで駆り立てたのだろうか。
 偽作の動機としては、金銭欲や名誉欲、果ては東北人特有の「中央」に対する怨念まで指摘されているが、和田は自分に批判的な者の取材には決して応じぬまま亡くなってしまったため(著者が真書側の言い分を聞くべく取材した対象は和田本人ではなく、古田武彦や藤本光幸といった和田の支援者である)、真相は分からない。虚言癖の愉快犯にも見えるし、嘘をつき続けている内にそれが真実であるという自己暗示にかかってしまった狂気の老人と解することも可能である。いずれにせよ、20代から古文書・古物の偽作に手を染めていたという、この怪物じみた希代のトリックスターの生涯は、奇怪な偽書事件と共に、長く語り継がれることだろう。

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