古今亭日用工夫集

最近はSNSに移行していますが…

書籍

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]


アメリカのプリストン大学の助教授として経済学を教えていた著者は、サバティカル(研究休暇)の1年を、世銀の研究所で過ごすことにした。世銀の開発五ヶ年計画調査団に同行してエジプトの首都カイロへ飛んだ。ある日、ふと思い立って、1人でスラム街に赴いた。そこで1人の少女の死に立ち会う。死因は下痢からくる脱水症状であった。安全な飲み水と衛生教育さえあれば、彼女の死は防げた。

「帰途の機上では一睡もできず、自分が受けた教育は何のためだったのか、何をするために経済学を学んだのかと、悩んだ。ワシントンに近づき、機体が着陸体勢に入っても、鬱々としたままだった。が、車輪がドシンと音を立てて滑走路に接した瞬間、目の奥に火花が散った。結論が、脳に映った写真のように、はっきり見えた。学窓に別れを告げ、貧困と戦う世銀に残ると決めた」


以来、著者は23年にわたって「貧困のない世界を作る」ため、世銀で働いてきた。本書はその奮闘の記録である。世銀の仕事は途上国に対する開発資金の融資であるが、闇雲に金を貸すだけでは真の援助にはならない。途上国は政権が腐敗していることが多く、慎重に融資先を選ばなければ汚職政治家が私腹を肥やすだけで終わってしまう。世銀は単なる金貸しであってはならず、融資を梃子として被援助国の中から真のリーダーを育成し、政治を改革しなければならないのだ。まさに「国をつくるという仕事」なのである。


著者は大学で育った研究者だが、決して数字だけに頼ることはない。政府の公式発表を信じることなく、お仕着せの視察コースを回って事足れりとするのでもなく、貧村や貧民街に自ら足を運び、民家に泊まって草の根の民の話に真剣に耳を傾ける。民衆の暮らしを見ずに私利私欲に走る権力者たちには容赦せず、独裁者の脅しにも屈することなく冷然と「融資停止」を言い渡す。


彼女の物怖じすることない直言ぶりは、惚れ惚れするほどだ。

1999年、パキスタンのシャリフ首相に対して。
「人様の大切な金を貸す銀行家として進言する。たとえ首相でも、口約束だけで融資はできない。行動で政治意志を示してほしい。貴国の勇士たちが練り上げた銀行改革案は見事。我が国日本に煎じて飲ませたいほどだ。しかし、トップリーダーの一族が債務不履行ファミリーである限り、銀行界の立て直しは不可能であると判断する。恐れ多くも人の上に立つ指導者は、身辺を清め、民の模範となるべく努力すべし」


「我が国に貧しい民はいない」と嘯くブータンの大臣に対して。
「国民の大半は、車道から徒歩で半日以上の距離に住む。車窓から見えるのは貴国ではない。自分の足で歩いて見てきてください」


インド南部のカルナタカ州に出張した際、知事公邸で歓待を受け、山海の美味を次から次へと勧められても水だけを飲む著者を案じ、「口にあわないのか」と知事に尋ねられたとき、
「閣下はクリシュナ河上流域の草の根を歩かれたことがおありか」
「いや、まだだ」
「それではお分かりにならないだろう。なぜ美味な物が口に入らないのか」




だが徹底した現場主義を取る著者は、民草の心の叫びは謙虚に受け止める。
インドで某NGOから世銀の対応を非難された時の言葉。
「あなたは正直な人だ。お叱りは痛かったけれど、礼を言う。あなたの協力がこの訪問に欠かせないから我慢して、心にもないお世辞を言うのではない。誤解や誤報はあるが、言い訳もしない。世銀が真実国民のためになる仕事をしてきたのなら、こんな目に遭わないはずだと信じる」




著者は腐敗した権力者を厳しく糾弾する一方で、上は一国の宰相から、下は貧村の共済組合の代表者に至るまで、優れたリーダーには賞賛を惜しまず、また全力で支援する。先頃の総選挙で圧勝したインドのシン首相や「国民総幸福量」で有名なブータンのジグミ・シンゲ・ワンチュク雷龍王4世は日本でも評判が良いが、ともすると「軍事独裁政権」の色眼鏡で見られがちなパキスタンのムシャラフ前大統領の実像を本書で垣間見ることができたのは貴重な収穫であった。優れた指導者を得たインド・ブータン・パキスタンでの改革の進捗ぶりを目の当たりにすると、日本はとても南アジア諸国を「開発途上国」と笑ってはいられない。


「ムシャラフ将軍のどこが気に入ったと聞かれたことがある。自分に正直で民を煽り騙さない人だと答えた。彼との時間を思い出すたび、政治家になぜああいう人が出にくいのだろうと憂う」



最後に著者の金言をいくつか紹介する。
「政治家や官僚は、民衆の悩みや苦しみを肌で感じることが不得意だ。どん底の生活にあえぐ貧民のことなど、数字と頭でとらえていればましなほうだろう。先進国でも途上国でも違いはなく、我が国でも例外ではない」

緊急時の援助活動は目立つ。顔が見え、カネが集まり、名声や昇進欲をくすぐる。緊急時だからこそよりいっそう協調すべき公私援助機関が競争に奔る。事態を口実に草の根を無視し、民の意を汲まない活動が起きる。被援助国の人々がすべきことまにまで、援助機関の人間が立ち入る」

「貧困解消と地域開発は切っても切れず、良いリーダーと住民の強い団結があってこそ持続する。どんなに貧しくても、農民には村のために働くという団結精神がある。そのために動くリーダーも農民の中から必ず出る。だから指導者教育が貧村の発展を大飛躍させる」


「国づくりは人づくり。その人づくりの要は、人間誰にでもあるリーダーシップ精神を引き出し、開花することに尽きると思う。未来の社長や首相を発掘せよなどというのではない。育児や家事に勤しんでも、家庭の外に出てどのような職に就いても、リーダーの仕事には夢と情熱と信念がある。頭とハートがつながっているから、為すことが光る。心に訴えるものがあるから、まわりの人々にやる気と勇気をもたらす」



まさに現場の人、行動の人に相応しい、含蓄に富んだ言葉である。


1930年代は、議会政治が軍部によって圧殺され、民主主義が軍国主義に屈服する「暗黒の時代」として叙述されることが多い。しかし著者は、先入観を排し当時の知識人たちの議論を読み込むことで「同時代的認識」に肉薄し、その認識を基に、満州事変から太平洋戦争に至る「戦前昭和」を「テロ」と「戦争」によってのみ説明しようとする「十五年戦争史観」に疑義を呈す。

その要点は2つある。1つは「戦争か平和か」「軍部と協調的か敵対的か」という対立軸だけで政治勢力を色分けしない、という点である。もう1つは「戦争勢力が一方的に平和勢力を圧倒していく」という直線的な理解を否定し、両者の熾烈な鬩ぎ合いと歴史の偶発性を重視する点である。


まず筆者は美濃部礼賛に疑問を投げかける。「天皇機関説」を主張した美濃部達吉は一方で議会に基礎を置く政党内閣制を否定し「円卓巨頭会議」構想を提唱していた。美濃部理論は、軍に対する内閣の権限を強化するものであったが、他方、議会を軽視するものでもあった。
その意味で政友会の「機関説排撃、責任政治の確立」という新方針にも一理はあり、絶対的に美濃部が正しく政友会が間違っていたとばかりは言えない、とする。
美濃部憲法学は、政党や議会の頭越しに社会政策を実行したいと考えていた「新官僚」や陸軍統制派、社会大衆党にとって好都合であり、彼等の攻勢を受けて陸軍皇道派・政友会・平沼系右翼は「機関説排撃」を旗印として提携したのである。しかし岡田内閣・民政党・「重臣」も反政友会に回ったため、皇道派・政友会の劣勢は明白なものとなった。昭和11年2月20日の総選挙で政友会は大敗した。岡田内閣は陸軍内の極右勢力を押さえ込んだという意味では「平和勢力」と言えるが、議会で過半数を占める政友会を無視し抑圧したという点では「憲政の常道」に反する非民主的な政治体制であった。

追い込まれた皇道派将校は2・26事件を起こし、「重臣」の殺害に成功するが、最終的には鎮圧される。一般には以後、軍部の政治への進出が進む、とされているが、筆者は、総選挙での大勝を受けて民政党が軍部批判を強めていったことにも注意を促す。有名な斎藤隆夫の粛軍演説は、実は2・26事件の3ヶ月後に行われたものである。
だが筆者は更に、斎藤隆夫=善、軍部=悪、という従来の単純な見方を糾す。輸出依存の資本家を支持層に持つ民政党は緊縮財政を求め、軍拡に反対したが、それと同時に福祉政策や失業対策にも反対だった。
こうした民政党の態度を攻撃したのが、同じく先の総選挙で躍進した無産政党、社会大衆党であった。社会大衆党書記長の麻生久は、一部特権階級の利益だけを守り、国民大衆に背を向ける「既成政党」を批判し、陸軍と提携して「社会改革」を実現しようとした。

皮肉なことに、「軍縮」を求める平和勢力たる民政党よりも「軍拡」に賛成する戦争勢力たる社大党の方が、「民主的」な政策を唱えるという、「平和」と「改革」のねじれ現象が招来したのである。すなわち、昭和11年の政治的対立軸は「戦争か平和か」という単純なものではなく、「反軍・親資本主義か親軍・反資本主義か」というものだった。戦争と軍ファシズムに反対する「日本版人民戦線」が成立しなかったのは、保守的な政友会・民政党と社会民主主義的な社大党との間に大きな溝があったからに他ならない。


だが、ともあれ政友会・民政党の二大政党は、軍部の台頭に対する危機感から、反ファシズムという共通の目的の下に〈大連立〉することに成功する。「割腹問答」として有名な政友会の浜田国松の陸軍批判は、意図的に寺内寿一陸相を挑発し、広田内閣を総辞職に追い込もうとしたものだと、著者は説く。首尾良く広田内閣を総辞職させた政友会・民政党は陸軍長老で反戦派の宇垣一成を後継首相に擁立しようとするが、石原莞爾ら陸軍中堅層の反対と内大臣湯浅倉平の弱腰によって失敗に終わる。結果的に日本の平和勢力は、戦争勢力をあと一歩のところまで追い込んでおきながら、戦争回避の最大のチャンスを逃すことになった。

二大政党の連立政権=「協力内閣」たる宇垣内閣が流産した後に成立したのは「軍部独裁」政権たる林銑十郎内閣であった。この内閣の下で、重化学工業の振興が決定され、これを契機として、反目し合っていた陸軍と財界が「狭義国防論」を媒介に接近する。これに対し「広義国防論」を提唱し親陸軍の立場を取ってきた社大党は、陸軍の裏切りに憤り、反陸軍に転換して「軍拡よりも国民生活の安定を優先すべき」と説く。

林内閣解散後の昭和12年の総選挙では、社大党は大躍進を遂げた。旧来、同党の躍進は「国家社会主義」=「ファシズム」の勢力増大と解釈されてきたが、筆者はそれを「国民的支持をある程度得るのに成功した勢力」を「すべて戦争協力者として糾弾する」結果論的解釈として斥ける。同時代の少なからぬ言論人は社大党の台頭を、ファシズムでも共産主義でも「古きリベラリズム」でもない社会民主主義が日本に登場したものとして歓迎し、社大党を反戦・反軍の新たな旗手として期待する向きさえあったという。


筆者によれば、戦前日本の民主主義の盛り上がりが最高潮に達してから僅か二ヶ月後に蘆溝橋事件が勃発し、日本は一挙に戦時色を強めていくという。1930年代のファシズムの延長線上に日中戦争が勃発したのではなく、偶発的に発生した蘆溝橋事件が日本を民主主義から軍国主義へと転換させたという筆者の結論は、かえって恐ろしい。
筆者の思想はかなりリベラルなものと想像されるが、その研究じたいは、民主主義は戦争を防止すると嘯く戦後民主主義の欺瞞を図らずも暴いており、その学問的誠実さと勇気には頭が下がる。1937年総選挙における日本無産党の大敗を説明する際、2003年総選挙における社会民主党の惨敗に言及して「『反戦平和』だけでは、平成15年にも昭和12年にも、社民政党は選挙に勝てないのである」と揶揄するところなんぞは、実に痛快であり、その現実的な視点に「空想的平和主義者」たちは見習うべきであろう。


ただ政友会も民政党も、その内部は必ずしも一枚岩ではなかった。二・二六事件以降の二大政党が一丸となって反軍的姿勢を取ったわけではなく、党内にはファッショ・親軍路線を目指すグループもいた。たとえば近年、井上敬介氏は、「流産内閣」となってしまう宇垣擁立工作は民政党主流派ではなく反主流派の一部によって推進されたものであり、その目的も「政民連携」ではなく、むしろ政友会・民政党という既存二大政党を「親軍的政党」へと発展的に解消することにあった、と論じている。この井上説が正しいとすると、仮に宇垣内閣が成立していたとしても、戦争回避は困難であったことになろう。

開く トラックバック(1)

資料の徹底的な博捜と、関係者への綿密な取材によって、「ショートショートの第一人者」星新一の実像に迫った力作。小学校時代から調査するという念の入れようで (星は長い作文が書けなかったらしい)、飄々・恬淡・奇矯といった表面的なイメージの奥に隠された人気作家の焦燥と苦悩を炙り出している。

星新一の家族関係や特殊な境遇は『人民は弱し 官吏は強し』やエッセイなどで彼自身がしばしば語ってきたが、その中で明かされなかった、異母兄との関係や星製薬の内情などの「秘密」を本書は容赦なく暴いている。

そして「星製薬の御曹司」という肩書きは良きにつけ悪きにつけ、星新一の文筆活動に大きな影響を与えたことが良く分かった。星製薬を潰したという負い目、社長時代に多くの人間に裏切られたことから生じた人間不信が、星の性格に暗い影を落とし、感情表現を省いた独特のクールな文体を生み出した(この点は星自身もある程度、認めていたが)。
逆に、固有名詞を排した無個性の登場人物を描くことで知られる星新一が、実は自分をモデルとした人物を作中に登場させていた、という指摘は新鮮である。星製薬社長としての過去を振り払おうとすればするほど、その影は執拗にまとわりついてくる。そんな皮肉に星新一本人も気がついていたのだろうか。
一方で、彼の毛並みの良さが、キワモノ扱いされていた黎明期の日本SFの地位向上に役立ったという。
当時におけるSFの社会的評価を考える上で貴重な事実発掘と言える。

また戦後日本のSFの創始者である星新一を通じて、日本SF発展史を語っているところも興味深い。従来、この種の「日本SF史」は専ら、黎明期を支えた当事者たちの回顧録によって占められていたので、第三者が複数関係者の証言を突き合わせて客観的に分析した点には大きな意義がある。



しかし何と言っても、本書の白眉は、星新一に対する社会的評価の変化を具体的に明らかにした部分であろう。今では信じられないことだが、デビュー当時の星新一は安部公房と並び称される文壇の新星であった。文壇の長老たちからは「人物が描けていない」などの酷評を受けたものの、若い世代からは、無駄を削ぎ落とした都会的で洗練された文体と核心を衝く卓抜な文明批評が斬新なものとして受け止められた。人間関係の描写に終始する泥臭い旧来の日本文学とは一線を画した、「科学の時代」に相応しい新しい文学として認識されたのである。そして星自身も当初はショートショート専門の作家で終わるつもりは毛頭なかった。

ところがSFの大衆化、量産に伴うマンネリ化(ただし量産は星本人の本意ではなく、ショートショート依頼の殺到と、原稿料の安さが原因)、読者層の低年齢化に伴い、文壇での星新一の評価は下落する。時代の寵児は一転して、文学賞から無縁の存在になった。SF界においてすら「天皇」と祭り上げられつつも、中心的存在ではなくなっていく。酷使された星はアイディアの枯渇に悩まされるが、「ショートショートの第一人者」としての地位を守るため、「ショートショート1001編」を目指して、それでも書き続ける。だが、ようやく達成した空前絶後の偉業も、文壇的には全く評価されなかった。


「親切第一」というサービス精神ゆえに「ショートショートの第一人者」という肩書きに生涯縛られ続けた点に、筆者は手塚治虫との共通点を指摘する。しかし本書を読む限り、手塚との共通点はそれだけに止まらない。ジャンル創始者としての自負、「子供相手の商売」と見下されることへの不満と反発、神格化されつつも人気面で後輩に抜かれていくことへの焦り(星の場合は小松左京・筒井康隆、手塚の場合は石ノ森章太郎・水木しげるなど)・・・筒井への嫉妬、晩年になっても「どうして自分は直木賞をもらえないのか」と愚痴をこぼした、「文学的評価よりも売り上げ」と自己を卑下した、などのエピソードには意外の観があったが、偉大な功績に比して報われるところが少なかった作家であった証左とも言えよう。



私の父はかつて、星新一にサインをもらったことがある。
そのサインの言葉は「想像力を失えば、思想の自由も無意味となる」であった。
本書では「SFなんて文学じゃない」と言う編集者に対して星新一が、
「文学が想像力を否定するものとは知らなかった」と反駁するエピソードが紹介されているが(370頁)、
こうした「純文学」の側からの無理解に、まさしく己の想像力ひとつを武器に立ち向かっていった作家が、星新一だったのである。

開く トラックバック(1)



漱石研究の第一人者ながら、今や受験国語対策の方が有名になりつつある(笑)石原先生の新書。

大学教師の余技として小説業を始めた夏目漱石は当初、個人的に親交のある「顔のはっきり見える存在」しか読者として意識していなかった。『坊っちゃん』の差別性は、漱石が身近にいるトップエリートしか読者として念頭に置いていなかったことに起因する。

しかし広く社会に向けて発信したいと思うようになった漱石は大学を辞して朝日新聞社の専属作家となる。新聞小説家となった漱石は、朝日新聞を読む中流階級を「何となく顔の見える存在」として意識しつつ執筆することになる。

ところが漱石は、入社第1作『虞美人草』において読者の裏切りに遭う。漱石自身が「徳義心が欠乏した女」として描いた奔放なヒロイン藤尾を読者が熱烈に支持し、藤尾ブームは「虞美人草浴衣」や「虞美人草指輪」という形で小説そのものを読んでいない庶民をも巻き込んでいった。ここにおいて漱石は「何となく顔の見える読者」の真の需要を知り、また漱石の小説をきちんと読みもしない「のっぺりした顔の見えない」ような第三の「読者」の存在に気づき始める。

以後、漱石は「顔のはっきり見える読者」、「何となく顔の見える読者」、「顔のないのっぺりとした読者」の3人の読者のそれぞれに対応する形で、多面的に小説を執筆するようになった・・・・・・これが奇妙なタイトルの意味である。近年の国文学研究では「国民作家漱石」という評価が「神話」にすぎないことが明らかにされているが、当時の「格差社会」ぶりを正確に踏まえた上で読者層の性格を追究した点に本書の長所がある。「テクスト論」を踏まえ、更にそれを超克しようとする、その雄大な構想と緻密な構成には舌を巻く。


特に『三四郎』における三四郎と美彌子との邂逅シーンにおける分析には恐れ入った。漱石は確かに、東大構内を良く知っている身近な読者(東大生、東大卒)にだけ、このシーンの本当の意味が分かるように書いたのだろう。教養高く生意気な弟子たちへの謎掛けであり、挑戦状だったわけだ。
一方で多くの同時代読者(朝日新聞を購読している中流階級)はこの小説を「三四郎が美彌子に翻弄されながらその恋心を育てていく、三四郎と美彌子の淡い恋の物語」として読んだ。そうも読めるように漱石が仕組んだ、と著者は説く。
更に「顔のないのっぺりした存在」である庶民層にとってもリアリティーが感じられるように、故郷の幼馴染みである御光との結婚話という展開まで用意するという漱石の周到さには感心するが、そこまで読み取る著者も凄い。著者は引き続き、漱石作品の多層構造を『それから』においても指摘する。

また著者は、漱石後期三部作の複雑な構成は、毎日の新聞連載を読み捨てていく「何となく顔の見える読者」には理解できなかったはずで、前半に戻って読み直すことのできる単行本読者(高価な単行本を購入することのできる裕福な特権階級)=「顔の見える読者」のみに小説世界の全貌が分かるように仕掛けた、と喝破する。「前者は職業作家漱石の仕事であって、後者は芸術家漱石の密かな楽しみ」と捉えて、後期三部作を読み解いていく。

その解釈はスリリングだが、「テクスト論」の中での漱石研究の成果が(紙幅の都合で?)省略されてしまったのは惜しまれる。特に『こころ』の場合、小森陽一の研究に見えるように、「手記」の書き手である青年の「その後の物語」、つまり『こころ』本文に「書かれなかった物語」を、書かれている断片的な言葉から再構成することが盛んに行われたからである。「先生」が自殺した後、残された「奥さん」と「私」との関係をどう考えるか。「私」が遺書を「奥さん」に届けて、彼女と共生関係になるというのが小森の読みだが、確かに漱石の頭の中には「その後の物語」があったと思われる。

ともあれ、小説の奥深さを知るには格好の入門書であろう。

星新一とイキガミ


ちょっと前に、漫画『イキガミ』に関して剽窃騒動がありましたね。星新一の「生活維持省」をパクっているのではないか、と。


う〜ん、もともとSFのアイディアというのは、似通ってきてしまうものというか、共有財産的な部分がありますからね・・・・・・

たとえばタイムパラドックス作品は、基本的な骨格はだいたい同じです。
広い意味で言えば映画“Back to the Future”だってハインラインの『夏への扉』のパクリと言えなくもない。
またアシモフのロボット3原則は、手塚治虫が『鉄腕アトム』で採り入れていますが、これを盗作と言う人はいないでしょう。


人工的に人口を抑制することで国民の生活レベルを保つという発想は、産児制限という形では現実に実行されていますし(優生学や中国の「ひとりっ子政策」)、一方で「姥捨山」という話も昔からあるわけです。これをランダム方式にして、選ばれた人を殺すという設定に飛躍させることは、(少なくとも『バトル・ロワイヤル』のような先行作品が存在する現代においては)そんなに難しいこととは思えず、「生活維持省」を読んでなくても思いつく気がします。

ちなみに「生活維持省」より以前に発表された作品で、ロバート・シェクリイの「七番目の犠牲」という短編があります。この作品は戦争防止のために殺人を条件付で合法化した社会を描いています。殺人をしたい者は登録し、指定された人間を「狩る」。そしてその人は数ヶ月後には「獲物」役となり、「狩人」から我が身を守ることになります。目的は人口抑制ではなくて破壊衝動の発散を通じた戦争防止ですが「選ばれた(何の罪も無い)人を殺す社会」という設定は一緒です。




小学館側の、
「星マリナさんは『生活維持省』と『イキガミ』の類似点を指摘していらっしゃいますが、弊社は2作品に多くの相違点を感じます。たとえば、『生活維持省』と『イキガミ』の大きな違いの一つに、死亡の24時間前に通告書を渡しに行く(死亡を告げる公務員が自ら手をくだして相手の命を奪うのではなく、単に告げに行く)、という点があります。
作者のこの設定により、死亡を宣告された若者が24時間の間に何をするか、どう生きてどう死ぬか、というドラマが生まれます。そのひとつひとつのドラマこそが作者が描きたかったことであり、作者なりに、現代の閉塞した社会を生きる若者に向けて命がけでメッセージを送っているつもりです。そしてそれは、上述したように、国家によって選ばれ、配達人によって召集令状=赤紙を渡され、死地に赴かざるを得なかった若者たちが、何を思い、悩み、戦場で死んでいったか、そしてその家族がいかに苦悩したか、という歴史的事実からの着想であり、構造的には設定部分はそこに由来するものです(死亡者の家族への遺族年金、通告書の受け取りを必要とする、といった部分も歴史的事実からの着想です)」という反論も説得的であると思います。http://hoshishinichi.com/ikigami/index.html

イキガミの場合、「余命半年を宣告された患者が、残された僅かな時間に何をするか」といった普遍的(そして、ある意味でありきたりな)テーマに繋がるわけで、連載漫画であるイキガミの魅力が、設定の面白さよりも、「そのひとつひとつのドラマ」にある事は間違いないと思います。その意味では、むしろセカチューに近い作品なんですね。



もう少し詳しく説明しましょうか。

星新一の「生活維持省」は、その名の通り、「生活維持」のために間引きを行うというシステムそのものが主題になっています。「一定水準の生活を人々が享受するためには、人減らしを行うしかない」という人類の救いがたい業、人間社会の根本的な矛盾を突いた作品であり、社会諷刺・文明諷刺の色合いが強いんですね。特に、(人口増加=食糧・資源の不足を主因とする)戦争という形の残虐な大量殺人を防ぐには、奪い合い・争いのない平和で豊かなユートピア社会を築くには、国家による計画的な殺人が不可欠であるというシニカルな結論に力点が置かれています。
それに対しイキガミは、「死亡を宣告された若者」に焦点が当てられているわけなので、設定は類似していても、テーマは異なると見るべきでしょう。


そして小学館側の弁解にある通り、両作品の根本的な相違として、事前宣告の有無があります。
「生活維持省」の場合、選ばれた人は何も知らされずに殺されるので、「宣告」される『イキガミ』との隔たりは大きい。
更に言えば、「生活維持省」で際立つのは、星新一独特の乾いた文体で、淡々と「間引き」が描かれている点です。そこにディストピア小説としての「生活維持省」の恐ろしさがあります。あくまでクールに、アイロニカルに未来社会を描出する諷刺的作品と言えます。したがって本作に「感情」「ドラマ」が介在する余地はありません。あえてドラマ性を排したところに、私は「生活維持省」の凄味を感じますね。

一方、『イキガミ』の場合は、クールとは程遠い、宣告された人の「感情」「ドラマ」が主題となっています。悪く言えば「お涙頂戴」ということになります。
両作品の根本的な相違は、「間引き」の理由が、「生活維持省」では文字通り「生活の維持のため」、『イキガミ』では「生命の価値を認識させるため」と大きく異なるところに象徴されていると思います。


ドラマ性のない「生活維持省」と、ドラマ性こそが主題になっている「イキガミ」は、違う作品と見て良いのではないでしょうか? 



もっとも小学館・作者側の「読んだことがなかった」というのは言い訳にならず、仮にその主張が事実だとしても勉強不足と言わざるを得ませんがね。






人気ミステリ作家が徹底検証!『イキガミ』盗作騒動の罪
http://www.cyzo.com/2008/10/post_1035.html

 現在までに刊行されたコミックス計5巻が累計発行部数200万部を超え、松田翔太主演の映画版も好評公開中の『イキガミ』(小学館)。ただ一方で、本作が、作家・星新一のショートショート『生活維持省』(『ボッコちゃん』新潮文庫)の剽窃に当たるのではないかという疑惑が生じ(記事参照)、ネットなどで「パクリか否か」という騒動を巻き起こしたのも記憶に新しい。

 主に問題となっているのは、両作に共通している"国家による無作為に選ばれた国民の殺害"という設定。『生活維持省』がこれをオチで明かしているのに対し、『イキガミ』では死亡を予告された人間のドラマに焦点を当てているという違いはあるのだが、確かに物語の根幹となっている設定が酷似していることは間違いない。この問題について、自身のHPでも詳細な検証を行っているミステリ作家の藤岡真氏は次のように語る。

「この2つの作品は、基本的にまったく似ていません。『生活維持省』は美しく平和な生活を維持するために国家が国民を間引いて人口を減らしているという話で、一方の『イキガミ』は星新一公式HPに掲載されている小学館の公式見解にもありますが、"余命24時間と宣告された若者が、死と向き合ってどう生きるのか"というドラマを描くものです。これって、いわゆるお涙頂戴の"難病モノ"と同じなんですよ。このように全然違う話であるにもかかわらず、国家が個人を無作為に選んで殺害するという設定だけが酷似している。つまり"余命24時間"というシチュエーションを作りたいがために、『生活維持省』から" 国家による無作為殺人"という設定を安易に持ってきたのではないかと。細かいことを挙げればキリがありませんが、特に必要性もないのに『生活維持省』と同じく死を告げる人物が主人公になっていることや、"国家繁栄維持法"という設定にまつわる数々の破綻や矛盾もそれを物語っています。そもそも国家繁栄維持法の"維持"とは、何を維持するためのものなのか。『イキガミ』で描かれる世界は、さまざまな問題を抱えた現代社会と何も変わりません。これも『生活維持省』が念頭にあったからではないかと思えるのです」

 ちなみに前述した小学館の公式見解によれば、『イキガミ』の作者・担当編集者共に、最近になるまで『生活維持省』を読んだことがないと主張し、似ているのはすべて偶然であるとしている。これに対して藤岡氏は「小学館は2005年に日本文藝家協会から両作品が似ていると指摘され、そこで2作を比べてみたが問題ないと判断したということですが、それなら08年9月付の見解で"最近になるまで『生活維持省』を読んだことがない"とはどういうことなのでしょう。作者と担当編集者が、当該作品を読みもせずに似ていないと判断したんですかね」とチクリ。

 しかし──と藤岡氏は続ける。

「『イキガミ』に著作権侵害が成立するかといえば、これはしないだろうと思います。物語のアイデアや設定は、基本的に著作権で保護されるものではないからです。ただ、こうした態度は星新一が残した素晴らしい小説を冒涜していると思うし、またオリジナルを超えるものを描く自信がなければ、同じような設定を使うべきじゃないと考えます」

 星新一氏の次女で星作品の著作権を管理している星マリナ氏も、HPで「納得はできないが、これ以上の抗議はしない」と表明していることなどから、この問題もこのまま沈静化していくと思われる......。はたして今回の騒動、星新一は草葉の陰で何を思うのだろうか?
(橋富政彦/「サイゾー」11月号より)

開く トラックバック(1)

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
yjisan
yjisan
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

ブログバナー

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事