古今亭日用工夫集

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ある方のところから拝借してきました。
ドラえもんの最後は色々な説がありますが、とても良かったです。

転載元転載元: 大泉学園・もんじゃ屋のつぶやき


 本書に見える「友愛数」に「完全数」といった知識は、ただそれだけでは「へえ〜」というトリビア的なものに終わってしまう。
 それら数字の不思議さへの好奇心を偏愛的なまでに誇張し、美しくロマンチックに表現する。「無味乾燥」という数学への世間的な印象とのギャップを巧みに描いた点に作者の技量がうかがわれる。
 ただし、数学科にいる私の友人は「数学の本質と関係ない」と言っていた(笑)
(母子家庭に育ち、18歳で未婚の母となったという苦労人の「私」が、いつの間に、かくも見事な文学的感受性を身につけたのか疑問も残るが)
 高尚な数学と通俗な野球という組み合わせも良い。

 ただ対象選択の希少性(「記憶障害の数学者」)の利用という戦略は安易といえば安易である。障害者の美質を讃えるという偽善的手法は、個人的にはあまり好きにはなれない。小川洋子の芥川賞受賞作『妊娠カレンダー』には、両手と片足のない老人を主人公にした「ドミトリイ」という短編が収録してあるが、これなどはまさに典型と言えよう。こういう狡猾で陰険なぶりっ子的偽善がもてはやされるようでは世も末である。安っぽい感動の押し売りは願い下げだ。

 本作品の「博士」は、事故以前の記憶と直近80分前までの記憶しか保持できない。そのため家政婦である「私」やその息子「ルート」との関係は全く進展していかない。経験が積み上がっていかない、〈未来〉のない、一見不毛な関係である。
 
 そんな彼らをつなぐものは、普遍的な真・善・美を体現する数学、そしてその背景にある〈優しさ〉や〈思いやり〉〈愛〉といった人間の普遍的な美徳である。無機質な数学を題材としつつも、この小説の本質は〈人間讃歌〉と言えよう。

 しかし、この穏やかで幸せな理想的関係は、実は先生の記憶障害を基盤としている。仮に気まずくなっても、「博士」はやがて、そのこと自体を忘れてしまう。80分経ったら関係がリセットされてしまうからこそ、「私」はこの変人と気軽につきあえるのである。
 
 実際、「私」は「博士」の〈過去〉に通り一遍の興味しか示さない。「博士」が「私」の過去を穿鑿できない以上、それはフェアな態度とも言えるが、意地悪く見れば、「博士」の〈過去〉を背負いたくないともとれよう。

 そのことは「博士」の義姉と比較すれば、より明瞭になる。義姉は今でも「博士」のことを愛しているが、「博士」の〈過去〉を知るが故に、〈現在〉の博士を見るのが辛くて、普段は会おうとしない。そんな義姉からすれば、何も背負わずに〈現在〉の「博士」と楽しく数学談義をする「私」の行為は、〈いいとこどり〉に見えて当然だろう。義姉の「私」への態度が単なる嫉妬心ではなく、その〈箱庭的ユートピア〉への批判である点に留意する必要がある。

 しかしながら、「私」は義姉のそのような気持ちに鈍感であるように思え、その点が私にはひっかかった。おそらく作者自身が上記のような構造にあまり自覚的ではなく、単なる「美談」にしてしまったからだろう。

 義姉の存在をもっとクローズアップ(あくまで「さりげなく」だが)、より深みのある作品になったに違いない。




http://www.bk1.co.jp/product/2604252/p-yjisan

 茫漠たる南仏の自然を彷彿とさせる簡潔かつ的確な風景描写。静かな筆致で描き出されるブフィエ老人の圧倒的な存在感。『木を植えた男』はジャン・ジオノの筆力がいかんなく発揮された作品だ。しかし何よりもまず、優れた「破滅と再生」の物語であると思う。
 第1に作品の舞台である、一地方の破滅と再生。作中の説明によると、かつてこの地域は水が豊かにあり、繁栄していたという。しかし、語り部である「わたし」が初めてこの地域を訪れたとき、水は涸れ果て木1本ない荒涼の地となっていた。そしてエルゼアール・ブフィエの長年の地道な植林によって、水は蘇り、この地域は繁栄を取り戻す。
 こう言ってしまうと単純な筋だが、そこには深い意味が隠されている。我々はここで、一つの謎に思い当たらなければならない。それは、何故、繁栄していたこの地域が破滅してしまったのかということだ。
謎を解く鍵は、この架空の地域のモデルである南仏の歴史にある。南仏もかつて森と水の豊かな地方であった。多くの人々が住み、文明が栄えていた。しかし森林伐採により水は涸れ、人々もこの地を離れ、荒廃していった。すなわち、文明化という名の自然破壊が、自然を自分たちの資源としか考えない人間の驕慢が、彼ら自身の生活を破壊してしまったのである。
 作中にも木こり・伐採・炭焼きという言葉が出てきており、ジオノがこの作品を通して物質文明に対する鋭い批判を行っていると考えて間違いないだろう。第1次世界大戦の惨劇を目の当たりにしたジオノにとって、物質文明の破綻は過去の出来事ではなかった。その強烈な問題意識が、淡々と描かれる荒廃の様子に迫力を加えている。そして文明批判の奥には当然、物質的利益のみを追求する当時の人々への批判がある。これに対してブフィエ老人の植林は、ジオノが理想とする「自然との共生」の象徴であり、ブフィエはジオノにとって理想の人間像なのである。
 第2に「わたし」の破滅と再生。「わたし」は第1次世界大戦に徴兵されヴェルダンでの激戦を経験する。あまりに多くの死を見た「わたし」の心は荒んでしまい、「人間は破壊するだけの存在」と考え始める。人間の生産的・創造的側面を象徴するブフィエの生存を自分の目で確かめるまでは信じられない。「わたし」は神の救済をも疑う。だがその「わたし」の心も、ブフィエの作った美しい森林とブフィエの高潔な精神によって次第に癒されていく。ブフィエとその森林は、破壊の極限である二度の大戦にも動じなかった。人間の創造性が破壊性に打ち勝てることを知った「わたし」は破滅前よりも一回り大きな人間として再生するのである。
 そして最後にジオノ自身の破滅と再生。この作品は元々、リーダーズ・ダイジェスト誌のシリーズ「私の出会った最も忘れ難い人物」のために執筆を依頼されたもので、そのためノンフィクションの形式をとっている。よって作中の「わたし」は作者ジオノの分身といえる。ジオノもまた「わたし」同様、激戦地のヴェルダンに送られ、そこで大きな精神的ショックを受ける。その後、反戦主義を唱えるが、それゆえに迫害され、2度も収監される。
だがジオノは、人間不信を乗り越えて素晴らしい作品を書き続ける。『木を植えた男』はエルゼアール・ブフィエの無私無欲の行為を高らかに謳いあげた作品である。ジオノはこの作品を執筆する過程で、人間の良心と善性への希望の光明を見出していったに違いない。ちょうど「わたし」がブフィエとの交流を通して人間不信から立ち直ったように。
 ジオノは他人の評価を気にすることなく、黙々と執筆を続けた。その著作は決して忘れ去られることなく、今も人々の心を潤している。ジオノは「わたし」であると同時にブフィエ老人なのである。



http://www.bk1.co.jp/product/663714/p-yjisan

『沈黙の艦隊』、この漫画はまぎれもなく、かわぐちかいじの最高傑作であり劇画の一つの頂点に到達した作品であろう。
この作品で興味深いのは、現代の複雑性を余すことなく描ききっているにもかかわらず
(つまりこの作品の背骨は複雑な現代世界情勢であるにもかかわらず)、
作品の心臓(すなわち血液を送り出す部分)は「男の情熱、ロマン」というあまりにも単純きわまりないものなのである。どんなに社会が複雑になっても、社会を作る人間は変わらないと言っているようにすら聞こえる。時代の最先端を描きながら、最も古くから存在する人間の精神を受け継ぐ。そこにこの作品の成功の要素があるのだろう。
この長大な作品内で女性がたった1人(海江田四郎の妻)しか存在しない(しかもラストにちらっとだけ)ことは誰もがすぐに気づくことだが、いわゆる私利私欲に走る「悪人」がほとんど存在しない点は特筆されるべきだ。
みな、迷いながらも自分の「信念」に従いながら懸命に生きており、
「公」とでも言うしかないものに貢献している。
例外的存在は軍産複合体のトップたちだが、彼らも「必要悪」という信念に従っており、
それ以上に彼らは人格を持った個人というよりは人間の悪意の象徴なのである。
この作品に『走れメロス』を感じるのは私だけだろうか。
メロスが海江田四郎、セリヌンティウスが深町洋、暴君ディオニスがニコラス・J・ベネット(笑)。
人間の性善を安易に信じられないのは政治家の宿命であり業である。

その心を溶かすことができるのは人間の善意を無邪気に信じられ、
信念の実現のためには自らの命を投げ出すことも厭わない英雄的(ある意味「非人間的」)人物のみである。海江田が国連総会の壇上でベネットに対し、
「人間は悪意より善意の方が上回っていると思うか?」と問うたのはその意味で象徴的である。
そしてその英雄の人間的本質を理解している者は少ない。

深町はその言動とは裏腹に、多分に海江田を信頼している。しかし一度、その信頼が崩れた時がある。「やまと」の東京湾脱出の時である。深町は東京湾で「やまと」に魚雷を発射しようとした。
自分の親友にすぎない、一個の(そして生身の)人間にすぎないはずの海江田に
「政軍分離」やら「超国家軍の創設」などできるのかという疑いがあったに違いない。
だが、海江田の人間的本質を理解しているがゆえに、海江田を信じる気になったのだろう。

そのように考えると『沈黙の艦隊』があまりにもファンタジックというか嘘臭いのは
海江田が完璧すぎる点に起因する。
メロスのように挫折したり、ベネットのように苦悩したりしない。
一度、「私に役者としての資質があるだろうか」という独白があったが、
これだけでは海江田の神がかったカリスマ性を減ずるにはあまりにも弱すぎる。
メロスは人間の範疇にとどまるが、
海江田は神の領域に達してしまっている。それが海江田の魅力でもあるわけだが、
逆に言えば、神が現れたり奇跡が起こりでもしないかぎり、
核廃絶・世界平和は達成されないという皮肉な結論にたどり着くことも可能だ。

また、全篇を流れる理想主義とヒロイズムと関連するが、軍産複合体を安易に敵役(ヒール)
にしてしまっている点も気になる。太平洋戦争のifものの代表作『紺碧の艦隊』もそうだが、
軍産複合体というのは何かと戦争を生み出す元凶として描かれる。
冷徹かつビジネスライクな頭脳、
そして強大な力を持つ彼らはヒールにするには絶好の存在だからであろう。
だが、彼らを生んだのは、欲望、憎悪、嫉妬、疑念、その他もろもろの人間の悪意に他ならない。
まさしくユネスコ憲章が言うように「戦争は人間の心から生まれるもの」なのである。

戦争の原因を軍産複合体に求めるのは簡単だし、
そこに一面の真実があるのも確かだが
(国家の枠を超えて蠢く軍産複合体を管理する方法は案出されるべきであろう)、
自分たちの醜い部分に目を向けなければ、「戦争廃絶」は画餅と帰すであろう。


http://www.bk1.co.jp/product/2551993/p-yjisan
http://www.bk1.co.jp/product/2147028/p-yjisan

「昭和の参謀」瀬島龍三の欺瞞と粉飾をこれほどまでに見事に暴露した本は他にないであろう。
瀬島が『不毛地帯』の壱岐正のようなヒーローでないことは一目瞭然だが、
本書が瀬島を単に悪く書くだけでなく、
極悪非道・冷酷無比の悪の権化でないことをも明らかにしている点は興味深い。
私人としての瀬島は面倒見の良い優しい男ですらあった。
すなわち瀬島は、要領が良く世渡り上手の小利口な秀才にすぎず、
権力者の威光を背景に「参謀」として大勢の人間を意のままに動かすことに喜びを見出してしまった小人
と言えよう。

「軍刀組」としてのエリート意識を戦後も持ち続け、さらに肥大化させた彼は、
特権者である自らが一般大衆に命じるのは当然と考え、
その命令の結果に対する責任を決して取ろうとしない。
そのくせ「御国のため」と声高に喧伝する。
他人に要求する倫理を自らには適用しないのは偽善者の常だが、
巨悪になる度胸を持たない臆病な自尊心は、瀬島一人に限らず、
戦前・戦後の日本型エリートに共通する特質ではなかろうか。

単なる瀬島批判に留まらず、
公私を混同しノーブレス・オブリージュを果たさない日本の支配階級に対する
痛烈な批判となっている点に、本書の意義は存する。


http://www.bk1.co.jp/product/739948/p-yjisan

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