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山崎元のマルチスコープ
【第133回】 2010年6月9日
山崎 元 [経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員]


菅新首相の経済政策。第3の道は「社会主義化への道」か?

(前略)

 菅新体制について経済面で注目されるのは、消費税とデフレ対策だ。

 消費税については、前回総選挙のマニフェストで民主党が政権を取った場合、向こう4年間税率を引き上げない方針を謳っていた。菅氏も、財務相就任当初は、増税の話を先にやると、支出の削減が上手く行かないので、先ずは財政支出の削減に注力すると述べた。

 しかし、その後、消費税についても議論は先行して行っていいと態度を変え、最近は、税率引き上げに積極的な印象であった。財政再建に積極的な論者の中には、前回総選挙から4年経過後即座の引き上げを決定して欲しいとか、あるいは、前回総選挙のマニフェスト自体を見直して、早く税率を引き上げるべきだという議論もある。

 他方、金融危機後の需要落ち込みがまだ完全に回復せず、デフレ傾向が根強い現状で、消費税率の引き上げを急ぐべきではないという意見がある。

 筆者は、後者に賛成するが、増税の時期以上に財政支出の改善(主に削減による効率化)がもっと重要だと思っている。一方、たとえば、消費税率引き上げとセットで法人税率を大幅に引き下げるなら、景気と経済に対するトータルの効果はプラスになる可能性はある。何れにせよ、当面の支出の財源が税金か国債かは資金繰りの問題であり、個々の財政支出の必要性と効率性の問題の方が明らかに重要に思える。

(中略)

  さて、菅内閣の当面の注目点は前記の二点だが、中長期的な視点を含めて面白いと思うのは、菅氏の経済思想だ。彼は、増税しても、そのお金を正しく使えば、景気は良くなり、失業が減るという趣旨のことを何度か口にしている。

 財政赤字を伴う財政支出が、「短期的には」景気を拡大するという考え方には、総合的な賛否を別とすれば、世間に賛成者が多いだろう。一昔前は、「景気対策」というと、もっぱらこうした財政政策だった。

 一方、市場経済に基づく民間のお金の使い方の方が、政府(つまり政治家と官僚)によるお金の使い方よりも効率的だという考え方も、大方の賛成を得るだろう。かつて、小泉内閣のキャッチフレーズだった「構造改革」はこの考え方に基づく。

 しかし、たとえば、菅氏の有力ブレーンの一人とされる小野善康大阪大学教授の言を借りると(以下『日本経済新聞』6月5日朝刊5面のインタビュー記事を参照した)、景気(第1の道)でも、効率(第2の道)でもない、「第3の道」の考え方として、「雇用をつくるには増税し、税収を直に使って仕事をつくればいい」という考え方があって、これがいいのだという。そして、この場合、「例えば失業率が3%以下に下がれば、政府が事業から手を引くと決めておくのが重要だ」という。

 課税して集めたお金を100%使うとすると、経済全体としての消費性向は上昇する公算が大きいから、確かに、それでも雇用は増えるのかも知れない。失業の存在こそ最大のムダだという考え方にも一理あるし、雇用対策を増税でファイナンスするなら政策の継続に無理がないし、国債での資金調達が金利を引き上げる心配もない。 

 しかし、以下の3つの心配がある。

 最大の心配は、官製事業の連鎖的拡大だ。

 仮に、5%の失業率を、3%未満に引き下げるために、増税して、2%分の雇用創出だけにそのお金を支出するとしよう。確かに、支出に対応する仕事が出来てその分の雇用が生じるかも知れない。しかし、新たな増税によって民間の需要を奪っているので、奪われた需要分の仕事が減るはずだ。

 この減少分を補うためには、再度財政支出を拡大することになるが、これを再び増税で賄うと、また新たな需要の減少が生じる。すると、また同じプロセスを繰り返すことになる。

 この一連のプロセスが繰り返されると、支出が雇用創出につながるとしても、民間の仕事が減って、官製の仕事がどんどん増えることになる。経済の「官業シフト」が急速に進むことになるではないか。「第3の道」とは、経済を社会主義化する道である。

 また、小野氏の提唱する方式だと、失業率が3%以下になった場合は、政府が事業から手を引くということになっているが、これは難しいのではないか。民主党の「ムダの削減」がサッパリ進まないことからも窺えるように、いったん事業化された組織は、官僚がその廃止に抵抗するので、なかなか無くならない。

 たとえば介護なら介護の事業体を会社形式にして、民間に売却するような民営化案件を将来に作るなら、金融業界が喜ぶ案件になる可能性があるが、形だけ民間でも、政府から受注の形でお金が流れたり、新規参入者・競争者に対する規制の形で援助を受けたりといった、国会のチェックの及ばない「隠れ官業」になる公算が大きい。

 加えて、当初から、官業の効率性が心配だ。そもそも、有望な事業家のチャンスが乏しいから民間の投資が低迷しているのだ。そして、政府に民間以上に事業構想能力があるとは思えない。もちろん、政府にも事業を真剣に考える人がいるだろうから、中には成功例が出るかも知れないが、傾向として官業は非効率的であるというのは、目下、社会的に共有されている常識ではないだろうか。

 何れにせよ、「強い経済、強い財政、強い社会保障を一体的に実現する」という菅氏の主張は、官業の肥大化による、日本の経済の急速な社会主義化につながるのではないか。官僚共同体は、この政権を、増税と官製事業の拡大に便利に利用することになるのではないだろうか。




岸博幸のクリエイティブ国富論
【第92回】 2010年6月11日
岸 博幸 [慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授]

霞ヶ関の利害と一致する菅新政権の「第三の道」は、
財政再建ではなく財源確保のための大増税への道だ


(前略)

 菅総理は、G7などの場を通じてギリシャの財政問題の深刻さを実感し、財政再建とそのための消費税増税に前向きになったようです。それが純粋に財政再建のためだけならば良いのですが、今の政府にはまだムダが山ほど残っていて、かつ民主党のバラマキ政策が修正されていないことを忘れてはいけないのではないでしょうか。それを放置したままでの安易な消費税増税は危険です。

 民主党がマニフェストに掲げたように、行政にはまだかなり多くのムダが残されています。政権は事業仕分けでそれを削減しようとしましたが、過去2 回の成果からも明らかなように、そうしたアプローチでは時間がかかるし成果も限定されると言わざるを得ません。マニフェストで約束した“行政のムダ削減による新規政策の財源捻出”は、初年度から実現できなかったのです。

 かつ、政権は密かに行政のムダを温存しようともしています。その典型例が公務員制度改革の関連で策定された公務員の「退職管理基本方針」です。これによると、役所の幹部クラスの年次の人で幹部ポストに就けなかった人のために“高級スタッフ職”的な専門職ポストを新設するようです。要は、今の政府は民間企業で言えば破綻状態なのに、民間では当たり前のリストラは行なわず、仕事がない人にも高い給料を払い続けようとしているのです。

 加えて、民主党がマニフェストに掲げたバラマキ政策は、子ども手当など一部で見直しの方向になっていますが、全体としては大きく修正されていないことにも留意すべきです。

 そのように考えると、政府のムダとバラマキ政策が温存されているにもかかわらず、財政再建だけを錦の御旗にして消費税増税を訴えるのは、ある意味で国民に対する詐欺ではないでしょうか。

(中略)

 つまり、今のままでは、表面上は財政再建だけを理由にしているものの、実質的には“財政再建と政府のムダ&バラマキの財源確保のための大増税”となりかねないのです。本来目指すべきはそうではなく、“財政再建のための最小限の増税”のはずです。

 もし政府のムダとバラマキ政策を改善しなかったら、消費税率は25%近くになっておかしくありません。消費税1%あたりの税収は2兆5千億円なので、それで国債発行分の44兆円を賄おうと思ったら、現行の5%に18%程度は上積みしないといけないからです。でも、財政再建だけのためだったら、消費税率は例えば10%程度で済むはずです。

 今私たちが真剣に考えるべきは、消費税増税の可否ではなく、大増税と小増税のどちらを選ぶべきか、なのです。

“第三の道”にだまされるな

 そして、菅総理の就任後の発言のうち財政再建や消費税増税以上に気になるのは、経済政策についての「第三の道」発言です。増税をしても、その税収を社会福祉や医療、環境などの雇用創出につながる分野に政府が賢く支出すれば経済は活性化する、という主張です。

 政府が賢い支出をしてきたかどうかは、過去の実績からも明らかです。民主党も、政府がこれまで賢くない支出をしてきたと認識したからこそ、行政のムダを大胆に削減するとマニフェストで約束したのです。そして、過去2回の事業仕分けの成果からも分かるように、少数の政治家や民間人だけでは、そのムダを削減することさえ困難なのです。

 そうした状況にもかかわらず、民主党が政権を持っていれば政府は賢い支出をできるようになるんだと言われても、誰がそれを信用できるでしょうか。

 かつ、よくそうした“政府による賢い支出”の事例としてスウェーデンなどの北欧諸国が挙げられますが、それも真に受けてはいけません。スウェーデンの人口は925万人、デンマークは550万人です。日本でそれに近い数字を探すと、神奈川県が900万人、福岡県が500万人です。

 つまり、日本の地方自治体レベルでならば、北欧諸国のように市民が政府をしっかり監視して、政府のムダを排除するとともに賢い支出を行なうことも可能かもしれませんが、それを1億2千万という巨大な国に同じことを期待して大丈夫かどうか、よく考える必要があります。1億2千万の国民生活を支える公務員の数は自ずから膨大な数になるからです。

 そう考えると、この“第三の道”の主張は非現実的と言わざるを得ません。その主張に媚びた発言をする学者の人もいますが、行政の現場の経験もない机上の空論をベースに、1億2千万人を道連れにしかねない失敗確実な壮大な実験は控えるべきではないでしょうか。


菅総理と官僚の思惑は一致する

 このように考えると、菅政権が目指すのは“大増税&バラマキ&大きな政府”路線と言わざるを得ません。そして、それは官僚の利害と一致することを忘れてはいけないと思います。

 財務省にとって消費税増税は悲願です。他の省庁は財政再建などにほとんど関心なく、自分の役所の予算が増えればそれだけで万々歳です。つまり、菅政権が考える経済財政政策は、官僚からすれば願ったりかなったりなのです。(後略)

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辻広雅文 プリズム+one
【第100回】 2010年4月21日
辻広雅文 [ダイヤモンド社論説委員]


 菅直人・財務相がにわかに増税論者に転向し、「税収増を経済成長に結びつける」のだと意気込んでいる。

 その論理を説明すれば、
1.消費税率の引上げによって税収を拡大、
2.その税収を財源にして介護や環境などの成長分野に投資、
3.雇用が創出され、所得増につながる、
という展開になる。

 本人は、「税と財政出動によっておカネの潤沢な循環をもたらし、第二のケインズ革命を起こす」と宣言するほどの入れ込みようだ。

 だが、首をかしげざるを得ない。

 菅財務相の念頭にあると見られる「介護分野」を例に、考えてみよう。介護を含む社会保障予算は少子高齢化とともに急拡大し、毎年およそ1兆円ずつ増加している。その給付財源は赤字国債の発行で確保している。菅財務相は今回、増税による税収を赤字の穴埋めに使うのではなく、新たな財源として、さらなる給付を行なうために使うと主張している。従って、増税によって財政収支が改善し、財政再建につながるわけではない。これが、第一の問題である。

 第二の問題は、介護という社会保障分野そのものにある。
(中略)
介護現場の労働条件は過酷であり、報酬の引上げや雇用拡大は必要であろう。だが、財政投入がそれだけの効果に止まるならば、財政投入をやめてしまえば元の木阿弥であり、自律的な経済成長に点火する効果など期待できない。「税と財政出動によっておカネの潤沢な循環をもたらし、第二のケインズ革命を起こす」ことなど、できるはずがないのである。

 介護事業が財政を投入しても一時的な経済効果しか生まず、またたいした乗数効果も期待できないのならば、民主党が批判してきた箱物公共事業と同じである。

 こうしたリスクを取るくらいならば、増税などしないほうがいいだろう。やはり増税は社会保障制度を立て直す、または広く財政を健全化し、国民の将来不安などを取り除いて、経済成長につなげていく方策なのである。
(後略)


 
山崎元のマルチスコープ
【第129回】 2010年5月12日
山崎 元 [経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員]


菅直人氏の「増税と公共事業」はマニフェストの正反対


財務省、菅大臣の洗脳を完了か

 ここのところ、菅直人財務大臣が、増税に積極的だ。「増税しても歳出増で仕事や雇用が増えれば、景気に役立つ」といった発言を繰り返している。「財政制度等審議会」(財務相の諮問機関、会長・吉川洋東大教授)にも検討を要請したと。

 菅氏は、財務大臣就任時には、当面1年程度は増税の議論ではなく、歳出の削減に取り組む姿勢を示していたが、3月に消費税率の引き上げについて「議論するのはよい」と態度を軟化させ、最近は、増税しても、財政支出の使い途が正しければ、景気にプラスになると言い出した。

 財務省は、単純化して言えば、たくさん税金を取って、たくさんの財政支出に関わることが出来れば、権限を大きく持つことが出来る官庁だ。
(中略)

 しかし、多少、回復傾向にあるとはいえ、金融危機を契機に大きく需要が落ち込み、しかも、デフレの状態にある日本の経済状況で、増税を行うことがいいのかと考えると、危うさを感じずにはいられない。

(中略)

 それにしても、「正しい歳出増」というものがあるとして、これを実行した場合に、その財源分を丸々増税するのと、支出の増分の全部ないし一部を増税しないのとを較べると、後者の方が短期的な景気にはより大きくプラスに働きそうなものだ。

 残念ながら、菅直人氏がご自身のマクロ経済の見方を体系的に詳しく語った言葉なり文章なりは見当たらないのだが、『朝日新聞』(5月9日朝刊7面)に、「菅氏の知恵袋」と呼ばれているらしい(朝日新聞がそう呼んでいる)小野善康内閣府参与が、インタビューに答えた記事が載っている。「需要拡大こそ大切 財源ないなら増税」という見出しだ。

 他の条件を一定とすれば、普通は、増税しない方が需要は拡大するのだが、どのような理屈で見出しのような主張になるのか、言葉を追ってみる。

 小野氏は、「需要の拡大こそが本当の企業支援になる」と述べ、人が働く場を増やすことが重要だと仰っている。そして、その手段について「一つは政府が事業を興して仕事を増やす。もう一つは規制改革。環境規制などでお金をかけずに新たな市場を作ることができる」とも答えておられる。

 規制改革は、よく言われるような規制を緩和するという意味の規制改革ではなく、環境などに関する規制を作りこれに対応することを「需要」とする意味なのかも知れない。これはこれで独自のアイデアだが、「お金をかけずに」と仰っているので、増税の必要性とは関係ない。しばし脇に置こう。

 問題は、公共事業だ。

「必要な」「新しい」公共事業を考えるべきだと、小野氏は仰るのだが、これが難しかったから、更には、政府がそのような公共事業を企画し且つ効率的に実行できると信用できなかったから、前回総選挙で民主党が「税金のムダづかいと天下りを根絶します」とマニフェストのトップに掲げた公約が支持されたのではなかったか。

 ところで、税金を取って、その分支出すると何が起こるのだろうか。

 たとえば、税金の無い状態で、所得が消費と貯蓄に分かれたとき、貯蓄の分を税金で召し上げて、支出すると考えてみよう。消費性向が不変である限り短期的には総需要は少し増えるだろう。ただ、これは、経済の中で、民間が意思決定する支出が減って(可処分所得が減ると、消費も減るはずだ)、官僚が意思決定する支出が増えるという支出の比率の変化を意味する。

 何れにせよ、「民の経済」が縮小して、「官の経済」が拡大する。これをどう見るかだが、小野氏は、失業している人が働くようになるならいいはずだ、と判断されているのだろう。「官の経済」を単純化して社会主義とまでは呼ぶのは不正確かも知れないが、政府は効率的にお金を使うことが出来るのか、という点には大きな疑問が残る。

 インタビューの別の箇所で、小野氏は「国民が消費を増やして雇用が上向いたら、民間の邪魔をしないように減税して政府事業を減らすと確約すればよい」と述べておられるが、官僚がこんな確約をするとも思えないし(政治家はたぶん正確な文言すら作れないだろうし)、そうした確約が有効に守られるとも思えない。

 仮に失業対策として増税と公共事業の拡大が有効であるとしても、それと引き替えに、大きな政府(=大きな「官の経済」)が残りそうだ、という問題は残る。

(後略)

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搾取され続ける若者

辻広雅文 プリズム+one
【第97回】 2010年3月25日

辻広雅文 [ダイヤモンド社論説委員]

日本社会は中高年の雇用を頑なに守り、若者を見捨て続ける



 再び、就職氷河期が到来している。

 今春卒業予定の大学生の就職内定率は2月1日時点で80%であり、2000年の81.6%を下回った。5人に1人が職に就けないという厳しさであり、職を得た大学生にしても希望した会社、職種に就けた者は多くないだろう。

 深刻な問題は、 この社会人のスタート時点でついた格差が、その後の人生において克服するチャンスが非常に少ないために、そのまま確定しかねないことにある。

 日本の労働者を二つに大別すれば、「大企業に勤める男子正社員とそれ以外」という分類になる。「それ以外」というのは、非正社員であり、女性であり、中小企業に働く人々である。

「大企業に勤める男子正社員」と「それ以外」の労働条件格差は決定的である。前者の人々は長期雇用保障と年功賃金の恩恵を最大限に受けられる。ところが、後者の人々の労働条件は前者に比べて大きく劣り、なおかつ、雇用そのものが極めて不安定である。

 大企業における“長期雇用保障”とは、その地位が保全されていて容易には解雇されないということである。つまり、新卒でいったん就職してしまえば定年または定年近くまでの数十年間、失職することなく安泰ということである。

 これをひっくり返して考えれば、新卒で就職できなければ、その後に大企業に職を得ることは極めて難しいということになる。なぜか。もはや、高度成長期はとうに過ぎた。低成長時代にいずれの企業も雇用を大幅に拡大することなどありえない。だとすれば、新卒で――もちろん中途採用の機会もあるだろうが ――就職した人々の雇用が定年まで保全されていることが、外部者にとっては堅固な障壁になってしまうからだ。つまり、ひとたび非正社員や中小企業勤めで社会人をスタートした人は、再チャレンジの機会がほぼ訪れない。

 さらに、経済環境が悪化すれば、大企業は雇用調整に入る。既存社員の雇用を維持しつつ社員数を削減しなければならなくなるから、定年退職者の補充をしないという施策をとる。つまり、定期採用、新規採用の停止である。こうして、就職できないのは本人の責任では全くないにもかかわらず、労働条件格差は就職時点で確定し、その後の人生で克服することは極めて難しい構造になる。

 もっと直截に言えば、すでに企業に籍を置く中高年の雇用を維持するために――つまりは解雇できないから――、正社員の新卒採用を停止し、非正社員の雇用を拡大するのである。日本の労働市場においては、中高年の既得権益を維持するために、若年層が明らかに犠牲になっている。

 こうした労働慣行、法制度の歪みは、多くの人々にとって、極めて不公平、不平等である。社会にとっては活力を削ぎ、生産性向上を大きく妨げる原因となっている。実際、OECDは正社員と非正社員の大きな格差、差別を日本の欠陥と指摘している。

 OECDに指摘されるまでもない。我々は身をもって、10年ほど前からとっくに思い知らされている。バブルが崩壊し、日本経済の長期低迷が明白になった1990年代後半から10年ほどの間、日本の産業界は一斉に雇用調整に入り、正社員の新卒採用を極端に絞った。この間、大学生たちの多くは上記で説明した「それ以外」の働き方を余儀なくされ、やむなく非正社員の道を歩んだ。いまや、全雇用者数の三分の一が非正社員となった。

 彼らは当初フリーターやニートなどと呼ばれ、本人たちの就労意欲の欠如などを含む自己責任論が展開され、批判を浴びたものだった。極めて不安定な人生を歩み始めた彼らを追跡レポートした朝日新聞は、「ロストジェネレーション〜失われた世代〜」と名付けた。ロスジェネは一部ワーキングプアという新貧困層に転落し、社会問題と化した。

 だが、彼らの就労機会を奪った原因は彼らに帰せられるのではなく、マクロ経済の政策運営に失敗した政府、雇用能力を低下させた企業、そして大企業の男子正社員の雇用ばかりを保護する日本の労働慣行と法制度こそ元凶であるということが、この十数年の間に多くの識者たちの指摘によって明らかになった。戦後初めて極めて低い経済成長に直面したこの十数年で、日本の労働慣行、法制度の特異な歪みが鋭く突出したのだった。

 ところが、何ら教訓は生かされず、本質を突く改革は行われなかった。日本政府も労使代表の経団連も連合も、旧態依然の労働市場を変革しようとする意志はいっこうに感じられない。そうして今、再び就職氷河期を迎え、「第二のロスジェネ」が大量に生み出されつつある。

 例えば、今春闘における連合の最大の要求項目は、定期昇給(定昇)である。先ほど私は、「大企業の男子正社員は長期雇用保障と年功賃金の恩恵を最大に受け取る」と書いた。年齢を経れば自動的に昇給していく定昇こそ、その年功賃金そのものであろう。

 正社員と非正社員の賃金格差は20代ではそれほどでもなく、30代、40代になるにつれて拡大していく。正社員が年功賃金の恩恵を受けるからである。ここで、二重の格差が生まれていることに気がつく。正社員と非正社員の格差に加え、正社員のなかでの中高年と若年層の格差である。こうした格差をもたらす定昇をいまだに最大要求項目とする連合は、中高年正社員の保護主義に凝り固まっているとしかいいようがない。それに応える経営側も、無論である。


不公平、不平等の壁を打ち破らなければ、人々の労働意欲は湧かない。企業における生産性は上がらない。しかし、だからといって、全雇用者を正社員にできるはずもない。慢性的な長時間労働、頻繁な配置転換や転勤といった正社員に課される負荷を、ワークライフバランスの観点から望まない人も少なくないだろう。また、同じ正社員であっても、若年層は年功でなく貢献度による賃金への変更を望む者が増えつつある。

 行きつく答えは、正非、男女、年齢を超えた「同一労働同一賃金」の実現である。人件費枠を拡大するわけにいかないのだから、有利な立場にある人々の既得権をはぎ取って、不利な立場にいる人々に再配分するしかない。

 劇的変化は望めない。時間はかかる。賃下げなどの不利益変更は、抵抗が強い。まずは、定昇の原資を若年層に振り分け、中高年と若年層の正社員同士の格差を是正しつつ、同時に、非正社員の熟練度と賃金を上げる総合的施策を打ち出す必要がある。その方策は、企業個々のさまざまな努力にかかる。「同一労働」の定義は、企業によって変わる。

 極めて少数だが、成功例はある。例えば、広島電鉄は正社員の雇用条件を引き下げ――激変緩和措置は設けられたが――、非正社員の雇用を守り、さらに雇用条件を引き上げた。正社員の既得権を非正社員に再配分したのである。改革の原動力は、正社員と非正社員の格差を残しては職場が分裂し、活性化どころか安全を守れない、という組合側の危機意識であり、経営も理解を示したのだった。

 もう一つ打ち破らなければならない不公平、不平等の壁がある。社員の整理解雇規制の壁である。一般に、日本の労働法における整理解雇規制は極めて厳しいという認識が定着している。だが、それは一面的な見方であり、厳しく解雇が規制されているのは大企業の社員に限ってであり、中小零細企業はほぼ野放しで劣悪な条件による解雇が日常的に横行している。

 ここでは個々の条文を記さないが、日本の労働法制における整理解雇の定義は極めてあいまいである。極めてあいまいで基準が明確ではないために、個々の事例に労働基準監督署が介入できない。事の正否は裁判所に持ち込まれ、戦後いくつもの判例が積み重ねられ、結果的に極めて整理解雇が難しい4原則が打ち立てられた。

視点を変えれば、裁判所に訴え出ることができる大企業の組合に守られた社員はその判例によって厳格に保護されるが、そんな余力のない中小零細企業の社員は解雇自由のリスクにさらされている。あまりの「解雇リスクの身分差」が、まかり通っているのである。

 そうして、大企業の男子社員は企業内にたてこもる。その障壁の外側にいる人々にとっては入り込む余地が乏しい。極めて流動性の低く、なおかつ人の流れが偏った労働市場である。流動性の低さは、労働者にとってはやり直すチャンスが乏しく、仕事に習熟する機会が少なく、つまり人生の希望を抱きにくく、経営者にとってみれば景気変動や新事業戦略にのっとった機動的な雇用ができず、社会全体からみれば適材適所の人材配置が行われず、インセンティブが働きにくく、生産性が上がりにくい、という多くの問題を生じさせている。

(中略)

 労使間の雇用ルールを改めて定めた労働契約法が、一昨年の2008年に施行された。その検討過程で、解雇ルール作りの動きが起こった。だが、コンセンサスは得られず、実現しなかった。

 政策の意思決定の枢要な場にいるのは、政府内にしろ経団連にしろ連合にしろ法曹界にしろ、そしてそれを報道するメディアにしろ、すべからく大企業の正社員代表あるいは専業主婦を従えた中高年である。彼らは自らの既得権を捨て去ることができない。そうして、日本はとめどなく競争力を低下させていくのである。

(引用終わり)


政局LIVEアナリティクス 上久保誠人
【第47回】 2010年4月13日
著者・コラム紹介バックナンバー
上久保誠人 [立命館大学政策科学部准教授]


学生は衰退する日本よりも、海外で就職できる実力を磨け

(中略)

若年層の就職難は、彼らの努力不足ではない

 若年層の就職難は、彼らの努力不足とみなされることが多い。しかし実態は、90年代以降、バブル経済の崩壊とグローバリゼーションによる「失われた10年」と呼ばれる長期的な経済停滞に対して、国内の正社員の「長期雇用保障の慣行」を頑なに守ろうとしたことで起こっている。

「長期雇用保障の慣行」とは、一般的に「年功序列」「終身雇用」として知られるもので、新卒で正社員として就職できれば、定年近くまでの数十年間、失職しないシステムだ。しかし、「失われた10年」の時期、日本企業は国際競争力を維持するために多国籍化し、開発途上国の安いコストで生産する体制を作ったが、一方で国内の労働需要が激減した。

 これに対して日本企業は、「慣行」に従って既存社員の雇用維持に努め、新規採用を抑制し、派遣や請負等の非正規雇用社員を増加させた。その結果、若年層の多くが新卒で正社員として採用されず非正社員となっているのだ。

 そして、非正社員として社会人をスタートした若年層が、その後に正社員の職を得ることは極めて難しい。与野党の政治家、財界、労組、マスコミのほとんどが中高年の正社員の雇用維持を主張しているからである。
(後略)

言うまでもなく、この問題は一般社会に限った問題ではなく、学界においても言えることである。

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山崎元のマルチスコープ

【第122回】 2010年3月17日 山崎 元

官民一体の海外ビジネス受注期待を怪しむ

 新興国向けのインフラ投資のビジネスが活況を呈している。『日本経済新聞』は、朝刊一面左上のビジネスマンが電車でよく読むスペースで、3月12日、 13日と「攻防 海外インフラ」という特集を掲載した。12日の記事によると、2030年までに、新興国のインフラ投資で25兆ドル(約2250兆円)の需要があるとの試算もあるという。日本のGDPの5年分近い額だ。こうした中、新興国のインフラ投資案件の売り込みは、各国の政府を巻き込んだ政・官・民一体の受注競争の様相を呈している、というのが、日経の特集の骨子だ。

(中略)

 結論を簡単に言えば、海外案件について、政府は大いに気を遣うべきだが、お金は一円も使うべきでない。

 海外プロジェクトの受注活動への協力は政治家諸氏の活躍が可能な領域だが、二点だけ注意を申し上げておこう。

 先ず、政治家が、相手先にコンタクトを取りセールスに協力することは大いにいいことだが、政府からの金融的支援を引き出しに口利きして案件を受注して無邪気に喜ぶような愚かな行動を取って欲しくない。受注した企業から何らかの便益を得ていれば、その政治家の職務上の権限によっては収賄罪が成立しかねないし、法律に触れなくとも、前記のような事情で政府の金融支援は国民からの一種の泥棒である可能性が大きい。繰り返すが、政府のお金を使うのではなく、自分自身が気を遣い身体を使うだけで貢献すべきだ。

 もう一つ。首相のトップ・セールスは時に効果的だし、必要でもあろうが、内政が些かおろそかになっている気味のある鳩山首相は内政からの現実逃避にトップ・セールスを理由にした外遊を使わないで欲しい。直接の費用がたいしたものでなくとも、首相の時間には、潜在的に国民の多大なコストが掛かっている。有効に使って欲しい。





岸博幸のクリエイティブ国富論
【第83回】 2010年4月2日 岸 博幸

民主党の“経済音痴度”を考える

(前略)

 次に郵政改革について分からないのは、改革案自体には入っていませんが、複数の閣僚が郵貯資金の運用先として海外へのインフラ事業や国内の公共施設への投資を挙げていることです。

 おそらく、国債だけに投資して利益を稼ぐ構造は長続きしないという、ある意味正しい問題意識からの発言だと思いますが、やはりここでも大きな疑問が沸いてきます。

 インフラ投資は、リターンを得るまでに10年から20年程度を要する超長期の投資です。しかし、当然ながらゆうちょ銀行への預金は、そんな超長期にわたって固定的に預けられるお金ではありません。金融を少しでも知っていたら、銀行のALM(Asset Liability Management)管理の観点から流動性の高い短期性の預金を超長期の投資に充てられるはずないのは、明らかではないでしょうか。

 更に言えば、国内の公共施設に投資し出したら、それこそ公的金融そのものであった財政投融資の復活に他なりません。ゆうちょ銀行に民間銀行のふりをさせても、そうした分野への投資をさせると政府が決めれば同じなのです。

 そう考えると、民主党はマーケット・キャピタリズム(市場資本主義)ステーツ・キャピタリズム(国家資本主義)の差異を理解していないのでは、と心配になります。

 例えば、韓国やシンガポールは海外のインフラ投資に官民を挙げて成功しており、その資金面のかなりの部分の面倒は国家が見ている点で、ステーツ・キャピタリズムの典型例です。しかし、これらの国が成功しているのは、政府内に金融市場を理解したキャピタリストが存在するからです(というか、国のトップからしてキャピタリストですよね)。

 それと比べると、官僚がすべてを支配する日本の政府内にはそうしたキャピタリストがいないからこそ、過去ずっと財政投融資で非効率な投資を繰り返してきたと言わざるを得ません。民主党による政治主導になったからと言って、民主党の国会議員の大半も金融の素人であることを考えると、何も変わらないのです。更に言えば、ゆうちょ銀行を民間会社のままにとどめていても、融資能力がない以上は変わらないのです。

 そうした現実を考えずに、郵貯資金で海外インフラや公共施設への投資をと主張するのは、どんなもんでしょうか。
(後略)



辻広雅文 プリズム+one
【第98回】 2010年3月31日 辻広雅文


鳩山政権が成長を託す海外インフラビジネスという幻想


 民主党政権における政策議論は、どうして上滑りしてしまうのだろう。なぜ、戦略だと位置づけておきながら論理性を欠いてしまうのだろう。

 新興国におけるインフラビジネスが巨額化し、先進国は官民がタッグを組んで群がっている。

(中略)

 第一に、海外インフラの受注合戦に勝ち抜くことが、なぜ成長戦略の柱になるのかわからない。政府は、「成長戦略を描くには、新興国などの新たな外需の取り込みが欠かせない」と強調する。だが、ある経済産業省幹部は、「海外のインフラ案件受注がマクロ経済に与える影響度の試算など見たことがない」と言う。

 成長戦略の柱と位置つけるのであれば、GDPの伸長に結びつかなければならない。だが、当然のことながら、海外で事業を拡大しても、日本人の雇用が増加するわけではない。また、インフラ事業は超長期プロジェクトだから、受注しても企業の収益貢献にも時間がかかる。さらに、家計から見れば、日本企業でなくとも実績に裏打ちされ、競争力も高い企業――例えば、水事業から始まって今は欧州交通機関を広く運営する仏ヴェオリア――の株式を買って高いリターンを得られればいいことになる。国籍は関係ない。勝つ企業に乗ることの方が重要なのである。

(中略)

 では、国の金融機能などが主軸となって資本を集約、行使する手法が現代において適切なのだろうか。大別すれば、立場は二つある。ステーツ・キャピタリズム(国家資本主義、以下SC)マーケット・キャピタリズム(市場資本主義、以下MC)である。

 例えば、仏やドイツなどの欧州大陸諸国はSC、米国や英国などはMCの標榜者と言えるだろう。シンガポールなどは経済運営では自由市場を強調した MCでありながら、国家運営は統制色の強いSCというように使い分けている。リーマンショック以降の金融危機、世界不況を経て、世界各国ではMCが後退し、SCが台頭している、と言ってもいいだろう。中国はむろんSC、原発受注線で日本に勝ったロシア、韓国もSCである。そして、日本もにわかにSCで海外インフラ受注競争を勝ち抜こうというのである。それが果たして勝算はあるのか――これが二番目の疑問である。

 経営共創基盤の冨山和彦社長は、「ステーツ・キャピタリズムで勝ち抜こうとするなら、政府内に優秀なキャピタリストを揃えなければならない。韓国大統領もロシア大統領も筋金入りのキャピタリストであり、中国共産党の官僚たちも米国留学組を中心にキャピタリストの集団だ。日本は能力的に太刀打ちできない」と解説する。李韓国大統領は、そもそも財界出身なのである。

(中略)

 繰り返すが、インフラ受注競争は技術力や価格の優劣にとどまらず、経済支援から果ては軍事協力まで国家を前面に打ち出す交渉であり、最後は国家トップ同士で時に裏取引を交えて繰り広げられる。知恵と資金を存分に活用し、したたかさが不可欠な複雑極まるゲームだ。

 友愛を語る首相を頂き、ステーツかマーケットかという日本が採るべきキャピタリズムの再定義を行なわないまま、社会保障を膨らませ、郵政を国営に逆行させて実質的なソーシャリズムに堕ちてゆくナイーブな政権に、勝てるはずがない。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100217/211251/?P=1
花岡信昭の「我々の国家はどこに向かっているのか」
「記者クラブ 諸悪の根源」論に反論する!
2010年2月17日
(前略)
既存メディアも「改革」に向けての努力が必要

 上杉氏らの要求もあって、一部では、記者クラブ加盟社以外のフリーライターなどに記者会見を開放し始めた。だが、まだ交通整理が完全にはできていない。
 民主党の小沢幹事長は以前から週刊誌などにも会見をオープンにしていたが、省庁レベルでは、岡田外相、原口総務相、亀井金融担当相らが開放に踏み切っている。
 だが、記者クラブ側との調整がつかず、亀井氏の場合など、記者クラブだけの会見とフリーライターなども含めた会見の二段階方式を採っているようだ。
 記者会見の全面開放を求める上杉氏らの主張も分からないではない。
 メディアの形態がこれだけ多様化した時代にあって、既存メディアが旧来型の発想にとどまっているのであれば、ここは改革に向けての努力が必要だ。
 だが、とあえて言わなくてはならない。


報道界が100年以上かけて獲得した「権利」

 記者会見全面開放論は「記者クラブは諸悪の根源」論とリンクしているのだ。
 上杉氏は「記者クラブの存在自体をうんぬんしているのではない。記者会見の開放を求めているのだ」と言うのだが、記者クラブと記者会見を切り離して論ずるのは、やはり無理がある。
 そのあたりの整理を試みたい。
 まずは、記者クラブとはどういうものか、なぜ必要なのか、というそもそも論から始めなくてはならない。そうでないと、一般の理解を得るのは難しく、実態を知らない人たち(かなりの識者も含まれる)による「記者クラブ性悪説」がはびこってしまうからだ。
 そこからメディアへの不信が生まれているというのであれば、これは誤解を解いておかないといけない。記者クラブをめぐる不毛の議論を続けていても生産的ではない。
記者クラブは日本の報道界が100年以上かけて獲得した「権利」である。


記者クラブ拠点に「報道の自由」を勝ち取る

 筆者がささやかにやっているブログ、メルマガでそんなことを書いたら、「思い上がりの特権意識だ」といった批判が来た。こちらは「特権」といっているのではない。国民の「知る権利」を代弁する立場から獲得した権利という意味だ。
 省庁、政党などの公的機関・組織や主要政治家など公的存在に対して、報道側が密着取材をより可能にするために、記者クラブというシステムをここまで完備してきたのである。
 100年以上かけて、と書いたが、これは明治時代の帝国議会発足当時に、国会取材をスタートさせた取材側が記者クラブの原型をつくったという意味合いである。
 戦時中の大本営発表の時代には、日本のメディアは国家の宣伝機能に組み込まれたのだが、戦後、GHQ(占領国軍総司令部)の指導を経て「自由な言論報道」を担う存在として再生する。
 かつて、公的機関は「寄らしむべし、知らしむべからず」が基本的体質であったことを想起したい。情報公開、説明責任といった言葉はなかった。
 その時代に、新聞が軸となって公的世界に切り込み、取材報道の自由を勝ち取っていったのである。その拠点となったのが、記者クラブであった。


「親睦組織」の位置づけを「取材重要拠点」に変更

 以前のコラムでも触れたと思うが、筆者は新聞社在勤中に、日本新聞協会の記者クラブ問題小委員会(各社の編集局次長クラスで構成)のメンバーとして、記者クラブ見解を作成した経験がある。1997年の見解だ。その後、この見解は修正されているが、基本的な内容は変わっていない。
 97年見解で最も重要な部分は、それまで「親睦組織」という位置づけであった記者クラブを、取材のための重要拠点と規定したところにある。
 公的機関は国民に対して情報公開、説明責任という重要な責務を負う。報道側は国民の知る権利を背景として取材報道の自由をどこまでも追求する。その双方の責務が重なりあう部分に記者クラブが存在するといった意味合いである。
 公的機関が記者クラブに対し、その建物の中に無償で記者室を提供するというのは、以上のような見解が根拠となっている。無償と書いたが、これは部屋の賃料の意味である。近隣の相場並みの賃料を払えという主張があるが、これをやったら、大手の新聞社はおそらく数億、数十億円の出費となる。そんなことになったら、新聞社の倒産相次ぐという事態も招きかねない。
 これは自由な言論報道機関を多数擁するという民主主義国家の根幹を揺るがすことになり、ひいては国民の不利益を導く。


「電話代・コピー代の役所丸抱え」は通用しない

 なお、あえて言及するが、かつては確かに電話代だのコピー代だのといった経費を公的機関側に丸抱えしてもらっていた時代もあった。
 いまはさすがにそういったことは通用しない。公的機関の内部に記者室を持ち、常駐記者がいることは、権力の監視機能を持つことも指摘しておきたい。
 記者クラブ問題小委員会の作業をしていた当時、全国に記者クラブがいくつあるか、という現状把握を試みた。某紙がカウントしてみたところ、7000ぐらいまでは勘定できたが、あとは不明という非公式な話があったのを記憶している。
 これほど記者クラブが多い国はほかにない、という議論がある。これも誤解を生む。日本のメディアはそれだけ公的機関に深く食い込むだけの力を持ちえたのである。
 ネット時代になって、中央省庁や地方自治体などはそれぞれのホームページで情報を発信しているから、メディアが介在しなくてもそういうものを見ればすべて分かる、という議論もある。これも完全な勘違いである。
(後略)



「先進国の中で記者クラブなどという閉鎖的・特権的組織があるのは日本だけ」という批判に対して、
「むしろ日本が一番、報道の自由がある。公的機関に食い込むことで彼等が隠そうとする情報をオープンにしてきたのだ」という反論をするとは恐れ入った。さすがに私も、こういう反論の仕方があるとは思いもよらなかった。ぜひ花岡氏には、海外メディアや国境なき記者団に対しても堂々と自説を披露して彼等を説き伏せていただきたい。一般的には「公的機関に食い込む」ことを「政官との癒着」と表現する。上杉隆氏が批判していたが、現在世情を賑わしている密約問題にしても、外務省記者クラブ「霞クラブ」は共犯者と言わざるを得ない。情報公開どころか情報の隠蔽に協力しているようなものである。

記者クラブは特権を持っているのではなくて、国民の「知る権利」を代弁しているだけである、記者クラブが無くなって困るのは、記者クラブ会員ではなくて、むしろ国民であるという強弁にも驚いた。
問題の核心は、何の資格があって記者クラブが国民の「知る権利」を代弁しているのかというところにある。ネットどころか雑誌すらロクになかった百年前ならいざしらず、現代において所謂「大マスコミ」のみが国民の代表として君臨する必然性はどこにもない。国民の「権利」を勝手に代弁・独占しているから「特権」と批判されるのである。中国共産党が「共産党が国民の権利を代表しているから問題ない。複数政党制に移行して困るのはむしろ国民である」と言うようなものだ。
保守派の花岡氏はしばしば中国の独裁制(非民主制)を批判しているが、その前に身内の記者クラブの排他性を批判してはいかがだろうか。



花岡氏が記者クラブのメリットとして具体的に掲げているのは、管見の限りでは、政局情報ぐらいのものである。http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100224/212478/
確かに、政界大物の出処進退をスクープするには、いわゆる「夜討・朝駆」は不可欠であり、もし記者クラブがなくなったら、今ほどに迅速なスクープはできなくなるだろう。
しかし「○○首相、きょう退陣表明」というニュースを少し早く報道できることに、果たして如何ほどの意義があるのかは極めて疑問である。そもそも「抜いた」「抜かれた」と一喜一憂するのも、横並びの記者クラブにあっては、他社との優位性を打ち出す要素が他に存在しないからではないか。

はっきり言って55年体制下では、自民党が政権を担うことは揺るがなかったので、国会の表舞台で政策論争が行われることは殆どあり得なかった。勢い、政治報道の興味関心は、権力闘争やら根回しといった政局に向かうことになる。というより、他に書くことがないのだから仕方ない。

だが二大政党制が定着しつつある現在において、55年体制時代の思考パターンを引きずって、政局スクープに血眼になるだけで良いのだろうか。大マスコミには発想の転換こそが求められると思う。


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