古代と万葉歌

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 次のページ ]

クジラが現れることは 日本列島には 珍しいことではありません 歴史上 あの万葉歌の中に たくさん出ているくらい なじみ深いものです

現代 珍しくなったのは 海岸線に工業地帯ができてクジラが寄りつかなくなっただけです 古い言葉では 「いさな」 「勇魚」といいます 万葉歌では 海にかかる枕詞として使われるほど たくさんのクジラが姿を現していたのでしょうね

言い伝えにも
「いさな寄る 七浦 にぎわう」だと思いますけれど

くじらが岸に 近づいて それを捕ると 近隣の七つの浦 つまり集落がその恩恵に喜んだという話もあります

くじらの 出現や 漂着は まれにある とくべつなことではないことを歴史が物語っています 最近 珍しさを やたらと地震に結び付けるようなことを聞きますけれど
歴史的観点から見れば ぜんぜん 予兆でもなんでもないと思います

<追記>
言葉足らずのようなので補足 ずっと伝えられてきた言葉には 積み重ねがあります いさな寄るという言葉は 古代ではめでたい言葉でもあったわけです 一頭のクジラで 何百人ものひとが ごちそうにありつけるわけですね もし 過去クジラが現れた後 地震が何度か偶然にしろおきたならば このような 言い伝えにはならないはずです

もうひとつ 東京湾に現れたというニュースですけれど もともと その外側 房総半島の太平洋側は クジラのよくとれる海域です 捕鯨制限が始まる前まで 外房の千倉周辺では くじらが おみやげとして売られて ごく 普通でした だから 東京湾というのも 特別なことではありませんね

ご心配なく
「縄文ことば」 日本の今まで続いている日本語の中には とても 古くからの言葉も残っているのでは というお話です
 
紙も文字もない昔から どうやって 言葉は伝えられていったのでしょう 赤ちゃんは生まれてから 話し出すまでずいぶん日にちがかかりますね くりかえしくりかえして 覚えます
 
それは 主にかあさんからの口伝えです 文字を使ったものではありませんね
それを書くとしたら いわゆる 万葉かなといわれて始まった ひらがな言葉になると思います
 
口伝えの中に、子守唄や わらべうたも入りますね 学校にいって 勉強をする前に覚えてしまいます  この 子守唄を知っている人はいませんか
 
       からすのあかちゃん なぜなくの〜
       こけこっこの おばちゃんの〜
       あ〜かい おぼ〜し ほ〜しいの
       き〜ろい おくつが ほ〜しいの
       
       と か〜あ・・  か〜あ・・  な〜くのよ
 
 
全部 平仮名は読みにくいですか でも 赤ちゃんは漢字を知りません 声だけで 覚えるからですね この歌 実は私が ふと思い出す歌なので 母が歌ってくれたのでしょうけれど もう 亡くなって どういう歌なのかわかりません
もっとも 母も知らずに覚えたのでしょうけれど
 
このことから 言葉は話し言葉 人の声が始まりです でも今は 文字を使うようになって 漢字 漢字熟語も言葉として使います そうすると そこには ひらがな言葉では 無かった問題が生まれてきます
 
一つの漢字熟語に いくつもの違う意味があるということです そこに誤解や うそができてしまいます
 
熟語を使って 話す時もありますが 話す側がその熟語をどういう意味で使ったか 聞く側がどういう意味でとったかで 全然別の話になってしまうときもあります
 
法律や 政治答弁が悪い例の見本ですね 
    
   「その件につきましては 慎重に検討した結果にもとずき 善処します」
 
この言葉から ほんとうに良いことが行われたためしがないことは よく知っていると思います
 
でも 何度も裏切られてきました ところで さっきの子守唄のような 母から赤ちゃんに伝えられる言葉に 裏切られることはないですね
 
平仮名ばかりで 簡単な言葉ですけど 母が赤ちゃんを裏切るようなことはあってはならないことです でも 最近いやなニュースも聞きます
 
母と子は ずっと昔から続いてきた その関係がこわれるということに 大事な言葉が今 こわれかかっているのかもしれません
 
縄文のふるいときから 母と子は続いています そして その言葉もです
それがどういう意味で どういう心なのか それは日本らしさの原点かもしれません 改めて 縄文ことばとはというお話でした
 
 
古代史、そして今も身近にあるものをつなげる糸が歴史を想像する楽しさです
 
中臣鎌足が藤原になったわけは、蚊取り線香からというお話、キーワードは三つ
 
「 藤 」 「渦巻」 「製鉄」  はてなんのこと
 
かまたり、とはかまのひと、それも鎌は鉄鎌を作る人、古代鉄器は貴重品でした
 
なぜ、藤原姓を名乗ったのにそのいわれが記録されないのは、あまりにも当時の人にとってもありふれたことだったから、そう現代の蚊取り線香がありふれているように
 
蚊取り線香のうずまきには、右巻きと左巻きがあります、藤は藤つるの巻き方を意味しています
これが藤つるの巻き方です、それが製鉄に関係するのは、鉱石、選鉱を川の流れのなかでするときに、普通の縄で、柵を編んだのでは、すぐほどけてしまうのに、藤つるで編むとほどけないから、藤つるをつかったからです
 
巻き方が、渦巻の向きが良かったのです、それは、最近の研究で、かわの水の流れかたは、表面は平らのようでも、中では渦を巻くように流れていることが知られています、その渦巻の力に抵抗する向きが、藤つるの向きだったわけです、たぶん使ってみたらよかったというような、経験則のことだったでしょう
 
それは、秘密ではないありふれた事実でした、それを自然の山野にもとめるのは、特徴的だったと思います、
 
つぎにわらです、今、わらというと、イネだけのようにも思われますが、稲わら、麦わらというように、藤わらという言い方があったと、想像されるのは、わらという言葉は漢字導入いぜんからあり、その意味を現す字をあてているからです、藁という字は、本来、枯れたものといいます
 
稲も、麦も干して、枯れた状態がわらとしての使い道になります、藤もつるを枯らしたものを、藤のわらと呼んだのでは
 
もうひとつは、地形の言葉で、はらやまという言葉もあります、なだらかな、丘のような山を、腹のようにふくらんだ山、はらやまです
 
丘のような地形、低い山に藤がたくさん生えていたのかもしれません
 
ありふれたことがその理由だった、それをうかがわせることに、中臣の姓もしばらくは、並行して残っていました
 
鎌足系列だけが栄えたから、藤原が優勢になりました、しかし、時代がさがると分家した、一族は藤原姓をあっさりすてて、例えば冷泉家のようになりました
 
そこにも、いわれのありふれた、影をみることができます、藤が川に入って、土砂を洗うことにまつわるとしたら、貴族となってからは、下働きを連想するのがいやだったのでしょうか
 
今に残ることを、つなげるお話でした
 
ちなみに、蚊取り線香、会社によって、向きが違います、一社だけ、他の全部の会社の巻き方とは、反対巻きです  ふふふ、またありふれた謎です  内緒

イメージ 1

イメージ 2

房総半島、館山にあった、縄文時代までさかのぼれる、船越鉈切神社、神宝、丸木船の遺品から、黒潮に乗ってやってきた、海洋民族の痕跡から、日本人のルーツのひとつを想像してみました。

木の船は、くちはててしまうので、古代の資料が少ないのですが、それも黒潮洗う、房総半島先端の館山に残っていました。

海蝕洞窟を、後世、祖先の神社とした遺跡ですが、神宝として、丸木舟が代々伝えられてきたそうです。

丸木舟に注目したいのは、なぜ、それは、外洋航海に適しているということです。板を組み合わせた構造船も、ピラミッドの壁画などで、古代からあったのは事実ですが、これは、外洋航海では壊れる可能性があります、現代の鋼鉄船ですら、外洋の波で破損することがあります。

丸木舟は、ちょっと原始的に見えますが、波には強く、転覆しても、浮きとしてつかまるここともでき外洋航海に適しています。

ということで、黒潮に乗って、古代、丸木舟に乗って、海洋民族が房総半島にやってきたという証明になるのではないでしょうか。

海にかこまれた、日本は、さまざまなところから、流れついた人々もルーツになっているのではないでしょうか。

この例をはじめとして、古代日本は、多民族であったのは十分想像できますね、現代でも、地方独特の方言や、文化もそれを十分立証していますね。

明治以降、日本は、単一国家なる、歴史観がつよいですが、じつは、多民族融和の歴史が古代にはあると思います。

それは、いま世界でつづいている、民族紛争を解決する、鍵を日本人がもっているということですね。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

武蔵の国、埼玉に、今も残る、古い神社です。出雲大社の分社ではありません。このあたりの神社はほとんどが、いちばん古くても、景行天皇紀とされているのは、それ以前の記録がなかったためと思われます。

この二つの神社も、創建はいつのことだかわからないほど古いと思われます、田舎であったため、地元近隣の祭祀だけが、現代まで、その姿をまもりつづけてきたのでしょう。

記紀神話のなかでは、国譲りといわれて、大和朝廷が全国を統一したかのように記述されていますが、もしそうであれば、後世にわたっても、出雲の痕跡は消し去られているはずですが、このように東国に連綿と残っている事実は、統一ということが、希薄なものだったことを想像させられます。

牟佐志国造神社と後世の石碑にも書かれているように、この地域を切り開いた、上つ祖を祭った神社であるからこそ、大事にされてきたのでしょう。

そして、それが出雲系であったという証拠が、残っています。明治以降の、つじつまあわせの歴史が矛盾している証です。

日本の古代は、万世一系ではなく、地域ごとの融和があったと思われます。さまざまな移住民の痕跡もそうですね、それを検証することから、平和という意味についても見えてくるものがあるのではないでしょうか。

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 次のページ ]


.

過去の記事一覧

友だち(4)
  • みゆ☆
  • エコビレッジ・コスタリカ共和村
  • 株式会社セロリの管理人
  • コドモナオトナ
友だち一覧
孝彦
孝彦
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

標準グループ

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事