秦川勝ものがたり

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  系図をもとにお話していますが、そもそも系図を書くようになったのは、かなり後世になってからです、いま有力な説は、鎌倉、室町位だそうです、というのも、系図は今でいう就職の履歴書のようなもので、武士階級がだんだん力をつけてゆくなかで、武士として仕官するのに自分を証明するために必要だったからです、そのためすでに室町時代の文書に、系図を買って農民がいくさに出るという話が載っているそうです

つぎに、漢字を使って名前を書くというのが、一般化したのも5,6世紀になってからです、ですから漢字を中国から輸入する以前に、来ていたはた氏につけられた漢字は、読みの音に対してあてはめられた訳で、万葉かなつかいの、波多氏のほうが理屈にあっています、漢字が入ってきた当時の発音は当然中国式であったはずで、秦の字は、(はた)とは発音しません、その一族の話に中国の秦の時代があったので、
(秦)の字をあてて、(はた)と読ませたのでしょう

中国の古書に、当時の倭国に秦王国ありとあるのは、あくまで、中国人から見た、見方でありそのような一族にたいする、認識なり、記憶があったのでしょう、それは、はたではなく、(しん)人です

最近の研究では、朝鮮に(波旦)ぱたん、もしくははたんという地名が確認されて、そこから来た一族、ぱたんから来た一族というのが、(はた)氏の始まりであるというのが有力です

文字で、事務的なことをかくようになると、効率化のため、万葉仮名の字数を減らすことが行われました
波多2文字より、秦1文字の方がおおくなっていったのでしょう、ということは、波多の方が古い書き方だということになります

すごく、シンプルに(波旦)からきた一族が、秦氏のはじまりです、ですから系図に、秦、羽田、波多、幡多は、どれも一緒だとこだわりなくかいてあったのです、自分を名乗る系図であるならば、自分の秦だけが正統であるとか、本家であるとかは書くはずですが、そうは書いてなかったのです

(波旦)ぱたん説の関連として、乙幡と書いて、(おっぱた)という名前があるのも興味ぶかいです、同じ集落に、波多野さんがいます、どうでしょうか

イメージ 1

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  春勝家は、土木のグループだったようです、秦一族は他に、養蚕、機織り、酒造がありました。それぞれ、厳密には渡来の時期など違うとおもうのですが、権力側の都合で一つにまとめられたのでしょう

系図は、後世にかかれたものですから詳しい事情はわからなくなって、羽田、幡多、波多、川勝、等は一族なりとしてありましたが、違う字をあてたことにそのグループの違いがあったものと思われます、古代ほど、氏の名は意味があったわけで、わざわざ変えるというより、違うということで、表記の字を変えたと思われます

さて、土木技術というと、川の堤防をつくる、築堤が重宝されたようです、とくに奈良盆地は川が多く、今、平地の部分は、洪水のたびに流れを変え、沼地が多かったことが地質学的にも明らかになってます

そこで、堤防をつくって、新たな水田を切り開いたのでしょう、その功績によって聖徳太子の時代に名前が出たのでしょうが、聖徳太子は政治的に、その子供一族すべてが絶やされてしまいました、そこには、権力争いの影がみえます。

当然として、川勝も身の安全のため奈良を離れ、大阪や、播磨にその足跡をのこしたようです、なかば逃亡のような形であったのでしょうか、しばらく記録からきえています

平安京は、時代が100年以上たった話です、平城京から、長岡京に移ったものの、洪水被害でやむをえず、移転先を山背(たましろ)と呼ばれていた所に決めました、そこに秦一族が住んでいたわけです

今の時代なら、公共事業、強制立ち退きです、100年前に奈良を追われてまたもや、資金や、労働力を提供させられました、うまいこと乗せられたのでしょうか、後からやってきた渡来の秦氏はけっして身分的には高い地位ではありませんでした、それが証拠に造京使という最高身分は藤原氏であったとの記録が確認されています

系図には、今もながれる加茂川の流れを変えたとの記事もありました、4条あたりを直線的にながれる姿は、人工的なものを感じさせませんか

重機械がない時代に、どうやって人力で行ったかを伝える写真が、昭和初期に造られた、東京のみずがめ狭山貯水池の工事の中にありました、土をつきかためる方法です、石にたくさんの縄をつなぐといったきわめて単純ではあるけれども、つい最近まで使われた、すばらしい知恵があります

ご先祖さんは、名は消えても、つくって残された工事の跡や、うけつがれた技術に誇りをもってあとはどうでもいいという、技術者魂があるのかもしれません

 丹波の山奥からでてきた、祖祖母はすぐに追い出されるように宮中の仕事から嫁にだされました
はじめは、明治維新で南朝も復活したとの話がデマだったのではと思いましたが、いろいろ調べたところ
明治政府が、2度も皇統は、南朝が正統であるとの議決をして、明治天皇も承認していることがわかりました。
やはり、祖祖母がわざわざ東京にでてきたわけは、それなりにあったわけです。

南北朝時代というのは、120年ぐらいの間天皇家の内部争いに、武家も加わって何度も戦もあった時代で、足利氏は片方について戦ったにすぎません、自分が主役となって天下をとるという話ではないのです
あくまで、北朝天皇を後ろ盾に戦ったわけです。

そうして、なんどか統一や小競り合いの後、南朝系の子孫がとだえてからは、400年ほど京都にあった天皇家は北朝系でした。そこへ、南朝の話が来た春勝家は、先祖復活を期待したのかもしれません。

秦一族は大勢いたとしても、春勝家が南朝方であったことは他の家も南朝方が多かったのではないでしょうか、とすると400年も京都が北朝系であった時代に、秦家一族の影が薄くなったのは当然のことで
いわゆる謎でも、なんでもありません、冷や飯を食わされていたわけです

太秦広隆寺や、松尾寺という一族の証しが残っているのは、公けに残ったわけではなくて、一族が自分たちの力で残したものであって、ことさらに世間に訴えることがないのもその辺にあると思います

では、なぜ出されたのでしょう
それは、明治維新という時代の新たな権力争いの中で、京都につづいてきた公家勢力を、南朝を正統とすることによって力を弱める狙いの話であって、それほど実体をともなっていなかったからでしょう

そこへ、系図をもって正真正銘の南朝方の人間がでてきたのには、むしろ都合が悪かったのでしょう
ことは、そう単純ではなかったのです

一般の人が近代のことを知る、学校の授業は、学年末にかかりおざなりな授業、教科書検定もありとても真実には、ほど遠いものです

たまたま、祖祖母の関係で調べた結果、やっとからまった糸がいくらか解けたにすぎません
不思議なことがあります、1200年もいた京都から、大政奉還と同時にあっさりと江戸に出てきた天皇
、いまだに、京都に残る公家衆、北朝京都からやってきたのに、南朝を正統に認めた明治天皇

        >歴史は闇ではありません、そのときどきにいきた人の証しです<

           >都合のわるいことを隠そうとしている人がいます<

     >いつわりの歴史にたった現代、今があるのでしたら、真実は明らかにすべきです<

        >いま、時代がゆれているのは、その偽りの土台がゆれているのです<

  明治維新というのは、おおきく人が動いた時代だったのかもしれない
祖祖母が、丹波の山奥からわざわざ東京にでてきたのは、ひとつには南北朝の争いの時に南朝方について、その後南朝の系統がすたれ、春勝家もぱっとしなかったらしい、関ヶ原にも出陣したらしいのだが
これまた、西軍方だったため、当時の敗軍のならわしとして、出家したとの記事もあった。

 以来、山奥でひっそりと暮らしてきたわけだが、どうも維新で南朝が復活したとの情報でも入ったので
あろうか、その真偽は別として、丹波は京都に近く、北朝側であったのなら、春勝家がひっそりくらすわけもないはずある。先祖伝来の無念をはらすべく、東京へきたのであろうか。

さて、東京へ来てからであるが、話がでたらめであるならば即座に帰されたと思うのだけれど、とにかく宮中でなんらかの仕事をしていたらしい。

ところが、祖祖母はほどなくして、よい縁談といわれて、ていよく外にだされたそうだ。
亡母によると、亡くなるまで生涯だまされたと、ことあるごとにいいつづけていたそうである
嫁いだ先は、ごく普通の家で、息子にあたる祖父は酒屋に丁稚奉公してのちに酒屋を開いたぐらいの家だ
系図をもって、わざわざ東京にでてきた意味が何もなくなってしまったのだ

子供のころに、母に連れられていった記憶でも特別な家ではなかった、ようするによくいわれるように
消えた謎の一族なる話は、単に作り話と言いたいのです。

ていよく外にだされたというのも、系図がそのゆかりを証明したとしても、扱いに困ったというのが真相ではと思います。しかし、いまだに秦氏の本がだされて、あまりいい印象がありません。

歴史に残る事実は、その居住地を提供し京都の造営に泥まみれになって働いたことですが、その後、本流からはなれて、地方に分散して、地名にその名を残しただけだと思います、その地が都から遠い所にあることも、その証明でしょう。

それよりも、平城京に始まった貴族的特権階級的な社会構造が、天下りなる言葉のように残っているほうが問題ではないでしょうか、政財界、官僚社会にいまだに藤原一族を引き継ぐものが陰にいることの方が大きな闇なのです

  系図冒頭の書き出しであるなかの、都督という言葉は最近、木簡とよばれる古代の事務的資料から、評督の記事がみえることから、その身分地位がそんなに高いものではないことを物語っている

評、とは50戸単位の里をいくつかまとめた郡ということで、督とはそこの仕事をつかさどる者、すなわち、いまでいう、市長程度のものである、その上には国司、いわゆる県知事があったのだからだ。奈良、平安時代は、地位身分はその先祖のはじまりが神話の神にまでさかのぼる氏族がたくさんいて、今きのひととよばれた、あとからやってきた秦氏がいきなり高い身分になりえないのは当然である、平城京奈良からとおくはなれた山奥の丹波一体に住んでいた事実もその証拠である

ところが、長岡京が洪水被害がひどくて、ふたたび都を移すことになり、秦氏の居住地が選ばれたのである、現在なら、強制土地収用といったところである、かろうじて在地の族長としてそこそこの力があり、また、土木建築技術者をかかえていたことから利用されたための役職名にすぎない、よく平安京の造営にかかわったという言い方がされるが、極端にいえば強制的に使役されたのであって、以後時代とともにその影は薄れていくのであり、そのことがとかくに謎とかってにさわがれる迷惑な話である

平安京にいた、藤原一族が名前を変えて現在もつづいている、一方で消えたのは、都建設のあとは御用済みとなっただけの話である、一族の寺である、太秦広隆寺には、都、建設の褒美として宮中で着た着物のを下げ渡すならわしがあると聞いたが、なんのことはない、権威をかさにして、古着が建設の代金がわりということであり、子孫のひとりとして、現在の感覚ではたわいもない話である

現在の世の中でも、3Kなる言葉がつくりだされて汗にまみれて土に汚れる仕事をひくくみる風潮があるが、歌をよんで優雅に貴族生活をしていた当時の、権力者が秦氏をどれだけにとらえていたかは、明白である。

いいかげんな著作のなかに、影の実力者などというふざけた推理には、腹立ちさえ感じてしまうが、なにごとも争わないというのが、聖徳太子の時代に物部との戦いにまきこまれて学んだ一族の知恵かもしれない

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