むかし野菜の邑のブログ「農園日誌」

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31.2.13(水曜日)晴れ、最高温度12度、最低温度3度

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                   巻き始めたキャベツ

当農園の密集栽培。
野菜はゆったりと間隔を空けて植え込むと、延び延びと育つのか、肥大するのみで
必ずしも良い姿にはなり難い。
ある程度、密集させると、競って大きくなろうとするためか、きれいな形になるし、
収量も上がる。不思議ですね。


「活きること」PARTⅤ

2010年2月―フレンチレストラン

福岡にてわずか10席のフレンチレストランのオーナーシェフ小西さんの元へ、重藤さんの紹介で野菜を納入することになった。当時は、「ビストロ炎」と言っていた。
処が、彼もまた、料理人特有の頑固さを持ち、その取引も長くは続かない。
いくつかの大きな喧嘩は行ったが、アレ要らない、コレ要るなどと、常に注文が多すぎる。
その後、決定的になったのは、大根事件であった。
定番の野菜の中に大根を3本入れた。彼曰く「大根はフレンチには使わんのだ」と・・・
私はこう伝えた。「良いかい、日本にはおでんと言う食文化がある。その中でも最も愛されているのが大根である。では、洋風料理には、ポトフと言う食文化がある。大根・蕪・じゃがいもなどの根菜類などの具材は出汁(スープ)から取り出して、マスタードを付けて食べ、出汁はスープとして飲む。これが本来のポトフである」と、その後、何の返答も無いので、出荷はその日からは打ち切りとした。私も頑固ではある。
 
彼も職人としての思いはあったのだろう。当農園の野菜は特別の野菜であることは分かっていたようで、重藤さんに、佐藤さんが野菜を送ってこないと言ったそうだ。
そこで、私はこのように小西さんに伝えた。
「良いですか、料理人は得てして自分の気に入った材料、若しくはメニューありきで野菜を使いたがる。そうすると、料理に変化が無く、進歩も無い。高級飲食店になればなるほど、固定ファンは重要なお客様となる。その固定客は貴方に常に期待している。次はどんな料理を食べさせてくれるのかと。
マンネリ化した料理はそんな期待を裏切ることになり、次第に固定客は離れていく。
当農園には、自然が選んだ野菜しか無い。それが自然に順に育つ露地野菜である。貴方のお店で使えない野菜は決して送らないが、今後は、貴方の店の席数を考えて全てお任せで野菜を送ります。但し、特にこれが欲しいという野菜は指定してください。
勝手に送られてくるその時季一番美味しい旬菜を、食材の良さを如何に活かして使うかはあなたの腕ですよ。それらの野菜と格闘する貴方の創意工夫や努力をお客様が評価してくれます」と・・・

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低窒素の草木堆肥によって育てられた土壌から生まれてくる野菜達は、みな、はっとするような自然の美しさに溢れており、鮮やかな色彩を放っている。どこかくすんだ蝋人形のような野菜とは異なる。

 
クリスマスの前、小西シェフから連絡があった。
「佐藤さん、200名前後の予約が入っている。今、忙しいから、クリスマスメニューを考えてくれないか?肉と魚介類はこれこれを使う」
丸投げではないが、クリスマス料理に使う旬野菜とその組み合わせを考えてくれ!との依頼であろう。
洋風出汁やソースはフレンチの最も得意とするところであり、後は、素材の活かし方であると考えて、
○白蕪及び色蕪や色大根(紅・赤・ピンク・紫・黒)を見繕って蒸す・焼く・炒めるなどの添え野菜、
○色とりどりの8種類の生野菜とレタス系野菜に、サラダ蕪を添えたサラダセット、
○大根・玉葱・人参・ビーツ・じゃがいもなどの根菜類に香味野菜として春菊・セロリを添えて芽キャベツ・ブロッコリー・キャベツなどの浮き実野菜による煮込みスープ料理、
などの三種類の取り合わせメニューを提案した。
かなりな無茶ぶりではあったが、これもお任せ野菜の発送を要請した建前から致し方がない。
それより、「自然に順」な料理を考えてくれているのが嬉しかった。
 
ある時、野菜の下処理について彼から相談があった。
野菜を美味しく提供するためには、歯触りの良い食感と内から出てくジューシーな旨みは大切であり、くたくたにした野菜では素材感もあったものではない。
野菜の下処理として、中華は油通し、和風は湯通し、では、洋風料理はと言うと、蒸すことだとは一致したが、それでは野菜の中の旨みが出てしまう。そこで、二人で一つの結論を得た。
家庭では電子レンジでチンすれば良いが、フレンチでは料理人としての矜持がそれを許さない。
オリーブ油に浸してから蒸す手法を思いついた。これなら油によってむら無く熱が回り、なおかつ、野菜の旨みは油でコーティングされ外には出ない。
 
今では、100坪のお店を持ち、九州観光列車「七つ星」のメインシェフとなり、野菜の70%以上がむかし野菜であり、その野菜はジョルジュマルソーの味となっており、福岡では有名店にまで昇っていた。お店の名前はジョルジュ・マルソーと言う。
 
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赤・朱・黄三色の人参。赤は日本固有の金時人参、朱は洋野菜、黄は沖縄人参。これがそのままスープになると、俄然と存在感を増す。味香りの濃さ、甘さではなく自然な旨味がスープを引き立てる。
「旨味」とは、日本だけの言葉であり、英語には訳せるワードが無い。
それだけ、日本人の味覚感覚や色彩感覚は優れている。
唯、残念なのは、現在の野菜からは、この旨味が伝わってこない。マーケットでは旨味ではなく、甘さのみ追求されている。高窒素の化学肥料や多量の畜糞は無かった時代、日本の先人たちは一所懸命に草木によって土作りを何代にも亘って行ってきた。
その時代の野菜の旨味に「むかし野菜」は少しでも近づこうとしている。

突然、食通でもある重藤さんが福岡でスープのお店を作りたいと言ってきた。
やや戸惑いは覚えたものの、早速に試作作業が始まる。素材を活かしたスープであるから、そのこだわり方も半端ではない。こだわり過ぎて、濃いスープとなり、お客様の嗜好とかけ離れ過ぎたこともしばしばであった。
とにもかくにも、スタートを切り、重藤さんの奥様が中心となって試行錯誤を繰り返しながらも、軌道に乗っていった。トマトの季節になると、鉢割れたトマトが随分と出る。そのトマトを煮込んでピュアーなトマトソースにしてチューリップスープ(お店の名前)に送った。商品に成り難い野菜も添えて・・
今でも、その時の経験を元にして、トマトソースは農園の夏の商品アイテムとして作り続けている。
只、あまりにも頑張り過ぎて数年で奥様の体調がおかしくなって、閉店せざるを得なくなったのは残念であった。今でも野菜を送り続けており、時折、農園にもワンちゃんと一緒に訪れてくれる。
この重藤さんとの出会いから、次々とコネクションができ、農園も拡がりを見せ始めた。
人との出会いはまた楽しからずや!
 
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この頃、女性陣も堆肥降り、鍬打ち、を行い、農園主の一人農業ではなく、生産量も増えてきていた。
一反当たり、年間3〜4回転の作付けを行い、反当収入は3百万円を超えていた。
そのため、昨日までは大根が植わっていた畝に、次の日は、ブロッコリーが植え付けられているといったことになる。畑は空く暇もないほどに高回転をしていく。
それを可能にしたのが、完熟一歩手前の草木堆肥であった。こなれた有機物の中(草木堆肥)には、微生物・放線菌が生きており、土壌の中で、餌となる有機物を食べて活発に行動し始める。つまりは、土を育てているのである。植えられた野菜は、窒素分が少ないため、懸命に生きようと髭根を張り、土の栄養価を吸収しようとする。
完熟一歩手前の草木堆肥は、土壌に入ってから、約一か月ほどで、微生物等から分解され、窒素分を吐き出し始める。十分に髭根を張り終えた野菜はその窒素をお腹いっぱい吸収し、一気に大きく育つ。
二カ月ほど経過すると、窒素分が切れ始め、野菜達は成長が止まり、生き残ろうとして、内に蓄えられたでんぷん質を分解し、糖質やビタミンに変化する。これが糖質・ビタミン・ミネラル豊富な完熟野菜の原理です。


このように農園を開いてから、7年目頃には、飲食店の取引先もできて、定期購入のお客様は100余名に達していた。長男の嫁と次女も農園の主力メンバーとなり(総勢6名)、年間農業収入は10百万円を越えた。決して豊かとは言えないけれども、皆で分け合い、生活ができていた。
農地も4番の畑を加え、3反強ほどに拡がっていた。
農園発足当時から考えていた初期目標である一有機農園にレストラン数軒と100余名の定期購入のお客様と言った一単位のグループができていた。
唯、ここまで来るのに、7年も費やした。歳は60歳を一つ越えていた。
目標としている1,000名以上の定期購入顧客と自然循環農法による10人の農業生産者のグループを形成し、有機農産物を商品とした地域活性化を図るには、ほど遠く、まだまだ先は長くて険しい。


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31.2.6(水曜日)雨後曇り、最高温度13度、最低温度6度

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                      堆肥作り

 寒さも和らぐ気配を感じて、春野菜用の堆肥作りを行う。
この時季は温度も低く、使える状態に発酵が進むには、約2ヶ月を要する。


「活きること」ーPARTⅣ

―人との出会いは、楽しからずや!―
北九州戸畑の銀行員時代、当時はバブル崩壊、オイルショックやニクソンショックなどで、大不況の時代に入っていた。そんな中、負債を抱えて、倒産寸前の会社が多数あり、戸畑支店でも2百数十社の会社のうち、およそその1/3は不良会社であった。
毎日が、この会社を生き残らせるか、どうしたら生き残させられるのか、何時潰すか、などと、正に切った張ったの毎日であった。連日帰宅は午前1時か2時頃と過酷な生活を送っていた。
私には、会社を活かすか、終わらせるか、その物差しが二つあった。
一つは、企業がこの社会に存続している価値があるのか?つまりは、企業として存続できるだけの販売市場(事業存続ドメイン)を持ち得るのか?
二つ目は、生き残ろうとして努力しているのか?目先だけで誤魔化していないか?
小手先の粉飾決算や資金確保などに追われ、本来の生産活動や販路の維持拡大を行い続けるだけの気概が残っているのか?であった。
もし、この二つの基準に合致していた場合は、私にとっても企業にとっても過酷な闘いが始まる.

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料理マスターズの(農林水産省の)表彰式に坐来のシェフと一緒に私も招かれた。優良な生産者の食材を採用し、料理人がその価値を高めた、と言う趣旨のようだ。何故か、国会議員や有名料理人ばかり目立ち、生産者の私は付け足しのようだった。何のことやら・・・?

 行き詰まった会社は、商品開発・販売開拓などを行う余裕も無くしており、金策に駆け回っていることが多い。そのためそんな会社は先ずは、資金を繋いで安定させ、新たな商品を開発させて、又、新たな販路を開拓し、生き残らせる途を探さなければならない。そのためには休日も返上し、事業現場に出向き、取引先との直接折衝も行う。
その基準に合致し、倒産寸前の重量物運搬・解体組み立てを業とする会社があった。しかもかなりな額を貸し込んでいた。
財務分析・将来の事業展開の試算・事業の存在価値などを測った上で、販路の確保と資金の確保を行うべく、審査部と協議を重ね、銀行経営陣の反対を押し切って、(と言うより、倒産させた場合の高額貸金ロスを盾に半ば脅したと言うところだったか)解決策を模索した。
私自らも大手取引先との直接折衝を重ね、ようやく、販路(売上)確保の見込みが立ち、後は高利借入の圧縮交渉とその肩代わりの資金を如何に繋ぐかと言った局面に至った。
そんな時、大手の取引銀行であった福岡の支店長に、協調融資の直接交渉に赴いた。ちょっとした粉飾決算や事業計画を携えて・・
当時は、自己の能力を過信しており、いささか天狗になっていた時期であった。
その支店長、小塩氏と再建計画書を披露し、面談している際に、5分間の沈黙があった。
わずか5分間で、私が自信を持って作成した再生計画書や粉飾決算を見破られてしまった。
今までの自己過信が見事に崩れ去った瞬間に、今までに経験したことの無い脇汗が、ぽつり、ぽつりと落ちていることを感じた。極度の緊張感に対した時、人の体はこんなふうになるんだと妙に感心していた。
真剣勝負に追い詰められ、焦燥感に襲われた。唯、まだ試合中であり、開き直り、頭を下げ、この企業の実態と今後の生き残れる市場領域の話や今までの販路である大手企業や高利貸しとのやりとりを全て話した。
その結果、彼からこのように言われた。
「貴方は銀行員である以上は転勤しますね。転勤した後も、この企業の面倒を見ますか?」
「もとより、私はその覚悟が無いとこんなお願いは致しません」と答えると、「少しお時間を下さい」と言って席を立った。
 
10分ほど経過した後、「審査部とは話しました、私の一存では決しませんが、了解しました」と言われた。
別れ際に、私はこのように伝えた。「小塩さんは随分とご努力されてきたんですね」かれは初めてにっこりとほほ笑んで、「貴方だけだよ。私にそう言ってくれたのは」と・・・
その後の次長たちとの昼食時において、次長からこう言われた。「私はあの小塩さんと対等に話をされた人を始めて見ました。あなたは凄い」と、その時、また脇の下に再度汗が湧き出ると同時に、支店長のほほえみの裏にわずかながら寂しさが漂っていた顔が浮かんだ。
立ち合いに負けて、爽やかさと大きな感動が残った人生最大の出会いであった。唯、人が人を知ることの楽しさとさらなる高みがあることへの喜びが私の心を覆った。
生保と二銀行の協調融資はなったが、最後の詰めが待っていた。高利貸し達への1/2カットの交渉であった。全員を集め、横に公認会計士を控えさせて、こう言った。「数億の資金確保は成った。すでに充分に法律制限以上の金利は得たはずです。貴方方が私の提示した金額まで貸金カットをしないと、明日、この会社は倒産させる。一時間だけお時間を与えます。尚、この公認会計士が証人です」と・・
その後、小塩さんとの約束は守り、今でもこの企業とは一年に一回は行き来があり、北九州でも有数の企業になっていた。
この支店長は、あまりにも出来過ぎていたため、その都銀では常務にまでしか昇れなかった。
ちなみに、わたしは、最低級の管理職のまま、銀行を去った。

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山口県の農業者グループへの研修風景
この頃、何故か 、あちこちからその県の振興局に伴われて農園見学者が訪れてくるようになっていた。
この自然循環農業は、見ただけでは決して分からない。折角だからと、草木堆肥作りから
施肥の仕方、密集植えなど、高集約農業の話をするも、次第に空しくなってくる。やはり、
楽な農業を覚えてしまっている現在の農業者には伝わらないようだ。

2009年11月―和風レストラン
話が大きく脱線しました。元に戻します。
映像企画会社の重藤さんの設定したテレビ放映の後、タンガとの取引が始まり、偶々、その番組を見ていた大分県の職員が、タンガに訪れ、そこで初めて佐藤自然農園のことを知った。上田君であった。
彼は、銀座一丁目(新橋近く)にて、東京坐来と言う大分県のアンテナショップ(実態は和風レストラン)の立ち上げの食材部門の担当者となっており、早速に当農園を訪ねてきた。
それから、県内の「食」を発掘するために、同行を依頼され、県内を3日以上引っ張り回された。
当時は、中々に良い食材が見当たらず、結果として、彼から農産物全般の仕入先を見繕うように依頼されいくつかの農園を回り、一緒に県のアンテナショップへの野菜の納品を行うように誘った。
只、その後、一つ消え、二つ消えして、うちしか残らなかった。
農家にとって、飲食店のように、少量多品目の生産や納品は手間がかかり、続けられなかったようだ。
単品目生産・大量納入に慣らされてきた日本の農家にとって、直接ユーダーに向かい合うことをしなくなっていた。その結果、すでに生産者の農産物へのこだわりや誇りも失っていた。

 坐来へはその後、一年間に数回東京へ出向き、味香りがあり、旨みのある野菜の熱の食え方、素材を活かす調理の方法、盛り付けのこと、及びサービス担当への自然循環農法による野菜の説明の仕方、県産品の語り部としての役割などの研修を行っていた。
銀行員時代、幾つかの飲食店事業再生に携わり、直接料理人やサービス担当の人達に向かい合い、メニュー開発・コストの削減・お客様へのサービスなどの改善策を建て、実行させてきた経験が役に立った。
料理人は、自ら学んできた技術や経験に縛られている傾向が強く、既存の枠から脱却しようとはしない。
例えば、大根・蕪・牛蒡などの根菜類は、皮を厚く剥き、水に浸して灰汁を取り、出汁で煮込んだり漬けたりして、味を染み込ませる。その出汁での味付けを良しとする傾向が強い。
折角栄養価があり、味香り・旨みのある野菜を育てたとしても、これでは、皮と実の間にある栄養価や美味しさを捨て去り、残り滓(かす)をお客様に食べさせているのと同じである。
 
和風料理は、出汁の料理であると同時に、見栄えを大切にする。
この伝統的な調理手法に、素材を活かす工夫を取り入れてくれるように度々促し、野菜の旨みを閉じ込める遣り方を示唆していた処、彼は日本料理の基本である湯通しや蒸すことを取り入れ始めた。(家庭では中々行えない野菜の下処理)
肉や魚料理の添え野菜として、外には火が通ってはいるが、中は半生の根菜類などが下味を付けて添えられていった。
次に生野菜を使わない和風料理に対して、このように伝えた。
「よいかい、食事代1万円程度の高級店では、年配の方が大半を占めるはず。だとしたら、肉や魚を食べる際、必ずや箸休めが欲しくなる。それが生野菜に近い爽やかな一品や脇役が要る。和風だからと言って、生野菜は要らないことにはならない」と再三提言してきたが、中々実行に移さなかった。
その後も粘り強く説得を続けていると、おもむろに、サラダ野菜の春蒔きを作って見せた。彼のささやかな抵抗であった。それでも、坐来にようやく生野菜が登場した。
 
このように、ごりごりの和風にこだわるシェフとは随分と熱いやり取りを重ねたが、彼の素養と努力や工夫もあって、その後、東京では有名なお店へと昇っていった。
和風料理人としての小さなプライドを捨て、素材と向き合う真の料理人として、お客様の心を掴んだ結果だと思っている。

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研修の最後は、農園ランチでおもてなしを行うことが多い。家族総動員で料理を振る舞う。

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31.1.30(水曜日)晴れ、最高温度12度、最低温度2度

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        冬の農園、雨を待つ野菜のためにビニールトンネルを剥ぐ

 トンネルを剥ぐと、畑の全容が現れ、野菜の成長が見える。ついでに雑草も・・
雨の後、寒に当てるため、リスクはあるものの、しばらく剥いだままに置いてみる。


「活きること」PARTⅢ

 学生時代に食うに困り、様々なアルバイトをしてきたが、ここでもっとも役に立ったことは、造園会社での3年間のアルバイトであった。
最後のころは、造園設計まで手掛け、アルバイト頭として職人を率い、様々な植栽や公園などの側溝掘りなどの力仕事をしていた。
さらには、銀行員時代、不動産建築会社へ再建出向をしたおり、バブル崩壊後の遊休資産の処分をしながら、開発可能な5万坪の荒れ地の有効利用のため陣頭指揮を執り、自ら企画設計をし、観光ハーブ園を作り上げてきた。
ここで、学生時代のアルバイト経験がものを言った。

観光ハーブ園での出来事。
広い畑に放物線を描くように畝立て作業を行うように設計し、現場の作業員に指示していた。
本社で数件の住宅設計に(出向先は個人住宅建設・不動産会社)承認の最終チェックをし、午後に開発中の園の現場に出向いたところ、遅々として作業が進んでいなかった。
どうした?と聞いたところ、「企画室長(当時の私の役割)!そんな円を描くような鍬打ちはできん!」と、農業や土木作業のベテランのおばちゃんたちが口を揃えて不満を言う。
黙って、自ら鍬を取り、緩やかな放物線を描くように長さ200メートルの畝を立てて見せた。
皆の顔色が変り、私の後を辿るように、7人の農家のおばちゃんたちが鍬を並べて必死に続いてきた。
 
又、ある時、固い土の上に植栽を施すように指示したが、土木作業のベテラン達が一斉に不満を言い始めた。(大きな木の植え替えの場合、ユンボで穴を穿つと土壌が緩み、大風などで倒れてしまう)
「無理や!そんなことはできん」
おもむろに、つるはしを執り、十字を描くように固い土の上に打ち込んだ。それを繰り返し、スコップも使い、幅70センチ深さ100センチの穴を掘って見せた。
今度は、5人のそのベテラン達が10本の穴を黙々と掘り始めていた。
 
青白い銀行員が何を言うか?とのふてぶてしい態度は一変し、お陰で、作業は進み、わずか6カ月でハーブ園の姿ができた。その進捗状況に近在の農家からは、「キチガイ」(狂人)と言われていた。
やはり、人は口で指示しても、動かない。指揮者がやってみせ、一緒に汗を流し、結果を示してやらないと、動かないものだ。また、自分でもできない事を指示すべきでもない。

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最初の5年間くらいは、農業技術も下手で、自然循環農法も手探りの状態であった。何しろ、草と葉っぱが主体の草木堆肥と言う低窒素栽培であるため巻物野菜であるキャベツ・白菜などが中々巻いてくれない。
水遣も手が回らないからか、折角蒔いた種も思うように育ってくれない。筋蒔きも歯抜け状態となってしまう。そのため、反当収入も低く生産性が上がらない状態が続いていた。


そんな経験が早速に農業に生きた。

本格的に農園を開いて一年目、銀行員時代、10年間の様々な有機栽培の実験に基づき、迷うことなく草木堆肥一本に絞った土作りが始まった。

最初は、現在2番の畑と言っている以前は田んぼの畑での本格的な野菜作りが始まった。

草木堆肥に棲んでいる微生物の生命の営みの作用で、確実に土は変化していった。しかしながら、元々は田んぼであったため、一年間で3センチの深さしか団粒化が進まず、3年を経過しても10センチの深さにしか腐食は進まず、その下は相も変わらずに、泥田の状態である。

雨が降ると、すぐに泥濘、少々長く雨が降り続こうものなら、トラクターまでも埋もれてしまう。

これではと思い、畑の周囲をショベルカーで掘り起こし、深さ50センチの溝を掘り、水路に流せるようにした。

農業は土木工事と心得たり。

それでようやく、水浸しの畑からやや解放された。

水に浸ってしまうと、野菜は空気が入らず、成長が止まるか、根腐れを起こし最悪の場合は萎んで立ち枯れてしまう。

そのため、絶対に必要なことは、平植えではなく、畝を立て、水捌けを考えた耕作をしなければならない。

しかも、土地に合わせた勾配を取ることが不可欠となる。土木作業や鍬打ちやレイキ(熊手)作業は昔取った杵柄と言うところか。

 
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 農園を開いてから5年経過した頃から、長男の嫁、寛子さんと次女茂登子も加わり、家族で3反の圃場を管理していた。相変わらず、土作り、畝揚げ、など力仕事は男手一人ではあったが、種蒔き、草取り、収穫、堆肥作りなどを手伝ってもらい、随分と楽にはなってきた。

草木堆肥作りは当初の二年間は、手作業で行った。

近在の雑木林から下刈りを行いながら、葉っぱを集めてきた。

除草した草や畑の周囲の草を刈り取り、山のように草も集めた。

近くの牧舎から牛糞をもらい受けた。

これらを草・牛糞・葉っぱの順に三層に何回も積み上げ、その度に水路から水を取り、加え、踏み込み幅1m、高さ1.5m、長さ10mとした。一人でフォークなどを使った手作業で行った。

微生物は直射日光に弱いためと乾燥防止のため、最後は上にビニールを掛け、約一か月寝かせ、一次発酵を促す。

その後、フォークを使って切り返しを行う。その切り返し作業は酸素を補給して、微生物・放線菌の増殖作用を促すためである。湯気が出て草や葉っぱには白い放線菌(黴)が一杯ついている。二次発酵である。

その際乾燥していれば水分も補給してやる。その後、半月ほどして二回目の切り返し作業を行う。三次醗酵である。

この作業は、辛く、腰が悲鳴を上げ、疼き始める。流石にこれでは長くは続けられないと思って、おんぼろのタイヤシャベルを買った。
当時の価格で30万円。収入の乏しい私にとっては大金であった。
これでフォークによる堆肥の切り返し作業からは解放されたものの、相変わらず、雑木林からの葉っぱ集めの作業は辛く、一年後、清水の舞台から飛び降りたつもりで、800万円のローンを借り、中型の破砕機を導入し、造園会社から剪定枝を引き取り、葉っぱと破砕屑により、堆肥材料も確保できるようになった。
機械化を進めたことによって、飛躍的に堆肥の量が増えていった。

圃場も3番の畑をあらたに借り受け、妻に頼み込んで退職金のうち、150万円を出してもらい、農業収入から細々と溜め込んできた100万円と合わせて、その隣接地に小屋と育苗ハウスを建て、ようやく農園らしくなってきた。

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この破砕機導入効果により、葉っぱや木屑の量が増やせ、そこに生息している微生物・放線菌が堆肥の中に増殖し、従来は3ヶ月以上要していたが、2ヶ月弱で堆肥が完成していった

 農園を開いて7年が経過していた。その頃、80人にお客様が増えていた。一回の配達当たり1,500円程度しか野菜は作れなかった。年間にして、5百万円ほどの農業収入であった。

自然循環農法を理解して頂けるお客様を掴むと、そこから友人達のご紹介をお願いし、何度も足を運び、小さな説明会をあちこちで開いた。

その頃から、農業志望の男の子を受け入れてきていた。手を取り、足を取り農業の基本を教えながら、手直しや自らの仕事もこなさなければならない。農業収入は農業経費や彼らの生活費に消えていった。しかも教えた若者達は、長くは続かない。今思えば、この頃が最も厳しかった。


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農業研修生達が玉葱を植えているところ。ベテランの女性達に比べて約1/3ほどのスピード。
畝揚げなどの鍬打ち作業では、真っ直ぐに進まず、手直しの連続であり、農園主を大いに困らせてくれる。手直しをしながら、自分の作業もしなければならず、私の方が給金をもらいたいくらいであった。

個人顧客だけではなく、飲食店などへの出荷を考え始めていた頃、福岡にてデザインや映像企画会社を営んでいる重藤さんと出会った。
農園に奥様と度々訪れてくるようになり、彼から、東京で飲食の開発の仕事に携わっていて、最近有名になりはじめているタンガと言うレストランのオーナーが「九州へ食材探しの旅に出る」と言った設定で、東京テレビの取材を受け入れてはくれないか、との話があった。
ここから、農園は新たな展開が始まる。


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31.1.23(水曜日)晴れ、最高温度15度、最低温度3度

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              農園を初めて間もない頃の孫二人

 自然の中で育つと、子供の目はまん丸になる。今時の子供の目とは異なり、古き良き時代の姿です。今ではこの二人は小学4年生となっている。


「活きること」PARTⅡ

ともかく、生きていかねばならない。
当初の三年間は、わずか半反の一番の畑、(実験農園)と二番の畑(一反)で、年間50種類以上の野菜を生産しては、妻と二人でお客様作りをしていた。知人縁故を頼り一人又一人と口コミでお客様を開拓する日々が続いた。
農作業小屋も無く、ドラム缶に溜まった雨水で野菜の泥を落とし、家から持ってきた水道水で野菜を洗い、約30人のお客様に野菜を直接配達してきた。冬などはそのドラム缶に氷が張り、野菜の泥落としをせねばならず、手はすぐに感覚を無くしていった。
それでも、辛いと感じたことは一度も無かった。日が昇るのが待ち遠しく、早朝6時頃から畑に出て、日が暮れるのを惜しみながら家に帰る、やることは山ほどあり、そんな毎日が楽しかった。
土を如何に早く育てて行くか、美味しい野菜はどうしたらできるのか、季節毎の野菜の作付けのこと、如何にしてお客様に自然野菜を理解してもらうか、どうしたら賛同してくれるお客様を増やせるのか、などなど、休む暇も惜しんで考えて、かつ、働いた。
 
元の銀行の同僚からはきつくはないか?よく持つな?などと言われてきた。
「人は志があれば、生きられる」
融資業務に携わる中で、みな生き残るため、懸命に事業を営み、闘っていた。必死にあがいている会社を生き残らせるためには、融資を継続しなければならず、商品開発・販売ルートの開拓・組織改革など企業再生の闘いの連続となる。さらには、企業の事業再生への闘いのさなか、背中から槍や矢が飛んでくる。そんな銀行上層部の圧力をさばきながら、権力が持つ理不尽さと向き合わねばならなかった。
それは決して報われることの無い不毛の闘いの世界であり、嫌気が刺していた。
同じ闘い続けるのならば、疲弊していく地域を、農業を、有機農産物で活性化させることに残りの人生を掛けてみようと考えた。そこで闘うことは、少なくとも、生きていることを実感できるのではないか。
ところが、それは大きな思い上がりであった。自然循環農業の奥の深さと、農業を取り巻く環境や農業者の実態は、そんなに甘くは無かった。後ほど思い知ることになる。
 
このように、有機農業を始めた動機は、不純であり、天地の神々はさぞかし怒っていたことだろう。それでも地の神は、地域農業の再生を目指す私の心根を憐れみ、今の処は目を瞑ってくれているのだろう。

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わずか一反の畑に、一季節20種類以上の野菜が並んでいる。
配達するお客様には、毎週人参が、キャベツが届く。種類が少ないからだ。
それでも文句も言わず取り続けて頂いたお客様もいれば、すぐに止めてしまわれるお客様もいた。何とか30名ほどのお客様を繋いでいった。
家庭菜園のやや大型バージョンと言ったところか、何しろ、経験も浅く、一人農業では、
生産する野菜も限られてくる。

 
農園を開いても、草木堆肥による土作りを行いながら、そこで採れるわずかな野菜と地縁人縁を頼ったお客様だけでは、生きてはいけない。
そんな時、以前から相談に乗っていた二社が、銀行を退職することを聞きつけてSOSの依頼があり、その企業の商品開発から販売戦略や戦術、組織作りまで、改革を断行せざるを得なくなった。
相談役としての見返りとして、若干の収入を得た。
唯、そんな生き方を捨てて有機農業の道へ入った自分としては、有機農業への途は進まず、農産物販売によって、生計を立てていかねばならないと焦っていたら、やはりと言うか、事業が軌道に乗り始めると、経営者の支配欲やら同族の内紛やらで、結果として、その二社から追われることになった。
銀行員時代、会社再建を随分と手掛けてきたが、マーケティングに基づく経営改善策が功を奏して、事業が軌道になり始めると、必ずと言って、起こってくる「人の欲」であった。
それまでは、神様、仏様、佐藤様が裏返って、鬼畜の佐藤に変わってくる。あろうことか、佐藤は会社を乗っ取ろうとしているとまで言われたこともあった。
人の欲は、限りが無い。その欲を失くそうとすることは難しい。嫉妬心・権勢欲・支配欲、これらが親族などの心を捉え始めると、経営者は先祖帰りをしてしまい、再び会社を傾かせる。その繰り返しに嫌気が差して、斬った張ったの世界から退こうとしたのではなかったか。
とにもかくにも、私にとっては渡りに船で、ようやく本来の途に戻ってきた。
 
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少ない農地を最有効に使おうと様々な工夫を試みた。
これなどは、場所を占める南瓜の蔓を、支柱に登らせて育てようとした。
これは見事に失敗に終わる。重たい南瓜は支柱が持たず、さらには、地を這う蔓は、根を張り、土壌の栄養価を吸収する。支柱に登らせると、それができず、結果として南瓜の収量が激減した。

銀行在職中、数年間の農業白書を読み、物流コストの高さ・機械化ができない効率の悪い狭い農地等々による農産物の内外価格差と低い農業所得にあえぐ日本農業の衰退していく構造は分かっていた。
ただでさえ、生産量をこなさないと、生きていくことができない日本の農業者に、さらに、農協等の中間マージンが重く圧し掛かかる。生産した農産物の価格決定は全て流通が握っている。
何とか生きてはいけるだろうが、活きてはいけない。そんな夢の持てない日本の農業に多くの既存農家は、農業を止める道を選びつつある。地域の衰退・疲弊・過疎、そして地域の消滅である。
 
こんなこともあった。鹿児島から数人の農業者が訪れてきた。
もっとも、当時から年に1〜2回は、各県から視察団がよく訪ねて来てはいるのだが・・・
鹿児島からの農業者は、焼酎原料となるさつまいもを生産している。それも数町歩単位で。
裏作には、大根なども育てているそうだ。
農業は気候に左右され、収入も実に不安定であり、さつまいも作りはかなりな重労働となり、価格も安い。大根は、豊作の時ほど、売る先が無くなるとのこと。
農業自立に向けた様々な御提言を申し上げたが、いまだに腰が上がらない。
既存の農家は、農協も含めた既存流通の、あるいは、大手の加工業者の求める規格野菜を如何に多く生産するかに、慣らされてきている。またそのほうが販売先の開拓もしないでよく、楽ではある。
消費者へ直接販売への道程は遠く、険しい。彼らにその労苦を強いることはできない。
 
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露地栽培・低窒素栽培の自然野菜は、害虫によるデープキッスの痕は、ヒセができて(傷を修復しようとするため)変形することも多く、そもそも、化学肥料・農薬及びハウス栽培ではないのだから、大きさはまちまちであり、規格サイズが揃うことは決して無い。
うちの野菜は、農協基準から行くと多くが規格外となってしまう。
「当たり前だろう」と言わざるを得ない。


農園発足当初から、農協も含めて流通への販売への途は絶っていた。
この大量消費・大量流通の社会の中では、農業者には、画一的・規格的農産物を求められている。つまりは、自分が工夫して、苦労して育てた他に優れた農産物であっても、既存の流通の仕組みではその価値は求められていない。
農業者が真に自立するためには、既存の流通を頼っていては、自分の思いは消費者へは伝わらない。
一般の野菜ではなく、健全で美味しく栄養価の富んだ農産物、つまりは、「差別化された農産物商品」を
作ることができれば、それが分かってくれる消費者が必ず居る。
もし、そのような価値のある野菜作りをグループで生産できれば、衰退していく農業・消滅しかかっている地域は復活できる。そう信じて疑わなかった。
元々、真に自立した農業を作ること、地域の活性化を有機農産物生産及び加工品の製造活動が、地域を蘇らせることになる。それが私が有機農業の途を選んだ原点であった。
 
それからが、私の苦悩と試行錯誤の闘いの始まりであった。


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 長らく、農園日誌を読んで頂きありがとうございました。
今までの農園日誌は、今年からは、むかし野菜のホームページに、(従来の農園
日誌)移行していきます。

今後は、佐藤自然農園の発足当時からの農園主の個人記録として、書かせて頂きます。引き続き、お付き合いをよろしくお願い致します。


「活きること」

2003年7月1日、永年勤めてきた銀行に辞表届を提出する。
同年、4月、次女が就職し、肩の荷が降り、銀行を退職することができた。定年一歩手前の54歳になっていた。

辞表を提出すると、心が浮き立ち、自然と笑みが漏れてきていたのだろう。まだ若い中堅の同僚達からこのように言われた。
「私たちを見捨てるのですか?何故そのように笑っていられるのですか?」
そこで私はこのように答えた。
「貴方達は今まで、上からの理不尽な命令や指示に対して、闘ったことがありましたか?一人闘っている私を、唯、眺めていただけではなかったのですか?私はそんな貴方達に共に闘うことを強いたこともありませんでしたよ。だから、見捨てると言う言葉は当たらない。組織の中で、その不条理さを正そうとするならば、上の意向を重んじるのでは無く、目の前の仕事に、お客様に、懸命に向かい合いなさい。そして、これが正しいと信じたら、どのような方法を採っても達成させなさい。それだけの覚悟と信念が貴方たちにありますか。信念を持って何かをなそうとすれば、何かを失う。失うことを畏れては何一つできません」
どうやら、私は、この銀行の最後の野武士であったのかもしれない。
私が退職した後、次々と有能な人材がこの銀行を去っていったことを友人でもあった人事部長から聞いた。「貴方が悪い。貴方が中途退職したものだから、次々と中途退職者が出たんだ」とも言われた。
その彼もまた、その後、去っていった。
 
銀行に勤めてから2年目にすでに一回退職届を出したことがあった。
その時は、ある女子行員が休暇を取ったことに端を発し、その休暇を許したことを支店長に咎められ、全行で有給休暇の消化運動と言った一大騒動まで発展した。若かった故、企業の古い体質に反発したのだろう。すでにその時から銀行トップや人事部から睨まれ続けていたことになる。
 
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 二番の畑(300坪)に先ずは水菜・青梗菜などの葉野菜を育てた。この畑は、銀行を退職する前から借りており、土作りを行ってきていた。
土作りに使う草木堆肥は、近所の草を刈り取り、下刈りしておいた雑木林から葉っぱを集め、乳業を育てている安部牧場からトラック一杯の牛糞をもらい、フォークと三つ叉鍬を使って高さ1m、幅1m、長さ10mまで積み上げ、約一ヶ月ほど寝かせ、一次発酵(温度が60〜70度まで上がる)が終わると、また、フォークなどで切り返し(二次発酵、温度は40〜50度)
発酵が思わしくない場合は、さらに切り返し(三次発酵)、ようやく完熟一歩手前の堆肥が完成する。
処が、先生は誰も居ない。試行錯誤の繰り返しでようやくほぼ満足のいく堆肥ができるまでに2年以上は要した。
何しろ、機械は使えず、材料集めから始め、全てが手作業の連続。
この時から、痛めていた腰痛がひどくなっていた。まだまだ、農業の体になっていない。


学生時代に、自分の意思とは関係なく、学生運動の小さなリーダーに祭り上げられ、日米安保闘争といった時代の波に飲み込まれていった。この安保闘争は、アメリカにただ一方的に従属し続ける体制への最後の抵抗であった。
仲間を二人失い、自責の念に駆られ、挫折し、親の面倒を見ると言う名分で地元大分に帰るために銀行員生活を選んだだけであり、すでに片方の親を亡くし、役割は終えたとも考えていたから、退職届を出すことには何の躊躇いもなかったのだろう。
その際、一人の支店長代理からこのように言われて思いとどまった。
「貴方がたった一年で銀行を止めることに対しては何も言うことはない。但し、この銀行に入りたかったであろうもう一人の人に対して申し訳ないと思わないかね」と。
 
当時は、良き時代でもあったのだろう。年俸10百万円を銀行から頂いていた。明日からは唯の一銭も収入は無い。
すでに辞める一年前から約一反の畑を借りていた。さらに言えば、銀行員時代に約40坪の畑を借り受け、約10年ほど、畜糞・米糠油粕・草木堆肥など、様々な農法で有機農業は試しており、「有機物なら何でも良い、化学合成した資材は使ってはいけないなどの、国が定めた有機JAS農業」には懐疑的であり、迷うことなく、古来からの草木堆肥一本しか使わない自然循環農業しか無いと思い定めていた。
銀行を辞することはすでに覚悟していてくれたのだろう妻からは、せめて、もう一年辞めることを伸ばしてくれていたら良かったのに!とのお小言を頂いた。3人の子供を育て、大学にやることによって、借金もし、ようやく借金は返し終えてはいたが、貯金は一銭も無い。もっともであった。

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辞めてからは、毎朝、日が昇ると畑にいそいそと出掛け、日が落ちると、と言うより、当たりが見えなくなると、帰宅する毎日を送った。その当時は、野菜を育てること、それ以上に、土を育てることに一所懸命の毎日であり、土に語りかけ、畑に出ることが楽しくて仕方がなかった。
 
そんなことを一年続けて、育てた野菜もこれならばと言うレベルに達した。
最初に借りた畑も土作りが進み、草木堆肥歴は3年を経過していた。
小学生の時に食べた鼻につんとくる味香り、歯切れの良い食感が私の美味しい野菜の基準であった。畜糞・米糠・油粕・骨粉・魚腸などを使うと、その味香りが消えてしまう。土壌が肥料(窒素)過多となるからであろう。
有機肥料の化学肥料化と、私は称している。
 
実験農業をしていた頃、有機栽培や微生物の専門書や生物学の本を図書館で読み漁った。どの専門書も私に答えは教えてくれなかった。
近くの80歳に近い農業者に師事し、野菜作りの疑問をぶつけてきた。
基本的な野菜の育て方など様々なことを教えて頂いたが、何故こうなるのかは、やはり教えてはくれなかった。と言うより、彼はこう言った。
「それは、私にも分からない。毎年毎年気候は変化している。人間が思ったとおりに野菜が育つわけが無い。畑と向かい合っていると、どうしたら良いかは、自然が教えてくれるだろうよ」と。
こんなことも言っていた。
「わしも何十年と農業をやってきたが、未だに分からないことだらけで、あんたがわかるわけはないじゃろう」
 
そんな時、むかしの農人はどうしていたんだろう?との疑問が湧いてきた。
むかしは、機械も無く、勿論、化学肥料や農薬も無かった。
まだ幼い時に見覚えていた堆肥作りを思い出し、図書館で古書、農業本を探した。あった。でも実に難解で、何を書いているのか分からない。それでも、断片的に伝わってくるものがあった。
そこには、個々の野菜作りではなく、土作りのことが基本に書かれていた。
むしろ、山の芝刈りや葉っぱを集めてきては、2〜3年掛りで堆肥を作り、畑に持ち込み、焼いた木や竹や草などの草木灰を振り、唯、土を如何に肥やしていくかと言ったことなどが書かれていた。
しかも何代にも亘って、土を作っていったと言うことが繰り返し書かれていた。

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       夕なずむ畑の風景、帰り難く、しばし眺める


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