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まあ、僕は前から髪の毛を染めたり、高い服を買ってオシャレをしたり、ということがどうも苦手である。
それ以外にも苦手なことといえば、パブリックビューイングで大声で騒いだりとか、あとは女性を誘ったり声掛けたりするのも苦手。
ライブで手を振るやつとかも。
誰かがやっていることをマネするとかもか。
なんで苦手かというと、どうも「どうせ似合わないのにそんなの関係ナシに髪を染める」とか「別にカッコいいわけでもないのに女性の前でいいカッコする」とかそういう行為をする自分にどこか「ずうずうしさ」を感じてしまうという感じなのだ。
「何やっているんだ。似合いもしないのにさ」という部分が引っかかってくる。
別に僕自身はたいした存在でもないのに、それなのにイッチョマエに振舞うことの恥ずかしさという感じだろうか。
つまりは「人がどう感じようが、やりたいことをやる」ってのがどうも苦手。
「ものおじしない」というか、まあ、「ずうずうしさ」という言葉で表現します。
しかし、この社会ってのは、皆が「ずうずうしい」から成り立っているわけだ。
皆が「やりたいことをやっている」からこそ、大量消費は成立する。
(本当に全員が茶髪やオシャレが似合っているのか!?)
たぶん、「ずうずうしさ」というのはこの社会の成員としてのステータスとなっているなあ、とそのようなことを考えていたら。
M・フーコーの言葉で「主体的に=従属する」ってのがあるじゃないですか。
権力に従属することによって、一個人は「主体的に」振舞う「主体」となる、みたいな。
この社会って、「ずうずうしさ」を身に付けることで「主体化」してるように感じました。
つまり、単なる一個人に過ぎない存在が「ずうずうしく」振舞えるのは何故か?
それは権力に従属しているからである。
権力に従属することで、そのずうずうしさを主体的に行えるようになっているってのが、あるんじゃないのかなと。
そして、その権力の存在を何も疑わないからこそ僕には「ずうずうしく」見えるのだと思う。
コンサートで全員で手を振る行為を恥ずかしげもなくやる「ずうずうしさ」って、そのことをやる自分に何の疑いも見出さない「「いいじゃん、別に。」というずうずうしさ」であって。
そのようなずうずうしさを皆が内的に抱えて主体化しているからこそ、この社会は成立しているのだろうなあ。
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