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 1995年の阪神淡路大地震の際、バイクで救援ボランティアとして活動したときに撮影し今や貴重な資料となった阪神淡路大震災の様子を収めた画像が残っていた。せっかくなので当blogで公開させていただきます。


 関東大震災と並んで歴史に残る大災害となった1995年1月17日の阪神淡路大震災。まだ学生だった私は、ニュースを聞くたびに犠牲者の数が増えていくという尋常でない事態を関東からメディアを通して見守っていた、というよりは単なる傍観者として見ていた。

 地震から数日後、既に辞めていたバイト先のバイク便会社から突然連絡があり、焦り気味の口調で「震災のボランティアに行ってみないか?」と聞かれた。炎上する神戸市のTV中継を見ていた最中で一瞬返事をためらったが、かなりお世話になったバイト先だったし試験休み中で時間も余裕があり、「行きます」と返事をした。
 宿泊先は関西に拠点を構える総合商社の倉庫内。バイク便会社の大手取引先だったこの商社が、自社取り扱い商品を被災地に輸送する手段としてバイクに目をつけた。バイク&ライダーを確保したいという商社の打診を受けたバイク便会社だが、現役ライダーを行かせると本業に支障が出る。そこで、関西まで行ってくれる退職者ライダーを探していた、という経緯だった。ボランティアではあったが、食費・ガソリン代・現地までの高速料金はバイク便会社が負担するとの申し出があり、恵まれたバックアップを受けての活動を約束していただけた。
 さて、学校は試験休み中ではあったが、出席するつもりだった課外講習に出られない。学校の担任に電話で相談したら、「そういう事情なら休んでも大丈夫だ」とのお言葉をいただき、留年の心配は回避された。

 その夜22:00頃、当時乗っていたVFRに荷箱を取り付け東名高速で西に向かった。道路情報に「関西方面交通規制」の文字が表示される中、自衛隊の車両が数百台、数kmに渡って途切れることなく続いていた。
 まだ陽も昇らない早朝に大阪市内の倉庫に着くと、退職者ライダー5人が私を出迎えてくれた。早くも被災地に出発するところだったが、まったく寝ていない私が仮眠を取るため1時間出発を遅らせてくれた。

 国道2号線で震災地域に向かっていくと交通規制は大阪市内から始まった。尼崎→西宮→芦屋と進むにつれ、尋常でない地震の痕跡を目の当たりにすることとなった。

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橋脚ごと崩れ落ちた高速道路の高架橋。
被災地内の移動は、今にも崩れてきそうなガレキ直下の道路を何度も往復することとなった。その道路も、四輪車は至るところに放置され、地割れや陥没でアスファルトはガタガタ。
イメージ 1

イメージ 2



どうしても通過できない道路を避けて歩道を走るが、ここも全壊した家で通れず、裏道にも退避出来ない。こんな場所ばかりで目的地になかなかたどり着けなかった。
イメージ 3

イメージ 4



一階部分が完全に潰れたアパート。
写真手前に写っているのは、丁寧にオールペンされたDUCATI PASO。車体は震災を免れたようだが、ライダー氏は無事だったのだろうか。
イメージ 5



倒れた壁の下敷きになったスクーター。
イメージ 6


神戸市内の大開通8丁目交差点
この真下には地下鉄大開駅があり大きく陥没した原因となった。右奥に見えるのはNTTのアンテナ。
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火災が最も激しかった神戸市長田区
写真の左側に写っている住民らしき人の大きさと比べれば被害の規模を察していただけるだろう。
イメージ 8


同じく長田区内、倒壊した会社ビル。
イメージ 9



あの横倒しになった阪神高速神戸線の高架橋沿いにあったガソリンスタンドで給油中。
こんなところでも営業してくれていてガソリンの確保が出来たのは頼もしい限りだった。倒壊した高架橋は早くも重機により解体・撤去作業が進んでいた。
イメージ 10

イメージ 11



 写真は現地到着初日に使い捨てカメラで撮影したものがほとんどで、活動するにつれて次第に心の余裕がなくなり、写真を撮ることも忘れていた。関東を出発するときにパンク修理セットを多めに買って持っていったのに、活動初日の夜にはガラス片や釘が無数にささっていて、パンクしたまま神戸市内から大阪まで戻った。この件で修理用パテをほとんど使い切ってしまい、翌日からはヒヤヒヤしながらの走りが続いた。

 ガレキの撤去が進み物流経路が確保されてきた頃、バイクでの救援が一定の役目を果たせたところで6泊8日の活動を終え関東に戻った。毎日緊張しながら被災地に乗り込んだはずなのに活動後半の記憶は未だにハッキリしない。今思えばこれがPTSDの心理なのかと感じている。初日だけで約1000km、8日間で5000km超を走ったことは未だに超えられない長距離走行記録。自宅に帰る途中、普段は汚くて雑然な街並と思っていた実家近くの風景が異様なまでに清潔に感じた。

 あれから10年以上が経過し、大地震が発生して現地の被害が報道される度にその様子がリアルに想像出来てしまう自分がいる。ただメディアの情報を見聞きするだけの傍観者のままであったら「地震があったのか」だけで思考停止したであろう。そんな意味では私は貴重な体験をさせてもらったと思っている。

※ すべての画像は、使い捨てカメラで撮影したプリント写真をスキャナで読み込んだものです。


消防庁発表によると、阪神淡路大震災の犠牲者は6400人超、未だに行方が分からない方も3人。不幸にも犠牲になられた方々には心よりご冥福をお祈り申し上げます。また、私とは比較にならないほど救助・支援・復興に尽力された皆様に最大限の敬意を表します。




●阪神大震災 私が見た被災地KOBE
http://www1.kiwi-us.com/~skyearth/kobe/kobe.html
※↑私の元バイト先とは全くの別会社です

●ジャパン・レスキュー・サポート・バイク・ネットワーク
http://www.jrb.ne.jp/index.html

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    すごい経験をされてますね

    りゅう

    2005/11/22(火) 午後 6:56

    返信する
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    すごくて貴重な経験でした。震災の後に神戸に2回行きましたが、倒壊したままの木造家屋がまだ残っているのを見て、当時の様子がフラッシュバックしてきました。最もすごい経験をしたのは神戸市民の皆さんでしょう。

    【の】

    2005/11/23(水) 午前 0:54

    返信する
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    はじめまして。
    いつもSPARKRX135iの記事楽しく拝見させていただいてます。

    私は神戸の近隣市生まれで高校は長田でした。
    震災時は中学生で、震災2年後から長田の高校に通いました。
    こちらの写真の大開駅(復旧後)を使って通学していました。
    震災から14年が過ぎて、記憶が大分薄れてきましたが
    今日こちらの写真を見て当時のことを色々思い出しました。

    今でも母校の文化祭に年に1度は長田を訪れるのですが、
    最近は当時は面影を残すところも少なくなりました。
    街はとても綺麗になっています。 削除

    [ きしぷー ]

    2009/1/17(土) 午後 11:06

    返信する
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    きしぷーさん
    はじめまして。現地の皆さんは当時大変な経験をされたとお察しします。
    震災後の神戸には2回行きました。1998年に新幹線で行ったときは倒壊したビルの跡や焼け跡のある民家をちらほら見かけましたが、2006年にバイクで通過したときは随分とキレイになっていて驚きました。神戸周辺の幹線道路にはバイク優先車線が出来ていて、震災復興で大活躍したバイクへの恩返しなのか?と思いました。
    時間と共に記憶が薄れてしまうのは仕方のないことだとしても、あの震災を教訓にして地震対策や予知の研究は更に進歩して欲しいですね。

    【の】

    2009/1/18(日) 午前 0:13

    返信する

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