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何故日本は韓国を「保護国」として監督するところまでにとどめず、自国の一部に組み入れるという「日韓併合」を行ってしまったのだろうか。「日韓併合」こそ、隣国との史上最悪の悪縁の始まりで、そもそもその後の満州事変→日中戦争→太平洋戦争へと突き進むきっかけとなった歴史上最悪の「凶事」である。



日清戦争後に清から独立した李氏朝鮮は1897年10月12日 大韓帝国と国号を改め、高宗は、圜丘壇を新たに設けて10月12日に祭天の儀式を行い、翌13日に詔を出して皇帝に即位した。その後、清の冊封の象徴であった「迎恩門」や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒して「独立門」を立て独立を記念。



1898年
4月25日、日本とロシアは、西・ローゼン協定(注)を締結。

(注)西・ローゼン協定:
1898年4月25日に日本とロシアの間で結ばれた、韓国についての紛争に関する協定。 日清戦争における日本の勝利と、韓国国内政治への影響力の増大により、朝鮮半島への主導権に関する日露の緊張は増大。
ロシアは、米国が「独立協会」の活動を支援しているとして、米国宣教師を排撃。


米国行使ホレイス・ニュートン・アレン(注)は「韓国でのロシアの干渉は、現在、軍事的及び政治的問題に関連する最も親密な事柄に広がる」と報告。

(注)ホレイス・ニュートン・アレン:
アレンは駐朝米国領事館付きの医師として朝鮮に派遣された人物。1884年アレンは家族とともに朝鮮に到着し、まもなく甲申政変に巻き込まれることになる。政変の中で、国王高宗側近の閔泳翊が刺されて負傷する事件が発生すると、ドイツ公使メレンドルフはアレンに閔泳翊の治療を要請。アレンの施した近代医療により閔泳翊は3ヶ月で回復。このことでアレンは高宗の信任を得ることになった。

日露戦争中、アレンは米国政府の不介入政策を積極的に批判。米国は1905年3月頃に公使をエドウィン・V・モーガンに交代することを決め、アレンは同年6月9日に韓国を去った。アレンが去った後、同年7月に日米で桂・タフト協定が締結されることとなる。


その後ロシアは、日本への三国干渉によって、1898年3月15日に清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、不凍港が手に入り、韓国への関心が失われ、1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事アドバイザーが撤退。


1899年
■大韓帝国政府による「独立協会(後の一進会)」への弾圧
1899年(明治32年)には清と韓清通商条約を結び、「独立協会」を弾圧。立法機関である法規校正所において国家基本法である9ヶ条の「大韓国国制」を制定し近代化を目指す光武改革(朝鮮語版)を推進。土地調査や鉱山開発など殖産興業政策を実施。しかし財源不足や諸外国の外圧により利権を奪われるなどで挫折。


大韓帝国では政府の対露姿勢が「屈辱的」だと非難の対象となり、その中で朝鮮半島でも「立憲君主制」を志向する「民主主義思想」が誕生。韓国皇帝と保守勢力は「民主化」を主張する「独立協会」をむしろ弾圧。韓国政府が独立協会を排撃したことを、米国公使アレンは「朝鮮人は外国勢力とそのアドバイスに学ばなければならない」として、韓国の統治能力に疑問を持ちはじめ、その状態は「ロシアの影響が完全に撤退されて以降、ますますひどくなった」と述べている。

その民主化勢力で主要メンバーだった李完用はその後、日韓併合条約締結時に全権となり、また弾圧された独立協会の活動は日韓併合で韓国側で重要な役割を果たす事になる「一進会」へと引き継がれる事になる。

(日本によってもたらされた議会政治)
大韓帝国は民主的選挙は1度も行われていない。朝鮮半島で民主的選挙が導入されたのは日本政府によって実施され1933年に行われた選挙が初。議員の8割は朝鮮人、知事も同様だった。

(日本からの莫大な予算での教育整備)
近代化に欠かせない教育面に関しては1895年の時点で確かに改革は始まっており、近代教育制度を導入を始めていたものの1906年の時点で小学校は朝鮮半島全体で40にも満たなかった。これを知った朝鮮総督府初代総監の伊藤博文が「一体今まで何をしてきたのか」と叱責し、以後学校建設を最優先事項にさせ、その結果1940年代には朝鮮半島での小学校は1000を越えた。日本からの莫大な国家予算を投入してソフト面やハード面を導入していなければ教育の近代化も覚束なかったのが実情。

(悪貨の広まりで商取引に問題発生→日本の貨幣制度の導入)
通貨において、韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、白銅貨の濫造・密輸が横行し、その悪貨によって商取引に問題が発生。1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、硬貨の鋳造を行っていた典圜局を閉鎖。1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用、鋳造は大阪造幣局が行うようになった。1905年8月、ブラウンは税関長を辞め、韓国を去る。

(鉄道及び炭鉱の租借権でロシアを排除し南満州鉄道設立→日本の影響拡大)
これにより、日本は、東清鉄道の内、旅順−長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権、関東州の租借権などを獲得した。この規定に基づいて、12月、日清間でロシア権益の継承に加えて併行する鉄道新設の禁止などを定めた満洲善後条約が締結。1906年6月7日の勅令第142号をもって1906年11月26日に南満洲鉄道が設立された。以降、南満洲鉄道を柱とする満洲経営権益は日本の重大な課題となった。

(鉄道守備での軍政の始まり)
鉄道守備隊はのちに関東軍となった。一方で、日本は、1905年10月、満洲軍総司令官下に関東総督府を設置し軍政を敷いた。これに清が抗議し、日本の門戸閉鎖に英米が反発し、1906年3月に満洲の門戸開放を迫ったため、日本は満洲開放の方針を確認し、同年7月31日の勅令196号をもって、関東総督府が関東都督府として改組された。


■日露戦争
その後日露戦争(1904年2月8日〜1905年9月5日)が起こる。

1905年(明治38年)、7月の桂・タフト協定(対米国)、8月の第二次日英同盟条約(対英国)、9月成立のポーツマス条約(対ロシア)により、日本の韓国に対する排他的な指導権が列強によって承認され、同年11月の第二次日韓協約で韓国統監府が設けられて日本の保護国となったのであった。



■韓国内の「一進会」の存在
当時、大韓帝国では最大の政治結社であり、会員数は公称80万人から100万人。一説には実数は4,000人未満にすぎなかったとの見解もある。

(韓国内の自国為政者への批判)
一進会の設立当初、日本側の一進会への評価は低かったが、一進会の設立後、宋秉瓦賄時の日本の大佐、松石安治に対し書簡を送り、現状の高宗およびその官僚主導では大韓帝国の独立・維持は困難であると説明、また京義線敷設の協力をも申し出ている。

(日露戦争での一進会の人的協力)
当時の日露戦争においては、日本軍が物資輸送のため京義線の敷設を計画するが、日本軍の人員不足で計画が暗礁に乗り上げていた。このとき、日露戦争をロシアに代表される西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシアの侵略を阻止しようと考えた李容九は、日本に協力し、日本が武器弾薬を北方へ輸送するために鉄道(後の京義線)を建設した際、その敷設工事に無償で参加。工事に参加した一進会員は全部で15万人であったとされ、また北鮮から満州国(満州)へ軍需品運搬輸送業務(日本軍の武器、食料を戦地まで運ぶ業務)に動員された会員は11万5000人で、あわせて約27万人が日露戦争時に一進会として活動したという話も残っている。

また、この日露戦争当時、一進会会員は、当時の伝統であった長髪、髷をやめ(断髪)、自主独立運動の象徴としている。朝鮮では「露館播遷」で断髪令を廃止しており、このような断髪は一般市民からは考えられないものであった。


(併合後の一進会)
後に日韓併合の目的を達成した一進会は、その後、韓国統監府が朝鮮内の政治的混乱を収拾するために朝鮮の政治結社を全面的に禁止したため、解散費用として十五万円を与えられて他の政治結社と同様に解散。

一進会を率いた宋秉瓦蕕歪鮮総督府中枢院顧問となり、合併後の朝鮮の政治にも大きく影響を与え続けた。合邦善後策として桂太郎首相に資金百五十万円を懇請したところ、「千万円でも差し支えなし」と答えられ、活動に猛進したとされる。


1905年
桂・タフト密約協定:
1905年米国のセオドア=ローズヴェルトの特使タフト(陸軍長官)と桂太郎首相の間で結ばれた秘密協定。米国のフィリピン統治と日本の韓国に対する優越支配を相互に承認。桂・タフト密約協定(覚書)で桂首相とタフトの間の約束は次のようなものだった。(以下引用文より)
 
桂首相は、「日本はフィリピンに対し、如何なる侵略的意図をも有していない」と説明。朝鮮問題については「朝鮮は日本が露国と戦った直接の原因となったところであるから、戦争の論理的結果として半島問題を完全に解決することが日本にとって絶対に重要」であり、もし朝鮮がそのまま放置されれば『朝鮮は必ず無思慮に他国との協定又は条約を締結する習癖を繰り返すこととなり』それは国際的紛糾を再現するであろうから、『日本は、朝鮮が旧態に戻り、日本をして再び外国との戦争に突入せざるを得なくするようなことを阻止するため、断固たる手段を取らざるを得ない』」と表明。

タフト特使は桂首相の見解の正当性を十分に認め、日本が朝鮮に対して宗主権を設定して、朝鮮が外国との条約を締結するには日本の同意を要するとすることは、「東洋における永久の平和に直接寄与するであろう」と述べた。タフトは改めてルーズヴェルト大統領に電報で合意を確認し文書とした。
 
この密約協定により日本は米国フィリピン支配を認め、米国は日本が朝鮮で優越的な支配権を持つことを相互に認めた。米国では1924年に公表されたが、日本では公表されず、その存在が明らかにされたのは、第二次世界大戦後のことであった。

これは日露戦争前後の、帝国主義列強による、日英同盟・日露協約・英露協商・日仏協約と同じ、世界分割協定の一つであったという見方もある。


1908年
■高平・ルート協定(覚書)
1908年11月、高平駐米公使と国務長官ルート間で取り交わせれた高平・ルート協定(覚書)でも日本の朝鮮支配は重ねて承認された。


1909年
■伊藤暗殺事件:1909年ハルビンで朝鮮総督府初代総監伊藤博文が暗殺される事件が起こる。


1910年
■一進会の「合邦請願」→両国議会での承認によって日韓併合へ
独立協会の活動を引き継いだ「一進会」(注)からの「合邦請願」が承認され、1910年(明治43年)の韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)の締結。日本に併合され大韓帝国滅亡。 

「大韓帝国の皇帝は、大日本帝国において1910年(明治43年)の詔勅 (前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為シ皇太子及将来ノ世嗣、太皇帝及各其儷匹ノ称呼ヲ定メ並ニ礼遇ノ件)により、昌徳宮李王に遇された」とある。

日韓併合は日本にとり歴史上最悪の凶事で、その後の日本の運命を変える選択となってしまったのだ。


日韓併合に至るまでの一連の流れで特に最重要な「桂・タフト密約協定」で話し合われたのは東アジアの混乱の原因(日清戦争、日露戦争などがその例)となる未熟な大韓帝国を外交権のない「保護国」として日本が監督することまでであったし当時の日本政府もその後の日韓併合までを視野に入れていたのかどうかは不明。

韓国(大韓帝国)を併合によって自国の一部に組み込んでしまえば莫大な費用を投入する必要があることから、日本政府は併合には当初積極的ではなく、あくまでも大韓帝国を保護国にとどめ、成熟した近代国家になるまで(法整備、教育、産業の促進などを)監督することまでであったことは事実で、朝鮮総督府をおき、初代総監を務めた伊藤自身が「あくまでも朝鮮の自治を守る」のように発言している。

伊藤暗殺事件に関わった安重根の「東洋平和」的発想、当時韓国最大の政治団体である一進会による活動の影響が大きく、日本の内部に結果的にこれらの人々の声に呼応するアジア主義的且つ共産主義的発想があったことも想像される。

当時の日本の国家予算の1割を毎年投入するという莫大な費用を得て自国の近代化を助けてもらうことを願った韓国の「一進会」内でも、一部の勢力はあくまでも「日韓対等な合邦」を願い、自国が消滅し日本に吸収されてしまう「併合」を願ったわけではなかったという反論もあるようだ。

しかしやはり一部の「急進派」は、李氏朝鮮時代から大韓帝国と名を変えたところで中身の変わらない自国が消滅し、アジア唯一の先進国である大日本帝国(当時)に組み込まれても、朝鮮が確実かつ迅速な近代化を遂げるために日本を利用することをやむを得ないと考えたていたに他ならないのではないだろうか。

日清・日露戦争を戦った日本を歓迎し、日露戦争の際には鉄道敷設や軍需物資の運搬で無償協力も行った朝鮮半島の人々、韓国内の「急進派勢力」である「一進会」という勢力がいたこと、この頃日本政府の中心に共産主義的帝国主義の併合論者がいたこと、双方の力が同時に働いたことで、「日韓併合」という双方にとり歴史的惨事が生み出されてしてしまったといえるのではないだろうか。


引用;



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産業革命後の西欧諸国が次々と近代国家となる中で、アジアの中でいち早く、自力で近代国家に変貌できたのは唯一日本のみであった。この頃の清も李氏朝鮮もそれぞれ「末期的」な様相を呈しており、それ故にこれらの国々はその様々な権益を欧米諸国に売り渡すという「草刈り場」(半植民地状態)になっていった。


李氏朝鮮の「末期的な状況」の中身として、為政者の権力闘争、様々な権益の売却、ロシアによる半植民地化、各地で暴動発生、財政難、進まない改革など、様々な問題を抱えており、そこに日本がまず、李氏朝鮮の宗主国である清との衝突が生じ、その結果として日清戦争が勃発。その後もロシアとの交渉などを通じて朝鮮情勢にどんどん介入していったようなのである。(後には日露戦争にまで発展)


隣国とはいえ、なぜこのように他国の状況に介入していかなければならなかったのであろうか。


日本にとって歴史上の最悪の凶事「日韓併合」に至った経緯として李氏朝鮮時代末期の朝鮮半島の状況をみてみることに。


まず、李氏朝鮮という国家は清の柵封体制のままであったこと、近代国家としての要件である近代法体系の不備、国民の教育水準が低く人材が欠如していたこと、産業基盤が殆どなく、資源に乏しく、財政難であったことなど様々な問題を抱えていたようだ。


19世紀後半に列強の帝国主義政策が東アジアにまで及ぶと、1875年(明治8年)の江華島事件を契機に翌1876年(明治9年)に日本と締結した日朝修好条規を始め、李氏朝鮮は米国や仏国などの欧米諸国と不平等条約を結ぶ。



■李氏朝鮮末期の為政者の権力闘争(閔妃 vs 大院君)、閔妃によるクーデター

世継ぎ問題などで大院君と権力争いをしていた閔妃は、高宗が成人して親政をとるようになると、1873年(同治12年)、ロシア軍の力を借りてクーデターを起こし大院君を追放。大院君とその一派を失脚させた。そして自分の一族(閔氏)を高官に取り立て、政治の実権を握った。大院君はその後京畿道楊州に隠居させられたが、閔妃の存在を国家存続を脅かすものとして政局復帰、閔妃追放の運動を始め、それが朝鮮末期の政局混乱の一因にもなった。

両者の権力闘争は敵対者を暗殺するなど熾烈なもので、1874年11月には閔妃の義兄の閔升鎬が自宅で爆弾によって暗殺された。閔妃は大院君の仕業と信じ、申哲均の食客で張という姓の者を捕えた。更に申哲均は大院君の腹心だったため、簡単には死なないようにする惨い拷問の末に獄死させた。これは大院君の恨みを買い、双方で暗殺が続き国内が乱れた。大院君は自身が国のために貯めておいた国庫を空にする無駄遣いを繰り返す閔妃暗殺のために、閔妃によって親族や親友を殺された者から暗殺者を募り始めたいう。



■開化党(日本より) vs 大党(清より)の対立
朝鮮国内では清国との冊封体制を脱して近代化をすべきだという者(開化党)と、清国との関係を維持すべきだという者(事大党)とが対立。

そうした中で1882年(明治15年)、両派の暗闘から壬午事変(注1)が起こり、日本公使館も暴徒に焼き討ちされて死亡者が発生。公使館保護を名目とする日本と、朝鮮を属国と主張する清の両国は鎮圧を理由としてともに出兵、日清の対立は決定的となった。


(注1)壬午事変 (じんごじへん)
1882年(明治15年)7月23日(旧暦では光緒8年=高宗19年6月9日)、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現、ソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱(壬午事変 じんごじへん)が起こる。朝鮮国王高宗の王妃閔妃を中心とする閔氏政権は、開国後、日本の支援のもと開化政策を進めたが、財政出費がかさんで旧軍兵士への俸給が滞ったことが反乱のきっかけとなった。


閔氏政権は近代的軍隊として「別技軍」を新設し、日本人教官を招致して教練を開始したが、これに反発をつのらせた旧式軍隊が俸給の遅配・不正支給もあって暴動を起こし、それに民衆も加わって閔氏一族の屋敷や官庁、日本公使館を襲撃し、朝鮮政府高官、日本人軍事顧問、日本公使館員らを殺害。朝鮮王宮にも乱入、閔妃は王宮を脱出。反乱軍は閔氏政権を倒し、興宣大院君を担ぎ出して大院君政権が再び復活。


日本は軍艦4隻と千数百の兵士を派遣し、清国もまた朝鮮の宗主国として属領保護を名目に軍艦3隻と兵3,000人を派遣した。反乱軍鎮圧に成功した清は、漢城府に清国兵を配置し、大院君を拉致して中国の天津に連行、その外交的優位のもとで朝鮮に圧力をかけ、閔氏政権を復活させた。日本は乱後、清の馬建忠の斡旋の下、閔氏政権と交渉して済物浦条約を締結し、賠償金の支払い、公使館護衛のための日本陸軍駐留などを認めさせた。


清国は朝鮮政府に外交顧問を送り、李鴻章を中心とする閣僚は朝鮮に袁世凱を派遣、袁が事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握。こののち袁世凱は、3,000名の清国軍をひきつづき漢城に駐留させた。この乱により、朝鮮は清国に対していっそう従属の度を強める一方、朝鮮における親日勢力は大きく後退。


1884年12月4日「甲申政変」
独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗。


当時の朝鮮半島は、共に自らの勢力圏におさめようとする日本と清朝の対立の場でもあり、日本は権益を確立するため朝鮮に対する清朝の影響を排除する必要があった。


■東学農民運動
1894年1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の下で蜂起し農民反乱が勃発。東学党によって首都ソウルを脅かされた李氏朝鮮政府は、5月下旬に宗主国である清国の来援を仰ぐ。清国側の派兵の動きを見た日本政府も天津条約に基づいて居留民保護を目的にした兵力派遣を決定。6月5日に大本営を設置。

続々と押し寄せる日清双方の部隊群に驚いた朝鮮政府は慌てて東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めたが、日本政府は両軍が派兵する場合は事前に通達する条約に清が従わなかった為、この事態を機に朝鮮への介入強化を恐れ政情が完全に安定するまでの撤兵を拒否。朝鮮政府に日本の助言を入れた国内改革を要求。日本に対抗する清国側もそのまま部隊駐留を継続。こうしてソウル周辺で日清双方の駐留部隊が睨み合う事になった
そして、1894年(明治27年)に日清戦争が勃発



■日清戦争(1894年7月25日〜1895年4月17日)後の「下関条約」(1895年4月17日調印、5月8日発効)

日清戦争には「日英同盟」「桂・タフト会談」の当事者で、首相在任日数最長(2886日)の桂太郎が名古屋の第3師団長として出征している。桂は日清戦争出征の後、台湾総督を経て、第3次伊藤内閣で陸軍大臣になり、続く第1次大隈内閣に次ぎ、第2次山縣内閣でも陸相とともに山縣の参謀格を務め、1900年に発生した義和団の乱では中国に軍を出動させた人物でもあるが、日韓併合の重要なキーパーソンなのである。

日本が勝利し、伊藤博文全権が起草・調印した「下関条約」により、大日本帝国は清国に朝鮮が自主独立国であることを認めさせ李氏朝鮮から清国に対する貢献・臣下の典礼等を廃止させ、清の冊封体制から朝鮮を離脱させた。これによって第26代の高宗が中国皇帝の臣下を意味する「国王」の称号を廃して、はじめて「皇帝」と称することとなった。

「下関条約」は500年間中国(明、清)の属国であった李氏朝鮮を独立させた条約なのである。


■1895年10月8日閔妃暗殺事件(乙未事件)
ロシアと通じていた閔妃を日本軍が殺害したという見方もあり、これに関わった容疑で三浦梧楼以下48名、広島地方裁判所にて予審開始、1896年1月20日 三浦梧楼以下48名、証拠不十分で免訴となった。

1896年高宗勅令で閔妃殺害事件の犯人として特赦された趙羲淵、禹範善、 李斗璜、李軫鎬 李範来 権濚鎮の首を持ってロシア公館に持参せよと命令(当時高宗は露館播遷で、約1年間ロシア公館内に居住) 閔妃殺害事件についての再調査も実施され、漢城で発行されていた英文雑誌に調査結果が掲載された。


■太宗の「露館播遷都」(96年2月11日〜97年2月20日)

1896年
2月5日 李範晋はロシアの指示で春川、忠清道で暴動を起こし、日本の電信線を切断し日本との連絡手段を遮断。

2月10日ロシア軍が王宮突入(107名の水兵 20名の食料担当兵 大砲一門を漢城に搬入。ロシア兵150名)

2月11日 宮女金明載より「各大臣等日本兵が密かに国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。速かに露館に播遷し回避されたし」旨の書状を高宗に届けられた高宗と世子(純宗)が宮女用のかごに乗り、ロシア公使館へに逃げ込み翌97年2月20日慶運宮へ戻るまでの約1年間、高宗と世子はロシア公館に移された(露館播遷)。


高宗がロシア公使館で政務を執り行った結果、親露派の政権の李氏朝鮮は財政不足から、不平等条約による治外法権どころか、様々な権益、鉱山の採掘権と森林伐採権、鉄道の施設権が欧米に売却され、李氏朝鮮は欧米の草刈り場状態となる。


こうしてロシアやロシア外も他の欧米列強も同等の利権を獲得することになった。 一国の元首が外国の公館内で1年匿われるなど常識的に異常な事態で、これは国としての自主性を放棄するのに等しく、後に日露戦争時に中立を宣言したが日露両国から無視されるような結果となった。



■ロシアの影響と半植民地化

権益を欧米に売却する国力の乏しい朝鮮を目の当たりにし、日本はロシアの朝鮮半島植民地化を恐れ、ロシアとの間で朝鮮問題について話し合いを開始。

1896年5月14日、日本とロシアは小村・ウェーバー覚書(注)を交わす。
(注)小村・ウェーバー覚書:
1896年5月14日ソウルにおいて日本側小村寿太郎、ロシア側 K.I.ウェーバーの両公使によって調印された朝鮮問題に関する日露間の覚え書。ロシア公使館にいる朝鮮国王の還宮実現の条件として両国軍隊の駐屯定員などを取決めている。


2月18日 仁川に4000余名の暴徒蜂起 官衙官宅を毀壊。
2月21日 各地に起こる暴動のうち 、内部参書官徐相潗と申大均は騷優地方坡州、開城、驪州、利川等に乱民鎮撫に関する勅諭頒示の為に向かう

2月22日 内閣体制の更新。李範晋は法部大臣兼警務使となり大院君派の粛清を開始。
新内閣の公示
総理大臣に金炳始、内部大臣に朴定陽、軍部大臣兼警務使李允用、法部大臣に趙秉稷、学部大臣に李完用、宮内大臣に李載純を命じる。


3月16日 大院君一派の人々、漢城府観察使金経夏、呂圭亨等従犯等数十名を逮捕、裁判へ
3月27日 アメリカ、雲山の金鉱採掘権、 京仁線敷設権、 漢城の電灯・電話・電車の敷設権取得
4月22日 ロシア、慶源・鍾城両処の鉱山採掘権を取得
5月14日 日本・ロシア間で朝鮮問題に関し、第1次日露議定書調印。
5月22日 流刑10年に処せられた閔泳駿(後に閔泳徽と改名)、赦免となる。
6月9日 日本・ロシア間で朝鮮問題に関し、第2次日露議定書調印。
6月12日 ロシア、月尾島西南地段(44,316m2 年銀貨361元)租借契約を取得。
7月 フランス、京義線敷設権を取得
8月20日 機械厰でのロシア技士雇傭契約(機械士官Remnevに每年銀貨200元)
9月 ロシア、豆満江上流地域・鴨緑江上流地域・鬱陵島・茂山の森林伐採権(注)を取得
(注)森林伐採権:朝鮮王大院君はロシアに豆満・鴨緑両江から鬱陵島までの森林伐採権を20年間与えた。

11月21日 旧臣ら、高宗に還宮請願計画(未遂)


1897年
1月 ロシア人N・ビルコフをロシア語教師として雇用
2月13日 機械厰でのロシア技士雇傭契約(雇傭期間3年、俸給毎月銀貨260元、路費500元、帰路費800元、退職金2,000元)
2月20日 高宗ロシア公館から慶運宮に還宮(露韓播遷が終結)

7月、英国人の税関長ブラウンが財政顧問となる。
10月、ロシア公使シュペイエルが、財政顧問を英国人ブラウンを強制解任し、ロシア人キリル・アレキセーフへと変えようとする事件(度支顧問事件)(注2)が起きた。


(注2)度支顧問事件 (たくしこもんじけん):
1897年、高宗の即位に合わせて、ロシア公使アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエルが、大韓帝国の度支衛門 (日本の大蔵省相当)の顧問を、イギリスの推薦したジョン・マクレヴィ・ブラウンから自国人のキリル・アレキセーフに変えさせ、露韓銀行を設立した事件。これに反発したイギリスは東洋艦隊を仁川に派遣、朝鮮の「独立協会」は救国宣言上疏を行った。


厳密にはここまでが李氏朝鮮時代。


■国号の改元(1897年):李氏朝鮮→大韓帝国
1897年10月12日 大韓帝国へ国号を改める
もはや清の藩属国でなくなった以上、国王号を使用することは望ましくないという儒者の建言に従い以下の改革が実施、国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、元号も前年のグレゴリオ暦への改暦にともなって定めた「建陽」から「光武」に改元。

高宗は、圜丘壇を新たに設けて10月12日に祭天の儀式を行い、翌13日に詔を出して皇帝に即位した。その後、清の冊封の象徴であった「迎恩門」や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒して「独立門」を立て独立を記念

10月20日 高宗の第7男子李垠誕生(母は露館播遷で同行した女官厳氏(厳妃))


余談ですが、太宗の次の皇帝となった純宗には子がなく、異母弟の李垠が大韓帝国最後の皇太子となった人物で、梨本宮方子と政略結婚。第二次世界大戦後、帝政復古を疑った李承晩の妨害や日韓の国交正常化に時間を要したことで簡単には日本から祖国韓国へ帰国できず、ようやく帰国を果たしたのは日韓基本条約締結の2年前の1963年11月で、方子夫人と夫婦ともに韓国へ渡るも、病身であったため金浦国際空港からソウルの聖母病院へと直接運ばれ、1970年4月28日、結婚生活50周年の金婚式を病院で開くも、その3日後に病院で死去。李垠は皇帝への即位はなかったが、朴正煕の許可を経て王家の宗廟である永寧殿に「懿愍太子」の諡号で位牌が納められたそうです。

つづく


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トランプ氏が大統領就任後の2017年4月6日〜7日に氏の別荘で初めて行われた初の米中首脳会談の席で、中国の習近平国家主席が「韓国は歴史的に中国の一部だ」という発言をしたといわれています。この発言は、4月12日の米国ウォール・ストリート・ジャーナル紙のインタビューの中でトランプ氏が習近平氏の発言内容を間接的な形で暴露したものでした。例によって韓国主要メディアが大騒ぎしておりましたし、韓国政府などは「一考の価値もない」などと強く反発。

しかしこれは韓国メディアが言うように「首脳の歪曲された歴史認識」や「トランプ大統領の失言か習主席の妄言」でしょうか。日本から見た東アジアの朝鮮半島の歴史は以下の様なものです。


朝鮮半島に嘗て存在した百済(4世紀前半〜538年)、任那(?〜663年)、新羅(前57年〜935年)などの国々が滅んだ後、朝鮮半島を支配したのは高麗(918〜1392年)で、高麗は13世紀から14世紀末までモンゴル(元朝)による直接的な内政干渉や軍の駐留を受ける。忠烈王(在位1274〜1392年)はクビライに「公主」の降嫁を懇願して許され、クビライの娘と結婚しハーンの娘婿(駙馬、グレゲン)となるなど、自ら進んでモンゴル帝国の中に組み込まれていました。


1350年代、モンゴル帝国(元朝)の衰えが顕著となると、恭愍王は親元勢力を排除し、元朝の外戚として権勢を振るっていた奇氏を討伐。崔瑩(チェ・ヨン)や李成桂(イ・ソンゲ)らの武人を登用して1356年に元から高麗旧領土を奪い返し、ようやくモンゴル支配から脱して独立。(高麗領土の回復)


大陸で紅巾の乱が発生し、紅巾軍が朝鮮半島にも到来するが高麗軍は撃退に成功。また同時期に倭寇の襲来にも高麗は悩まされており、1389年には朴葳(パク・ウィ)が対馬征伐を行なっており(高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻)、この過程で力を得た李成桂によって1392年に李氏朝鮮が成立し高麗王朝は滅亡。

李氏朝鮮は、初代国王である李成桂が1393年に明の初代皇帝朱元璋から権知朝鮮国事に封ぜられて以降一貫して明の属国であり続けました。

1636〜1637年にかけて清が李氏朝鮮に侵入制圧(丙子の乱)その後、終戦講和条約である「三田渡の盟約」(1637年1月30日首都漢城の郊外三田渡で締結)をもって、明の属国から清の属国、冊封国となっています。この記念に大清皇帝功徳碑が建てられた。李氏朝鮮から清へ毎年上納される物品の量はその後減らされたものの、「三田渡の盟約」の大枠は実際に日清戦争後の「下関条約」(1895年4月17日)まで続いたようです。

つまり、13世紀以降朝鮮半島の殆どの時期が、満州族の枠組に組み込まれての支配か、明の権知朝鮮国事という形での間接支配か、清の柵封国家(朝鮮王は称号・任命書・印章などの授受を媒介として宗主国清と君臣関係を伴う)という形態での属国であったことは否定できないようです。


だからこそ、日清戦争(1894年7月25日〜1895年4月17日)で日本が勝利した後に交わされた「下関条約」(1895年4月17日調印、1895年5月8日発効)(注)の中で、李氏朝鮮の清からの独立が第一条として明文化されており、これによって朝鮮半島の国としてそれまでの中国への従属の歴史を終わらせ、中国から独立できたということを意味しています。「下関条約」の主な内容としては①朝鮮の独立、②遼東半島、台湾、膨湖諸島の日本への割譲、③賠償金2億両(当時日本円にして3億100万円)の支払いなど。(全文は文末参照)


そしてその何よりの証拠に、宗主国である清の皇帝の使者を「三跪九叩頭の礼」で迎えるための「迎恩門」を1896年に壊し、自国の独立を祝って「迎恩門」の後に建てたのがソウルの西大門独立公園内の「独立門」(1896年11月21日定礎、97年11月20日完成)だったわけです。


そして国号を李氏朝鮮から「大韓帝国」に改めたのは太宗の「露館播遷」(注)(1896年2月11日〜97年2月7日)後の1897年10月12日でした。


李氏朝鮮の初代国王は明の皇帝朱元璋から「権知朝鮮国事」に封ぜられた李成桂であったし、それ以降も、明に任じられた人物が「朝鮮国王」だった。明が滅んだ後も「三田渡の盟約」によって、清に冊封され清の皇帝に承認された人物が「朝鮮国王」であったというのが歴史的事実たっだということです。これをもって、習近平が「韓国は歴史的に中国の一部だ」のような発言をしたものと思われます。


ところで、韓国はマスコミや政治家なども日本の天皇のことをわざわざ「日王」などと呼びますが、要するに彼らにとって「皇帝」とは李氏朝鮮(1392年〜1897年)の500年間一貫して宗主国である中国皇帝のことで、彼らの頭の中では日本は自分たちと同じく中国の臣下の国で「日本の国王=日王」という感覚のようです。現在の国際社会での評価や国力はともかく、中国は親で、日韓は兄弟といった感覚。21世紀に入った今でも、彼らは潜在意識においてはいまだに宗主国である強い中国には従うしかないといった感覚が骨の髄までしみついているということの裏返しだと言えるのかもしれません。

(補足)
1392年から1897年までの500年もの間、中国(「支那」ということばは全く差別用語ではないというご指摘ですので)支那と言い換えて言いますと、支那の属国だった歴史はなかったことにして、自ら願い出た合邦の日韓併合の歴史を、「日帝強占期」だの「植民地支配」だのと被害者コスプレで「三・一独立百年」などと言っている韓国の国民にしてみれば、ソウルの西大門独立公園内の「独立門」は日本からの独立を記念して建てられたと思っている人が多そうで、笑わせてくれますね。


(注)「下関条約」の本文:
清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)

清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)

清国は賠償金2億テールを日本に支払う。(第四条)

割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)

清国は沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。(第六条)

日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)

清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)

清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)

条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)

条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。(第十一条)


(注)露館播遷:
李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことを言う。韓国でも古くは日本語での表記と同じように「露館播遷」と呼ばれたが、最近では俄館播遷(がかんはせん、(「がかんはんせん」とも)と呼ばれることが多い。俄館露遷(がかんろせん)との記述もある。

高宗がロシア公使館で政務を執り行った結果、ロシアは年表に示す利権を獲得し、他の欧米列強も同等の利権を獲得することになった。 また、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、後に日露戦争時に中立を宣言したが日露両国から無視されるような結果となった。


引用:



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韓国のいう「三・一独立運動」の宣言文(注)は要約すると「朝鮮独立は(中略)日本をして邪路より出(い)でて東洋支持者たるの重責を全うせしめんとするもの」一言で言うと、「独立」といいながら相反する「他力本願」そのものの「用日宣言」で、「日本をして=用日して」、「邪路より出でて=ふがいない未開な大韓帝国から脱皮して」、「東洋支持者の重責を全うせしめんとする」=「日本に東洋(主に韓国のこと)を支えるという重責を負わせる」という意味なのだ。


ここでいう「東洋支持者」になれるのは、アジアで唯一近代化を遂げ、西洋列強と並ぶ地位の日本に期待しての言葉であるとしか考えられないし、当時、農業・工業その他の産業などなく世界の最貧国というほどに貧しく、外交的に諸外国から相手にされない大韓帝国は国内の近代法整備、国際法を熟知した上での外交、国民の教育水準、インフラなど全ての点で近代化以前であったのだから自国の近代化以前に「東洋支持者たる重責」を担えようはずがないからだ。


ついでに言えば、「三・一独立宣言」本文の中身は、実は旧宗主国である中国の威を借りながら、日本の併合の実態や差別感への不満を述べ、これを「改善匡正」してとくれというのが主旨らしい。反面、「日本を責めているわけではない」と言い訳もそえている。面白いことに、中国からの強奪支配の恐怖が夢にも忘れられない「不安恐怖」と、過去を振り返りながら、(それよりずっと日本の支配がましなので)『和風暖陽の気脈』に振舒(しゅうじぇん=まったりと身をまかすと言った意味でしょうか)するも、一時のことで躊躇なく、なんら忌憚することもない」と開き直っているのが内容。(下に本文を載せています)


歴史的な背景としては、パリ講和会議にさきがけて発表された米のウィルソン大統領の「十四か条平和原則」(1918年1月)に刺激を受け、1919年2月8日に、日本に留学中の朝鮮人学生達が東京神田のYMCAで「独立宣言書」を採択したことを受け、1919年3月1日に仁寺洞のテファグァンに集まった朝鮮のキリスト教、仏教、天道教の指導者立33名が「行動計画」を採択したことを記念して宣言文を読み上げたことに始まる20世紀初頭に始まる韓国人特有の行動様式である「ロウソクデモ」のことだと思えばイメージしやすい。


但し、当然のことながら、韓国は当時日本の植民地支配で「簒奪」を受けていたのではなく、むしろ日本から莫大な費用=日本国民の血税からの国家予算をつぎ込まれてソフト面ハード面の整備という「恩恵」を受けていたので「十四か条平和原則」には韓国の「か」の字もなく他の本当の植民地の名前がならんでいたにすぎない。


しかし韓国内のデモ参加者である民衆の多くは韓国人官憲によるデモの取り締まりが強くなればなるほど反発も強まるわけで、ここは例によって、「植民市支配を受けていた被害者という虚構のコスプレ」が次第に始まっていることが想像できる。


発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであった平城(現ソウル)パゴダ公園に数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進。道々「独立万歳」と叫ぶデモには次々に市民が参加し、数万人規模となったそうだ。ここからがいわば「ロウソクデモ」がスタートとなる。


以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及んだ。結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たったそうで、3月から5月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人。そしてデモの回数・参加人数が多かったのは京畿道や慶尚南道、黄海道、平安北道などの地域。地方都市でデモを行う場合、人が集まる「市日」(定期市が立つ日)が選ばれ、通常より多くの動員ができるよう工夫。


運動の初期には、その発生は大都市に集中し、担い手は学生や教師といった人々が主導で、運動が広がりを見せ、地方都市や農村に舞台が移るようになると参加する人も多様となり、農民や労働者、商工業者、官僚、両班などが参加するようになったそうだ。


運動の形態はデモ行進、烽火示威、同盟休校、同盟罷業、独立請願、閉店などがあった。独立宣言にあったように当初は平和的な手段によって運動を行っていたが、次第に警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われ、暴徒化していった。


これに関して、「暴徒化した理由は日本側の弾圧が激しくなったための抵抗である」という意見や、逆に「暴徒を鎮圧するために多少の武力を使うことは、どの国でも行われる当然のことである」とする意見などがあるようだ。


そもそも、何故これほどまで韓国に日本が関わってしまったかといえば、日清戦争の日本の勝利後の「下関条約」で清からようやく独立し李氏朝鮮から「大韓民国」と名乗り日本の保護国となった韓国が相変わらず独自で発展することが出来ず、近代化以前の祖国を憂えた安重根が朝鮮総督府初代総監の伊藤博文を暗殺してしまった(1909年10月26日)事件がその後の「日韓併合」という一連の流れをつくるきっかけとなったことは事実だと思う。


日韓併合を旧宗主国である中国が面白く思うはずもないし、朝鮮半島を足掛かりにしてわざわざ中国にまで満州鉄道(注)をつくって大陸進出を図った大日本帝国の日中戦争のスローガン「大東亜共栄圏」という誇大妄想的発想が間違いの元であった。


伊藤暗殺のすぐ後に「一進会」という韓国最大の政治団体が併合を日韓双方の議会に「合邦請願」(1909年12月4日)を提出して併合を願い出て、結果双方の議会で「韓国併合に関する条約」(1910年8月22日:韓国皇帝が大韓帝国(韓国)の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」ことなどを規定した条約)が交わされたのであった。


一進会の主張は「日韓対等合併」だったそうだが、例えばオーストリア=ハンガリー帝国のオーストリアとハンガリーがやはり対等でなかったように、日清・日露戦争に勝利し、第一次世界大戦(朝鮮半島からの徴兵はゼロ)でも戦勝国側にいた日本と、産業がなく近代化以前で近代法やそのそも法律用語や哲学、科学などの概念用語も概念すらなかった韓国と日本が20世紀という西洋列強によるアジアやアフリカを植民地支配した時代背景からすれば対等な二国間の関係であると考える方が無理で、「植民地」(あくまでも他国)ではなく「併合」という形で自国に組み入れてしまったのは日本側にとってむしろ不利益でしかなったともいえるのではないだろうか。


ところで、安重根は日本の初代内閣総理大臣でかつ朝鮮総督府初代総監暗殺を図ったテロリストであるのだが、韓国ではご存知の通り切手になっている英雄である。


しかし1907年7月に京城(ソウル)で新聞記者達の前で、「日本は韓国を合併する必要なし。韓国は自治を要す」と演説していた総督府初代総監伊藤博文が仮に1909年10月26日に暗殺されず健在であったならば、伊藤の反対を押し切ってまで日本は1910年8月29日に「日韓併合」を行っていただろうか。


歴史には「もし」という仮定法での推論を述べたところで無意味ではあるのだが、恐らく日本政府は大韓帝国を「保護国」という名目で「監督」するにとどめていたのではないだろうか。何故なら当時、日本政府も韓国を併合することでかかる莫大な費用を懸念して反対の空気が強かったのであるから。


よく言われているように、韓国の「英雄」安重根が行ったこととは、結果論的にはむしろ「大韓帝国を日本に併合させ、1910年から約35年間、隣国である韓国に日本の国家予算の毎年1年分の予算を韓国につぎ込ませて近代化させること」であったし、日本は韓国を併合して中国への進出の足掛かりをつくってしまったことで、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと進んでしまい破滅に近付いていったともいえる。


日中戦争のスローガンだった「大東亜共栄圏(全アジアを日本が保護する)」と似た言葉がちょうど、安重根のいうところの「東洋平和」という汎アジア主義(注)だと思うのだが、彼ら言う東洋は主に北東アジアで、日中韓のことをさしているらしい。これはまさに共産主義イデオロギーであったのだ。

「大東亜共栄圏」というスローガンは第2次近衛内閣(1940年)から敗戦(1945年)まで唱えられたもので、日本の対アジア政策構想や日本が共産主義化に傾いていった時代ともいえる。近衛文麿は「ゾルゲ事件」のスパイであった尾崎秀実の影響を受けていた共産主義者だったともいわれており、敗戦後、巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺している。


そこに至るまで、日本国内に入り込んでいる外国人工作勢力による赤化工作(ロシアのコミンテルン組織のスパイによる共産主義化工作)が行われていたことは「ゾルゲ事件」をその明白な例として挙げることが出来るのだが、国を挙げて誇大妄想的「大東亜共栄圏」などという共産主義思想へと突き進んでしまったことで日本は破滅に近付いしまったのだった。


奇妙なことに安重根が伊藤博文暗殺を図った直後に叫んだ言葉とは、朝鮮語でもなく、日本語でもなく、ロシア語で「コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー!(Корея! Ура! / 韓国万歳)」という三唱だったそうだ。日本にとって大きな分岐点となったこの事件のとき、彼が叫んだ言葉こそロシアと彼の繋がりを意味しているのではないだろうか。


彼が後に供述したところによると、朝鮮語ではなくロシア語を用いたのは「世界の人々に最もわかる言葉を選んだ」ためであったと述べているが、「世界の人々に最もわかる言葉」は、当時の世界情勢でも現在の世界情勢でもロシア語であろうはずはなく英語であろうとつっこみたくなるところだ。


彼が伊藤暗殺事件のときに所持していたブローニング拳銃7連式の銃は製造元はベルギーのFN社、販売先はクンフト社でロシア陸軍のものだったそうだ。そして実際に伊藤博文を絶命させたのは安重根の撃った5発ではなく、右肩から左下に体内に残った弾が致命傷であったようで、そのような角度になるには、二階などの高い場所からの狙撃でなければ出来ないし、安重根本人は伊藤の顔を知らず、それ故に伊藤の後ろにいた人物も念のために撃っており、伊藤の随行者達は計10発もの流れ弾を受けている。


つまり、安重根の拳銃以外の銃からもほぼ同時に弾が発射されたと考えられること、そもそもその日に伊藤をハルピンに呼び出したのは「満州鉄道」に関する話し合いを望んだロシアであったし、伊藤をハルピン構内でロシアの閲兵式を受けるよう再三促してわざわざ列車の外におびき出して狙撃しやすい位置に立たせたのもロシアだったのだ。


少し飛躍したことを言えば、日本の国力の弱体化(共産主義化)を工作していたロシアに通じていた安重根を囮に仕立てて伊藤暗殺でカモフラージュにした伊藤暗殺事件(1909年10月26日)をきっかけとして、その後一進会による「合邦請願」(1909年12月4日)→日韓併合(1910年8月29日〜1945年9月9日)→日中戦争「大東亜共栄圏」→太平洋戦争という日本破滅への道に進んでまったといえるのではないだろうか。


ここでやはり考えるべきこととして、「用日で日本に韓国の近代化をさせるも、あくまでも日韓は対等な合邦関係となる」ことを望んだ韓国と「いつまでたっても未開でロシアと日本の間を蝙蝠外交し、初代総理大臣を暗殺するような無法な国だからとても韓国独自の近代化は不可能」とみなす日本の思惑の違いこそがボタンの掛け違いの始まりであったこと。


ロシアの工作がどのくらい影響を及ぼしていたのかは、当時の日本政府の考えていたことをつぶさに検証してみなければわからないが、日本の「大東亜共栄圏」という発想はまちがいなく、ロシアによる日本弱体化工作だったのだ。


ボタンの掛け違いを残した併合から9年目の1919年3月1日に始まる「三・一独立運動」という「20世紀初頭のロウソクデモ」の始まりであったのかもしれず、そして現在の反日、嫌韓の始まりだったのかもしれない。


ついでにいえば、現在でも平和条約締結に至っていない日ロ間の歴史背景や溝も簡単には埋まりそうにない。



(注)「東洋平和」
安の書いた「東洋平和論」はこの汎アジア主義に極めて近い思想であり、日本の右翼にも共感できる部分が少なからずあった。安は韓国皇室と同様に日本皇室にも敬意を払った君主主義者であり、韓国支配の象徴的存在の外臣・伊藤の暗殺は、自民族の独立を願う志士の純粋な行動としては、幕末の勤皇志士につながるところがあり、安重根の裁判を担当した日本の検事が「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆の声をあげたほどだったという評価もあるそうだ。

一方で、右翼活動家志賀直方の禅の師匠である三浦了覚は、安重根や李在明をもって志士仁人と見なすのは容易ならざる誤謬であると言い、彼らのような「道理の是非を誤認し天下の大勢に通ぜず偏頗なる識見を盲信して其の相手の敵を狙撃するもの」は「是れ正義人道の上より論断せば悪しむべき危険物にして少しも同情を与えるべき余地を発見せず」と書き、キリスト教徒の信者である安重根・李在明が天国を信じて「正義人道を根本より破壊したる凶悪を逞したる」だけであって、これを日本の武士道や志士のように見なすことはできないと批判。

安の評価は右翼においても毀誉褒貶分かれており、その後、テロに奔った朝鮮独立運動が日本国内での評判を悪くし、汎アジア主義が日本のアジア支配を根幹とした東亜新秩序を目指す立場に変質すると、志士との肯定的な評価は難しくなった、とある。



(注)「三・一独立宣言(乙巳独立宣言)」本文全文(日本語訳)

我らはここに我朝鮮が独立国であることと朝鮮人が自主民であることを宣言する。これをもって世界万国に告げ人類平等の大義を克明にし、これをもって子孫万代に教え民族自存の正当な権利を永久に保有させる。半万年歴史の権威によってこれを宣言し、二千万民衆の誠忠を合わせてこれを布明し、民族の恒久一の如き自由発展のためにこれを主張し、人類的良心の発露に基因する世界改造の大機運に順応併進するためにこれを提起するものである。これは天の明命、時代の大勢、全人類共存同生権の正当な発動であり、天下何者といえどもこれを阻止抑制することはできない。

旧時代の遺物としての侵略主義、強権主義の犠牲となり有史以来数千年で初めて異民族に束縛される痛苦を嘗めてからここに十年が過ぎた。我が生存権が剥喪されたのはどれほどか、心霊上発展が障礙されたのはどれほどか、民族的尊栄が毀損されたのはどれほどか。新鋭と独創によって世界文化の大潮流に寄与、補裨できる機縁をわれらはどれほど遺失したであろうか。


噫旧来の抑欝を宣暢しようとすれば、時下の苦痛を擺脱しようとすれば、将来の脅威を芟除しようとすれば、民族的良心と国家的廉義の圧縮銷残を興奮伸張しようとすれば、各個人格の正当な発達を遂げようとすれば、可憐なる子弟に苦恥的財産を遺与しないようにするならば、子々孫々の永久完全なる慶福を導迎しようとすれば、最大急務は民族的独立を確実にすることである。二千万各個人が方寸の刃を懐にし、人類の通性と時代の良心が正義の軍と人道の干戈とで護援する今日、我が進んで勝ち取るのにどんな強さが挫かせられるだろうか、退いて作すのに何の志が展するだろうか。

丙子修好條規以来時々種々の金石盟約を食んだとして、日本の信の無さを罪しようとするものではない。学者は講壇で、政治家は実際で我が祖宗世業を植民地視し、我が文化民族を土昧人遇し、ただ征服者の快を貪るだけで、我が久遠の社会基礎と卓越する民族心理を無視するものとして、日本の義の少なさを責めようとするものではない。自己を策励することに急ぐ我は他を怨尤する暇はない。現在を綢繆することに急ぐ我は宿昔を懲弁する暇はない。今日我の所任はただ自己の建設にあるだけで、決して他を破壊することにあるのではない。厳粛な良心の命令によって自家の新運命を開拓しようとするものであり、決して旧怨や一時的感情によって他を嫉逐排斥するものではない。旧思想、旧勢力に覇靡されている日本為政者の功名的犠牲である不自然で不合理な錯誤状態を改善匡正して、自然で合理な政経の大原に帰還させようとするものである。当初民族的要求に出されない両国併合の結果が、畢竟姑息的威圧と差別的不平と統計数字上虚飾の下で利害相反する両民族間に永遠に和同することのできない怨溝を去益深造させた今来実積をみよ。勇明果敢をもって旧誤を廓正し真正な理解と同情とを基本とする友好的新局面を打開することが、彼と我が間の遠禍召福の近道であることを明知すべきではないだろうか。二千万含憤蓄怨の民を威力で拘束することは東洋の永久の平和を保障する理由にならないだけでなく、これによって東洋安危の主軸としての四億万中国人の日本に対する危懼と猜疑を濃厚にし、その結果として東洋全局の共倒同亡の悲運を招致することは明らかである。

今日我の朝鮮独立は朝鮮人に正当な生栄を遂げさせると同時に、日本を邪路から出て東洋支持者としての重責を全うさせ、中国に夢にも逃れられない不安恐怖から脱出させ、東洋平和に重要なる一部をなす世界平和、人類幸福に必要な階段とさせるものである。これがどうして区々たる感情上の問題なのであろうか。

ああ新天地は眼前に展開された。威力の時代は去って道義の時代が来た。過去全世紀に錬磨長養させられた人道的精神は、今や新文明の曙光を人類の歴史に投射し始めた。新春は世界に来て万物の回蘇を催促しつつある。凍氷寒雪に呼吸を閉蟄したのも一時の勢いとすれば和風暖陽の気脈を振舒するのも一時の勢いであり、天地の復運に際し世界の変潮に乗じた我はなんらの躊躇なく、なんら忌憚することもない。我に固有の自由権を護全し生旺の楽を飽享し、我に自足の独創力を発揮し春満てる大界に民族的精華を結紐すべきである。

我らはここに奪起した。良心は我と同存し、真理は我と併進する。老若男女は陰欝な古巣から活発に起来して、万彙群象とともに欣快な復活を成し遂げる。千百世祖霊は我らを陰佑し、全世界気運は我らを外護する。着手はすなわち成功であり、前頭の光明に驀進するのみである。


公 約 三 章

一、今日我らのこの行動は正義、人道、生存、尊栄のための民族的要求であり、自由的精神を発揮するものであり、決して排他的感情に逸走してはならない
一、最後の一人まで、最後の一時まで民族の正当な意思を快く発表せよ
一、一切の行動は秩序を最も尊重し、我の主張と態度をあくまで光明正大とすること
朝鮮建国四千二百五十二年三月一日 朝鮮民族代表

      孫秉熙   吉善宙   李弼柱   白龍城   金完圭

      金秉祚   金昌俊   權東鎭   權秉悳   羅龍煥

      羅仁協   梁甸伯   梁滿默   劉如大   李甲成

      李明龍   李昇薫   李鍾勳   李鍾一   林禮煥

      朴準承   朴熙道   朴東完   申洪植   申錫九

      呉世昌   呉華英   鄭春洙   崔聖模   崔 麟

      韓龍雲   洪秉箕   洪基兆

(朝鮮建国4252年ということ自体が妄想です。李氏朝鮮は1392年〜1897年、大韓帝国は1897〜19010年、大韓民国は1948年建国ですから)


(注)満州鉄道:
中国大陸における列強の利権分割は、満州では主に鉄道利権の奪い合いという形で現れた。この結果、日露戦争終結後の1907年以降、満州の鉄道利権は東清鉄道を運営するロシアと南満州鉄道(以下「満鉄」)を運営する日本に二分されてしまう。一方中国資本の入った鉄道路線は満州の西隅を走っている北京-山海関-奉天間の京奉鉄路の他、満州中部にもいくつか存在はしていたものの、前者はイギリス系の香港上海銀行の借款によって建設されていて純粋な中国資本の路線ではなく、後者に至っては1913年に日中間で結ばれた「満蒙五鉄道覚書」、のち1918年に路線を組み直して改めて締結された「満蒙四鉄道覚書」により日本が借款契約を行って敷設したもので、実質的には日本の利権路線であった。


引用:



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もはや驚きもしないが、韓国主要紙である中央日報が今月13日、「韓国政府が2月12日に戦前の1932年、昭和天皇を殺害しようとしたテロリスト、李奉昌(イ・ボンチャン)の手紙などを文化財として登録する」と報じていたが、いかにもなのである。文在寅韓国政府にとり、今年は「『三・一独立運動』百周年」なるものの一環らしい。

日本にとり日韓併合(1910年8月29日〜1945年8月15日)ほど歴史上の凶事はない。


そもそも清の属国だった李氏朝鮮(1392年〜1897年)が宗主国である清から独立できたのは日本が日清戦争で勝利し、「下関条約」(1895年4月17日調印)によって独立させてもらったのであって、宗主国である清の皇帝の使者を「三跪九叩頭の礼」で迎えるための「迎恩門」を壊して独立を祝って建てたのがソウルの西大門独立公園内の「独立門(1896年11月21日定礎、1897年11月20日完成)」なのだ。「日本からの独立」を記念してのものだと思っている韓国人が多いらしいが、滑稽な話だ。


李氏朝鮮後の大韓帝国(1897年〜1910年)はあまりにも近代国家にはほど遠く、学校も病院も鉄道網や港や道路はおろか産業そのものが何もなく、そのような国を憂えて韓国人の安重根が日韓併合に反対していた伊藤博文(初代内閣総理大臣を務めたあと、暗殺当時は朝鮮総督府初代総監であり、朝鮮人の自主独立を願い、併合に反対していた)を暗殺し、翌年の日韓併合となったのであるが、併合を当時の韓国の最大の政治団体「一進会」が願い出たものであったのだ。


そして太平洋戦争後は独立した政府機能がない朝鮮半島の南側半分をGHQが、北側半分をソ連がまず直接統治し、李承晩(「独立協会」なるものに所属してたものの長い間米国に亡命していた)をGHQが、”抗日パルチザンの金日成”を名乗った金成柱(日成は1930年頃からの組織名で当初は金一星と書いていたらしい)をソ連が、それぞれ擁立して、1948年の8月15日に現在の韓国がGHQから、9月9日に北朝鮮がソ連による統治から独立して出来たのがこの二国の建国の経緯なのである。米国のように自ら「独立戦争」を戦って英国の植民地支配から独立したのでも なければ、「反英闘争」でインドが英国の植民地支配から独立を勝ち取ったように、自らの力で勝ち取った独立や建国などだだの一度もないというのが朝鮮半島の南北二国の真実の歴史なのである。


第二次大戦前に話しを戻すと、日本政府は莫大な費用のかかる併合にはむしろ反対で、貧しく未熟で「関税権」などの自国の権益をロシアに売り払ってしまう大韓帝国を国際社会の中で外交権のない日本の「保護国」として、まともな国に成長するまでの間「監督する」つもりだったのに対して、自力で近代化できない自国を憂えた韓国人らが、日本による併合を願い出たのが当時の大韓帝国最大の政治団体の「一進会」であり、「合邦声明」を発表し日韓双方の議会に「韓日合邦の請願」(1909年12月4日)を提出し、国際社会に承認される二国間の条約での合法的な併合を望んだわけで、その際に既得権を喪失する両班階級による義兵はあったが、大規模な市民による抵抗運動が起こった事実はない(注:補足)。


「三・一独立運動」なるものの実態は、「日本人から二等国民扱いで差別されている」と感じていた在日朝鮮人らが米国大統領ウッドロウ・ウィルソンの"十四か条の平和原則"に触発されて「民族意識が高まった」李光洙ら留日朝鮮人学生らが東京府東京市神田区のYMCA会館に集まり、「独立宣言書」を採択した(二・八宣言)のに呼応し、朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者ら33名が、1919年3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)の葬儀に合わせ、3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画し、実際には仁寺洞の泰和館(テファグァン)に変更され、そこで宣言を朗読し万歳三唱をしたとされているのだが、参加者はなんと僅か33名。その後生活の不満を抱える市民らを巻き込む形のデモ行進へと発展。以後、官憲の取り締まりに反発する市民によって市の立つ日などに数万人規模のデモがたびたび起こるようになったとされている。


当の"十四か条の平和原則"には他の「本当の植民地」諸国の自主独立は謳っているものの、韓国の「かの字」もないのが現実で、要するに国際社会はシャルル・ダレの「朝鮮教会史」(1874年刊行)や、イザベラ・バードの「朝鮮紀行」"Korea and her Neighbours"などで、凄まじいとしかいいようのない李氏朝鮮時代の実情やその時代と何も変わる要素のない「大韓帝国」の実情と日韓併合の実態をよく知っていたということ。

参考:
「三・一独立運動」(併合時のいわば「ロウソクデモ」の始まり)


韓国のいうところの「独立運動」の実態といえば、日本の赤化運動を狙うロシアや、日本国内の社会主義者らと結びついて日本の国家転覆を図って一部の「朝鮮人独立運動家や無政府主義者」らが「テロ活動化」したものであり、つまりインドの反英闘争など、帝国主義の「植民地」諸国の一般市民の大規模な独立運動のようなものとは全く性格が異なるのだ。それ故に韓国の英雄はテロリストばかり。


1923年9月1日に発生した関東大震災の混乱のさなか、韓国の抗日独立運動家らの集団である「義烈団」の団長 金元鳳(キムウォンボン)は震災の8日後の9月9日、日本の民心動揺を好機ととらえ、部下を集めて天津から東京へ向かわせ、保管してた爆弾50個を安東(アントン・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)に発送したという情報を日本の警務局がキャッチし逮捕されている。


関東大震災当時の戒厳令発令直後に起こった「朴烈事件」もその一例。朝鮮人無政府主義者の朴烈とその愛人の金子文子が当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)ご成婚の儀の際、皇太子と大正天皇をはじめ政治経済界の大物たちを爆殺する計画をたてたという「大逆罪」の容疑で死刑になっている。


これは当初、両名を爆発物取締罰則違反で起訴したものの、「大逆事件を告発した司法官」としての出世を望む東京地裁の判事と、「朝鮮民族独立の英雄」としての名声を得て死ぬ事を希望した朴烈の思惑の一致があったとする説もあるようだが、少なくとも実際に実行に移されていた可能性も無論あり、未遂ではなく実際に実行したのが李奉昌(イ・ボンチャン)なる人物


なんと韓国政府は2月12日、戦前の1932年、昭和天皇を殺害しようとしたテロリスト、李奉昌(イ・ボンチャン)の手紙などを文化財として登録すると発表。韓国紙の中央日報(日本語版)2月13日報道によると、李は32年1月8日、東京で観兵式を終えて戻った昭和天皇に向けて手榴弾を投げ、馬車はひっくり返ったが、昭和天皇はご無事で犯行は失敗に終わり、同年9月に死刑が言い渡され、10月に刑が執行されているそうだ。


そして韓国政府が文化財として登録する李の遺品には、昭和天皇に対するテロを決意した宣誓文なども含まれるそうで、そこには、「私は赤誠として祖国の独立と自由を回復するために韓人愛国団の一員となり、敵国の首魁を屠戮(とりく)することを盟誓する」のような明らかに「テロ予告」が記されていたのだそうだ。韓国中央日報は、この昭和天皇暗殺未遂事件を「大韓民国臨時政府をはじめとする抗日独立運動戦線に新たな活力を与えた歴史的な事件と評価される」と称賛。


第一次世界大戦の引き金となったのは1914年6月28日、ユーゴスラヴィア民族主義者の青年ガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリーの帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺した「サラエボ事件」だったのであり、手榴弾を投げつけられても、幸い裕仁親王はご無事だったとはいえ、一国の皇太子暗殺を企てるということがどれほど重大なことなのか韓国政府は認識しているのであろうか。



安重根(朝鮮語読み: アン・ジュングン1879〜1910年)は、日本の初代内閣総理大臣伊藤博文(暗殺された時は朝鮮総督府の初代統監に就任し韓国滞在中であった)を当時ロシアが権益をもつハルビン駅構内で暗殺したとされるテロリストなのだが、現在韓国の英雄として切手にもなっている。


事件の背後には伊藤をハルビン駅に招き、駅の2階の食堂から狙撃したロシアの特務機関に所属する真の暗殺者がいたという説もあるのだが、安重根はその場でロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡され、1910年3月26日に処刑されている。


2013年6月に中国を訪問した朴槿恵前大統領が、安重根の記念碑を建てることを習近平国家主席に要請し、習近平が快諾して2014年にハルビン駅に「記念碑」でなく、「安重根記念館」がオープン。


現在は古くなったハルビン駅の改築工事に伴って撤去されているものの、黒龍江省党史研究所のキム・ウジョン元所長によると、この記念館は習近平と朴槿恵のひそかな約束ではなく「習主席が自ら指示したこと」であり、「韓国と中国の約束」なので、中国当局がハルビン駅の改築後に記念館を2倍に拡張することにしたという報道もあったそうだ。しかし、その後の韓中はTHAAD軋轢以後に関係が微妙になった反面、日中は接近している局面でもあり、リニューアルオープンするのかどうだか。


立法府の長である文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長が2月7日にブルームバーグとのインタビューの中で「日本を代表する首相か、あるいは私としては間もなく退位される天皇が望ましいと思う。その方は戦争犯罪の主犯の息子ではないか。そのような方が一度おばあさんの手を握り、本当に申し訳なかったと一言いえば、すっかり解消されるだろう」という発言を行い、現在日韓間の外交問題になっているが、そもそも韓国は日本の皇太子や大正天皇暗殺を戦前から企てたテロリストを「独立運動の義士」と崇め奉る国なのだ。


文氏の頭の中では、昭和天皇=「戦争犯罪の主犯」であり、「その息子」である平成の天皇陛下が、元慰安婦に直接謝罪すれば、慰安婦問題は解消されるという発想自体おかしいが、一国の立法府にある人物の公の場での発言として相当おかしい。戦勝国である連合軍が日本の「戦争犯罪者」裁いた「極東国際軍事裁判」いわゆる「東京裁判」において、昭和天皇が被告席に座られた事実はなく、東京裁判の是非はともかく、歴史的にも国際法上も昭和天皇は「戦争犯罪の主犯」などではない。国際軍事裁判所憲章(注)の(A)平和に対する罪、(B)戦争犯罪、(C)人道に対する罪のいずれにおいても裁かれておらず、「戦争犯罪の主犯」という認識は韓国人の感情論でしかない。


GHQが作った日本国憲法上、当時の昭和天皇を日本の国家統合の「象徴」と位置づけ、戦後の日本の復興においてなくてはならない人物であると見抜いたからこそ、連合国軍総司令部のマッカサ―元帥ですら昭和天皇に対しては戦争犯罪を問う発言などは一切行っていない。頭の中で「戦争犯罪の主犯」だの「その息子」だの思うのは勝手だが、公の場で発言することがこの上なく非礼で非常識であるかわかっていないこと自体、韓国の政治家の国際感覚や論理性の欠如というべきなのだ。国益を損じるだけの感情的発言を公の場で行うほどに愚かな人物で、むしろこのような政治家が「立法府」の長の一人で国会議長である韓国国民こそ哀れといえる。


この韓国国会議長の発言は大変失礼な発言であるのだが、そもそも韓国・朝鮮の「捏造歴史」の根底にあるのが(朝鮮半島の被害者コスプレの)反日が大前提であり、今に始まったことではない。先ほど例に挙げたように、戦前から昭和天皇暗殺を度々企てている「独立運動家」と称するテロリストを英雄視して、韓国自らが願い出た日韓併合を「日本による侵略、植民地化」であったと虚偽主張をして謝罪要求するのが韓国のお家芸のようなもの。


「千年被害者(朴槿恵発言)」になるためには「少女像」「徴用工像」などを世界中に建てて、日本を「戦犯国」「韓国を蹂躙した加害国」に仕立てる必要があるわけで、実際には募集に応じた出稼ぎ労働者の人々や、大方、同族の朝鮮人斡旋業者にだまされたのを、「日本政府によって連行された」「徴用された」と称し、北朝鮮どもども延々と日本からの謝罪と「特別扱い」を引き出すのが目的らしい。


慰安婦に関していうと、米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったはされなかったそうで、当初から強制連行とする証拠はGHQの膨大な調査資料に一切なく、だからこそ極東軍事裁判でもこの件で裁かれた例は一例もなかったのだ。(注)


「軍用売春宿」で働く女性たちは日中戦争、太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争及び韓米軍事合同訓練並びに米軍、連合国軍、及び国連軍の駐留時などに、当時の戦地、訓練地、駐留アメリカ軍基地周辺の基地村などでも存在が報告されており、日本軍、韓国軍、米軍および国連軍の軍人・軍属に対して売春業を行っていた、または行っている女性の総称として「慰安婦」という表現が使われることがあるそうだが、「従軍慰安婦」なる言葉が登場したのも1970年代以降。


謝っても謝っても「誠意ある謝罪」を延々要求し続ける「やくざのような国」で、軒を貸したら母屋まで盗られそうだったというのがこれまでの状況で、自国にとって真の悲劇が何かということを大統領ご本人が全くわかろうともしないということ、このような人物をこのような時期に大統領にしてしまう禍々しさ、日本の皇太子暗殺を企てたテロリストを臆面もなく称賛するような「非常識を通り越して、むこうの世界に突き抜けている」としかいいようのない隣国。


日韓基本条約締結時に韓国に渡した無償3億ドル、有償2億ドルの資金以外に、日本からの韓国に対して行ってきた様々なODAリスト、技術支援なども、気が遠くなるような膨大な量だし、戦後の日本の「韓国への特別の配慮」のあとがにじみ出ているのである。しかし、韓国という国にはもはや「特別な配慮」は無意味だということが、「韓国に優しい良心的な日本の方々」にも分かったのではないだろうか。「韓国に許してもらうまで謝り続けよう」と言ってた人もいましたが。元総理大臣という立場で、ご自身が韓国に行って土下座してもごく軽く扱われていましたね、鳩山さんとか。


彼らの目的は永久の自称「被害者」として、「加害者」である日本を踏み台にすることですから、彼らの「やくざ」体質からどう手切れするかに戦略が必要で、今後はスマートにやりましょう、日本人のみなさん。



参考:
「マキャベリが説く隣国への外交姿勢とは」



(注)国際軍事裁判所憲章
第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された。1945年8月8日に制定された同憲章五条及び六条では、(a)平和に対する罪、(b)戦争犯罪、(c)人道に対する罪の三つが、同裁判所の管轄する犯罪とされた。

なお、日本でいう戦犯のA級・B級・C級という区分は、元来はこの憲章規定にあたるという意味であって、「C級よりA級の方が重大」という意味ではない。ニュルンベルク裁判ではナチスによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)が衝撃的であったため、C級犯罪である「人道に関する罪」がA級の「平和に対する罪」を凌駕するような印象になったが、検察はA級の「平和に対する罪」を最も訴追した。

日本の戦争犯罪を裁く極東国際軍事裁判における戦争犯罪類型C項でも規定されたが、日本の戦争犯罪とされるものに対しては適用されなかった。その理由は、連合国側が、日本の場合は、ナチス・ドイツの「ユダヤ人問題の最終的解決」のような民族や特定の集団に対する絶滅意図がなかったと判断したためである。なお、南京事件いわゆる南京大虐殺について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されはしなかった。


(注)
米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった。戦時の米軍は慰安婦制度を日本国内の売春制度の単なる延長とみていたという。調査結果は、日本側の慰安婦問題での主張の強力な補強になることも期待される。米政府の調査結果は「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)米国議会あて最終報告」として、2007年4月にまとめられた。米側で提起されることはほとんどなかったが、慰安婦問題の分析を進める米国人ジャーナリスト、マイケル・ヨン氏とその調査班と産経新聞の取材により、慰安婦問題に関する調査結果部分の全容が確認された。調査対象となった未公開や秘密の公式文書は計850万ページ。そのうち14万2千ページが日本の戦争犯罪にかかわる文書だった。日本に関する文書の点検基準の一つとして「いわゆる慰安婦プログラム=日本軍統治地域女性の性的目的のための組織的奴隷化」にかかわる文書の発見と報告が指示されていた。だが、報告では日本の官憲による捕虜虐待や民間人殺傷の代表例が数十件列記されたが、慰安婦関連は皆無だった。報告の序文でIWG委員長代行のスティーブン・ガーフィンケル氏は、慰安婦問題で戦争犯罪の裏づけがなかったことを「失望」と表明。調査を促した在米中国系組織「世界抗日戦争史実維護連合会」の名をあげ「こうした結果になったことは残念だ」と記した。IWGは米専門家6人による日本部分の追加論文も発表した。論文は慰安婦問題について(1)戦争中、米軍は日本の慰安婦制度を国内で合法だった売春制の延長だとみていた(2)その結果、米軍は慰安婦制度の実態への理解や注意に欠け、特に調査もせず、関連文書が存在しないこととなった−と指摘した。ヨン氏は「これだけの規模の調査で何も出てこないことは『20万人の女性を強制連行して性的奴隷にした』という主張が虚構であることを証明した。日本側は調査を材料に、米議会の対日非難決議や国連のクマラスワミ報告などの撤回を求めるべきだ」と語った。

補足(注)
日本への抵抗運動
初期義兵(1895〜96年)
1895年年10月に王妃・閔妃が殺害された乙未事変、続く12月に断髪令が出されたことをきっかけに同年末より発生(乙未義兵)。。忠清北道の儒学者柳麟錫や京畿道の李春永、元東学党であった慶尚北道の李康秊らが挙兵して各地で日本軍や親日派の政府軍などと戦った。翌年3月頃には義兵の動きが朝鮮半島全域にまで拡大、これに先立つ2月に政変(俄館播遷)が起こり、標的としていた親日派の失脚が相次いだために義兵は名分を失って解体、10月に最後まで抵抗していた柳麟錫・李康秊も満州に逃れて(後に恩赦で帰国)終焉を迎えた。

後期義兵(1905〜14年)
1904年に第1次日韓協約が結ばれると、韓国の官民を問わず国家存続であるとする危機感が高まり、翌1905年春頃より両班や儒生の間で義兵再建の動きが高まっていたが、8月に江原道の元容八が挙兵したことで本格化。更に追い討ちをかけるように同年11月に第2次日韓協約が結ばれて韓国が保護国化されると、韓国国内は騒然とし元政府高官らを中心に義兵が組織され、翌1906年5月に忠清南道の洪城で閔宗稙、翌月には全羅北道で崔益鉉が挙兵、慶尚道では柳麟錫、忠清道では申乭石などがそれぞれ義兵を起こした。

社会不安を抱いた民衆も加わった大規模な抵抗運動に発展。それまでの義兵を率いた将は両班・儒学者であったが、申乭石は初めて平民出身の義兵将で、最大で3000人を超える義兵を集め活躍し、義兵運動に新しい様相が現れた。だが、日本軍の軍事力の前に次々と敗退、一旦は義兵の動きは鎮圧。

ところが、1907年7月に日本がハーグ密使事件の責を負わせて高宗を退位させて、第3次日韓協約を結んで韓国軍を強制的に解散させると、解散命令に服しない韓国軍部隊があちこちで蜂起。武器の種類も様々で、指揮官、司令官も統率もなく、個々のグループが拡散、別々に行動。

1907年末に儒学者の李麟栄が各地で戦っていた義兵を糾合し、京畿道楊州に兵1万(そのうち旧韓国軍兵士は3000名にのぼったという。)を集めて彼を倡義総大将とする、韓国13道すべてを結集した義兵軍という意味の「十三道倡義軍」が成立し、同年12月に許蔿(号:旺山)を司令官としてソウル奪還を目指して首都ソウルへ進撃。た日本軍は東大門においてこれを破ったものの、この善戦が各地の義兵勢力を勢いづけて1908年の第2次ソウル奪還作戦など1909年にかけて各地で日本軍と交戦。

1909年10月26日、哈爾浜駅構内での、安重根による韓国統監府初代統監を退任していた伊藤博文暗殺後、韓国駐剳軍司令官長谷川好道は「南韓討伐大作戦」を断行し、徹底的な焦土作戦や包囲作戦などによって鎮圧。これによって義兵側に1万7千人の死者が出たとされているが、実際にはもっと多かったとも言われている。一部は日韓併合後も抵抗を続けたが1914年頃には鎮圧され、生き残りは満州(間島地区など)や沿海州などに逃れて朝鮮独立運動を継続した、とされる。


参考:



引用;



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