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映画原作『ファン・ジニ』訳者あとがき(その2)
幸いにも、わたしはこの北と南の『ファン・ジニ』を翻訳する機会を得た(同タイトル、同一訳者名となると紛らわしいため、本書では筆名を使用した)。そのふたつの作品を読み比べてみることも、なかなか興味深い。両作品から、黄真伊の印象的な独白を抜き出してみよう。
最高になりたい。何を学ぶかよりも、学ぶこと自体が目的でした。限界をひとつずつ越えていくときの喜び。これまで見えなかったものを見つけたときの胸の高鳴り。(中略)何人かの童妓たちといっしょに、歌や舞、楽器を学びましたが、他の子のことはひとつも目に入りませんでした。
――キム・タクファン『ファン・ジニ』(早川書房、拙訳)上巻、一〇四ページ
仮に愛というものが本当にあるとしても、産神の目から見たら、それは子どもを作るためのひとつの過程にすぎません。(中略)ところが、わたしも考え方を変えなくてはならないようです。この世の中には嘘偽りのない、本物の愛があるばかりでなく、その愛こそは、このうえなく美しく神秘的なものだと。
――ホン・ソクチュン『ファン・ジニ』(朝日新聞出版、拙訳)中巻、二一〇ページ
つまり、一言でいえば、キムの描く黄真伊は“完全な人間”を目指して学びに没頭する一方、ホンの描く黄真伊は自立した女と男による真実の愛を追い求める自立した女性なのだ。そのため、黄真伊と親交があったとされる儒者・徐敬徳(ソ・ギョンドク)も、前者では黄真伊とともに真理を追究する一生の師として、後者では“愛の旅人”たる黄真伊の挑戦を受けて立つ存在として描かれている。もっとも、黄真伊の生きた時代は、学問も、真実の愛も、女性にとって手に入れることは困難だったに違いない。両作品の『ファン・ジニ』のいずれもが感動を呼ぶのは、その困難に立ち向かう自由な人間の姿を描いているからだ。
(その3につづく http://blogs.yahoo.co.jp/ynz98ynz/44021028.html)
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