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金大中元大統領が亡くなりました。ひとりの政治家の死という以上に、私には感慨深いものがあります。
私がはじめて韓国・朝鮮のことに関わるようになったのは、1980年の光州民衆蜂起と金大中への死刑判決でした。当時、学生だった私は、金大中救援を訴えるため、何度か韓国大使館と日本外務省にデモに行きました。
それをきっかけに、自分が隣国のことをほとんど何も知らないことに気づき、朝鮮語を学ぶようになりました。大学卒業前に韓国を旅行し、光州にも行ってみました。82年2月、まだ金大中が死刑から無期懲役に減刑され獄中にいたときです。
友人のペンパルを頼って全羅道の田舎、淳昌(スンチャン)に行きました。バスを降りると、ぞろぞろと村の人たちが集まってきました。「この村に日本人が来るのは35年ぶりだよ」。つまり、私が解放後にこの村に来た、唯一の日本人だというわけです。そこの農家に一晩泊めてもらいました。
その夜、農村の若者たちと酒を飲みながらいろいろな話をしました。私は日韓辞典を持ち、相手には韓日辞典を渡して、それを引き引きでしたが、それでも不思議と、どんな話でも通じるのでした。
「日本でいちばん有名な韓国人は誰?」と聞かれて、「キム・デジュン」と答えると、わっと歓声が上がりました。囚人として獄中にあっても、全羅道では金大中の人気は抜群でした。
ソウルに行くと、新聞に「金大中、懲役20年に減刑」との見出しがありました。でも、ソウルの人たちは光州で何が起きたのかも知らず、金大中の名を口にすることもはばかられる雰囲気でした。朝日新聞の支局に遊びに行き、全羅道ではいまだ金大中の支持が厚い、と話すと、それが翌日の朝日新聞にそのまま載りました。
ソウルのこわばった空気に触れると、全羅道の農村での一夜が、まるで夢のように思われました。当時、軍事政権がいつ終わるとも知れず、まさか金大中が本当に大統領になるとは、想像もつきませんでした。
金大中のニュースを見るたびに、あの全羅道の若者たちの笑顔と、街灯もなく、真っ暗で、星が降るようだった農村の夜空を思い出します。
あのときの若者たちもいまはみな50代。みんなどうしてるだろうか。
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そのころ、行かれたんですね・・・
私は故郷が南にありながらいまだに行ってません。
18歳で渡日し、一度も戻らず他界した父はコヒャンへ行きたいと晩年、言い続けていました。
現在、また厳しい現実。
映画ウリハッキョの監督がリ・ミョンバク政権になって韓国が20年後退したと言ってました。
関係の改善(南北&日朝)を望むばかりです。
2009/8/19(水) 午前 6:45
へばらぎさん
リ・ミョンバク政権になってから、朝鮮籍の人たちに対する臨時パスポートが出にくくなっているそうですね。
朝鮮半島の北にも南にも、そして日本にも、故郷に帰れない多くの人たちがいることを忘れないようにしたいと思います。
2009/8/19(水) 午後 4:55
鍵コメさん、コメントありがとうございます。
金大中大統領が日本に与えた影響は、日本人が思っている以上に大きいのではないかと思います。
2009/8/19(水) 午後 5:42
貴重なお話、リアルタイムで読ませていただくことができました。
ありがとうございました。
書き留める・・っていいですね。
2009/8/20(木) 午前 1:09
enagemさん
もう30年近く前ですが、不思議とその時に会った人たちの顔もはっきり思い出せます。それだけ強烈な体験だったからか、それとも若かったからか……。
2009/8/20(木) 午後 9:53
読売新聞のコラムに完璧な日本語をしゃべる方だったと書いてました。日本の事をとても理解しておられたとか。
東京で拉致された記憶だけ有りましたが、その後大統領に当選されたのはとても驚きました。
ご冥福をお祈りいたします。
2009/8/21(金) 午後 1:52
itohさん
朝鮮解放(=日本の敗戦)のときに20歳くらいですから、学校教育はすべて日本語で受けた世代です。死去を伝えるニュースで、拉致事件当時の映像を見ましたが、まったくよどみのない日本語でした。
たぶん韓国の政治家ではいちばんの知日派だったでしょう。その彼をネット上で叩いている人を見ると、悲しくなってきます。
2009/8/21(金) 午後 3:50
ご無沙汰してました。
私の記憶の中にある光州民衆蜂起。
祖父母・両親が涙を流しながら嘆き悲しんでいる姿でした。
私がそのころ見た映像や新聞の記事よりも鮮明に、
祖父母・両親の後ろ姿が忘れられないです。
貴重なお話をありがとうございました。
金大中元大統領のご冥福を心よりお祈りいたします。
2009/9/25(金) 午前 10:44 [ ユン ]
ユンさん、胸に染みるコメントありがとうございます。
日本の「平和」は、朝鮮の「悲劇」と裏表の関係にあるのだと、つねづね思っています。そのことを一番実感しているのは、在日朝鮮人なのでしょう。
2009/9/26(土) 午前 8:54
私は、12歳でした。クラスの副会長をしていて、
なにか騒ぐものを抑えきれず、トンム(チング)3人を誘って
夜中の2時に学校に忍び込み、懐中電灯で壁新聞をかきました。
今、考えれば危険な事ですが(^_^;)
アボジがもちろん私が居ない事に気付かれ、方々電話をかけ
ハッキョに来られました。担任の先生と上がって来られ
なぜか叱られずソンセンニンとアボジは笑っていました。
何もなくて良かったと肩を撫でおろされ、時間は明け方で、お小遣いをもらいみんなでパンを買って食べました。
先生は今、大阪朝高教育会でお仕事されていて、会うたびにその話をされ、ちょっぴり恥ずかしいです(^_^;)
今年長女が入学して奨学金、免除金の事で走り回ってくださり、
感謝です。・・・・・あの壁新聞は、
とても、絵の上手なトンムが血を流している女子生徒をかかえる
男子生徒を書き、文字は私が書きました。みんなで色を塗りました。撮影でもしておけば良かった。一番印象に残った壁新聞(畳一畳くらいの方眼紙)長々とすみません。
2009/11/9(月) 午後 9:48
四姉妹ママさん
12歳で壁新聞、すごいですね! 読んでみたいです。
私は大学のキャンパスに留学同、韓学同がそれぞれ「民衆蜂起支持」の立て看を出していたことをよく覚えています。
光州はそれぐらいインパクトのある歴史的事件だったということですね。
2009/11/12(木) 午前 1:52