|
ところで、日本ではあまり知られていない朝鮮アニメの現状について、 ネット上でいくつか記事を見つけましたのでご紹介します。 蓮池さんは、拉致されて長年朝鮮で生活した体験をもとに、 アニメに現れた近年の朝鮮社会の変化をこんなふうに伝えています。 北にもアニメやマンガがあり、テレビで放映されたり、量的には少ないがマンガ本が出版されていた。もっぱら子ども向けであり、愛国心や敵愾心を育てるため高句麗時代のものや、動物を擬人化して生活に必要な教訓、学習、階級意識などを教えるいわゆるお堅い教育漫画が多かった(階級意識というのは、簡単に言って搾取階級である資本家や地主を憎み反対し、労働者、農民の立場に立たなければならないということです。もちろん搾取階級には日帝や米帝も入ります)。 最初のころはほとんど北のオリジナルだったが、いつごろからだったか、テレビで昔懐かしき「トムとジェリー」や、「美女と野獣」を始めとするディズニーアニメなど、アメリカの作品が放映されたのには、とても驚かされた。日々の娯楽が限られているなか、人々は食い入るように見ていたようだ。 北朝鮮ではアニメ映画は児童映画とかクリム(絵)映画と呼ばれ、多くの子供たちが夢中になっている。 有名校を目指す学習熱の高さは韓国、日本に引けを取らないが、アニメ人気には負ける。テレビでアニメ放映の時間になると、子供たちが息せき切って学校から駆け戻ってくる。この日だけは課外授業も早々に切り上げる。 …… 最近の特徴は、20代、30代が気鋭が「コンピューター創作団」「3D画像処理室」などのチームを編成し、三次元立体映画制作に意欲的に取り組んでいる。技術力は世界でもトップクラスで、アニメは1秒に12カットと、日本、韓国の7カットより多く、それだけ画面はスピーディーで、躍動感がある。 1年に10本ほど制作し、朝鮮中央テレビが毎日10〜20分放映する。 伝説的なヒット作は高句麗の少年将軍を主人公にした全50部の大作「少年将軍」で、1982年から97年まで放映された。ピョンヤン情報センターはそれをもとに携帯電話用のゲームを作成している。 どこの国でも子どもたちはアニメに夢中なようですね。 携帯電話用のゲームまで作っているとは、私も初めて知りました。 2008年11月19日、中国紙「中国文化報」は、北朝鮮の低価格で高品質なアニメ産業の実態を報じた。米ディズニーのテレビアニメ「ライオンキング」も北朝鮮のアニメ制作会社に下請けされたという。 北朝鮮最大のアニメ制作拠点は、首都ピョンヤン市の金日成広場からほど近い「SEK」という制作会社。設立は1957年という老舗だ。世界各国から下請けの依頼があるが、中でもフランス、イタリア、中国がお得意様。代表作は、ディズニーが欧州向けに制作したテレビアニメ「ライオンキング」や「ポカホンタス」などがある。北朝鮮では珍しく、外国との貿易業務に直接携わり、スタッフを中国や欧州など海外に派遣できるという破格の待遇だ。韓国アニメーション制作者協会(KAPA)のLee KyoJung氏は、「北朝鮮のアニメ産業は国際レベル。北朝鮮が必要としている外貨と世界のIT技術に触れることが出来る人材をもたらしている」と語る。SEKと7年越しの取引を続ける韓国のアニメ制作会社、KOAA Films.Lncのニールセン・シン氏は、「SEKのスタッフはみな手先が器用。韓国人よりレベルが高い」と絶賛する。北朝鮮のアニメーターは、全員が美術大学の卒業生というエリート揃いだ。 SEKは85年から00年までの15年間で、海外のアニメ制作会社から100本余りの作品を下請けした。「ピノキオ」「タイタニック」「千夜一夜」などお馴染みの作品が名を連ねる。中国との取引は03年から。現在は中国でのビジネスパートナーを物色中という。(翻訳・編集/NN) <おまけ> 朝鮮でいま一番人気がある「かしこいタヌキ」シリーズのなかから、「タヌキとオオカミ」。
オオカミのダンスがユーモラスです。 |
全体表示
[ リスト | 詳細 ]
|
月に酔い、酒を飲み、花に魅せられ、君王にも仕えない彼のことですから、
黄某とはひと月もあれば足りると言ったのかも知れません。 お見送りの歌にかえて一首吟じて差し上げたのも事実です。 その日がちょうどひと月目というわけでもありませんでした。 陽谷もわたしも、そんな無粋な賭けで、大切な出会いをだいなしにするはずがないではありませんか。 ふたりのどちらか一方の心が遠ざかる瞬間から、その出会いはひびが入り始めます。 心残りはありましたが、泣きながらすがりつくようなことでもありません。 李白と杜甫の出会いと別れもこんなふうだったのでしょう。 ――ハヤカワ文庫『ファン・ジニ』上巻から 「俺は黄真伊と三十日だけいっしょに過ごしてくる。もしこの期限を 一日でも過ぎて彼女のもとに留まれば、君たちからお前は人ではないと 言われてもいい」 ところが、ドラマ原作『ファン・ジニ』で作者キム・タクファン(金琸桓)は、 黄真伊自身の口を借りてその賭けの存在を否定します(冒頭の引用参照)。 李白と杜甫のように、黄真伊と蘇世譲という二人の詩人が互いの才能にひかれ合い、 美しく出会い、そして美しく別れたのだ、と。 蘇世譲はドラマには登場しませんが、芸に生きる黄真伊の人物像は ドラマの中でも生かされているように思います。 黄真伊の時調(シジョ、朝鮮固有の定型詩)に、自分のもとを去っていく男を 黙って見送るせつない気持ちを描いた、こんな作品があります。 (【追記】ドラマ「ファン・ジニ」では第7話でハ・ジウォンがこの詩を読み上げています。) ※写真はドラマ原作『ファン・ジニ』の原書、『나, 황진이(我、黄真伊)』(キム・タクファン著)の表紙。 |

- >
- エンターテインメント
- >
- テレビ
- >
- ドラマ番組
|
ドラマや映画「ファン・ジニ」で日本でも注目を集める妓生(キーセン)ですが、意外にあいまいで、わからない部分が多いように思います。 そこで、韓国・高麗大学の学生新聞「高大新聞」に、妓生の歴史についてうまくまとめた記事がありましたので、翻訳してみました(小見出しと〔 〕内は訳者)。 芸術を花咲かせた“解語花(ヘオファ)”、妓生(キーセン)歴史のなかの女性の足跡……日帝強占期に娼婦の意味に歪曲冬至の月の長々し夜を 腰のところでふたつに切って 春風の布団の下に ぐるぐると巻いておき 愛しい方がいらした夜に そろそろと広げます 愛しい人を待つ女の切実な気持ちを、比喩に託したこの時調〔シジョ、朝鮮の定型詩〕は、歴代妓生のなかでも有名なファン・ジニ(黄真伊)の作品だ。賤民でありながら、今日までファン・ジニが優れた女流詩人として認められてきたのは、妓生という彼女の身分によるところが大きい。彼女たち妓生は、厳しい訓練を通じてパンソリ〔太鼓に合わせて物語を語る朝鮮の伝統芸能〕、伽?塩琴(カヤグム)、宮中舞などを学び、知識人男性を相手に芸術的才能を披露する知的能力を備えていた。 妓生の起源 『高麗史』によれば、高麗の太祖の時代〔10世紀〕に、百済(ペクチェ)の遺民たちのなかから容貌に優れ、才能のある女性を選び、歌舞を学ばせたのが、妓生の起源だという。彼女たちは八関会〔国と王室の安泰を祈願する儀式〕や燃燈会〔釈迦の誕生日に火を灯して福を祈る儀式〕などの行事や、外国から使臣を接待する場に動員された。朝鮮王朝の時代になると妓生制度が発達し、英祖の時代〔18世紀〕には“妓生”という用語も初めて使われた。そのため、一般的に妓生といえば朝鮮王朝時代の妓生を指す。 朝鮮王朝時代の妓生は、大きく官妓と私妓に分かれる。我々が知っている名妓のほとんどは官妓である。彼女たちは各地方から選ばれて、宮中の音楽と舞踊を管轄する掌楽院に所属し、そこで妓生となるために必要な言葉遣い、立ち居振る舞い、音楽、書画などを身につけた。官妓のうち地方の官妓を郷妓(ヒャンギ)と言うが、彼女たちの大半は官妓の母親の後を継いで自分も妓生になるケースが多かった。国の大きな行事や宴会があるときは、多くの郷妓が上京して、京妓とともに歌と舞を披露し、再び帰郷した。 妓生の等級 妓生の等級は一牌(イルペ)、二牌(イペ)、三牌(サンペ)に分かれていた。 一牌とは、宮中で女楽として御前で歌舞を披露する一級妓生のことで、高い地位にあった。二牌とは官庁や官僚の家に出入りする級の低い妓生で、“慇懃子(ウングンチャ=秘かに身を売る女性)”とも言われた。三牌とは身を売る酒場の酌婦を意味する最下流の妓生で、“搭仰謀利(タバンモリ)”、遊女とも呼ばれ、大部分が私妓だった。客を接待するときに雑歌などを歌ったが、その水準は一牌妓生の歌舞とは比べものにならなかった。 一方、病人の診察をする医女(ウィニョ)と宮中で衣服を仕立てる針婢(チンビ)も、宴会で妓生役を兼ねる場合が多かった。彼女たちはそれぞれ薬房(ヤクパン)妓生、尚房(サンバン)妓生と呼ばれたが、両房妓生〔薬房妓生と尚房妓生を合わせた言葉〕になるのは宰相になるより難しいとされ、妓生宰相とも呼ばれた。彼女たちの地位は相対的に非常に高く、後には“正三品”“従四品”などの官職を与えられる妓生もいた。 日本統治下の妓生 朝鮮王朝後期から社会が不安定になり、妓生と娼婦の区別が曖昧になり始めたが、本格的に官妓の伝統に変化が起きたのは、日帝強占期〔日本の植民地期〕からだ。1909年、“官妓制度”が廃止され、売春が合法化されて、誰でも金さえあれば妓生を買うことができるようになった。また、下流妓生が娼婦化したため、伝統妓生全体が社会的な蔑視の対象に転落してしまった。 こうした過程のなかでも、妓生の伝統を引き継ぐための努力は続けられた。日韓併合の翌年である1911年、朝鮮正楽伝習所で妓生に歌と舞を教えた。これがわが国の妓生組合の始まりである茶洞(タドン)組合である。その後、このような妓生組合が各地に生まれた。だが妓生組合は、朝鮮総督府〔日本の朝鮮統治の最高機関。総督は天皇に直属し、陸海軍の大将から任命された〕によってその名称を日本式の“検番”〔待合や料理屋への芸者の取り次ぎや玉代の計算などを扱う事務所〕に変えられ、その目的も妓生の養成から商品の売買へと変質した。 妓生文化の伝承 日本の植民地からの解放後、妓生を売春婦のように公娼扱いする米軍政によって伝統妓生の存在は否定された。妓生養成の構造は完全に破壊され、その後継はほとんど断絶してしまった。ただ、ノンゲ(論介)〔16世紀の妓生。秀吉の朝鮮侵略で晋州城が陥落した際、日本の武将を道連れに川に身を投げた〕の故郷である慶尚南道(キョンサンナムド)晋州(チンジュ)では、その伝統が守られた。老いた妓生たちによってノンゲの功績を称える義妓彰烈会が結成され、検番出身の退妓たちが舞踊研究所を作って、晋州教坊の楽歌舞はかろうじて命脈を保った。その結果、晋州剣舞が1967年に国家指定重要無形文化財第12号に認定され、妓生文化が伝承されることになった。 妓生は、男性中心社会だった朝鮮の歴史において、女性の重要な足跡を残す契機を生み出した。また、伝統文化の継承者として芸術と文化発展に貢献した。これについて、『ファン・ジニ』〔ハヤカワ文庫〕を書いた小説家のキム・タクファン(金琸桓)氏は、「妓生は一生を通じて自己の完成を追求した芸術家であり、1910年代までは音楽、舞、詩、文筆にいたるまで独自の地位が認められていた」と評価する。 “解語花(ヘオファ)”−言葉を解する花−と呼ばれた妓生は、もはや存在しない。だが、時代と制度に押しつぶされた彼女たちの芸術的才能と、ファン・ジニの孤高、ノンゲの愛国心、ホンナン(洪娘)〔16世紀の妓生。節義に厚く、時調に優れていた〕の節操など、その象徴的なイメージは、現代人の脳裏にいまも息づいている。 「高大新聞」14999号 2005年2月27日(日) イム・ソンシル記者 (米津篤八・訳) |

- >
- エンターテインメント
- >
- テレビ
- >
- ドラマ番組
|
大阪コリアタウンからこんにちは、更新・訪問遅れています、キムラーです。 本日は、11月9日・コリアタウン周遊まつりの情報です! [[attached(1)]] やっと準備が始まったコリアタウンのおまつり!(遅いよね〜) 蘇錦−SALTのリードヴォーカル鄭万里さん!ご出演予定です! キムラー、昨年はじめてmaririnさんのライブにいかせていただき、大ファンに! 今年も、楽しませていただきました!짱(チャン)です!! [[attached(2)]] 洋楽ナンバーから、懐メロ、そしてもちろんトロット、民謡と盛りだくさん! さて、コリアタウンではどんな歌声を聞かせていただけるのでしょうか! 素敵な衣装も含めて、めっちゃ楽しみですね! maririnさんをご存知の方も、そうでない方も! 11月9日午後!コリアタウンへ大集合くださいね!! 今日もクリック応援!ありがとうございます! 「Kのちから」 は、
応援クリック!はこちら⇒ にほんブログ村『大阪情報』ランキング。なんと今!!何位?
|
|
朝鮮半島「ほぼ縦断」旅行記の続きです。 東明王陵の敷地内には祭堂が建てられています。 祭堂の内部には、朱蒙(チュモン)が高句麗を建国するまでの伝説と、 高句麗の文化・風俗を描いた絵画が展示されており、 ガイドさんがわかりやすく説明してくれます。 朱蒙の父、ヘモス(解慕漱)です。 五匹の龍が引く車に乗って天地を駆け巡る天王郎(天帝の子) という伝説に基づいた絵です。 ヘモス役のホ・ジュノ。 ちょっと感じが違いますかね。 左は朱蒙の母、ユファ(柳花)。 水の神、河伯(ハベク)の娘です。 ユファは白頭山付近の優渤水(ウバルス)という川のほとりで、 扶余王のクムワ(金蛙)と出会い、妃となりますが、 ヘモスの子をはらみ、大きな卵を生みます。 その卵から生まれたのが朱蒙です。 右はユファとともに弓の稽古に励む幼い朱蒙。 朱蒙とは、扶余(プヨ)の言葉で「弓をよく射る者」という意味だそうです。 ユファ役のオ・ヨンス。 こちらはちょっと雰囲気が出ているかも。 高句麗の建国を宣言する朱蒙。 高句麗建国の年代ですが、南北の学説には240年のずれがあります。 大韓民国では紀元前37年建国とされていますが 朝鮮民主主義人民共和国の定説では紀元前277年となっています。 左後方の二人の女性は朱蒙の妃、ソソノ(召西奴)とイェソヤ(礼少椰)だと思います。 どちらがどちらかは聞き忘れました。 ソソノは後に先夫のウテ(優台)とのあいだに設けた息子たちとともに 南に下り、百済を建国します。 イェソヤが生んだユリ(瑠璃)が、後に高句麗二代王となります。 朱蒙の忠臣・マリ(摩離)の墓とされる墳墓。 東明王陵のすぐ裏手にあります。 マリの墓は内部にも入れます。東明王陵より小振りですが、広さはは3.5メートル四方。 大きな石を組み上げた、がっしりした造りで、天井までは6.6メートルもあるそうです。 残念ながら壁画は残っていませんが、高句麗人の魂は十分に伝わってきます。 玄室内部から見上げた天井の様子。 この石の組み方が、高句麗独特のスタイルです。 本来ならこの古墳の内部にも、こんな鮮やかな壁画が描かれていたはずです。 |





