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NHK海外ドラマ「ファン・ジニ」第17回は、鶴の舞をめぐるファン・ジニと師匠ペンムの葛藤が一つの山場になっていました。 ドラマでははっきりと描かれてはいませんが、キム・タクファンの原作小説では、ペンムはチニの母方の祖母の妹、という設定になっています。 小説では、黄真伊自らがペンムのことをこのように回想しています。 母方の祖母にはひとりきりの妹がいて、“セッキハルモニ”(訳注:子どものお祖母さんの意)と呼んでいました。本当の名は陳白舞(チン・ペンム)といい、松都(ソンド)随一の舞妓だったそうです。 行首(ヘンス)妓生まで務めたその外従祖母(おおおば)を、あえてセッキハルモニと呼ぶのは、年に比べてかなり若く見えたせいもありますが、いつも口癖のように「イセッキ(こいつ)、チョセッキ(あいつ)」と悪態をついて回っていたからです。 母の両親はふたりとも瘟疫(おんえき、腸チフスのこと)にかかって早くに亡くなったので、わたしの面倒を見るのは完全にセッキハルモニの役目でした。 ペンムは素晴らしい舞の才能を持ち、中国からの使臣も驚かせるほどです。 平壌を通って入ってくる大国(明国のこと)の使節を迎えるときは、セッキハルモニが自ら舞って見せました。若いころはその手並みが素晴らしいというので選ばれて漢陽に上り、掌楽院(宮中の歌舞を司る官庁)に学びましたが、そのときに本格的に手ほどきを受けたという呈才(チョンジェ、宮中儀式の舞)を舞うときは、春のかげろうを縫って乱れ飛ぶ蝶を見るようでした。……どうせ東方の田舎踊りと見くびっていた大国の使臣たちも、こぞって手拍子を打ち、嘆声を上げました。 そして「鶴の舞」については、次のようなエピソードが語られます。ここでペンムの鶴の舞に魅せられた東峯(トンボン)老人とは、世宗大王の寵愛を受けた文人、金時習(キム・シスプ)のことです。金時習は王室の内紛に憤って官職に就かず、各地を放浪した天才詩人でした。 関西(クァンソ、平安道のこと)への旅に出た東峯老人から教えを受けたこともありました。紫霞洞(チャハドン、松岳山のふもと)の瓦家に招いて十日十夜を楽しく過ごし、鶴の舞を作って披露したお礼に律詩を一首いただいたというのが自慢でした。あと一年は門を出ず、舞と詩に浸って過ごしたい。昨日も忘れ、今日も忘れ、明日も忘れた。そんなふうにも言っていたそうです。 その華麗な記憶にけちを付けるわけではありませんが、いま振り返ってセッキハルモニの詩を読むと、あまりに単調で韻が合わない部分が少なくありません。詩を吟ずる腕は優れていましたが、やはり詩妓(詩の才のある妓生)というより舞妓だったのでしょう。 さすがは黄真伊と言おうか、ペンムの舞を称えつつも、なかなか辛辣な批評をしています。 もちろん、これらのエピソードやペンムの存在は、すべて作家キム・タクファンの文学的想像の産物なのですが、膨大な歴史資料に基づいて、まるで黄真伊本人が語っているような作品に仕上がっています。(以上の引用はすべてハヤカワ文庫『ファン・ジニ』第1巻、 2章「危険な家系」より) ところで、小説にはもう一箇所、「鶴の舞」が描かれています。 チニの学問の師だった徐敬徳 (ソ・ギョンドク)が、弟子たちとともに開城郊外にある朴淵の滝に散策にでかけた際、真理を悟り、そのうれしさのあまりに舞い踊るシーンです。 軽やかな滝の音が紅葉にさえぎられ、とぎれとぎれに聞こえるころ……まばゆい光が降り注ぐそこに、先生が立っていらっしゃいました。いつも背に荷を負って、手足の動きをできるだけ小さく、端正にしていた先生が、両手を大きく振り、肩を揺すりながら、くるくると舞い踊っていらっしゃいました。それは一羽の白鶴でした。 ひと月のあいだ考え続けていた温泉の原理を悟られたのです。……熾(おき)が炎を上げるように舞いに興じるほど、学ぶことがお好きだった先生の姿は、長く脳裏から消えませんでした。孔子と肩を並べてもいいほどではないでしょうか。学びて時にこれを習う、また楽しからずや。誰もが知っていながら実践するのは難しいその境地を、身をもって示してくださったのです。――ハヤカワ文庫『ファン・ジニ』第2巻、 11章「学人の舞」より ドラマ「ファン・ジニ」では、チニと徐敬徳との交遊についてあまり触れられていませんが、朝鮮中世を代表する学者の学問的情熱を描いたこの部分は、私が最も好きな場面のひとつです。 ※絵はハヤカワ文庫『ファン・ジニ』の挿絵から、ペンムの舞「呈才(チョンジェ)」。 |

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