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創作BL小説を書いています。

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 呉先生が取り出した大きな包みの中には移動式点滴台が入っていて――大学病院では患者さんが来診するのが基本なので入手不可能なシロモノだ――意外にも器用な感じで組み立てていく。
 最愛の人も温かいスープを飲んで若干落ち着いたのだろうか、手の震えも少しはマシになって来てはいる。
 ただ、確かに言われてみれば右手の傷の箇所はもっと深く切った場合、腱に到達してそれこそ右手が動かなりかねない。マイクロサージェリー専門医なら縫い合わせは可能だろうが、以前のような「神の手」に戻れるかどうかは神のみぞ知るの世界だ。
 今の祐樹のたった一つの仄かな希望の光は、最愛の人が「手術は予定通りに行う」と思ってくれていることで、この人は精神論というか「気合さえ有れば何とかなる」というある意味楽観的な思考法を持ち合わせてはいないことで、彼の蒼褪めて強張った心の中にもきっと何らかの光明が見えているに違いない。どちらかというと悲観的に物事を考える人だし、何よりも患者さんのことを優先するタイプなだけに「手術が無理」と判断すれば即座に斉藤病院長の提案に乗ったハズだ。
 容姿を含め多種多様の才能にも恵まれている最愛の人だったが、祐樹が根気強く言い聞かせるまで(自分には手技しか誇れるものがない)と頑なに思い込んでいたし、事実執刀医として手術中の彼は「神の手」の持ち主に相応しい神々しさを纏っている。外科医としての第一線を降りる積もりのない彼に腱や神経を絶たれることは想像を絶する恐怖だろう。
 狂気の井藤への憎悪も当然存在したが、そちらは森技官が一ミリたりとも容赦なく得意というか天賦の才ともいうべき精神攻撃を行ってくれているだろうからまだ良いとして、最愛の人の恐怖心とかトラウマの方がより気に掛かる。そして祐樹も充分な手は打ったハズなのに、最愛の人を守りきれなかった点も魂が圧し拉がれるほどの痛みを感じてしまう。
 祐樹が最愛の人に――気を利かせた呉先生が一口サイズにスライスしたトーストを食べさせている間中に、呉先生はベッドの余分なスペースに点滴パックとか薬剤や注射器が几帳面な感じで手際良く並べられていった。
「今ありのままのご心情を仰った方が、ご自分で抱え込まれるよりは良いですよ。私や田中先生どちらかに聞かせたくないとご判断されたのなら、今の主治医は私ですので寝室から出て行かせます」
 呉先生が聴いていると安心を与える穏やかな声ながらもキッパリと言い切った。
 森技官の指図がどの程度だったかは分からないが、大学病院には存在しないハズの移送式点滴台を持参してくれた呉先生へ感謝の眼差しを送りつつ、最愛の人が性的暴行を受けていないことを伝える暇がなかったことに今頃気付く体たらくだった。
「私の手がどうなろうと――動かなくなるのは心臓外科専門の医師生命の終わりを意味するので絶対に嫌だったが――彼、井藤という名なのだな……とは全く関係がないだろう?
 そんなことも分からないのなら絶対に頭がおかしいと判断して……」
 祐樹は「彼」という人称代名詞を使う値打ちが果たして、唾棄すべき狂気の井藤に有るのかはなはだ疑問だったが、呉先生の「否定的な言葉を使うな」というアドバイス通り黙って震える彼の右手を握り続けて話を聞いていますよ……というサインを送り続けた。
「香川教授の仰る通りです。井藤の精神疾患に依る妄想と執着のせいですね。
 そんなものに巻き込まれてしまって……」
 呉先生が秋の冷たい雨に打たれた野のスミレのようなため息交じりに同情的な感じで同意している。
 祐樹にとっては耳が痛いどころの会話内容ではなく、いっそのこと「耳なし芳一」みたいに耳が無くなってしまえばいいのにとすら思えてくる。
「教授の容態をずっと拝見していましたが、最適なのは点滴かと判断しました。釈迦に説法かも知れませんが眠剤を内服で飲まれると肝臓でろ過されてしまいますし、教授の肝臓の処理能力は――ぞの明晰過ぎる頭脳と同じく、ですね――高いですし、筋肉注射だと話している時間が有りませんから。
 薬剤を点滴でゆっくり入れて――アタPを使おうかと思っています――その間にお話しを伺うというのが最も良いかと思います」
 その薬剤名は確か入眠剤の一種だとおぼろげながら記憶していた。
「はい。お願いします。
 祐樹、手を握り続けてくれないか?その方が手の震えもマシになるような気がするので。明日中に治さなければならないし……」
 呉先生がテキパキと――不定愁訴外来では患者さんのクレームを延々聞く業務なので密かに呉という苗字との語呂合わせでクレーム外来と呼ばれているし、内服薬の処方はするようだが点滴作業は聞いたことがないので昔取った杵柄というモノだろう――最愛の人の左手に注射針を入れてテープで押さえている。
「点滴の場合、意識が混濁しますから教授の本音というか、口に出来なかった思いまで口走ります。田中先生、その点はご容赦下さいね」
 祐樹だけに聞こえる声で呉先生が「覚悟を決めろ」と言いたげな感じで念を押した。
 こうなってしまった責任の一端は紛れもなく祐樹にも有ったので甘受しなければならない義務だろう。頷いて最愛の人の右手を握り続けた。
「クロロホルムをかがされる前と、あの部屋に連れ込まれた後もかなり抵抗したのだが――というのも、井藤がそちらの方が喜ぶような気がしたので……。
 ワイシャツのボタンが飛んで素肌が見えた時に、井藤の目が――鎖骨のある場所に釘付けになって、見覚えのある種類の視線を感じた。祐樹と初めての夜を過ごす切っ掛けとなった『グレイス』とか、LAのゲイ・バーで私を見る目と言ったら良いのだろうか?そういう既視感というか」
 鎖骨の「ある」場所は祐樹が付けた紅い情痕のことだろう。呉先生はグレイスには行ったことも――もしかしたら最愛の人が祐樹の居ないところで惚気話の一環として話していたのかもしれないが――ないだろうが、話の文脈からどういう場所かは判断が付いたようだった。
「アイツは教授に――身の程知らずも甚だしいですが――横恋慕していましたからね。席を外した方が良いですか?」
 点滴のラインを確保した後のことだったし、呉先生は最愛の人の話が性的なものへと変わっていった――暴行されたわけではないことも知らせる暇がなかったので――痛ましげな響きを穏やかで同情的な声に含ませている。
「いえ、大丈夫です。呉先生さえ宜しければ聞いて下さい。右手のことは急に興味が無くなった感じで、ワイシャツをメスで切り刻み始めました。皮膚の……薄いところを狙って。祐樹の唇の痕が付いている場所……です。『田中が居なければオレのモノになったのに』とかそういう種類の呪詛のような言葉をブツブツと呟きながら、ワイシャツのあちこちを切っては気味の悪い笑みを浮かべて」
 あの身の程知らずのバカ男が、腱を諦めた――多分最愛の人が最も恐れるのが外科医として第一線から外れざるを得ないことだろうし、祐樹の愛情は以前ならともかく今の最愛の人には「強要された性行為」程度で揺らぐモノではないことも分かっているハズなので――のは、森技官の入れ知恵の紅い情痕のせいだと分かって内心安堵したものの、ワイシャツをメスで切るくらい裂傷を負わせずに充分可能だ。それこそミリ単位、いやもっと小さい単位かもしれないがメスを意のままに動かせないと大学病院の外科医は務まらないのに。まあ、アイツの場合は性的倒錯の度合いも著しいので、サディスト気分を味わっていたのかも知れないが。
「田中先生がいらっしゃらなくても、教授はアイツに見向きもされないでしょう。しかし、そういう点が病気なのです。妄想の中では田中先生に対しても羨ましい気分でいっぱいだったと思いますよ」
 呉先生の穏やかな声が春のそよ風のように重くなりがちな寝室の空気を和らげてくれる。
 「羨ましい」という単語を敢えて使ったのは「否定的な言葉を使わない」という職業観からだろうが、多分「嫉妬」とか「憎悪」とかの単語に置き換えても良いハズだ。
「祐樹は多分私のことを許してくれるだろうと思って……この程度で愛情が冷めないだろうと――もしかしたら違うのかも知れないが――腱や神経を切り刻まれるよりも、まだこちらの方がマシだと思ってひたすら耐えていた。スラックスが切り刻まれて、臀部が露出させられた時とか、その後アイツのモノがめくらめっぽうと言う感じで当てられた時にも――」
 呉先生が鋭い目配せを送ってきた。
「許しますよ。そんなに気に病むことでは全くないですし、私の貴方への愛情はその程度で揺らぐものではありません。今も、そしてこれからもずっと貴方だけを愛しています」
 手の震えが若干治まったような気がした。
 祐樹の魂からの叫びが分かったからなのか、呉先生の――どこから手配したのかは分からないが――点滴が効いて来たのかは分からないが。
「そうか……私の判断は間違ってはいなかったのだな。有難う、祐樹」
 目尻から零れた涙の雫が未だ蒼褪めた肌に滴っていくのも痛々しくて見ていられなかったが、渾身の、いや身体だけでなく精神も振り絞って「祐樹の責任と義務」を果たそうと右手を握りしめながら左手で涙の雫を優しく拭った。
「そろそろ意識が混濁し始めた頃でしょう。心の準備は良いですか?」
 呉先生が耳元で囁いた。
 祐樹も腹を括った気持ちをさらに覚悟を決めて最愛の人の言葉を待った。この人が救われるなら、どんな責め苦でも引き受けよう。
 











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季節の変わり目のせいか、体調が思わしくなくて更新がままならないことをお許し下さい。
一日一話は(多分)更新出来そうですが、二話は難しそうです。「夏」更新後二時間を目途に更新が無ければ「力尽きたな」と判断下されば嬉しいです。
しかも更新時間がマチマチになるという体たらくでして……。
他の話を楽しみにして下さっている方には誠に申し訳ないのですが、その点ご容赦下さいませ。



最後まで読んで下さって有難う御座います。
                  こうやま みか拝

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