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呉先生が笑みの花を咲かせた唇を開こうとした時に障子の向こうから仲居さんの声がしたので、話題を変えることにした。といっても「無難」な話題が咄嗟に浮かぶ祐樹のような才能は持ち合わせていないので、必死に頭を回転させる必要は有ったが。 「この前、毛糸を買いに百貨店の編み物コーナーに行ったのですが、周囲の女性の私を見る目が普段と異なっていました。微笑ましげというか、称賛というか……。その理由が全く分からなくて、お分かりになります?」 呉先生は小ぶりの御茶碗の中に入っている茶わん蒸しに一瞬だけ目をやってから更に笑みを深くした。 一応気になっていた疑問――祐樹に聞こうかと心の中にメモしていたモノだったが、二人きりになる時間が極端に減ってしまっていたので聞けずにいた――をこの際呉先生に聞いてみることにした。 「毛糸ですか?それは凄いですね。何でも出来る人だとは知っていましたが、編み物までなさるとは……。もちろん自分用ではないのでしょう?」 一応疑問形を装っているものの、確信に満ちた口調にこちらも自然と唇がさらに綻んでしまう。 「はい。細かい作業は慣れていますが、流石に編み物は初チャレンジです。以前ならば『相手が本当に喜んでくれるか』と心許ないような贈り物だったので遠慮したと思いますが。今なら、大丈夫なような気がしたので……」 呉先生は春の日差しのような暖かい笑い声を狭い空間に細かな泡のように響かせている。 「さぞかしお喜びになると思いますよ、それは保証します。 編み物コーナーにその指輪を付けて行かれたのですよね?」 呉先生のスミレの花のような視線が自分の左手の薬指に注がれている。呉先生の「祐樹が喜んでくれる」というお墨付きを貰えて内心で薔薇色の大きな泡が弾けた。人の心という不確かなモノ――以前は絶対に信じられなかったが、今では信頼出来るようになっていた、祐樹の絶え間ない愛の言葉とか行為によって――に仕事上も向き合っている呉先生の方が詳しいのも確かだったので。 テーブルの上に小皿を乗せてくれている仲居さんは黒子のような感じで声を発しないのもこの店を選んだ理由の一つだったので「無難」だと思われる会話なら大丈夫そうだった。 本当に無難かどうかは自信がなかったものの。 「はい。外す理由な何一つないので」 手術の時以外はほとんど身に付けているプラチナのリングを空中にかざしたら、今は仕事中の祐樹の端整な眼差しが目蓋の奥に浮かんで来て更に幸せ色に包まれた。 「多分ですが、今時の流行りというか、風潮に『育メン』というのが有ります。ご存知ですか?」 そう言えば新聞の下の方に載っている週刊誌の広告にそんな単語が載っていたが詳しくは知らないし、自分の興味の範疇でもなかったので調べる気にもなれない単語だったが。 「一応知ってはいますが、詳しいことは分かりません。 子育てを積極的に手伝う既婚男性……の意味でしたか……?」 脳にストックされている記事タイトルの断片を繋ぎ合わせて――呉先生の一言がなかったらそんなことはしなかっただろうが――何とか答えを導き出した。 産婦人科にも縁が余りない――ずっと以前に産婦人科の女性の准教授からの「相談事が有る」と呼び出された時に祐樹の機嫌の悪さに驚いて急遽キャンセルして以来先方も何だか避けているような感じだった一件も相俟って――上に数少ない知人の慶事は相次いでいたが、妊娠・出産という出来事はまだまだ先のことのような感じだったのでまるっきりの他人事だった、育児休暇とかは。 「妊娠中の奥さんに頼まれて毛糸を買いに来たとか、それともパパになる人が自発的に編み物を始めようとしている……とでも思われていたのでは? ウチの科――といっても名目上籍を置いているだけですが、交流がないわけでもないので――のメンズナースは奥さんにそういう役目を仰せつかったことがあるとかで……。 『育メン』推奨の世の中ですが……そこまでする男性は余り居ないようでして、彼もそういう目で見られたそうですよ。『偉いわね』とか『羨ましい』とかそういった感じの視線です。 地震の時にメインロビーに呼んだ中の一人で……柔道だか空手だかの有段者だったと思います。そういう彼ですら、いや逆にむしろ更に偉い感じを与えたのかも知れません。いかにも体育会系出身ですといった筋骨隆々の身体の持ち主ですから。それに専門が専門だけに笑顔で患者さんと向き合う習慣もないので顔は正直怖いですが、話してみると性格は穏やかだし優しいです。ただ、ウチの科では患者さんと話せるのは医師だけでナースは交流厳禁なので……」 ご遺体を黙々と運んでいた屈強なメンズナース達のことは覚えている。確かに厳つい感じで人を拒む空気を醸し出していたが、それは精神科所属だからだとあの当時でも軽く納得していたし、精神病というある意味特殊な患者さんに向き合うために必要な「仮面」なのも書物で読んで知っていた。 「そうなのですか……。その彼に『凄いですね』と私が褒めていたとお伝え下さい、機会が有ったらで構いませんが……。 そういう人と間違われたのですね、何だか一つ胸のつかえが下りたような気がします。毛糸を買いに行くほどの愛妻家だか子煩悩だかは知りませんが……、そういう人間だと思われていたわけですね、私も」 あいにく結婚も出産も人生のプランには全く含まれていないと思い込んでいたのも事実だった。だからこそ「秘密の披露宴」とか「二人の共同作業」が降ってわいた今回のチャンスに浮かれてしまっているのだが、呉先生の話しは目からウロコだったけれども年配の女性の孫の成長を見守るような暖かい視線の理由がストンと腑に落ちた感じだった。 自分にはその機会は一生ないものの、その選択には一片の悔いもない――祐樹も子供を欲しがっている気配は皆無だったし――生き方を貫く積もりだった。ただ、卵子の劣化を懸念して冷凍保存を選んだ長岡先生――といっても彼女の性格だと代理母にお金を支払って出産までお願いしそうな感じだが――に待望の赤ちゃんが産まれた時には割と慣れてきた毛糸の作業で靴下でも編んで贈ろうかとも思ってしまったが。アメリカ時代に代理母ビジネスで生計を立てている――出産も数をこなすほど楽になるのも知識として知っていたし、他人の子どもとはいえ、妊娠期間中は「自分が健康的な生活を営めばいい」だけなので意外にも需要と供給がマッチしているようだった――女性の存在もメディアを通して知っていた。 「きっとそうですよ。今のような幸せそうな大輪の花のような微笑を浮かべて毛糸も厳選されていたのでしょうし、彼女達が誤解するのも尤もだと思います。 田中先生もさぞかし喜んで受け取るでしょうね……。 ただ……」 呉先生が笑いを含んではいたものの、スミレ色の眼差しに真剣さを滲ませて背筋を伸ばして声を落とした。 「ただ?」 祐樹が喜んでくれるだけで単純に嬉しいが、呉先生の強張った感じの口調や表情が気になってついつい突っ込んでしまった。 どのバナーが効くかも分からないのですが(泣)貼っておきます。気が向いたらポチッとお願いします!!更新の励みになります!! ◇◇◇ 昨日の更新お休みしてしまいまして申し訳ありませんでした。 最後まで読んで下さいまして感謝です!! こうやま みか拝
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こんばんは。更新ありがとうございました。
お加減が良くない中での更新、心から感謝すると共に、ご無理をなさったのではないかと案じております。
………と、殊勝なことを言いながらも、呉先生の緊張を伴う表情は何故なのか気になって仕方ありません!
いったい何を言おうとしてるのか!?
こんな所で切られたら、明日も更新して〜と言いたくなってしまいます(T^T)
[ ルナ ]
2018/4/29(日) 午前 0:27
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