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妖怪予知ダスの魔界編とは
容易なことでは収まらない、魔界地獄が長く続く戦いの世界です。
学校におけるイジメ体質は根深く実在していた!!
生徒間が発端ではなかった!!
昭和31年・・小学2年の新年度に、独りの熱血正義派の青年教員が
赴任して来た。
この青年教員が、年上の教員達に、校庭の裏へ呼び出されては、年中
罵られては殴られて、暴行を受けることが始まりだしてた。
私は、見かねて、いつもそっと、ハンカチを手渡して、涙する腫れた
顔を、冷たい水で冷やすそう薦めてた。
しかし、年上の教員たちからの、イジメ暴力は、更にエスカレートし
て、翌年には教職員会議の全会一致の形で、無条件解雇が言い渡されて、
熱血青年は、自失呆然に陥り、顔面蒼白で悔し涙しながら、困り果ててた。
私が、どうしたのかと、近づいて尋ねたら、首に手をやって、解雇された、と寂しそうに答えた。
私が「就職先は、当てがあるの?」と尋ねたら、首を横に振って、
「明日からどうやって生活しようか、両親は既に死んでいないし、
横浜の高齢の祖母の介護もしなければならず、このままじゃ生活
してかれないので、困ったなぁ・・」と涙でした。
この青年教員は、実は、ハワイでまだ未成年者の時に、真珠湾攻撃に
遭遇した、日系米国人の混血児であり、父親は軍人で爆撃死し、悲しみ
の葬儀場では、日本人憎しの憎悪が吹き荒れて、まともに父親に別れの
言葉すら伝えられずのまま、日本人の母親と共に、日系人収容所へ放り
込まれて、母親は憔悴と栄養失調で死亡。・・という、戦争の犠牲者に
して、混血孤児という多重苦の青年でした。
ハワイでは、身寄りが無くなったまま、辛い日々に耐え抜いて、終戦の日を迎えても、日系人では生活のアテが成り立たないので、復員船で、日本の横浜の地へ、根岸に独りで暮らす祖母を頼ってやって来たのです。
祖母の手内職の支援と、船人足のバイトもしながら、苦学して大学まで出て、教員免許を取得して、祖母に恩返しするつもりで、私の通う小学校へ赴任して来たのでした。
赴任の挨拶の時には、校長も元軍人将校だったので、差別せずに迎え入れたものの、職員会議の実権は、戦後の日教組の中枢を成す若手の暴力支配に牛耳られていて、教育委員会すら飛び越えて、司法の法曹界の判事と検察庁の検事とも蜜月であったので、元軍人の校長も睨まれて、どうにもならずでした。
で、3年生になったばかりの私は、どうしたのかは、
「就職先が決まって無いのなら、んじゃ、世話すっから、一緒に来てよ」と、校庭の門の外へ歩きだしました。
青年教員は「お前のうちは、校舎の傍の用務員宅じゃないのか。」
私「そこは、仮住まいだよ、本当はこっちなのさ、学校には内緒にして
あるけど、もうそろそろ、バラして、仇討ちも、してやっからさ・・」
青年教員「なにを~そんな内緒の住処まであるのか、お前という奴は、ちょっと変わってると思ってたけど、どういう子なんだ」
私「まぁいっから、この先の通りのもう一つ裏通りで、付き合ってよ」
と道案内。
裏通りに入った途端に、青年教員が絶叫でした。
「何を、すげえ、バカでかいお屋敷じゃねぇか」
私「違うよ、ここは大泥棒の一家の屋敷なのさ。ウチは、もっと先だよ。」
青年教員「なんで大泥棒の一家が、こんなバカでかい(200坪を越える
有刺鉄線を張り巡らした)、お屋敷に住めるのか。」
私「お隣りは、裁判官の家だよ。裏門で一つに繋がってんだ。」
「息子は東大法学部卒で、司法試験を目指して大学院生だけど
この周囲の一帯で、年下の家庭教師をする振りして、合鍵を
手に入れては、大泥棒の一家の手引きして、金品の盗難事件が
多発して、ついこの間、おいらと刑事さん達とで一網打尽にして
刑務所へ送っちゃったから、両方の家は、今、空っぽなのさ。」(笑)
青年教員「お前は、どっか他の子と違うと思ったら、そんな悪党退治
もやってるのか。末恐ろしい化け物が宿ってるんじゃねぇか。」
私「ほら、ここがおいらの、隠れアジトだよ。」
青年教員「綺麗なバラが咲いてるじゃないか、こんな所に住んでいるのか。」
私「まっ、驚くのは、まだ早いよ、玄関に入ってよ。」
「ただいま、母さんいるかな、先生を連れて来たんだ。」
「おかえり、お母さんなら、台所にいるわよ、呼んでくるね」と
同じ歳の女の子の返事に、青年教員はまたビックリ。
青年教員「なんだ、あの子とも一緒に暮らしてるのか。」
私「うん、でもクラスも学校も、違うんだ。あの子は私立、おいらは
おカネが掛からない市立のほうなんだ。」
育ての母親が玄関先に出て来たら、
青年教員の口から突然、米語で挨拶と自己紹介。
青い目の育ての母親の口からも、即座に母国語の英語で挨拶と自己紹介。
私は、母さんは中学で英語の先生してるので、米語もペラだけど、
二人とも、米国で日系人収容所に収容されて、訳ありで辛い目に
遭って来てる共通点があるから、家の中に上がって、ゆっくり母国語で
語りあってよ。
気さくな台所の、椅子とテーブルを挟んで向き合う形で
子供たちで、アメリカンコーヒーと、英国式ミルクティーを入れて
届けながら、悲惨な収容所生活での、生き地獄を母国語で語りあって貰った頃合いを見計らって、私が、そろそろお邪魔虫しますけど、
「実は、先生はクビにされちゃったので、就職先を世話してあげて
ください。」
母親「じゃ英国大使館にしますか、横浜の根岸にお住まいならば
お近くの領事館でのお仕事もありますけど・・」
青年教員「それはあり難い、祖母が高齢の為に、直ぐに通える目と鼻の先のほうで、ぜひ、宜しくお願いします。」
母親は「じゃ直ぐにお世話します。」と、二つ返事で、就職先は決まった。
家を出て、バス停まで見送る時に、青年教員は
「お前って奴は、やはり、とんでもない化け物だったな。当分は
お別れになるけど、新しい勤め先に会いに来てくれ。」でした。
その後、領事館へ会いに出向き、そのついでに、野毛の動物園に足を
運んで、4歳の時から世話してた動物たちと再会して、別れの寂しさ
を噛み締めながら、暴力教員達との対決へ、立ち向かう4年生以降に
なります。
注)、この3年生の夏休み中に、地下組織の刺客二人組が、軍刀と銃剣
で、日中戦争の三人目の総司令官であった、岡村寧次陸軍元大将を襲い
首から腹まで、バッサリ斬った、出血多量の暗殺決行中の犯行現場へ、間髪入れずして、目撃者の私が飛び込んで、一戦を交えて追い払い、
大急止血措置しながら、蘇生措置を30秒毎に繰り替えしながら、
救急車を呼んで、病院へ同行し、大手術の後、二日二晩徹夜の看護に
徹して、奇跡生還させました。
その二週間後には、刺客達のお礼参りを、たった独りで待ち受けて、 得意技の伊賀忍法の本物のマキビシを駆使して、逃げられ無く足に
深手傷を負わせて、警察署へ電話して、駆けつけて来た刑事達とで、
自決を思い止まらせる説得工作も成功させて、捕らえて、刑務所へ
送ってしまったのが、戦後の広域暴力団トップに君臨する二人でした。
この少し前に、時の昭和天皇のご一行を、笑い転げさせてました。
同行してた、米軍厚木基地の戦車兵達を、私の得意芸を披露して、
バカ笑いさせて、戦車の上から転げ落として、昭和天皇、三笠の宮様
が、お二人して「あっばれ、愉快じゃ、こんな光景が観れるなんて」
と、敗戦国の日本が、沈んでた時代に、愉快に大笑いさせてました。
続く
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