アバラの骨〜がりがり役者の日々のあれこれ〜

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捧げたい言葉

最近読んだ高峰秀子さんの「わたしの渡世日記」に載っていた次の言葉にハタと膝を打ったのです。その通り!と。
 
「いつの世にも、何事においても、人の見る眼は十人十色だが、『とんちんかん』と『ないものねだり』だけは困る。受け取りようも返答のしかたもないからである」
 
これは主演映画「放浪記」の封切り時の批評のあまりのひどさについて書かれたものです。少し長くなりますが、抜粋します。
 
                    ・ ・
「『放浪記』クランクイン前に私は一応、生前の林芙美子の写真を出来る限り見た。そしてまた生前の彼女を識っている人々から彼女の喋りかたやくせ、人柄などを聞いてまわった。一応というのは『参考のために』という意味であり、本当のことを言えば、それらのことは私にとってそれほど重大なこととは思えなかったから、である。なぜなら、私は最初から『物真似コンクール』に出場する気はなく、『そっくりさん』を演じる気もさらさらなかったからである。私は作家林芙美子を演じるというよりも、映画『放浪記』の波乱に富んだふみ子という一人の女性を創り上げようと思っていたのである。
(中略)
 ところが、である。『放浪記』完成後の私に関する批評は、成瀬巳喜男にとっても私にとっても、まさに唖然とするようなことに終始したのである。それは映画そのものの批評というより、ただ『本物の林芙美子に似ている』『似ていない』『原作者をバカにした扮装だ』『林さんはあんな人じゃなかったろう』と、あくまでも生前の林芙美子にこだわった言葉ばかりだった。
 中には『まさしく大正の女になっていた』『一つの個性を創り上げた、精密な演技』『素晴らしい演技力』と、ホメてくれた批評もあったが、『少女じみてムラがある』『作家のタマゴらしい内面の誇りや意地がない』に至っては、とんちんかんもいいところだ、と私は呆然としながらも噴き出してしまった。少女じみてムラがある、とはどこを指すのか?泥臭く貧相な田舎娘のどこに誇りを表現しろというのか?そして『高峰の丸顔のあどけなさが目立つ』に至っては、丸い顔を林芙美子そっくりに整形でもしろというのだろうか?・・・・・・。それは、ないものねだりというもので、『映画批評』の範疇には入らない。『高峰秀子はミスキャストでダメ』ときめつけられたほうが、いっそ諦めがつくというものである。」
 
そして、冒頭の文章につながるわけです。
 
自分を高峰秀子のような名優になぞらえるつもりなど毛頭ありませんが、似たような経験や思いは、役者を真面目にやっている人なら誰しも感じたことがあると思います。
 
僕も最近ありました。ひさしぶりに。
 
似てる似てないで批判されたわけではありませんが。とんちんかんな批評という意味で。
 
大事に思っていることが全然違うのだから、噛み合うはずもなく、こちらとしては返答のしようがないし、受け止めることも不可能でした。
 
さらに駄目押しは「そんなことではプロとしていい俳優になれませんよ」だそうで。
 
「わたしはいい俳優がたくさん育ってほしいと思うから言うんです」みたいなことも書いてあったなぁ…。
 
なんだかね。
 
「プロとして」って言葉を切り札のようにして使う人で、信用に足る人間はまずいません。
 
だいたい、どんだけ上から目線なんだ…。

ブレイクの前兆なのか

こないだ久しぶりに車を運転したら左後輪がパンクし。
 
そして今日、久しぶりにチャリンコに乗って本屋に行ったら、こっちも後輪がパンクし。
 
なんなんですかこれは。
 
自転車を押して帰宅して車輪を調べてみれば画鋲が刺さっておりましたよ。
 
走ってる途中で急に、後輪に異変を感じたから、駐輪時にやられたわけではないと思うんだけど。
 
うーん。
 
普通に考えればね、凹むことですけども。ここはひとつポジティブに考えて行きましょう。
 
なにかがハジケル前触れだと。
 
なにがハジケルのか分かりませんが。
 
ハジケルのがタイヤだけでは哀し過ぎます。
ポッドキャスト「パンの耳」最新回を配信しました。
 
今回紹介するパンは青森りんごのアップルパイ。
 
写真撮られるとき用の決めポーズを持ってる人、いますよね。
 
持ってない人は、自分が写ったどの写真を観てもなんとなく中途半端なハニカミ顔になってて後でガッカリすることが多い気がします。
 
かく言う私もその一人です。
 
で、一念発起して決めポーズを考案しました。
 
こちらから無料で聴けます→http://www.voiceblog.jp/panmimi/
わからないものは怖い。
 
だから、ものごとを自分の理解できる範疇に収めたい。
 
そういう欲求は誰しもあると思う。
 
だから人類は有史以来、いやそれ以前から科学を発展させ「わかる」範囲を拡大してきた。
 
科学は色んな事象を説明してくれる。なぜ雨が降るのか、音はどうやって耳に聞こえるのか、子供はなぜ親に似るのか。
 
一方で、人類はわからないものを「わかる」にするための説明を、信仰(宗教から占い・血液型etc.にいたるまで)に求めてきた。
 
信仰は色んな事象を説明してくれる。人は死んだらどこに行くのか、いつになったら自分は幸せになれるのか、あの人となぜ上手くいかないのか。
 
その意味では、科学も信仰も同じところから出て来ている。人の恐怖心と、それを和らげたいという欲求。腑に落ちないことを腑に落としたいという欲求。
 
そして今回、大地震というとてつもなく大きな“腑に落ちないこと”が起こった。
 
だから、わかりたい、なんとか自分の理解の範疇に収めたいという意識が強く働くのも当たり前のことだ。
 
その最たる例が、石原都知事の「天罰」発言だろう。
 
天罰ということにすれば、とりあえず説明はつく。説明のつかないなにか得体のしれない恐怖ではなくなる。そこに説明の妥当性についての判断はない。
 
誰かに責任を押し付けたり、逆に誰かを礼賛したり、日本人の素晴らしさを誇ってみたりもそう。
 
地震というとても大きな“腑に落ちないこと”の渦中にあって、とりあえず、自分の理解可能な小さな物語をいくつもつくりあげて安心する。
 
物語=因果関係と言い換えてもいい。
 
さらに言いかえれば、因果関係=原因と結果の関係。
 
関係ない何かと何かを結び付けて、AのせいでBになった、Aが起こったからBになった、という構図が出来れば、それでひとまず理解不能ななにかから理解可能ななにかに落とし込むことができる。
 
だから、普段は見向きもされないような陰謀史観がなぜだか妙に説得力をもって世に出回ったりもしている。情報隠蔽だとかなんだとか。
 
だけど、いま求められているのはそういう仮初めの安心を求める態度じゃない。
 
わからないものをわからないまま受け止める態度だ。
 
もちろん原発その他、起きていることに関して出来る限り正確な情報を知り、それに沿っていま自分がすべきことを考えることは必要。分かることに関しては分かろうという態度は必要。
 
だがそれは、その先に絶対にわからない領域があることを認めた上での話だ。
 
だってそうだろう。
 
地震がなぜ起こったのか、その科学的な仕組みは説明できる。
 
でも、じゃあなぜ3月11日の14時46分でなければならなかったのか?そんなことは永遠に説明できない。
 
なぜ東北だったのか?
 
なぜあの人が亡くなって、自分が生きているのか?
 
説明できない。説明できるわけがない。
 
単なる偶然。偶然が人を殺し、偶然が人を生かした。
 
そのことをそのまま受け止めるのはつらい。とてもつらい。
 
でもそのまま受け止めなきゃいけないと思う。
 
そこに物語を持ち込んではだめだと思う。天罰だなんていうのはもってのほかだし、生かされたということにことさら意義を見出すのも結局は同じ態度。
 
死んでいった誰に対しても他の人が負い目を感じる必要はないし、生きている誰にも持たなければならない使命感なんてない。
 
ただただ大勢の命が失われたことに対する悲しみがあるだけ。
 
原発事故に関してもそう、いまわかっている範囲が限られているから、すぐに隠蔽だ、本当は東京でも人が死ぬくらい危険なんだ、と決めつけてはいけない。
 
わからない、ということは、わからない、ということなのだ。
 
わからないことは、だから絶対危険だ、ということではないし、だから絶対安全だということでもない。
 
わからないという不安と闘いながら、行く末を注視することしかできないし、そうすることがいま求められている態度だと僕は思う。
 
 
 
僕の言っていることはわかりにくいだろうか。
 
わかりにくかったらいいとひそかに思っている。

煽り、煽られ

大地震から4日目。
 
いまは福島の原子力発電所の爆発やそれに伴う放射性物質漏れの危険についての話題で世間がもちきりになっている。
 
不安になるのは分かる。
 
僕だって不安だ。
 
でもだからと言って、その不安な気持ちから、専門家でもないのに聞きかじった情報を垂れ流したり、生半可な知識と憶測で発言を繰り返すのはやめるべきだと思う。
 
マスメディアだけでなく、いまはブログやツイッターその他のツールによって、誰もが情報の発信者になり得る。それには素晴らしい面ももちろんあるが、不安・緊張その他一時の感情によって、誤った情報が一気に広まったり、それによって不要なパニックが引き起こされたりしやすいという一面がある。
 
集団ヒステリーに陥りやすい。
 
それはなにも今回の地震に際してだけじゃない、ここ最近の世の中の傾向としてそうだ。
 
カンニング事件しかり、八百長問題しかり、小泉政権時代からいまの民主党政権までつづく政治に対する世論の動きしかり。
 
とにかくなにかのきっかけで、一気に片側に動く。
 
落ち度や間違いを一切認めない。「正義」や「善意」の名のもとに、批判する対象を見つけて叩きに叩く。
 
あるいは逆に、これはいいとなったらものすごい勢いで褒め称え、祭り上げる。
 
危険だ。非常に危険だ。
 
それは昔からある大衆の姿なのかもしれないが、それに最近のネットの普及によって拍車がかかっている気がする。
 
その流れで、いまの大地震に臨んでの世の中の動き、空気にも不穏なものを感じる。
 
東電叩き。政権叩き。食料品の買い占め。乾電池の買い占め。ガソリンの買い占め。そして、放射能が大変だから東京から逃げなきゃ、というような煽り。
 
不安を煽る意図がなかったとしても、不安から聞きかじりの情報を発信するだけでも十分に扇動に加担したことになるので注意が必要だ。
 
「え、なに?東京にも放射能飛んでくるの?」
「外出しないほうがいいのかな?」
「はやく東京出ないと、東電の説明はどうも信用できないみたいよ」
「え、うそ!」
 
これは立派な扇動だ。パニックの始まりだ。
 
かつて関東大震災の際、在日朝鮮人が暴動を起こすというデマが流れ、まったく罪のない人が多数虐殺された。そのときの会話も同じような始まりだっただろう。
 
「さっき街角で朝鮮のやつらが集まってるのを見たって」
「え、なにそれ怖い」
「あいつらなにしでかすかわからないんじゃないか?」
「そういえば目つきが殺気立ってたらしいぞ」
 
こんなことはもうやめにしよう。
 
歴史から学ぼう。今こそ。
 
専門家の意見に耳を傾け、冷静に行動すべきだ。
 
もちろん専門家がいつでも100%正しい判断や情報を示すとは限らないが、もしそれを以て専門家の意見は信用ならないと言うのであれば、専門知識を持たない俄か評論家である一般人の意見の方がずっとずっと信用ならない。

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