|
大東亜戦争【不屈の武士道精神】
2010/04/26 にアップロード
歴史の「事実」と「真実」は必ずしも一致するとは限りません。 大東亜戦争で先人達が成し遂げた「偉業」は、「武士道精神」の賜であり、我々の中にはその精神が引き継がれている。 大東亜戦争 第二次世界大戦 太平洋戦争 神風特攻隊 学徒出陣 沖縄戦 原爆 武士道精神
|
WWII
[ リスト | 詳細 ]
私達の先祖は、たった3国で世界を相手に戦った。
日独伊三国軍事同盟。
死ぬも生きるも一緒と誓った。
彼等が居たから私達が居る。
日独伊三国軍事同盟。
死ぬも生きるも一緒と誓った。
彼等が居たから私達が居る。
「ご苦労様。お疲れ様。有難う。」
「貴方達の子孫に生まれて嬉しい。」
「イタリア好き、ドイツ大好き、日本一番好き!」
「貴方達の子孫に生まれて嬉しい。」
「イタリア好き、ドイツ大好き、日本一番好き!」
私には他に言葉がみつからない。
|
平尾 巧 ↓↓
『 ローマ法王ピオ11世は、日中戦争が始まった1937年の10月に全世界の3億5千万のカトリック信徒に対し、 「日本の支那事変は侵略戦争ではない。 共産党と戦っている。 共産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は 日本軍に遠慮なく協力せよ。」 「 (英文) “The action of Japanese troops was not to invade, but to protect China. They are fighting to get rid of communism there. As long as communism is in the world,all Catholic believers should cooperate with Japan without hesitation.” 」 と述べていた。 日本の行動に賛意を表してくれたローマ法王ピオ11世だったが、1939年に世を去り日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかった。 戦後、マッカーサーが靖国神社を解体しようとした時にはカトリックのビッター神父、バーン神父が反対した。 (1980年5月21日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって、 A級戦犯・BC級戦犯として処刑された人々へのミサが サン・ピエトロ大聖堂で行われ、1068柱の位牌が奉納された。) 今も、靖国神社の近くにある白百合学園(シャルトル聖パウロ修道女会)の生徒たちは靖国神社の前を横切る時に頭を下げるという。 東京裁判で日本を裁いたマッカーサー司令長官でさえ日本の侵略戦争を否定している。1953年5月3日、アメリカ軍事外交委員会でこう証言した。 「 Their purpose therefore in going to war was largely dictated by security. (日本の戦争目的は主として安全保障のためであった) 」 』 → 【日本・中国】日中戦争を支持したローマ法王 https://www.youtube.com/watch?v=Dq2uF_8HX3g → 「日中戦争の真実」日本は、内戦に明け暮れる中国を救おうとした。ローマ法王も日本の行動を支持していた。http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi05.htm |
|
日本の武士道は、西欧の植民地勢力に
捨て身の一撃を与えた。
大東亜戦争で日本は敗れたというが、
敗けたのはむしろイギリスをはじめとする
植民地を持った欧米諸国であった。
彼らはこの戦争によって、植民地を全て失ったではないか。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、「聖なる戦争」であった
<韓国:朴鉄柱(韓日文化研究所)>
私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。
なぜ日本はあやまるのでしょうか。
日本なくして東南アジアの独立はありませんでした。この日本が払った尊い犠牲を否定することは
バックミラーばかり見ているようなものです。
<マレーシア:ガザリー・シャフィー(元外務大臣)>
大東亜戦争は私達アジア人の戦争を日本が代表して敢行してくれたのです。
<インドネシア:モハメッド・ナチール(元首相)>
インドは程なく独立する。
その独立の契機を与えたのは日本である。
これはインドだけではない。
インドネシア、ベトナムをはじめ東亜民族はみな同じである。
<インド:グラバイ・デサイ(弁護士会会長)>
時が熱狂と偏見とを
やわらげた暁には
また理性が虚偽から
その仮面をはぎとった暁には
その時こそ
正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを
要求するであろう
<インド:ラダ・ピノード・パール(国際連合国際法委員長)>
|
|
思いやりの心
──────── 実は先日、そのホタルが還ってきた富屋食堂の鳥濱トメさんのお孫さんが新宿でやっているお店で、お孫さんから直接、当時と、その後のお話を伺いました。 とてもよいお話でしたので、ご紹介したいと思います。 宮川三郎少尉といえば、知覧航空基地から特攻隊として飛び立ち、ホタルになって還ってきたというお話で有名です。 トメさんは、お孫さん達にも、 当時の事をよく語って聞かせていたそうです。 特攻作戦は、知覧を始め、宮崎の都城など九州各地や、 台湾の航空基地からも出撃していますが、中でも知覧が本土最南端であった事から、陸軍の全特攻戦死者1,036名の内、半数近い439名が、ここから出撃しています。 富屋食堂は出撃前の特攻隊員達の憩いの場であった事、 そしてトメさんを、彼らが母のように慕った事もあり、トメさんは、出撃されたお一人お一人の事を、全員分、まるで昨日の事のようによく覚えておいでだったそうです。 中でも宮川少尉の事は、とても印象に残っていて、何度も何度も聞かされたそうです。 宮川さんが知覧に来られたのは昭和20(1945)年5月の終わり頃だったそうです。宮川さんは新潟の人で、雪国の人らしく色白でハンサムな方でした。 宮川三郎少尉 知覧に来る前、万世飛行場から一度出撃しているのですが、機体の故障で引き返して、一人だけ残ったのを大変気にしておられました。
ようやく代わりの飛行機がもらえ、出撃する前夜の6月5日の事です。宮川さんが、一緒に出撃する仲よしの滝本恵之助曹長と二人で、富屋食堂にお見えになりました。 宮川さんと滝本さんは、「明日出撃です」 と、ごきげんだったそうです。ちょうどその日は、宮川さんの20歳の誕生日でした。 なのでトメさんは、宮川さんの為に、お赤飯を炊いてあげたそうです。二人はそのお赤飯を、おいしいおいしいと召し上がり、帰りがけに、 「おばさん、俺、明日も帰ってくるよ。 ホタルになってね。滝本と二匹で。 だからおばさん、追っ払ったらだめだよ」 と冗談のようにいわれたそうです。 トメさんは、食堂にくる時どこかでホタルでも見かけたのだろうと、その時は気にもとめなかったそうです。 翌6日は、どんより曇った日でした。この日は総攻撃の日で、朝から特攻機がどんどん飛び立ちました。トメさんも見送りに行きました。 その日の夜、夜になって、出撃した筈の滝本さんが一人でひょっこり食堂にやってきました。二人は編隊を組んで飛び立ったのです。が、どうにも視界が悪い。その為、何度も滝本さんは宮川機の横に並んで、「視界が悪い。引き返そう」 と合図を送ったそうです。 特攻作戦の経路 けれど、宮川さんはその都度、手信号で、「俺は行く、お前は帰れ」 と合図しました。何度か目の合図のあと、滝本さんは引き返しましたが、宮川さんは、そのまま雲の彼方に消えていかれたそうです。
滝本さんは、その話をされながら、 「宮川は開聞岳の向こうに飛んで行ったよ」 と言って涙をぽろぽろとこぼされたそうです。 そして夜の九時頃の事です。食堂には、トメさんの娘さんが二人と、滝本さん、奥の広間には、明日出撃予定の隊員達が7〜8名いて、遺書を書いていました。 トメさんは、何となく、不思議な気持ちになって、 食堂の入り口の戸を、少しばかり開けたのだそうです。 すると、それを待っていたかのように、一匹のホタルが、 ふら〜と食堂に入ってきて、天井のはりところに、とまったそうです。 それは、とても大きなホタルで、大人の親指位の大きさがありました。ホタルの季節には、まだ少し早いのに、そんなに大きなホタルがいる事自体が、不思議です。 その時、娘の礼子さんが、「あっ宮川さんよ。宮川さん、ホタルになって帰ってきた!」 と叫びました。 滝本さんもびっくりされた様子でした。 トメさんは、みんなに言いました。 「皆さん。宮川さんが帰っていらっしゃいましたよ」 その場にいた全員で、何度も何度も 「同期の桜」 を歌ったそうです。ホタルは長い間、天井のはりに止まっていましたが、すっといなくなりました。 宮川少尉は、新潟県小千谷市出身で、旧制新潟県立長岡工業高等学校を首席で卒業し、昭和18年10月に明治神宮で行われた第一陣学徒出陣壮行会にも参加された方です。 トメさんは、戦争が終わった後も、こうして出陣され知覧を飛び立たち散華された特攻隊員達の為に、もとの知覧基地に、一本の墓碑を立て、そこに来る日も来る日も、毎日お参りされていたそうです。 自宅からその墓碑まで歩くのに30分かかったそうです。 その道のりを、熱い日も、寒い日も、毎日お参りした。 雨降りの日などは、大変だったそうです。足の悪かったトメさんは、片手に杖をつき、片手にお線香を大事そうに抱えてお参りに行っていたのです。両手がふさがっている為、傘を持つ事ができません。なので、トメさんは、雨が降ると、ずぶぬれになってお参りしていたそうです。 そのトメさんが、お孫さん達に、繰り返し語った事があります。それは、 ===== 特攻隊の皆さんは、みんなとっても「思いやり」のある子達だったんだ。あの子達が行ったのは、軍の命令だから逝ったとか、そういう事じゃなかったんだ。あの子達はね、故郷にいる親御さんや、兄弟の方々や、妹や大好きな人達を守ろうとして、旅だって行ったんだ。 誰だって、死ぬのはこわいよ。 その事は、昔の人も今の人も、何にも変わらない。 あの子達だって、こわかったんだ。 でもね、あの子達は、みんなを守る為、自分の命を犠牲にしてでもみんなを守りたいっていう 「思いやり」 の心があったんだ。私はね、出撃した全部の隊員さん達を知ってるよ。全部、私の子供達だったよ。 あの子達はね、人を、故郷を、大好きな人を「思いやる」心があったから、自分の命を犠牲にしてでも、周りの人達を守ろうとして出撃して行ったんだ。 ===== 知覧基地で、特攻に行く隊員さん達は、全員、三角兵舎と呼ばれる建物の中で寝起きしてました。その三角兵舎は、松林の中にありました。 戦争が終わると、その三角兵舎は、全部取り壊されました。何年も経ってから、トメさんの娘さんの礼子さん姉妹と、 まだ幼かった(このお話を聞かせてくださったお孫さん)達みんなで、その松林に行かれたそうです。 ふと眼にしたのは、その松の木の一本一本に刻まれた文字でした。そこには、亡くなられた特攻隊員さん達が、ご自分で掘ったのでしょう。筆跡の異なるお名前が、いっぱい刻まれていたのです。 それを見た時、わかったそうです。 彼らだって、死にたくなかった。 そして、俺達が、生きて、呼吸してて、ここで寝起きして、 生きていた事を、決して忘れないでくれ! その木に刻まれたお名前の一つ一つに、 そういうメッセージが込められているのだと。 その事に気付いた時、その場に居合わせた全員が、 もうね、号泣したそうです。
戦前の日本にあって、戦後の日本にないもの。 その最大のものは、互いの 「思いやり」 の心なのかもしれません。 自分の全知全霊をかけて、時に自らの生命さえもかけて人を思いやる心。私達の、日本の心を取り戻す戦いというのは、そういう「思いやりの心」を取り戻す為の戦いなのかもしれません。 日本人は、 10年で、日本の国体を抜本的に改革し 20年で、清国を破り 40年で、大国ロシアを破り、 80年で、世界を相手に戦って欧米の植民地時代を終焉させました。 10、20、40、80という数列から、 次にくるのは160年目です。 160年目というと、平成37(2025)年です。 おそらくその時に日本が、日本人が世界に示すもの。 それは、おそらく国と国、そして個人と個人がそれぞれに、互いに対する思いやりの心をもつ事を、世界の普遍的な標準にする事、なのかもしれません。 私には、そのように思えます。 日心会メルマガより |








