石原慎太郎

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石原は放射能瓦礫で280億円と島代、橋下はガレキで22億円と成長の家から7億円。
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成り済まし日本人しか政治家やTVのレギュラーがもらえない。
典型的なのが【先祖についてタブー】の石原一家。伸晃・宏高は自民党の衆院議員。


舛添なんて目じゃない、真っ黒な都知事だった
石原慎太郎 だが石原の出自やプライベートをマスコミが暴こうとすると一斉に圧力がかかって潰されてきたそうです。



東日本大震災時「津波は天罰!!」

と言った石原慎太郎、日本人なわけがない!!




朝鮮軍属でソヴィエトのスパイだった中曽根康弘
背乗りの朝鮮・石原慎太郎はニセ保守の筆頭!!


石原一家 石原光子(慎太郎の母)



絶家していた石原家がなぜか「復活」⇒背乗り?

慎太郎「石原家は滅亡した武田の家臣」⇒パチンコのSANKYOやサラ金協会と言った朝鮮族議員の甘利明と同じ事を言っていますが、
毛利や島津のように存続してると出自がばれちゃいますからね!!だから成り済まし日本人はどいつもこいつも滅亡した武田家の家臣を名乗るんでしょうね。

↓これが怪し過ぎる石原一家の出自です。


石原潔

石原 潔(いしはら きよし、明治32年(1899年12月2日 - 昭和26年(1951年10月15日)は日本の海運会社山下汽船の社員。
東京都知事石原慎太郎、俳優石原裕次郎兄弟の実父

略年譜[編集]

12月2日 - 愛媛県喜多郡長浜町警察官石原信直、ササヨの三男として生まれた。幼少期は八幡浜宇和島など、西宇和、南宇和地区で過ごした。
- 宇和島男子尋常高等小学校卒業。旧制宇和島中学(現在の宇和島東高校中退
店童として海運会社・山下汽船に入社
台湾支店の打狗出張所詰。
- 松山歩兵第22連隊に入営する。
- 社業に復帰する。神戸本店近海課の貨物係りとなる。
- 東京支店船舶係詰。
小樽支店に出張する。
樺太に出張する。以後、3回の長期樺太出張を繰り返す。
神戸本店に復帰する。近海課配船係、配船課近海係、営業部配船課近海係などの仕事に就く。
小樽出張所所長。
- 小樽支店長(心得)。
- 小樽支店長 東京支店副長 子会社の山下近海機船(昭和24年山下近海汽船に改組・改称)に転出となり、山下汽船のほうは嘱託扱いとなった。 後に山下近海汽船常務
10月15日 - 脳溢血により死去。享年52(満51歳)。神奈川県逗子市曹洞宗海宝院にある。

人物像[編集]

人柄・性格[編集]

潔の妻光子が書いた『おばあちゃんの教育論』によると、潔は身長百七十五センチ、体重は八十キロもあった大男で渾名(あだな)は“クマさん”だったという。[1]

家庭[編集]

次男の裕次郎は少年時代、勉強をしないで飛行機の模型を作るのが夢中になっていたことがある。この様子を見た潔は腹を立てて、ある日模型を全て焼いてしまった。それを見た直後の裕次郎は「死にたいぐらい悔しかった」との事だが、大人になってみるとその悔しさが全くなくなってしまっていた。このことは、小樽市石原裕次郎記念館で裕次郎生前の言葉の一つとして確認できる。

山下汽船社員として[編集]

『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』31-33頁によると、「潔の山下汽船入社時の身分は「店童(てんどう)」だった。これは海運会社独特の制度で、商店でいえば 丁稚のようなものにあたり、宿舎と食事は確保してくれるかわりに、給料は一切なかった。洗い、便所掃除、社員の靴磨き、使い走りなどが仕事だった」、「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海でヨットを乗り回した。そのブルジョワ的イメージから、そもそもからして資産家階級の出身だと思われがちである。父親も大学出のエリートサラリーマンだったと思うのが一般的な見方だろう。だが実際のは中学もまともに卒業せず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの船会社にもぐりこんだとはいえ洗いという最末端の仕事から這いあがっていかざるをえない男だった。肉体労働者階級出身でありながら、そんなことはおくびにも出さずリッチな生活はあたかも天与のものだったかのごときにふるまう。イメージと現実のこのあまりにも大きすぎる落差のなかに、慎太郎という男の謎を解く一つのカギがかくされている。」という。
潔は江ノ島の料亭で仲間三人と一緒に、三日三晩会社をさぼってドンチャン騒ぎしたため樺太に飛ばされた。佐野眞一との対談の中で慎太郎は「…馬に乗った樺太の写真があります。僕のおふくろがその写真を見て、これはきっとお父さんが淋病か何かをもっていてそれで元気がないんじゃない、なんていっていた(笑)。あまりろくなことはしなかったんだ。樺太でもずいぶん他人にうつしたんじゃないか(笑)。」と述べている。


潔と山下亀三郎の関係について、佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』34-35頁によると、「亀三郎と石原潔の関係についてはいろいろといわれている。それは、店童あがりの潔が、関連会社とはいえ、最後は重役にとりあげられたことと関連している。大学出でもない潔が、重役にまで出世するわけがない。亀三郎の強いひきのようなものがあったに違いない、というのが世間一般の見方である。…(中略)…
慎太郎 は“石原家と亀三郎の間には血縁関係がある
のですか”という質問に(亀三郎さんとは)“縁戚だと聞
きました。ウソか本当か知りませんけど、そう聞いた憶えがあります。”といって山下家と石原家の縁戚説をあえて否定はしなかった。
これに対し亀三郎を大叔父にもち、吉田町にある
亀三郎の生家をいまも守る現山下家当主の山下源一
郎は“山下家の係累の中に石原の名前はありません。
聞いたこともないし、系図にも出てきません。”と血のつ
ながりをきっぱり否定した」という。

家族・親族[編集]

実家
父・信直警察官
文久2年(1862年)生〜大正11年(1922年)没
服部信義の二男として生まれ、石原家に入った。

石原家は石原安太夫の時代に、理由は

わからないが絶家となっていた。

佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。…(中略)…先祖は武田残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。…(中略)…歴代服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入ってそれ以来石原姓を名乗った」と述べている。
佐野は「ただし、服部家出身の信義の祖先が、本当に武田武士の流れをくむ服部本家の末裔だったかどうかまでは、調べようがなく確認がとれなかった。龍潭寺の住職によると約20年前の先代住職の頃、慎太郎本人から“石原家のルーツを知りたい”との連絡があったがそのときもはっきりしたことはとうとうわからずじまいだったという。」と記している
『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』30頁によると、「石原家のルーツが、慎太郎が言うように没落士族だったとすれば、没落した元士族の信直が維新後の最も手っとりばやい生計の道として警察官となったのは、当時とすればごく常識的な選択だったといえる。」という。

http://kingendaikeizu.net/seizi/isiharasintarou.htm
↑慎太郎の妻典子が、北朝鮮の小泉純也と親戚の家系図
全て裏でつながっていますね〜。
小泉純一郎の父・純也も鹿児島の在日部落の出なのに、
いつのまにか鹿児島の名門鮫島家の「鮫島純也」と名乗っていたそうです。


転載元転載元: 涼のブログ



成り済まし日本人しか政治家やTVのレギュラーがもらえない。
典型的なのが【先祖についてタブー】の石原一家。伸晃・宏高は自民党の衆院議員。


舛添なんて目じゃない、真っ黒な都知事だった
石原慎太郎 だが石原の出自やプライベートをマスコミが暴こうとすると一斉に圧力がかかって潰されてきたそうです。



東日本大震災時「津波は天罰!!」

と言った石原慎太郎、日本人なわけがない!!




朝鮮軍属でソヴィエトのスパイだった中曽根康弘
背乗りの朝鮮・石原慎太郎はニセ保守の筆頭!!


石原一家 石原光子(慎太郎の母)



絶家していた石原家がなぜか「復活」⇒背乗り?

慎太郎「石原家は滅亡した武田の家臣」⇒パチンコのSANKYOやサラ金協会と言った朝鮮族議員の甘利明と同じ事を言っていますが、
毛利や島津のように存続してると出自がばれちゃいますからね!!だから成り済まし日本人はどいつもこいつも滅亡した武田家の家臣を名乗るんでしょうね。

↓これが怪し過ぎる石原一家の出自です。


石原潔

石原 潔(いしはら きよし、明治32年(1899年12月2日 - 昭和26年(1951年10月15日)は日本の海運会社山下汽船の社員。
東京都知事石原慎太郎、俳優石原裕次郎兄弟の実父

略年譜[編集]

12月2日 - 愛媛県喜多郡長浜町警察官石原信直、ササヨの三男として生まれた。幼少期は八幡浜宇和島など、西宇和、南宇和地区で過ごした。
- 宇和島男子尋常高等小学校卒業。旧制宇和島中学(現在の宇和島東高校中退
店童として海運会社・山下汽船に入社
台湾支店の打狗出張所詰。
- 松山歩兵第22連隊に入営する。
- 社業に復帰する。神戸本店近海課の貨物係りとなる。
- 東京支店船舶係詰。
小樽支店に出張する。
樺太に出張する。以後、3回の長期樺太出張を繰り返す。
神戸本店に復帰する。近海課配船係、配船課近海係、営業部配船課近海係などの仕事に就く。
小樽出張所所長。
- 小樽支店長(心得)。
- 小樽支店長 東京支店副長 子会社の山下近海機船(昭和24年山下近海汽船に改組・改称)に転出となり、山下汽船のほうは嘱託扱いとなった。 後に山下近海汽船常務
10月15日 - 脳溢血により死去。享年52(満51歳)。神奈川県逗子市曹洞宗海宝院にある。

人物像[編集]

人柄・性格[編集]

潔の妻光子が書いた『おばあちゃんの教育論』によると、潔は身長百七十五センチ、体重は八十キロもあった大男で渾名(あだな)は“クマさん”だったという。[1]

家庭[編集]

次男の裕次郎は少年時代、勉強をしないで飛行機の模型を作るのが夢中になっていたことがある。この様子を見た潔は腹を立てて、ある日模型を全て焼いてしまった。それを見た直後の裕次郎は「死にたいぐらい悔しかった」との事だが、大人になってみるとその悔しさが全くなくなってしまっていた。このことは、小樽市石原裕次郎記念館で裕次郎生前の言葉の一つとして確認できる。

山下汽船社員として[編集]

『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』31-33頁によると、「潔の山下汽船入社時の身分は「店童(てんどう)」だった。これは海運会社独特の制度で、商店でいえば 丁稚のようなものにあたり、宿舎と食事は確保してくれるかわりに、給料は一切なかった。洗い、便所掃除、社員の靴磨き、使い走りなどが仕事だった」、「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海でヨットを乗り回した。そのブルジョワ的イメージから、そもそもからして資産家階級の出身だと思われがちである。父親も大学出のエリートサラリーマンだったと思うのが一般的な見方だろう。だが実際のは中学もまともに卒業せず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの船会社にもぐりこんだとはいえ洗いという最末端の仕事から這いあがっていかざるをえない男だった。肉体労働者階級出身でありながら、そんなことはおくびにも出さずリッチな生活はあたかも天与のものだったかのごときにふるまう。イメージと現実のこのあまりにも大きすぎる落差のなかに、慎太郎という男の謎を解く一つのカギがかくされている。」という。
潔は江ノ島の料亭で仲間三人と一緒に、三日三晩会社をさぼってドンチャン騒ぎしたため樺太に飛ばされた。佐野眞一との対談の中で慎太郎は「…馬に乗った樺太の写真があります。僕のおふくろがその写真を見て、これはきっとお父さんが淋病か何かをもっていてそれで元気がないんじゃない、なんていっていた(笑)。あまりろくなことはしなかったんだ。樺太でもずいぶん他人にうつしたんじゃないか(笑)。」と述べている。


潔と山下亀三郎の関係について、佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』34-35頁によると、「亀三郎と石原潔の関係についてはいろいろといわれている。それは、店童あがりの潔が、関連会社とはいえ、最後は重役にとりあげられたことと関連している。大学出でもない潔が、重役にまで出世するわけがない。亀三郎の強いひきのようなものがあったに違いない、というのが世間一般の見方である。…(中略)…
慎太郎 は“石原家と亀三郎の間には血縁関係がある
のですか”という質問に(亀三郎さんとは)“縁戚だと聞
きました。ウソか本当か知りませんけど、そう聞いた憶えがあります。”といって山下家と石原家の縁戚説をあえて否定はしなかった。
これに対し亀三郎を大叔父にもち、吉田町にある
亀三郎の生家をいまも守る現山下家当主の山下源一
郎は“山下家の係累の中に石原の名前はありません。
聞いたこともないし、系図にも出てきません。”と血のつ
ながりをきっぱり否定した」という。

家族・親族[編集]

実家
父・信直警察官
文久2年(1862年)生〜大正11年(1922年)没
服部信義の二男として生まれ、石原家に入った。

石原家は石原安太夫の時代に、理由は

わからないが絶家となっていた。

佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。…(中略)…先祖は武田残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。…(中略)…歴代服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入ってそれ以来石原姓を名乗った」と述べている。
佐野は「ただし、服部家出身の信義の祖先が、本当に武田武士の流れをくむ服部本家の末裔だったかどうかまでは、調べようがなく確認がとれなかった。龍潭寺の住職によると約20年前の先代住職の頃、慎太郎本人から“石原家のルーツを知りたい”との連絡があったがそのときもはっきりしたことはとうとうわからずじまいだったという。」と記している
『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』30頁によると、「石原家のルーツが、慎太郎が言うように没落士族だったとすれば、没落した元士族の信直が維新後の最も手っとりばやい生計の道として警察官となったのは、当時とすればごく常識的な選択だったといえる。」という。

http://kingendaikeizu.net/seizi/isiharasintarou.htm
↑慎太郎の妻典子が、北朝鮮の小泉純也と親戚の家系図
全て裏でつながっていますね〜。
小泉純一郎の父・純也も鹿児島の在日部落の出なのに、
いつのまにか鹿児島の名門鮫島家の「鮫島純也」と名乗っていたそうです。


転載元転載元: 涼のブログ

オウムと石原慎太郎の意外な関係
その二
                  ★
 
石原慎太郎が議員辞職を表明した直前の1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起きる。
 
宗教法人を隠れ蓑にしなかったら,この様なとんでもないテロをオウム真理教は起こせたであろうか?
 
当時政権は村山富市首相であり、自民党は戦後最も弱体化していた不安定な時期であった。阪神淡路大震災の不手際で政治は批判を受け、そして地下鉄サリン事件である。
 
その原因を作った人物が元閣僚経験者で衆議院の赤い絨毯の上でふんぞり返っていることが、衆人の知れるところとなったら、自民党はひっくり返ってしまう。
 
石原慎太郎は表面的には強がりを言っていたが、自民党のために詰め腹を切らされたことは想像に難くない。
 その後の思いつきと自分の人気がどうやったら出るかしか考えられず、自分の言動がどのような影響を与えるか想像できない。
 
そして、本当に節操がない。政治家として最も不適切な人物と言わざるを得ない。さらにオウム真理教に対する件についてもきちんと責任を取っていない。
 
もっとも下手に責任をとればとんでもないことになってしまうが・・・そんな人物が東京都知事として君臨して居るのである。
 
東京に住んでいれば実感するのであるが、この四年間で確実に東京は住みにくくなった。それは不況のせいではない。福祉の切り捨てをやっているのである。
 
節操もなく、弱者への思いやりもなく、気も小さい。そんな人物をあなたはさらに3年、都知事として仰ぎたいか。
                 ★★
石原慎太郎はオウム真理教へ資金提供を行っていた。
 
宗教学者の中沢新一の証言によると石原の四男の画家石原延啓(のぶひろ)はオウム真理教の幹部であったとされる。
 
浜田幸一は自著『ハマコーの非常事態宣言』の中で、石原慎太郎が山口敏夫とともにオウム真理教への資金提供をしていたと名指しで批判している。
 
石原が国会議員辞職を公にしたのは、オウム真理教の犯行を疑われている国松警察庁長官狙撃事件の起きた1995年(平成7年)3月30日から半月後の4月14日である(地下鉄サリン事件は3月20日に起きた)。
 
同年6月には山口敏夫が二信組事件への関与疑惑によって衆議院での証人喚問を受け、のちに逮捕されている。  続く
 

転載元転載元: 永人のよそ道

オウムと石原慎太郎の意外な関係
 
 1995年(平成7年)4月、石原慎太郎は突然衆院議員辞職を表明した。地元の後援会にも知らされず、まったく唐突であった。「日本の政治に失望した」という趣旨の意見を残しているが、取って付けたような感じである。なぜ唐突にやめるのか、全くその説明としては不十分であった。
 
しかし彼は議員辞職をせざるを得ない大きな事情を抱えていた。
 
 
オウム真理教は1984年(昭和59年2月)に任意団体「オウムの神仙の会」として設立された。その後1989年(平成元年8月)に東京都から「宗教法人オウム真理教」の認定を得ている。
 
東京都は頑(かたく)なに認定を拒否し続けて来たのにも拘(かかわ)らずである。
 
★★
 
石原裕次郎の病気
 
一方、石原裕次郎は1978年(昭和53年)舌癌のため、慶応病院に最初の入院をする。翌年東大病院へ転院して再び手術を受ける。
 
ここで、病魔を克服したかと思ったが、1981年昭和56年解離性大動脈瘤で再び慶応病院に運ばれる。
生還率3%6時間33分の大手術に耐える。
 
しかしその後も1984年(昭和59年)に肝細胞癌で、1985(年昭和60年)に胆のう胆管炎でと毎年慶応病院に入退院を繰り返し、1987年(昭和62年)7月17日に永眠した。
 
オウム真理教と石原裕次郎が何の関係があるのだろうと思われるであろう。キーワードは慶応病院である。
 
1981年に解離性大動脈瘤で心臓バイパス手術の執刀医が誰あろう、心臓外科医の林郁夫だった。
 
★★★
 
石原慎太郎の圧力
 
1987年に石原裕次郎が亡くなった2年後、オウム真理教は宗教法人になっている。頑(かたく)なに宗教法人の認定を拒否されていたオウム真理教としては、好き勝手なことをする為には何としても宗教法人の認定を受けたかった。
 
林郁夫から1988年に運輸大臣であった石原慎太郎に状況打開の依頼が行ったことは想像に難くない。
実際石原慎太郎は運輸大臣の肩書を背景に東京都に圧力をかけ、オウム真理教はまんまと宗教法人になりおおせている。     続く   転載元・チクリ虫)

転載元転載元: 永人のよそ道

オウムと石原慎太郎の意外な関係
 
 1995年(平成7年)4月、石原慎太郎は突然衆院議員辞職を表明した。地元の後援会にも知らされず、まったく唐突であった。「日本の政治に失望した」という趣旨の意見を残しているが、取って付けたような感じである。なぜ唐突にやめるのか、全くその説明としては不十分であった。
 
しかし彼は議員辞職をせざるを得ない大きな事情を抱えていた。
 
 
オウム真理教は1984年(昭和59年2月)に任意団体「オウムの神仙の会」として設立された。その後1989年(平成元年8月)に東京都から「宗教法人オウム真理教」の認定を得ている。
 
東京都は頑(かたく)なに認定を拒否し続けて来たのにも拘(かかわ)らずである。
 
★★
 
石原裕次郎の病気
 
一方、石原裕次郎は1978年(昭和53年)舌癌のため、慶応病院に最初の入院をする。翌年東大病院へ転院して再び手術を受ける。
 
ここで、病魔を克服したかと思ったが、1981年昭和56年解離性大動脈瘤で再び慶応病院に運ばれる。
生還率3%6時間33分の大手術に耐える。
 
しかしその後も1984年(昭和59年)に肝細胞癌で、1985(年昭和60年)に胆のう胆管炎でと毎年慶応病院に入退院を繰り返し、1987年(昭和62年)7月17日に永眠した。
 
オウム真理教と石原裕次郎が何の関係があるのだろうと思われるであろう。キーワードは慶応病院である。
 
1981年に解離性大動脈瘤で心臓バイパス手術の執刀医が誰あろう、心臓外科医の林郁夫だった。
 
★★★
 
石原慎太郎の圧力
 
1987年に石原裕次郎が亡くなった2年後、オウム真理教は宗教法人になっている。頑(かたく)なに宗教法人の認定を拒否されていたオウム真理教としては、好き勝手なことをする為には何としても宗教法人の認定を受けたかった。
 
林郁夫から1988年に運輸大臣であった石原慎太郎に状況打開の依頼が行ったことは想像に難くない。
実際石原慎太郎は運輸大臣の肩書を背景に東京都に圧力をかけ、オウム真理教はまんまと宗教法人になりおおせている。     続く   転載元・チクリ虫)

転載元転載元: 永人のよそ道

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