なんくるないさー

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ラジオ

来週の収録のキャプションですが、先ほど頭の中に降りてきました。
そして、それは『クリスマスをどうすごす?』です。
それで、これには何も足さず…

特集

板倉雅一さんをゲストに迎えての収録のテーマは「アサイラム・レコード」。
そして、これが資料の一部です。

アサイラム・レコードAsylum Records

デヴィッド・ゲフィンとエリオット・ロバーツにより1971に設立されたアメリカのレコード会社。

デヴィッド・ゲフィンとエリオット・ロバーツは60年代末頃から、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングなどのミュージシャンのマネージメントを行っていた。その中にレコード・デビュー前のジャクソン・ブラウンがいたが、ブラウンはレコード会社となかなか契約を結ぶことができなかった。アトランティック・レコードーメット・アーティガンに「ブラウンは金になりますよ」とすすめたとき、「金なら私は十分にある。どうして君は自分でレコード会社を作らないんだい? そうすれば君自身が金持ちになれるじゃないか」と逆にやりこめられる。これがきっかけとなりゲフィンは会社を設立することとなった。ゲフィンとロバーツの会社がブラウンと契約することは衆目の一致するところであったが、ゲフィンが最初に声をかけたのは、長い間マネージャーを務めていた友人のローラ・ニーロであった。ニーロは一旦承諾したものの、ゲフィンの知らないところでコロムビア・レコードと再契約を交わしてしまう。ゲフィンはニーロの仕打ちに対しショックを受け、何日も泣き暮らしていたという。


1971915日、アサイラム・レコードの最初のアルバムであるジュディ・シルの『Judee Sill』をリリース。 1973ニューヨークエレクトラ・レコードと合併し、エレクトラ/アサイラムと社名変更したが、その後もエレクトラとアサイラムは別の事業部として、ニューヨークロサンゼルスで別々にレーベル活動を行っていた。


アサイラムはカントリーロック系、シンガーソングライター系のミュージシャンを多く抱え人気を博したが、それらの音楽が下火となった1980年代には活動が低調化し、1989にレーベル活動を終了した。アサイラムという名称はその後しばらくの間はカントリーのレーベル名として使われたが、現在はワーナー・ミュージック・グループ内の独立系レーベルの支援を行う部署の名称となっている。


 沿革

1971年 デヴィッド・ゲフィンアトランティック・レコードの出資を得てロサンゼルスに設立。


1973年 ジャック・ホルツマンの引退に伴いエレクトラ・レコードと合併、社名がエレクトラ/アサイラムとなる。新会社の社長はデヴィッド・ゲフィン


1975年 デヴィッド・ゲフィンワーナー・ブラザースに転出。後任の社長はジョー・スミス。


1983年 ジョー・スミスが社長退任。後任はボブ・クラスノウ。


1989年 社内組織の再編によりレーベル名がエレクトラに統一され、社名もエレクトラ・エンタテインメントに変更。


1994年 ボブ・クラスノウが社長を退任。後任はシルヴィア・ローン。


2004年 エレクトラ・エンタテインメントがアトランティック・レコードに併合される。


 ・主なアーティスト















*アサイラムというレコード会社と、その周辺

前回のコラムで無名時代の交流を紹介したジャクソン・ブラウンとJ..サウザー、グレン・フライは、いずれも、1972年にアサイラムというレコード会社から最初のアルバムを発表している(フライは、いうまでもなく、「イーグルスの一員として」ということだ)。
避難所や聖域、保護施設などを意味するアサイラムというなんとも象徴的な名前のレコード会社は、70年代初頭、デイヴィッド・ゲフィンとエリオット・ロバーツによって設立された。二人は、ウィリアム・モリス・エージェントのスタッフとして出会ったあと、ゲフィンがローラ・ニーロやCSN、ロバーツがバッファロー・スプリングフィールドやジョニ・ミッチェル、独立後のニール・ヤングなどのマネージメントで高い評価を確立し、当日はまだ無名の存在だったジャクソン・ブラウンを世に送り出すことを目標に、再合流している。なんでも、アトランティック・レコードの創始者アーメット・アーティガンに売り込みに行くと、「そんなにいいアーティストなら自分でレコード会社をつくって稼いだらいい」といわれ、もちろん彼の援助を受ける形で、立ち上げたのだそうだ。
経緯や思惑はともかく、アサイラムというのは、じつにいい響きの言葉であり、まだ若く、上質な音楽を多くの人に届けたいと純粋に考えていた彼らの想いをきちんと表している。オリジナルのロゴには、出口とも、入り口とも、いろいろな受け止め方のできる木の扉が描かれていた。

アサイラムからの最初の作品は、カリフォルニア出身のシンガー・ソングライター、ジュディ・シルのファースト・アルバムで1971年秋にリリースされている(グレアム・ナッシュが1曲のみだが、プロデュースを担当した)。隠れた名盤と呼ばれることの多いこのアルバムは、当然のことながら、商業的な成功にはほど遠かったが、翌年にはイーグルスが《テイク・イット・イージー》で大きくブレイク。その作者だったジャクソン・ブラウン、彼らの親しい音楽仲間でもあるJ..サウザーなど新しいタイプのシンガー・ソングライターたちを擁するレーベルとして、アサイラムは一躍注目の存在となっていった。

彼らが相次いでデビューした72年には、アサイラムはワーナー・グループの傘下となり、エレクトラ/アサイラムと名を変えているのだが、その後もトム・ウェイツやウォーレン・ズィヴォンといった個性的なアーティストを送り出し、また、すでに大きな存在となっていたリンダ・ロンシュタットやジョニ・ミッチェルも迎え入れるなど、70年代のアメリカ音楽に揺るぎない地位を築き上げていった。73年には、ボブ・ディランもアサイラムに移り、ザ・バンドと録音した『プラネット・ウェイヴズ』と、彼らとのツアーを記録した『ビフォー・ザ・フラッド』を残している(現在の発売元はSONY)。

もちろん、美しい話ばかりではない。デイヴィッド・ゲフィンは1980年に設立したゲフィン・レコードで巨大な成功を収めるのだが、この時期に彼は、ニール・ヤングやドン・ヘンリーと作品の方向性や契約条件に関して衝突を繰り返している。その後、映画の世界にも進出した彼はスピルバーグらとドリームワークスを立ち上げ、ここでも大きな成功を収めた。

一方のロバーツは、今も変わることなくマネージメント・サイドからニール・ヤングの創作活動を支えつづけている。たまたま何度か話す機会を得ているのだが、まさに「これこそマネージャー」というタイプの人だった。彼と出会ったから、ニールはニールとして歩みつづけることができた。そんなふうにも感じたものだ。


ボブ・ディラン(BobDylan)が、盟友ザ・バンド(The Band)をバックに従えて吹き込んだ1枚が本盤『プラネット・ウェイヴズ(Planet Waves)』である。ディランは197374年にかけて、一時的にコロムビア(CBSレコード、現ソニー・ミュージック・エンタテイメント)からアサイラムへの移籍を断行した。だが、コロムビア側が報復として過去の音源リリースを始めたため、ディランは75年には同レーベルに復帰している。この間、アサイラム在籍中には2作のアルバムが作られ、1枚は『プラネット・ウェイヴズ(Planet Waves)』、もう1枚は『偉大なる復活(Before The Flood)』だった。ちなみに、両作品とも現在はふつうに再発されているが、移籍のごたごたを経た当時は、しばらく廃盤状態になって幻のアルバムとなっていた後に、ようやく数年後(1977年)、コロムビアから再発売に至ったという経緯がある。上記2作のうち、『偉大なる復活』は過去の曲を中心にしたライヴ盤であるのに対し、本盤『プラネット・ウェイヴス』はスタジオ録音の新作であった。

全米(ビルボード)では1位、全英チャートでも7位を記録した。ビルボードのアルバムチャートでの1位獲得はディランとしてはアルバム14枚目にして初のことで、要するにヒットしたアルバムだったことがわかる。けれども、セールスが発表時の一般聴衆の反応を示すことはあっても、ディランのファンや後で遡って聴いた人がどう評価するかは別問題である。おそらく、この『プラネット・ウェイヴズ』は評価が大きく分かれる1枚なのではないだろうか。

まず何よりもディランが“弛んで”いる。全編にわたって、とは言わないが、概ねリラックスしているのである。スタジオ作としては次作に当たる『欲望』などと比べるとその違いは明白だ。それは別にやる気がないからなどという理由じゃなく、その大きな要因の一つはやはりザ・バンドとの共演という点にある。結局のところ、ボブ・ディランとザ・バンドの相性はすこぶる良かったとしか言いようがない。バックの演奏の音は隅々に至るまで、ザ・バンドの音に他ならない(ディランのアコースティック・ソロの11.を除く)。相性がよく安心してやれた結果が、このリラックス度につながっているのだと思う。

個人的な思い入れも込めて言えば、曲・演奏ともにハイレベルなものが多く、繰り返し聴いているせいか自然と身に染み込んでしまっているナンバーが多い。おすすめを挙げると多くなりそうだけれども、なるべく絞っていくつか挙げておこう。1.「こんな夜に(オン・ア・ナイト・ライク・ディス)」は、生き生きとした躍動感がいい。2.「ゴーイング、ゴーイング、ゴーン」は、R・ロバートソンのギターを中心にザ・バンドのねっちりした演奏が聴きどころ。4.「ヘイゼル」はディランの歴代バラードの中でも12を争う最高の出来の一つである。

6.
および7.の「いつまでも若く(フォーエヴァー・ヤング)」は、同じ曲の別バージョンが2つ続いていて奇異に思われるかもしれないが、これはLP時代の名残。6.A面最後の曲で、ゆったり系のバージョンでA面をいったん締めくくり、次に同じ曲のアップテンポのバージョンである7.でもってB面がスタートするという形をとっていた。8.「悲しみの歌(ダージ)」は“葬送歌”を意味する原題に相応しく、緊張感を伴う心に沁みてくるナンバー。他の曲にリラックス感が大きいだけに、この曲の重みが際立つ結果になっている。

結局のところ、本盤の評価は、『偉大なる復活』のところで書いた、ディラン側の聴き手の立場とザ・バンド側の聴き手の立場の問題に還元されてしまうのかもしれない。ディランがメインの聴き手の間では、前後の諸作との比較の上で好き嫌いが出てしまう。筆者はディランも好きだけれど、どっちかと言えばザ・バンド側の聴き手なので、このアルバムを積極的に評価したくなるし、頭で考えて評価うんぬん以前に、何よりも演奏が自然と全身に伝わり、体内に染み入ってくる。ディラン専門のファンで本盤をあまり高く評価しない人たちにもわかってほしい部分なのだけれど…。

[収録曲]
1. On a Night Like This
2. Going, Going, Gone
3. Tough Mama
4. Hazel
5. Something There Is About You
6. Forever Young
7. Forever Young
8. Dirge
9. You Angel You
10. Never Say Goodbye
11. Wedding Song
1974
年リリース。


ジョニ・ミッチェルのアルバム 

『ブルー』('71)と、同年リリースのジェイムズ・テイラーのアルバム『マッド・スライド・スリム』で親密なところを見せたジョニとジェイムズとの恋はまもなく破局を迎え、傷心のジョニは故郷であるカナダのブリティッシュ・コロンビアに1年以上も引き籠ってしまい音楽界から身を引くことも考えたという。けっきょくデイヴィッド・ゲフィンの新興レーベル"アサイラム"に移籍して再出発することになるのだが、リプリーズがこだわったフォーク・シンガーのイメージを鮮やかに覆して新しい地平へ踏み出していくのが、このアサイラム期ということになる。
5th
アルバム『バラにおくる For The Roses』は197211月のリリース。
ピアノの弾き語りではじまるM-1「宴 Banquet」をはじめとして『ブルー』の内省的な気分を受け継いでいる曲も多く、歌詞のあちこちにジェイムズに対する想いが伺われたりもするのだが、M-2「コールド・ブルー・スティール Cold Blue Steel and SweetFire」ではエルヴィスのギタリストとしても有名なジェイムズ・バートンが参加してジョニとのツイン・アコースティック・ギターを聴かせてくれるし、M-10「ブロンド・イン・ザ・ブリーチャーズ Blonde in the Bleachers」では後半のロックンロール・バンドの部分でスティーヴン・スティルスのギターを聴くことができる。
ゲフィンにヒット曲を書くようにいわれて作ったというM-9「恋するラジオ You Turn Me on I'm a Radio」ではイントロとアウトロに元恋人のグレアム・ナッシュのハーモニカがフューチャーされているが、約束どおりこの曲は全米25位を記録するヒット・シングルになった。
バック・ミュージシャンはこの直後にL.A.エクスプレスを結成するトム・スコット(sax.winds)、ジャズ・クルセダーズのウィントン・フェルダー(b)、ラス・カンケル(ds)といったところ。
間奏部でトムの木管とストリングスが鋭く切り込むM-12「月と星の審判 Judgement of the Moon and Stars(Ludwig's Tune)」も忘れがたい印象を残す。

紙ジャケはコーティングのないE式のゲイトフォールド・ジャケット。
カナダを想わせる森のなかで優しく微笑むジョニの姿も印象的だが、歌詞が印刷された内側は4ページになっていて、ディスクを内側から出し入れするようになっている。

後ろ姿ながら海に向って立つジョニのヌードが衝撃的で、当時このアルバムを聴きこの写真を見た人たちはそこにジョニの新しい決意のようなものを感じ取ったのではないだろうか。


レーベルは初期のホワイト・アサイラムで、解説は大鷹俊一、歌詞対訳は小倉ゆう子。
6th
アルバム『コート・アンド・スパーク Court and Spark』は前作からほぼ1年後の741月にリリースされた。
ピアノの静謐なイントロからジョニのヴォーカルにベース、ドラムス、エレクトリック・ギターがかぶさってゆく冒頭のタイトル曲がこのアルバムの新しさを明確にする。
いままではギターやピアノの弾き語りが基本で、曲によってバック・ミュージシャンが加わるというかたちだったのが、このアルバムでは基本的にバンド・サウンドなのである。
そして「助けて、また恋をしてしまったようなの」と歌うM-2「ヘルプ・ミー Help Me」(全米8位)ではやくもアルバムのクライマックスが訪れる。
参加ミュージシャンはトム・スコット(sax,winds)、ジョー・サンプル(key)、ラリー・カールトン(g)、ウィントン・フェルダー(b)、マックス・ベネット(b)らジャズ・ミュージシャンが中心で、それに新しい恋のお相手であるジョン・ゲラン(ds,perc)、曲によってロビー・ロバートスン(g)、ホセ・フェリシアーノ(g)らが参加している。
そのホセのギターにクロスビー&ナッシュのコーラスが絡むM-3「パリの自由人 Free Man in Paris」(全米22位)、ジョニのピアノにオーボエやホルン、ストリングス、そして美しいコーラスが加わる至福のバラッドM-7「あなたのもとへ Down to You」、ロビーのギターが活躍するロックン・ロール(というよりブギ!)M-9「陽気な泥棒 Raised on Robbery」、ワーデル・グレイの古典的なビバップに歌詞をつけたランバート・ヘンドリクス&ロスのカヴァーM-10「トゥイステッド Twisted」など、一つひとつ挙げればどれも名曲ぞろいで、全米2位をマークしたのもうなずける。

紙ジャケはこちらもコーティングのないE式のゲイトフォールド・ジャケットで、光沢のない和紙のようなものにジョニのシンプルな絵が描かれている。
プラケでは平凡なジャケットに見えてしまうが、タイトルとアーティスト名とそれを囲むラインの部分はエンボス加工された凝ったスリーヴが完璧に再現されている。
ゲイトフォールドの内側はジョニの写真と歌詞がプリントされている。

7th
アルバム『夏草の誘い THE HISSING OF SUMMER LAWNS』はそれから約2年後の7511月にリリースされている。
前作から引きつづきジャズ〜フュージョン系のミュージシャンが参加して、さらにジャズ色が濃くなり、ジョニのいわゆる「ジャズ3部作」の最初の作品といえるだろう。
M-1
「フランスの恋人たち in France They Kiss on Main Street」は前作の「ヘルプ・ミー」や「パリの自由人」の流れをくむ軽快なナンバーで、マックス・ベネットのフレットレス・ベースはどことなくジャコ風だし、ヴィクター・フェルドマンのエレクトリック・ピアノも本格的にジャズしていて、次作『逃避行』への繋がりを思わせる。
コーラスはクロスビー&ナッシュにあのJT
はじめてこの曲を聴いたときはジョニのヴォーカルに絡むジェイムズにびっくりしたものだ(笑。
歪んだギターはロベン・フォードだろうか。
M-2
「ジャングル・ライン The Jungle Line」は歌詞にもあるようにアンリ・ルソーからインスパイアされた曲で、L.A.のレコード店で買いこんだアフリカのレコードから引用したというアフリカン・ドラムが強烈な印象を残す。
なお、解説の木村ユタカは「ブルンディというアフリカン・ドラム」と書いているが、ジャケットのクレジットは「thewarrior drums of Burundi」。この「Burundi」というのはフツ族とツチ族の内乱が国際的にも大きな問題となったブルンジ共和国のことではないだろうか。
つまり「ブルンジの戦士たちのドラム」ということだと思うのだが。
M-3
「イーデスと親玉 Edith and the Kingpin」は一転して幻想的なバラッド。シンプルなメロディにジョー・サンプルのエレピ、ラリー・カールトンのギター、ウィントン・フェルダーのベース、そしてウエストコースト・ジャズのファンなら知らぬ人のないバド・シャンクのサックスとフルートがじつに美しい彩りを添えてゆく。
M-8
「ハリーの家/センターピース」はタイトルのとおり2曲がメドレーになっていて、後者はピアノ、ベース、ドラムスもアコースティックな4ビートで、本格的なジャズの香りが漂う。
全体的に抑えた静かな楽曲が多く歌詞もやや抽象的で、当時のファンの間ではあまり好評ではなかったとジョニは語っているが、それでも全米5位を記録している。

紙ジャケはコーティングのないE式のゲイトフォールド・カヴァーだが、草原のなか、大蛇を運ぶ裸同然の人々とはるか遠くに建ち並ぶ摩天楼が対照的に描かれているインパクトの強いジャケットで、しかもチョコレート色に塗られた人々と銀色の大蛇はエンボス加工されている。

内側は水着姿のジョニの写真でその上に歌詞がプリントされている。
以上の2作のレーベルはブルー・アサイラムだが、じつはこの2枚のレーベルにはちょっとした違いがある。

おわかりだろうか。
ASYLUM RECORDS
というロゴの左右から出ているラインが5thでは中央だったのに、6thでは上寄りに移動している(だれも気にしねーよ^^;)。
この3作品には共通して白のプレーンなインナーバッグがミニチュアで復刻されている。
日本語ブックレットは歌詞対訳付の16ページ、解説はあとの2作は木村ユタカに交代している。
音のほうは『バラにおくる』と『夏草の誘い』が98年のデジタル・リマスターでHDCD仕様、『コート・アンド・スパーク』はオリジナルCDマスター音源となっている(ひょっとしてリマスターされていない?)。いずれもSHM-CDで音は悪くない。


 カーラ・ボノフKarla Bonoff, 195112月27-

アメリカ合衆国出身の女性シンガーソングライターミュージシャンUCLA卒。 アメリカ西海岸を代表するシンガーソングライターで、アルバム『ささやく夜』のヒットなどが知られる。来日も数多く、往年のアーティストらとデュオを展開している。


1951、南カリフォルニア州において、ユダヤ人の両親の間に生まれる。幼少の頃よりピアノ習い、音楽と関わるようになる。ギターにも興味を持ち、1950年代の代表的フォークグループ「ウィーバーズ」のメンバーだった、フランク・ハミルトンに師事して腕を磨く。


 1968、実姉とフォーク・デュオを結成しプロ活動を開始するが、シングルデビューまでには至らず解散。その頃に出入りしていたライブハウス『トゥルバドール』にて、フォークバンド ストーン・ポニーズで活動していたリンダ・ロンシュタットケニー・エドワーズや、ジャクソン・ブラウンジェームス・テイラー、後にイーグルスを結成する面々等と知り合う。


その後、ストーン・ポニーズ解散後の1969

1月

    2019年1月中旬から下旬にかけてゲストを迎えての収録が2日。

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  これは楽しみで、ちなみに後半のゲストは今回で3度目の「板倉雅一」さんです。

ゲスト

  来年の3月末の放送で素晴らしいゲストを(本人も、そして作詞でも紅白に。
  ちなみに女性です)迎えて…

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                  これは今から楽しみです。

ガソリン

洗車と給油をしにスタンドへ。
そうしたらガソリンの値段が下がっていて、今日は1リットルあたり税込150円に。

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で、今回は茂原までの往復があったので、なんと1リットル当たり10キロ超えに。
これは快挙(笑)です。

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