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『 BACK TO THE 80's(エフエムかしま)』。
今月の放送(特集)は 11月 5日:小椋佳 11月12日:研ナオコ 11月19日:中島みゆき... 11月26日:甲斐バンド というライン・アップでお送りします。 |

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『 BACK TO THE 80's(エフエムかしま)』。
今月の放送(特集)は 11月 5日:小椋佳 11月12日:研ナオコ 11月19日:中島みゆき... 11月26日:甲斐バンド というライン・アップでお送りします。 |
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素晴らしい!
*Jリーグ参入5年目で悲願達成!!琉球が“史上最速”でJ3優勝&J2昇格決める 11/3(土) 19:55配信 、ゲキサカ [11.3 J3第30節 琉球4-2群馬 タピスタ] FC琉球がJリーグ参入5年目でクラブ史上初のJ3優勝とJ2昇格を決めた。3日のJ3第30節で3位ザスパクサツ群馬とホームで対戦し、4-2の快勝。残り3試合で2位鹿児島ユナイテッドFC(残り4試合)との勝ち点差を15、3位群馬(残り4試合)との勝ち点差を16とし、第17節から守ってきた首位を確定させた。なお、4節を残しての優勝はJ3最速記録となる。 J3からのJ2自動昇格は上位2チームとなっており、首位琉球は残り4試合の時点で2位鹿児島と勝ち点12差、3位群馬とは勝ち点13差。2チームとも琉球より1試合多く残しているが、琉球はこの試合を引き分け以上で終えれば、J3優勝とJ2昇格が決まる状況だった。 6戦無敗中(5勝1分)の琉球は勢いそのままに、前半2分に均衡を破る。左サイドのFKからMF富所悠が右足で低いクロスを送ると、ニアのMF中川風希がダイビングヘッドで軌道をそらし、右ポストをかすめたボールがネットを揺らした。 さらに前半16分、MF富樫佑太が右サイドの深い位置から右足でクロスを供給。FW和田凌が群馬DF久木田紳吾ともつれながらスライディングで押し込み、早い時間に2-0とした。 琉球は相手にほぼ何もさせないまま前半を折り返すと、後半4分には3点目を奪取。左サイドのDF徳元悠平からのロングボールをPA手前右の和田がワンタッチで前方に流し、PA内右に走り込んだ富樫が右足のシュートを決めた。 後半16分に群馬のFW山崎雅人に1点を返されたものの、同21分にはドリブルで抜け出した中川が右足のチップキックでこの日2ゴール目を記録。同41分にも群馬のMF風間宏希に決められたが、4-2で逃げ切り、本拠地で優勝を飾った。 群馬は今季ワーストタイの4失点を喫し、5試合ぶりの黒星。残る1つの自動昇格枠を2位鹿児島と争うことになった |
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*月曜の収録で使う曲(音源)&順番です。
・いつか夜の雨が 1980年:作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎 シングル「いつか夜の雨が」/アルバム「Shangri-la」 1999年のツアーのMCで拓郎のフォーライフの脱退発表を聞いた時は驚いた。「フォーライフ」=「拓郎」は一心同体と思っていたからで、例えば長嶋茂雄が阪神に移籍するとか、イエス・キリストが宗旨変えして比叡山で座禅を組むくらいあり得ないことだった。そしてフォーライフへの手向けの歌として一番の思い出の曲であると語って、この作品を歌った。 この作品は1980年にロスで海外録音され、アルバム「Shangri-la」に収録された(アルバム発売から3か月も経ってから突如シングルカットされ殆ど売れなかったという悲しいエピソードもあった)。ロスで録音する前に、ラジオで拓郎の自作のデモ・テープを聞かせてくれた。地味な小品という印象だったが「ブッカーがアレンジすれば必ず良い曲に仕上がる」と自信を見せていた。そして完成品は「レゲエ」の曲として、デモテープの面影がないほど完膚なきまで転生していて面食らった。なるほどブッカー・Tの本場のスピリチュアルがあればこそなしえたアレンジであり作品だろう。その意味ではロスでの録音の一番の「成果物」といえる。 80年代の拓郎への「レゲエ」への傾倒は見逃せない。確かにこの頃世間でもレゲエが大ブームだったが、例えばレゲエのリズムをパクるような薄っぺらなミュージシャンたちを拓郎はかなり露骨に軽蔑していた。拓郎は、自分の「レゲエ」は、「ボブ・マーリイ」への敬愛だと語っていたことがあった。拓郎の「レゲエ」は、うわべだけではなく「レゲエ」の魂との深い感応だったのではないか。うまく言えないが「レゲエ」が食材だとすると、これみよがしに皿にレゲエを盛り付けるのが世間の流行だったが、拓郎はそれをせず、レゲエをダシにして思いっきり煮込んで濃厚なスープをとるタイプだったと思う。何事もカタチではなく物事の深奥を掴むのが拓郎の真骨頂だ。 2009年の最後のツアーの直前の公式ブログで拓郎はこうつぶやいた。 「「いつか夜の雨が」に過ぎ去る者達よ、そんなに急ぐなとある。なんてやさしい愛にあふれた作品だったろう。君も僕もそれからどう生きて行ったのだろう?」 拓郎はこの作品に対してかなり深く大切な思いを抱いていることが窺える。この作品の誕生にあたってはブッカー・Tが不可欠だったかもしれないが、その後のライブでは、演奏するたびに自立し深化していくようだ。詞も曲もそして演奏も「レゲエの魂」を裏切らない「音楽の魂」がきちんとこめられているからだと思う。「拓郎の思い」と「音楽の魂」という最上の「ダシ」に思いを馳せて何度でも味わってみよう。 オールナイトニッポン
・音源はラジオ(グリコ)当時 *『吉田拓郎 ラジオでナイト』(よしだたくろうラジオでナイト)はニッポン放送で2017年4月2日から始まったラジオのトーク番組。 2017年3月8日に『ニッポン放送「春の新番組」パーソナリティ発表記者会見』で明らかになったもので、この番組では吉田拓郎自身が発表してきた楽曲について、そのエピソードをリスナーに対して、話すもの。 吉田はこの番組を「レギュラー番組の最終章」と位置付けており、「いろんなことが、いろんな意味で最終章を迎えつつあると思う。音楽を含めていろいろと考えるところはある。ラジオは僕にとってはとても大事な青春でもある。その終末という、終焉というか、最終章はやっぱりラジオで締めくくるのが大事な青春の幕の閉じ方になるかなと」したものの「というと凄くいい番組を連想しがちですが、大した番組ではないです」とも話している。 なお、吉田がニッポン放送でパーソナリティを務めるのは『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』以来およそ3年半ぶり。 ファイト
・拓郎とみゆきの仲 吉田拓郎が歌う「ファイト!」をはじめて聴いた方の多くは、これを彼自身の作品だと思ったのではないか? かく云う私もその一人である。 あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた この冒頭の歌詞のくだりは、その字余り具合といい、方言(本人は広島弁)をあざとく入れてみせる語りといい、吉田拓郎の作風そのもの。もっとも作者である中島みゆきは、かつては追っかけをしていたというぐらい拓郎を尊敬しており、実際にリスペクトして作風を似せた楽曲もあると明かしている。果たして「ファイト!」がそれにあたるのかは定かではないが、とにかく拓郎自身が「あれはオレの歌だ」と言って自ら歌うことを望んだというから、みゆき姐さんも本望というものだろう。なぜ「ファイト!」がそう聴こえるのか。歌詞の運びももちろんだが、その世界観、世渡りもおぼつかない若者の視点、言葉の選び方など多くの共通項も見出すことができる。 そこで思い当たったのは当時CMで人気が沸騰した宮崎美子主演で話題となったドラマと同名の主題歌「元気です」だ。このドラマ自体は1980年10月から放送されたもの。 誰もこっちを向いてはくれません 一人称語りで始まるこの出だしだけで、主人公の設定に通じるものが見えてくる。極めつけはそのコード進行「C Am F C Am Em F C・・・」あら、全くの一致! こういった専門的な解析はいずれスージー鈴木さんにお願いするとして、これだけでもいかに「ファイト!」が拓郎的であるかが垣間見えるような気がするのだ。 パフォーマンスの面でも、とかくシリアスな内容も淡々と歌い上げるのが両名の共通するスタイルである。ただ本家みゆき姐さんの場合は、わざと舌ったらずな歌い方をしたかと思うと、コンサートなどでは美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」ばりに熱唱することもあるということだから、変幻自在である。元々「ファイト!」は『中島みゆきのオールナイトニッポン』に届いた一通のハガキに書かれたエピソードに触発されて書かれたといわれている。シングル曲というよりはアルバムの中で大切に扱われる私的な楽曲。アルバム『臨月』における『夜曲』、『寒水魚』における『歌姫』などと同様に最後を締めくくる曲として、続くアルバム『予感』に収められた。この曲は拓郎氏に歌われるまで、実は10年以上もの歳月を要している。 しかしこれだけ強いメッセージを持った佳曲なら、いずれは世に出てくるもので1994年に保険のCMに使用されたことをきっかけにシングルカット。ドラマ『家なき子』の主題歌「空と君のあいだに」とのカップリングでリリースされ、より多くの人たちの耳に触れることとなったのだ。 ペニーレインでバーボン
1974年:作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎 アルバム「今はまだ人生を語らず」/アルバム「TAKURO TOUR 1979」/DVD「Forever Young 吉田拓郎・かぐや姫 Concert in つま恋 2006」 飲んだくれと言うなかれ。それはバーボンを抱くという聖なる行為なのだから。 「ペニーレインでバーボン」。このタイトルだけでひとつの社会現象を想起させる。コレに対抗できるのは、オードリー・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」、千利休の「大徳寺で茶の湯を」くらいだろう。千利休は作らせていただいた。 かつて原宿の若者文化の象徴として「ペニーレイン」は眩しく輝いていた。 あの頃の若者は、みな「ペニーレイン」を目指していたと言っても過言ではない。ビートルズの楽曲「ペニーレイン」にちなんでいるものの、もはや「ビートルズ」だろうが「ずうとるび」だろうが関係なく、まさに「吉田拓郎」の君臨する聖地として定着していた。そして音楽史のエポックの舞台ともなった。(テレビドラマ:あこがれ共同体!) 作品としては、名盤「今はまだ人生を語らず」の一曲目。かつて、これほどまで鮮烈な一曲目があっただろうか。ついでに、間髪入れずに続く「人生を語らず」。かつて、これほどまでに扇情的な二曲目があろうか。これらの最初の二曲だけで、神盤決定だ。 「陽気に生きて行くことがみっともなくもなるよね」「お世辞を使うのが億劫になり、中には嫌な奴だっているんだよと」などこれまでの歌詞の常識を覆すような意表を突く砥ぎすまされた詞、エネルギッシュなメロディー、パワフルな演奏、そして神がかりのようなボーカル、これらがまさに固く撚りあって出来上がった頑丈なロープのようだ。そのロープに私たちも時代も、からめとられるようにしっかりと牽引されていたのだ。例えば、沢田研二「勝手にしやがれ」の「バーボンのボトルを抱いて」は、「そんな時僕はバーボンを抱いている」からインスパイアされていることは間違いない。そうでしょう?天国の阿久さん。 演奏は、ドラムとベースは平野肇・融兄弟、ギター矢島賢、キーボード松任谷正隆、でスタジオ収録される。原曲は、74年の春ツアーでの弾き語り「今日もまたペニーレインで」。鬱々とした弾き語りのブルースが、かくもスピーディなロックンロールに「転生」する。そのレコーディングの時の思い出を記した平野肇さんの達意の文章はとても貴重だ(「僕の音楽物語1972~2011」)。 「予想を超えるパワフルな歌声が耳に飛び込んできた。字余りぎみの歌詞を投げつけるようにリズムに乗せていく。乗せていくというより、その歌詞にドラムとベースが引っぱられていく。」 「いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけれど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。」 「完璧にロックであり、ロックースピリッツに満ちた歌だった。」 「歌詞のコピーは非常に効果的だったと思う。そこにちりばめられた言葉と、それを吐きだすボーカルにシンクロしながらドラムを叩くことができた。」 「洋楽ばかり聴いていて、日本のアーティストを知らない自分を反省する機会でもあった。」 このレコーディング・メンバーでレコードそのままに生で一度だけ再演したのが、TBSテレビ「歌謡最前線」。個人的だが、私は、この時のテレビを観て雷に打たれて以来、こうなってしまった。手に汗握る張りつめた緊張感。どこにも隙がない。まさに平野さんの文章そのまま、礫のような歌詞に牽引される音楽と緊張感あるボーカルに打ちのめされた。 しかし90年前後を最後に、作品の公表が自粛され、その結果、神の如き名盤「今はまだ人生を語らず」は、廃盤となり、今日に至る。80年のインタビューだったが、拓郎は「オレのアルバムでは「今はまだ人生を語らず」が一番イイ」と認めている。その最高傑作が廃盤であることの不幸の深さ、わけても本人の辛さは測り知れない。一ファンの私とて、くだらねーアルバムが「日本音楽界の最高峰」とか賞賛されるたびに悔しくて眠れなくなる。ああ、この名盤をやつらにたたきつけてやりたい・・・おいおい。 既に「つんぼ桟敷」というフレーズは、雑誌「フォーライフ」創刊号の対談によれば、遅くとも76年当時には既に問題になっていたようで、それがなぜ90年になって自粛となったのか。社会の外圧なのか、あるいは拓郎側の主体的な配慮もあったのか、ともかく真相はわからない。拓郎も、そのいきさつを語ろうとはしなかったし、90年の男達の詩ツアー以来、ステージで歌うこともなくなった。 全くの推測にすぎないが、本人も言いたいことはあれども、この作品の本質とは関係ない差別・言論論争の主戦場になって、この作品が踏み荒らされることがいたたまれなかったのではないだろうか。名曲を封印した不幸の陥穽(あな)は、より良い新曲を作り続けていくことで 超えて行こうという「音楽家」としての静かな決意があったのではないか。やがて2006年のつま恋。直前のラジオで、拓郎は、オープニングの一曲目を渾身のチカラで歌うと宣言した。一曲目はなんだ!?とファンは色めき立ったが、実に16年の沈黙を経ての「ペニーレインでバーボン」だったことで私たちを驚かせた。この作品が、決して死んでしまったわけではないこと、いや深く確かに生き続けていることを示してくれた瞬間であった。 歴史も遺恨も、あらゆることを蚊帳の外に置いて、つま恋を舞台に、バンドたちと楽しそうに歌いまくる御大の姿が、語りかけてくるものに耳を澄まし、目を見張ろう。 街へ
1980年:作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎 アルバム「Shangri-la」 新規スタートである80年代の始まりに、拓郎は蜜月が終わった「原宿・表参道」を歌った。上京直後は荒んだ新宿界隈で飲んでいた拓郎は、やがて原宿に流れ着く。歌のとおり、当時は人影のない静かで瀟洒な街だった原宿。夜毎集まる、若き画家、写真家、作家、デザイナー、音楽家といった芸術家の卵たちとともに拓郎はかけがえのない時を過ごすことになる。そして若き拓郎も才能を見出され、やがて原宿に「ペニーレイン」という自分の拠点をも得る。 そして拓郎にとっても、拓郎見つめる人々にとっても、原宿・表参道は、憧れの街となった。やがて街の活況は栄華を極める。と同時に、溢れかえった人々、華やぐ街は、 それまでの街とは変わってしまい、拓郎らは居心地が悪くなってくる。街との距離が疎遠になっていく。やがて新しい街を求めて、拓郎は再び放浪の旅に出る決意をする。・・・これが、本人も語っていたこの作品のストーリーである。この作品で最も印象的でコアとなる部分は、何と言っても「時代を変えるのは常に青春で老いた常識よりはるかに強く、例えば嵐に呑み込まれても歴史はそれは見逃さないだろう」という部分だ。拓郎にはあまり似つかわしくない記録文のような文体で綴られた銘フレーズだ。当時の新譜ジャーナルのレコード評では、珍しく冨澤一誠が、この部分を実に見事なフレーズで思わず膝を打ったとかナントカ好評価をしていた。まさに歴史は吉田拓郎を見逃さなかった。広島から東京にコネもバックもなくひとり出て来てマイナーなレコード会社でくすぶっていた「才能」。その才能を時代はこの原宿の街に呼び寄せ、その混沌とした中からきちんと見つけ出した。世の中を変えるほどの才能は、どこにあっても必ずや見つけ出されるものではないかと思う。 名フレーズではあるものの、あらためてこの作品を聴き直し思うのは、作品の最後のしめくくりの部分の大切さだ。「あなたの人生はいかが?若さはホロ苦いね。時には訪ねておいで会えたら笑顔で迎えよう」という温かなフレーズとともに「変わってしまったのは街だけではないはずさ」と寂しい影を落とす。かつて素晴らしい想い出を共有した昔の恋人を相手とするように街との対話。このしめくくりがないと、ただの若者の立身出世物語で終わってしまう。街が人を迎え、人が街を変え、また街が人を変えて行く。街にも出会いと別れがある。誰もが、そのスパイラルの中を翻弄されながら生きて行かなくてはならない。それから、雨模様の原宿という舞台設定も実に心に沁みる。間違いなく名作である。それにしてもこのドラマチックな作品に対して、演奏はどうなんだろうか。レコーディング前にラジオで聴かせてくれた拓郎自作のデモテープでは、まるで海の浪間をゆらゆらと揺れて漂うような寂しさを湛えた演奏で作品にフィットしていたように思う。しかし、ロスでレコーディングした完成版では、ドゥダドゥダーンといきなり砲撃のようなドラムで始まり、叩きつけるようにバシバシとリズムを刻みながら、きっぱりとした乾いたサウンドで演奏が進んでいく。帰国後のライブも完成版ベースとして、結構派手なサウンドで演奏されていた。それも一考なのかもしれないが、こういう作品こそセルフカバーで、思いっきり抒情的な演奏でリメイクして欲しいと勝手を承知で思う。 アジアの片隅で
1980年:作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎 アルバム「アジアの片隅で」/ビデオ「王様達のハイキング」 時の暗がりに葬られぬために、再び強烈に突きつけてくれてOKよ この作品は80年代を代表する大作であり、拓郎が70年代の伝説のヒトで終わらなかったのはこの作品に負うところも大きいと思う。当時リアルに体験したファンには、ひとつの曲というより、絶唱する拓郎がいて、鉄壁のバンドがいて、「♪ア〜ジアの片隅で〜」とシャウトする自分ら観客がいる、それらが三位一体となった「グルーヴ」として追憶する人も多いのではないか。普通の曲を一幅の絵とすれば、これは3D体感映画のような作品だ。その点では、あの「人間なんて」と同じだし、まさに80年代の「人間なんて」の役割を担ってもいた。 飢え、戦争、疲弊した社会と荒んだ人の心、そんな社会に対峙するアグレッシブな詞。そして曲も演奏も重厚壮大で、何より拓郎のシャウトが神がかりのように存分に力を発揮する。こんな歌は他の歌手には作れないし歌えまい。ファンとしての誇りと至福だ。 1980年初頭のロスでの「SHANGRI-LA」の海外録音の時にこの作品は既に完成していたそうだが、あえてレコーディングされず、作詞の岡本おさみは不満だったという。ちなみに最初のタイトルは「アジアの片隅で、日本」。拓郎は帰国後に始まった全国ツアーの代表曲としてライブだけでこの作品の演奏を続けた。当時、レコードになっていないすごい新曲があるらしいと噂になり、どんな曲なんだとヤキモキしたものだ。ツアーの途中、6月の木田高介の追悼ライブにて、小雨そぼ降る日比谷野音での演奏が、ラジオの「フォークビレッジ」で流れもしたが、全部ではなかった。そして、ツアーの最終特別公演の1980年7月の武道館で、ゲストのブッカー・Tも参加した演奏が披露され、そのライブ録音がそのままレコード化され、ついにその全貌が明らかになったのだった。 拓郎には、この作品はスタジオの音として固定してまうのではなく、ライブで歌いこみ演奏を練り上げ、いわば「生き物」として完成させるべきだというビジョンがあったのだろう。特に、初演のツアーバージョンは、拓郎のオベイションのリフが繰り返される中、静かに地を這うようなベースと地鳴りのようなドラムが、まるで地の底から這いあがってくる生き物のように立ち上がり、壮大でしかもソウルフルな演奏への発展していく。松任谷正隆最後の大仕事というべき素晴らしいアレンジだった(松任谷正隆も拓郎の最も好きな作品に挙げていた)。それを引き継いだ王様バンドのライブでは、さらに進化し熟成されていったと思う。観客のうねるようなグルーヴと拓郎のシャウトの見事な掛け合いも年々熟練し、ついでに間奏の拓郎のギターもうまくなり(^^ゞ、作品の完成度を高めていった。 一方で大作ゆえの厳しい対立も生み出した。この「アジアの片隅で」の次回作について、岡本おさみはこのまま社会派路線を進むことを希望した。しかし拓郎は一個人の自由な生活、恋愛を歌うべく、松本隆をパートナーに選んだ(アルバム「無人島で」シングル「サマータイムブルースが聴こえる」」)。失望した岡本おさみは「拓郎との歌作りは終わった」と宣言して袂を分かちその後15年間、二人の本格的な共作は途絶えることになる(「Last kiss night」 ごめんね)。そのせいとは言わないがこの作品は、ステージ映えする割には、どこか孤独に佇立した淋しい影がつきまとっていたように思う。あくまで個人の感想だが。 しかし、この歌の壮大さとスピリットは誰も否定できない。直近では91年ツアーで歌われたのが最後だが、この時はバンドが全員初演のためか、やや物足りなかった記憶がある。それに自分が観た浜松市民会館では、拓郎も気合が入ってなくて、サビの部分歌ってなかったし。こらこら。 87年年末には、「夜のヒットスタジオ」でも歌われた。素晴らしい熱唱だったが、やっぱり観客がいないとどこか物足りない。万単位の観客が燃え立つ時に最も輝く。遠慮しなくていいから今度歌うときは、われわれファンを呼んでくれ。この作品は、まさに歌、演奏、観客の気骨が三位一体となって成り立つ曲だ。観客としては、いつ本人から召集がかかってもその一角としてのパワーが出せるよう、常にこの歌のスピリットだけは忘れずに持っていたいものだ。 そういえば、88年のシシンプジャーナルの御大へのインタビューで、岡本おさみと「アジアの片隅で'89」を作ると言う話があったが、なかなか出来ない、まだ創っている最中なのか(^^ゞ 残念ながら、この作品が、過去のものになるほど、日本は進歩しちゃいない。必要な歌である。 中島みゆきさんとの関係
中島みゆきさんは元々、吉田拓郎さんのファンだったそうで、追っかけをしていました。 吉田拓郎さんの楽屋に出入りするほどで、多くの人に認知されていたようです。 中島みゆきさんがデビューしてからも、吉田拓郎さんをルーツにしていることを感じさせる歌詞の曲があります。吉田拓郎さんは字余り、字足らずな歌詞の曲が特徴的ですが、それに似た曲がちらほらあります。それほど吉田拓郎さんから影響を受けていたのでしょう。 作詞作曲を頼んだのは初めて 吉田拓郎さんがこれまでに出してきた楽曲の作詞作曲はほとんど自身で手がけていました。 ですが、中島みゆきさんの「ファイト」を聴いて「もう自分はこんな詞を書くことは出来ない」と言ったそうです。 そこで中島みゆきさんに「遺書のような曲を作って欲しい」と頼んだそうです。 吉田拓郎さんは引退を考えていて、最後の曲として中島みゆきさんに書いてもらった歌を歌おうとしていたのかもしれません。 吉田拓郎さんの曲で、一人のアーティストに作詞作曲をしてもらったというのは初めての試みでした。 歌詞
ニューヨークは粉雪の中らしい 成田からの便は まだまにあうだろうか 片っぱしから友達に借りまくれば けっして行けない場所でもないだろう ニューヨークぐらい なのに 永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている 永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ 二人とも旅の途中だと 君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ 永遠の嘘をついてくれ 何もかも愛ゆえのことだったと言ってくれ 出典: 永遠の嘘をついてくれ/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき 成田からニューヨークまでは12時間かかります。お金だってかなりかかりますが友達から借り集めれば行けないわけではないです。 ですが、そこまでして会いに行きたいと思う人はいますか? 永遠の嘘を聞きたくて、永遠の嘘をついてくれと言っているのは、本当のことを知りたくないからでしょう。 本当のことを知ってしまうと、それは悲しみに変わることが分かっていたのでしょう。 騙す為の嘘ではありません。ここで出てくる嘘は人を思いやる嘘です。 この国を見限ってやるのは俺の方だと 追われながらほざいた友からの手紙には 上海の裏街で病んでいると 見知らぬ誰かの 下手な代筆文字 なのに 永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる 永遠の嘘をついてくれ 今はまだ二人とも旅の途中だと 君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ 永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか 出典: 永遠の嘘をついてくれ/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき ここで注目してもらいたいのは2行目までの歌詞です。「この国を見限った友達は追われている」と書かれています。 追われながら、ということは何かの罪を犯したのでしょう。この国を見限ったということは海外にいることが分かるので、海外で逃亡生活をしていたのでしょう。 友人が遠い街で病気になったことを知らせる手紙が届いてきます。 2番の歌詞には上海の路地裏と出てきますが、1番の歌詞で歌われているのはニューヨークです。 時系列的には上海のから手紙が届いた後、ニューヨークに行くか悩んでいるという順です。 つまり、友人がいるのは上海ではなく、ニューヨークに行くことが分かったというのは、自分で上海に行って教えてもらったか、人伝で突き止めたのか、といったところでしょう。 海外に住む友達が手紙をくれるというのは、よっぽど仲が良かったか、よっぽどひどい病気でこの先長くないことを伝えたいかのどちらかでしょう。 傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく 放っておいてくれと最後の力で嘘をつく 嘘をつけ永遠のさよならのかわりに やりきれない事実のかわりに たとえ くり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに 人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから 君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ 永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などいないと笑ってくれ 永遠の嘘をついてくれ/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき
友人はもう自分のことを探さないでくれ、という思いを込めて手紙を送ったのでしょう。 実際に病気だったのか、もうすぐ死んでしまうのかは分かりません。 ですが友人に迷惑をかけたくないとか、困らせたくないからという理由で嘘をついてしまうのでしょうね。人を騙しているわけではないのです。愛を持って嘘をついているのです。 中島みゆきさんのラブレター?
歌詞の意味を解釈するのが非常に難しい楽曲だと思います。この楽曲には当時の背景があったと思うからです。吉田拓郎さんは「遺書のような曲を作って欲しい」と頼んでいますが、かけ離れています。 この曲は中島みゆきさんが吉田拓郎さんに送るラブレターのようなものではないか、という説もあります。曲が作れなくなった、と言う吉田拓郎さんに対して中島みゆきさんが「永遠の嘘をついてくれ」と言っているのかもしれません。最後に「一度は夢を見せてくれた君じゃないか」という歌詞がありますが、それは中島みゆきさんからの叱咤激励にも聞こえます。 本人が作詞したのかと思わせる歌詞
中島みゆきさんが作詞した曲であることを調べるまで気が付きませんでした。 この曲は吉田拓郎さんの色がとても出ている楽曲になっています。 作詞の技術があるのももちろんだと思いますが、中島みゆきさん自身、ずっと吉田拓郎さんの曲を聴いて育ってきた人だから書けた歌詞なのでしょう。 歌うというより、語りに近い歌詞は吉田拓郎さんにとても似ています! |
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酒論たかしま(千葉県銚子市)に行ってきました。
で、帰りは椎柴発24時5分の電車で銚子に。 いやーっ、うまい酒と、友人たちとの会話。いいですね。 そして、しっかりと17日のライブの確認を… |
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