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BACK TO THE 80’s

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特集

『 BACK TO THE 80's ( エフエムかしま )』では ” この声にしびれた ” 特集を6週(9月16日〜10月21日)にわたって

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①カルメン・マキ:9月16日
②ジャニス・ジョプリン:9月23日
③りりィ:9月30日
ここまでの3週はバンドを活かすボーカルと、ボーカルを活かすバンドについてで...

④テレサ・テン:10月7日
⑤カレン・カーペンター10月14日
⑥エルトン・ジョン:10月21日
ここまでの3週は、まさに ” この声にしびれた ” に…

また、カルメン・マキの前には
・井上陽水(いのうえ・あきみ)デビュー50周年:9月2日
・リフレクションズ(パラシュート・サウンド):9月9日
をお送りしますので ” この声にしびれた ” は8週にわたってということに

放送

明日の午後8時から放送の『 BACK TO THE 80's ( エフエムかしま )』。

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テーマは「アンドレ・カンドレ(*☆):井上陽水(あきみ)、デビュー50周年」ということで、その回のオープニングはこの曲で。
そして、再放送ですが、鹿嶋市議会の生中継のため、9月6日(金)の午後3時から(いつもは午後2時から)になります。
また、「井上陽水(ようすい)」としてのデビューは1972年の「人生が二度あれば」なのです…

※「アンドレ・カンドレ」→「井上アキミ」→「井上陽水」へ...

1971年、ポリドール・レコードのディレクター多賀英典に誘われて移籍し、初のアルバム『断絶』のレコーディングを始める。このアルバムの製作開始に合わせて名前を変えることになり、マネジメントの指揮を執った奥田義行が本名を聞くと「井上アキミ」というので、どんな字かと思ったら「陽水-ようすい」と書くという。
奥田は吉田拓郎を意識し「拓郎がその二文字で若者にインパクトを与えている。だったら下の名前の「陽水」の2文字で対抗、強調していこう」と戦略を立てた。 翌1972年、芸名を井上陽水(ようすい)と改め、シングル「人生が二度あれば」で再デビューを果たす。
「人生が二度あれば」を編曲した星勝は、以後しばらく、陽水の作品の大部分を編曲することになる。5月に「傘がない」が収録されたアルバム『断絶』がリリースされた。
*1969年4月に、RKB毎日放送で、ラジオ番組「スマッシュ!!11」が放送開始するのですが、この番組には、視聴者が作った音楽を流すコーナーがあり、井上さんは、自作曲「カンドレ・マンドレ」を、自宅録音(テープレコーダーを二つ使った多重録音の擬似弾き語り)して、4月16日にRKBに持ち込むと、見事採用されます。(この時、井上さんは、芸名を「マンドレ」と考えていたのですが、ディレクターの野見山実さんによって、「アンドレ・カンドレ」に変えられています。)
すると、「カンドレ・マンドレ」は番組内で放送され、数多くのリクエストを受けることに。(ただ、後に井上さんが、「友人にリクエストのはがき百枚配った」とおっしゃっていることから、リクエストの大半は、井上さんが友人(主に浪人仲間)にハガキを配って、リクエストを出すよう依頼したものだったようです。)
☆芸名「アンドレ・カンドレ」でデビュー
そして、放送後、RKBのスタッフからホリプロを紹介され、
同年6月、レコーディングのため上京することになると、井上さんは、お父さんには「東京で勉強して大学入学を目指す。」と伝え、上京。同年9月1日には、芸名「アンドレ・カンドレ」として、楽曲「カンドレ・マンドレ」でデビューを果されたのでした。
☆「カンドレ・マンドレ」
ただ、ほとんど注目されないまま、(井上さん本人は、「大ヒット間違いなし!」と確信されていたそうです)、続く、同年12月には、「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」、1970年10月には、「花にさえ、鳥にさえ」(松山猛さんと加藤和彦さんから楽曲提供)をリリースするも、これまた、鳴かず飛ばず。
こうして、「アンドレ・カンドレ」としての活動は、シングル3枚で終わることとなったのでした。

収録

              『 BACK TO THE 80's ( エフエムかしま )』

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                           明日の収録は「この声にしびれた③りりィ」です。

ベイ・エフエム

ベイ・エフエムの「MOTIVE!! 安東弘樹 & 宮島咲良」で、シティ・ミュージックの特集をしていました。その2.

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「ルビーの指輪」をかけたのだから、パラシュート(*)の(パラシュートサウンドなくしてはこの曲は成り立たない)ことを話すべきなのですが(この時間、金澤さんはいない)、それを話すだけの知識を持っていなかったのでしょうね。
実にもったいない!
ということで、『 BACK TO THE 80's ( エフエムかしま )』では9月9日(月)「寺尾聰&パラシュート)」特集を(放送)します。
 
*林立夫、松原正樹、今剛、斉藤ノブ、マイク・ダン、安藤芳彦と、当時超一流のスタジオ・ミュージシャンたちが集まったスーパー・バンドで、日本のTOTOなどと呼ばれた。
彼らは4枚のアルバムを発表しているが、今聴いても80年代前半の日本の音楽シーンのクオリティの高さが実感できる。
このパラシュートが全面参加して制作され、爆発的なヒットとなったのが寺尾聰のアルバム『リフレクションズ』と、シングル「ルビーの指輪」である。寺尾が全楽曲を作曲、井上鑑が全曲のアレンジを手がけたが、きっかけは東芝の武藤敏史ディレクターからの「ヨーロッパっぽい大人のロックをやっている俳優がいるので、アレンジをお願いできないか」との依頼だった。
武藤はザ・リガニーズのギタリスト出身で、オフコースのディレクターとして知られ、彼らのアルバム『ワインの匂い』を制作する際、レコーディングに500時間もかけてしまったという伝説の人物でもある。
寺尾は名優・宇野重吉の実子で、俳優として活躍していたが、60年代にはザ・サベージのベース&ヴォーカルとして活動した経験もあった。
そうして渡されたデモテープの中に「ルビーの指輪」があったが、当時井上はおしゃれな曲、そして跳ねた曲だと思ったという。
シャッフル系の曲はまだ日本でポピュラーではなく、ヒットするとは思っていなかったと述懐している。
当時井上は盟友であるギタリスト今剛と、スティーリー・ダンのような音楽をやりたいという思いがあり、『ガウチョ』のような音作りを試そうと考え、寺尾もそれを喜んで、楽しみながら自由にレコーディングしたという。その結果、いい意味で力の抜けた寺尾のヴォーカルと井上が構築した都会派サウンドが合体し、さらに松本隆のクールな中に哀愁を漂わせる詞が乗り、80年代を代表するシティ・ポップのメガ・ヒットが生まれた。
当時、こういう先進的な洋楽風のサウンドが日本で大ヒットすることは稀であり、その意味でも井上鑑の仕事は大変に意義のあるものであった。
寺尾聰は『リフレクションズ』から「ルビーの指輪」のほか「シャドー・シティ」「出航SASURAI」の3曲がシングル化され、いずれもヨコハマタイヤのCMソングに起用されている。
同CMでは井上自身も「Gravitasions」を発表しており、その後大瀧詠一が作曲した稲垣潤一の「バチェラー・ガール」も井上鑑のアレンジで、同CMに起用されている。

井上陽水

『 BACK TO THE 80's ( エフエムかしま )』

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9月2日(月)放送のテーマは「アンドレ・カンドレ(*☆):井上陽水(あきみ)、デビュー50周年」ということで、その回のオープニングは”新しいラプソディ”で。
そして、再放送ですが、鹿嶋市議会の生中継のため、9月6日(金)の午後3時から(いつもは午後2時から)になります。
また、「井上陽水(ようすい)」としてのデビューは1972年の「人生が二度あれば」なのです…

※「アンドレ・カンドレ」→「井上アキミ」→「井上陽水」へ...
1971年、ポリドール・レコードのディレクター多賀英典に誘われて移籍し、初のアルバム『断絶』のレコーディングを始める。このアルバムの製作開始に合わせて名前を変えることになり、マネジメントの指揮を執った奥田義行が本名を聞くと「井上アキミ」というので、どんな字かと思ったら「陽水-ようすい」と書くという。奥田は吉田拓郎を意識し、「拓郎がその二文字で若者にインパクトを与えている。だったら下の名前の「陽水」の2文字で対抗、強調していこう」と戦略を立てた。 翌1972年、芸名を井上陽水(ようすい)と改め、シングル「人生が二度あれば」で再デビューを果たす。「人生が二度あれば」を編曲した星勝は、以後しばらく、陽水の作品の大部分を編曲することになる。5月に「傘がない」が収録されたアルバム『断絶』がリリースされた。
*1969年4月に、RKB毎日放送で、ラジオ番組「スマッシュ!!11」が放送開始するのですが、この番組には、視聴者が作った音楽を流すコーナーがあり、井上さんは、自作曲「カンドレ・マンドレ」を、自宅録音(テープレコーダーを二つ使った多重録音の擬似弾き語り)して、4月16日にRKBに持ち込むと、見事採用されます。(この時、井上さんは、芸名を「マンドレ」と考えていたのですが、ディレクターの野見山実さんによって、「アンドレ・カンドレ」に変えられています。)
すると、「カンドレ・マンドレ」は番組内で放送され、数多くのリクエストを受けることに。(ただ、後に井上さんが、「友人にリクエストのはがき百枚配った」とおっしゃっていることから、リクエストの大半は、井上さんが友人(主に浪人仲間)にハガキを配って、リクエストを出すよう依頼したものだったようです。)
☆芸名「アンドレ・カンドレ」でデビュー
そして、放送後、RKBのスタッフからホリプロを紹介され、
同年6月、レコーディングのため上京することになると、井上さんは、お父さんには、「東京で勉強して大学入学を目指す。」と伝え、上京。同年9月1日には、芸名「アンドレ・カンドレ」として、楽曲「カンドレ・マンドレ」でデビューを果されたのでした。
☆「カンドレ・マンドレ」
ただ、ほとんど注目されないまま、(井上さん本人は、「大ヒット間違いなし!」と確信されていたそうです)、続く、同年12月には、「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」、1970年10月には、「花にさえ、鳥にさえ」(松山猛さんと加藤和彦さんから楽曲提供)をリリースするも、これまた、鳴かず飛ばず。
こうして、「アンドレ・カンドレ」としての活動は、シングル3枚で終わることとなったのでした。

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