続・よねちゃんの車中泊旅行記

4月22日、はてなブログ「よねちゃんの花日記」に移行しました。車中泊旅行記もそちらで継続しています。

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      2014年9月30日(火)
 
  今、新潟県湯沢町の湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」にいます。場所は上越新幹線越後湯沢駅の北約400メートルです。
 
  草履(ぞうり)ですが素材が違うようです。左は「がまぞうり」となるのでガマの茎を編んだものと思われます。右は普通のわら草履です(写真①)。
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  左上はとうもろこしの茎で作った草履、その他はわら草履です(写真②)。わら草履以外は上履き用だったようです。現在も色々な素材で草履が作られますが上履きとして使われることも多いようです。
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  こういう展示になりました。養蚕の道具ですが例によって詳しく紹介しましょう(写真③)。
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  これは毛羽取り機です(写真④⑤)。毛羽取りがなぜ必要だったか、解説を読めば分かるでしょう。
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  毛羽取りが終わると繭を選別します(写真⑥)。
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  これは蚕が繭を作る様子です(写真⑦⑧⑨)。これだけ精細なのは珍しいです。
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  写真⑨の下側の写真を見れば毛羽取り機が必要な理由も分かるでしょう。蚕の繭作りの解説です(写真⑨の2)。
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  蚕の餌は桑の葉です(写真⑩)。
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  大量生産となるとこういう蚕棚を使いました(写真⑪)。今と違ってテレビはなく、車はほとんど走っていない夜、蚕が桑の葉を食べる「ざわざわ」音が家中に響き渡りました。やがては金の卵と変わる音ですからさぞかし寝心地がよかったでしょう。  
  困ったのはノミです。蚕を飼っていると殺虫剤は使えません。肌着を脱いで赤黒い虫を探し、指先でつまんで潰すしか方法がありませんでした。
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  途中で蚕の糞や食べかすが溜まって掃除をする必要があります。この写真のやり方も大量生産の過程で編み出されたものです。
  枠の上に「蚕こも」と呼ばれる筵を敷き、更にその上に縄網を敷きます。掃除するときは縄網で蚕を別の棚に移動させ、残った蚕網を掃除したのです(写真⑫)。
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  これは少し古い時代の桑くれ台とまぶしです(写真⑬)。
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  養蚕の道具の解説です(写真⑭)。
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  文中の「改良まぶし」のところにあった段ボール製のまぶしが更に進化したのがこの回転まぶしです。昭和30年代後半に登場しました(写真⑮)。日本の養蚕が最後に光り輝いた時代でした。
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  ご当地の養蚕はスキー場開発で桑畑がなくなったこともあり、昭和35年頃には廃業になったようです(写真⑯)。
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  続く
 
    2014年9月30日(火)
 
  今、新潟県湯沢町の湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」にいます。場所は上越新幹線越後湯沢駅の北約400メートルです。
 
  農業の続きです。中央の巨大な道具は桑の根を抜く抜根機です(写真①)。
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  これは「えんが」という名が付いた道具です(写真②)。
  「てこの原理」は人の生活のあらゆる場面で使われています。この農具もそうです。大きな取っ手を持って先端の刃を土に差し込み、↑の部分を足で踏んで固定し取っ手を下に押して畑の土を深く耕しました。しかし、牛馬の力には及ばなかったでしょう。
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  「たす」という名札の付いたワラ製の籠です(③)。手に持ったり背負ったりすることができます。
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  腰蓑です(写真④)。泥よけとして多仕事に使いました。
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  御存知、タライ(盥)です(写真⑤)。桶の一種ですが主として洗濯に使いました。
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  タライと一緒に使われたのがこの洗濯板です(写真⑤の2)。
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  水汲み桶です(写真⑥)。井戸が水源だったころは大活躍しました。
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  中央は「たがら」という名札が付いています。小石などを運ぶときに使った籠で背負うことができます(写真⑦)。
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  これも腰蓑です。見た限りではミニスカートではなく前掛けのようです(写真⑧)。
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  今もある籠です(写真⑨)。
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  糸枠です(写真⑩⑪)。
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  「はけご」という名札が付いていますが、魚籠です(写真⑫)。
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  写真では名札が読めません。かなり頑丈な補強をした籠です(写真⑬)。収穫した野菜を運んだでしょうか。
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  ウナギを捕る漁労具です(写真⑭)。一度入るともう出られない仕組みになっています。
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  ザルとカゴの違いは微妙ですが、台所用品はザル、そうでないものがカゴということのようです。となるとこれはカゴの方がいいでしょうか。
  などと思いながら中をのぞいたら「ざまかご」、つまり蚕の繭を入れるカゴという名札が付いていました(写真⑮)。
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  では次に行きましょう。
 
  続く
 
    2014年9月30日(火)
 
  今、新潟県湯沢町の湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」にいます。場所は上越新幹線越後湯沢駅の北約400メートルです。
 
  ご当地の田畑の仕事の解説です(写真①②)。
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  農作業暦というのもありました(写真③④)。私はは長野県の山奥の出身ですが、昭和30年代でも大体こういう感じで農作業は生活が回っていたと思います。
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  手作業での除草です(写真⑤)。よく見かける回転式除草機は大正年間に全国に普及しましたが、これはいつ頃の写真でしょう。
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  これは回転式除草機を使っているところです(写真⑥)。立って仕事ができるのがどんなに楽だったか想像できますか。この機械は中耕(生育の途中で土の表層を耕して通気と水はけをよくする作業)と除草を兼ねた道具で、日本で作られた農具の傑作です。
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  これはその除草機です(写真⑦)。
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  馬を使って代掻き、つまり水田の土をかきならしています(写真⑧)。
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  真ん中の柄は何の道具か分からなくなりました。大きな草刈り鎌ではなかったでしょうか(写真⑨)。上の方にあるのは「はばき」というすね当てです。脛(すね)はとてもものが当たりやすいところなのです。
  右の縄で刈った草を束ねました。左下は水筒、右下は種子入れです。
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  左から改良された回転式除草機、5本鍬、3本鍬、平鍬、右端の長方形の刃が付いたのは根切り鍬、奥は田定規です(写真⑩)。
  現在は5本鍬はまず見かけません。平鍬は土に当たる部分だけが金属製なのですが、水田の畦作りや畑の畦作りに長く使われたようです。
  根切り鍬も今でも同じ名の鍬が売られています。ただし、刃の形状は少し違います。
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  田起こしの様子です。牛に犂(すき)を引かせています(写真⑪)。
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  これは田植え枠を転がして苗を植え付ける線を付けているところです(写真⑫)。
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  これがその田植え枠です(写真⑬)。
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  田植えの様子です(写真⑭)。のどかな田園風景なのですが重労働でもありました。
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  続く
 
    2014年9月30日(火)
 
  今、新潟県湯沢町の湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」にいます。場所は上越新幹線越後湯沢駅の北約400メートルです。
 
  こういう展示になりました(写真①)。例によって詳しく紹介しましょう。
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  昭和30年頃の田植の様子です(写真②)。腰に苗を入れた籠を腰につけ、一番左の男が付けた枠線に合わせて終日しゃがんで苗を植えるという重労働でした。
  今でも体験田植ができますが、中腰での田植はとてもきつい仕事で10分持たない人がいると思います。
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  湯沢温泉は元々は山間の静かな湯治場だったのですが、上越線開通後の昭和7年に新しい源泉を掘り当て、そこから大発展しました。
  現在はスキー客が多く一種のリゾート地と化して昔日の風情も面影もありません(写真③④⑤)。
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  これは大正9年の温泉掘りの様子です(写真⑥⑦)。うまく掘り当てれば、何もない農地がいずれ大繁華街になれるのです。
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  昭和13年に噴き出した江神共同温泉です(写真⑧⑨)。日本人は温泉好きです。昔は団体で男どもが押し寄せて芸者を上げてのどんちゃん騒ぎが当たり前だったのですが、現在は家族連れ、夫婦連れなどの「健全な」温泉旅行の方が多いでしょうか。
  バスツアーでも料金との比較でそれなりの雰囲気が楽しめます。温泉街の繁華街は歩くだけにしておきましょう。バーやスナックはどの地域でもぼったくりが横行していると思った方が無難です。和歌山の白浜温泉でも危険です。
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  これは温泉掘りの櫓です(写真⑩⑪)。
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  湯沢温泉の成分表です(写真⑫)。全体としては単純泉です。
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  湯沢温泉の禁忌症と適応症です(写真⑬)。多くの温泉で同じ表示がどこかにあります。それを見て入った方がより効能があると思われます。
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  湯沢温泉の歴史です。湯沢という地名自体が温泉地であることを示しているのでしょう。850年前に発見したのは自噴地だったのでしょう。江戸時代までは精々湯治場のような小屋があった程度だったと思われます。
  劇的に変わったのは昭和6年に上越線が開通したことでした。首都圏との距離が一気に近くなり温泉旅館も人気が出たため、新たな源泉の掘削が大々的に始まったのです(写真⑭)。
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  写真⑭の解説にあった集中管理配湯の図です。↓が越後湯沢駅、赤い点が源泉です(写真⑮)。
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  温泉掘りの櫓の模型です(写真⑯⑰)。湯沢温泉の話はこれで終わりです。温泉地も大きくなりすぎると却って風情を欠くようになります。
  雪は昔と同じように降りますが、もう二度と雪国のような小説はできないでしょう。
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  続く
    2014年9月30日(火)
 
  今、新潟県湯沢町の湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」にいます。場所は上越新幹線越後湯沢駅の北約400メートルです。
 
  ご当地は川端康成の「雪国」の舞台となったところです。前回からの続きですがこういう展示になりました(写真①)。
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  こういう写真がありました。新潟に向かう列車の後方から清水トンネルを撮った写真でしょうか。
  川端が雪国を書いたときにはこの清水トンネルは単線でした。1967年に新清水トンネルができてからは清水トンネルは上り専用、つまり東京方面行きとなっています(写真②)。つまり「トンネルから出るとそこは雪国だった」とは書けなくなったのです。
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  雪国に登場する芸者・駒子にはモデルがいます。それが松栄です(写真③④)。
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  こういうイベントもあるようです(写真⑤)。
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  実際の松栄の写真です(写真⑥⑦)。
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  大正13年に撮られた駒子の写真です(写真⑧)。まだ9歳の半玉(はんぎょく=芸者見習い)だし化粧も衣装も特別なので誰とも分かりません。
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  昭和46年の川端の真筆色紙です(写真⑨⑩)。
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  川端直筆の「雪国」冒頭部分です。ノーベル文学賞受賞者の作品でこれしか知らない人も御大勢いるでしょう。それもこの紙の最後の1行など知らないという人も。
  ノーベル賞も平和賞やら文学賞はほとんど意味不明の賞に成り下がっています。もう廃止すればいいと思うのですが。
  3年後に安倍総理と黒田総裁がノーベル経済学賞をもらっていればいいと思うのですが。今も近代経済学の理論が今も正しいということを在任中に見事に立証しましたから(写真⑪)。
 
 
  残念ながら来年の消費税上げでノーベル賞も吹っ飛ぶかもしれません。今からでも間に合うから消費税は現状維持と打ち出すべきです。
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  雪国の駒子役の岸惠子(左)と駒子のモデルの松栄(右)です。昭和32年(1957年)ですから1915年生まれの松栄は42歳くらいです(写真⑫)。
  しかし、岸惠子のいかんともしようのないあの濁(だみ)声、映画は実際どんなものだったのでしょう。
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  駒子のいた置屋(おきや)の部屋を再現したものです。「雪国」の一場面というところでしょうか(写真⑬、⑬の2)。
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  これは松栄の20歳頃の写真です(写真⑭)。小柄で並の容姿というところでしょうか。
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  これは川端康成の揮毫で主水公園に「雪国の碑」として建立されているそうです(写真⑮⑯)。
  この主水公園は当資料館から徒歩で東に200メートルほど行ったところにあります。途中で上越線や上越新幹線の下のS字の道を通ります。
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  これで小説「雪国」の話は終わりです。
 
  続く
 

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