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米沢ゆかりの人物

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現在の米沢をかたどった歴史上の人物、また、米沢発展の名の下に奔走してくれた功労者の紹介。
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伊達政宗公

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「あと20年早く生まれていれば…(天下人になれた)」

 伊達政宗(だて まさむね、永禄10年8月3日※1567年9月5日〜寛永13年5月24日※1636年6月27日)は、戦国時代の奥州の戦国大名で仙台藩初代藩主である。 最終官位は贈従二位。
 父は伊達氏第16代当主・輝宗、母は最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)、米沢城で生まれる。幼少期に疱瘡を病んで右眼を失うが、片倉景綱により才覚を認められる。天正5年(1577年)11歳で元服し藤次郎政宗と称する。正宗という名は、文武に秀でた英傑であったとされる伊達氏9代大膳大夫政宗(儀山政宗)にあやかり父輝宗より名付けられた。(伊達氏9代と区別するために、藤次郎政宗または貞山政宗ともいう)。天正9年(1581)15歳で初陣、見事勝利し、天正12年(1584年)に18歳で伊達家17代として家督を相続した。文武両道、機敏且つ勇猛であった正宗は、片眼である風貌から「独眼流政宗」との異名を持ち、豊臣秀吉や徳川家康からも恐れられた。
 また、正宗は米沢を忘れ得ぬ故郷として愛し、米沢地を訪れた際にはいくつかの歌で残している。

「故郷は 夢にだにさえ 疎からず 現になどか めぐり来にけん」

(故郷のことは夢にまでも見ることがしばしばで、故郷を忘れることができないのです。ところが、その故郷の土をどうして現実に踏む機会がめぐって来てしまったのでしょうか。この地に来れば、いよいよ去りがたい気持ちになってしまうではありませんか)

「越方の 思い旅寝の ふるさとに 露おきまさる 草枕かな」

(今まで長い間故郷を思い続けてきて、この度は越後の城を築くという重い役目をもった旅に出、その重任を果たして、今故郷の地で宿をとろうとしている。庭の草葉は、秋の夜露ですっかり濡れているが、それにもまして私はなつかしい父母の地を踏んだうれしさに、涙で旅寝の枕を濡らすことです)

「ある時は あるにまかせて 疎けれど 無きあとをとう 草枕かな」

(この地に住んでいた時には、いつでもお参りができると思っていたせいか、折しげく詣でることもなかったが、この地を去ってしまってみると、いっそう恋しくて、父や祖先の亡きあとを慕って、この地を訪れた旅路なのです)

 米沢市の米沢城趾(現、松が岬公園または上杉公園)は、正宗が生まれた地とされ、そのことに関する標柱がいくつか立てれ米沢市民に慕われいる。また、GW期間中に行なわれる上杉祭りの上杉行列にも正宗は登場し、どの武将よりも派手に立ち振る舞い、奇声とともに観客に刀を向けるシーンが毎年あるのが恒例である。

 1987年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では、主演・渡辺謙の名演技もあり、NHK大河ドラマとして史上最高の平均視聴率39.7%を獲得。地元米沢でも正宗ブームを巻き起こした。


<伊達政宗公観光スポット>
米沢城趾(松が岬公園):伊達政宗誕生の地(http://www.ne.jp/asahi/gu-tara.web/gu-tara/masamuneoyuku/yonezawa.html
亀岡文殊堂:梵天丸誕生伝説(http://www.ne.jp/asahi/gu-tara.web/gu-tara/masamuneoyuku/kameoka.html
資福寺跡:へそまがり術の極意(http://www.ne.jp/asahi/gu-tara.web/gu-tara/masamuneoyuku/shihukujiato.html
遠山覚範寺跡:政宗が父輝宗を弔うため建立(http://www.city.yonezawa.yamagata.jp/kanko/rekishi/pg/r19.html
笹野観音堂:伊達氏信仰の寺(http://www.city.yonezawa.yamagata.jp/kanko/rekishi/pg/r03.html
小野川温泉:正宗が愛した温泉(http://www.chuokai-yamagata.or.jp/onogawa/html/onsen01.htm
米沢市上杉博物館:一部正宗の書簡など(http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/
 ※一部リンクは正宗をいくWEBページより拝借。(http://www.ne.jp/asahi/gu-tara.web/gu-tara/masamuneoyuku.html


<経歴>
 出羽国米沢(山形県米沢市)、米沢城に生まれる。幼名は梵天丸。1571年(元亀2年)、疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。それ以降、母親の最上義姫に姿が醜いと疎まれ、弟の伊達小次郎だけが母の愛情を注がれたとされる。ちなみに、徳川家康や豊臣秀吉たちに「右目はどうしたのか?」と聞かれたとき、政宗は「木から落ちたとき、右目が出てきてしまったが、あまりに美味しそうだったので、食べてしまった」と語っている。さらに若い頃母親から毒を盛られたとされ、(しかし、政宗は「母に罪はない」と母を弁護した)それは眼に異常の無い弟を当主に立てるには伊達政宗の存在自身が邪魔だったからといわれる。1572年(元亀3年)、政宗の将来を案じた父・輝宗が招いた臨済宗の虎哉宗乙禅師による厳しい教育が始められ、仏教や漢学を学ぶ。1575年(天正3年)神職の子である片倉景綱(小十郎)が守り役を命ぜられ側近となる。片倉小十郎は政宗の側近中の側近として、時には軍師として生涯忠誠を尽くした。
 1577年(天正5年)に元服、1579年(天正7年)には仙道の大名で三春城主田村清顕の娘愛姫(めごひめ)を正室とする。1581年(天正9年)、隣接する相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める。1584年(天正12年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。二本松城主の畠山義継を撃破し、侵略しようとしたが、輝宗の取りなしにより五ヵ村を畠山領として安堵することになった。1585年(天正13年)に父の輝宗が、所領安堵の件などのお礼に来ていた畠山義継に拉致される。このとき政宗は、狩りに出かけていたが急遽戻り、畠山一行を追跡、畠山義継を父・輝宗もろとも殺害した。また、寝返った大内定綱討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した粛清を行った。その後、初七日法要を済ますと早くも畠山氏の二本松城を包囲。畠山氏救出のため集結した、佐竹氏・蘆名氏など反伊達連合軍と安達郡人取橋で戦う。伊達軍は重臣・鬼庭左月斎を討たれ窮地に立つものの辛くも持ち堪えた。政宗は更なる侵攻を行い、1588年(天正16年)に郡山合戦にて相手国の領土を奪う。正妻愛姫の実家田村氏の協力を得て、現在の福島県中通りにあたる地域を支配下におく。同年北方の大崎氏家中の内紛に介入、兵1万を以て攻め入ったものの大崎氏の頑強な抵抗、及び味方であった黒川月舟斎の裏切りに合い敗北、これに乗じて伊達領南部に蘆名氏、二階堂氏らが侵攻。又、最上義光とも一触即発の事態となるが義姫の仲介により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。
1589年(天正17年)には会津の蘆名義広・佐竹氏の連合軍を摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)で破り、黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配した。さらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼして奥州南部の大部分を支配下に置き、150万石の領主になった。
 この頃中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承しており、1590年(天正18年)の秀吉の奥州仕置では政宗は小田原へ参陣して秀吉に臣従を誓い、本領を安堵される(ただし、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされ、会津領などは没収。また小田原攻めに遅参したという理由で秀吉が政宗に切腹を命じようとし事実上監禁したが、政宗は全軍に白装束を着せ、街を練り歩き、秀吉への忠誠を誓ったように見せた。これらの行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる)。参陣前には自身の身を転覆させようとしている母親を止めるため弟の伊達小次郎に対し自害を命じた。母・義姫(保春院)も実家の兄・最上義光をのもとへと(山形)追放した。翌1591年(天正19年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が葛西大崎一揆を策略していた嫌疑をかけられる。政宗は上洛。一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城から玉造郡岩出山城に転封となり58万石、後に加増されて60万石となる。1592年(文禄2年)秀吉の朝鮮出兵にも従軍して朝鮮半島へ渡る。また、普請事業なども行う。豊臣政権では五大老である徳川家康に接近し、1599年(慶長4年)には嫡女・五郎八姫(いろはひめ)を家康の6男松平忠輝と婚約させる。朝鮮出兵時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は大変に華美なもので、これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになったと伝えられる。これは、派手好みの秀吉が気に入るような戦装束を自分の部隊に着させることで本陣に近い配置を狙い、損害を受けやすい最前線への配置を避けるよう計算したものと言われる。
 豊臣秀吉死後の1600年(慶長5年)に家康が会津の上杉景勝に謀反容疑をかけ、上杉討伐を行うと従軍して白石城を陥落させる。家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵し、小山まで北上していた家康は西へ向かった。この際、家康は政宗に、戦勝の暁には百万石の領土を与えるという内容の書状「百万石のお墨付き」を送っている。同年9月、関ヶ原の戦いになると、家康ら東軍に属する。上杉氏の将直江兼続率いる軍が最上氏居城山形城を攻撃すると、援軍として侵攻。上杉軍と交戦する(長谷堂城の戦い)(一説によると重臣であり軍師格である片倉景綱は上杉・最上両軍が戦い、山形城が落城し、上杉勢が疲弊しきったところを討つべしと進言したが、母・義姫がいる山形城を見捨てるに忍びないと、政宗はこの策を受け入れなかったという)。戦後、政宗が和賀忠親を煽動して南部氏領国での一揆の策略を行っていた事が発覚し(一揆軍は敗北)、近江と常陸に小領土の飛び地及び陸奥国刈田郡(白石)合わせて2万石を加増されるにとどまり、62万石の領主となる。 徳川家康からは、東北最強の外様大名として徹底した警戒心をもたれたが、江戸の天下普請や、江戸への米の供給を支えるなどの功績により、家康の末期には、幕府の後事を託されるまでになった。
 1601年(慶長6年)には仙台城、城下町・仙台の建設をはじめ、居城を移す。1614年(慶長19年)の大坂の役では、片倉重長が後藤基次らを討ち取り、真田幸村の攻勢を受けてたつなど大きな功があった。藩内の統治には四十八カ所の館を置き家臣を配置した。また、家臣の支倉常長らの慶長遣欧使節団をメキシコからイスパニア、ローマにまで派遣して海外貿易を試みているが、いずれも成果は実らなかった。
 世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保した。文化的には上方の文化を積極的に導入し、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、大崎八幡神社や瑞巌寺などの建造物を残した。さらに、北上川の河口に石巻港を設けた。2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕え、1636年(寛永13年)5月江戸で死亡。享年70。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。辞世の句:「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く」法名:瑞巌寺殿貞山禅利大居士(尊称:貞山公)。
 ※フリー百科事典「ウィキペディア」より転写。(http://ja.wikipedia.org/

上杉鷹山公

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「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」

 上杉鷹山(うえすぎようざん、宝暦元年7月20日※1751年9月9日〜文政5年3月11日※1822年4月2日)は江戸時代中期の大名である。出羽国米沢藩の第9代藩主。官位は従四位下侍従、官名は弾正大弼のちに越前守。
 母の「春姫」は、四代目米沢藩主「上杉綱憲(つなのり)」の孫娘。 宝暦10年(1760年)に八代目米沢藩主「上杉重定(しげさだ)」の養子となり、元服(成年の儀式)の際に名を「治憲(はるのり)」となる。翌年の明和4年(1767年)に、家督を継いで弱冠17歳で九代目米沢藩主となった治憲(鷹山)は、領地返上寸前傾ききった米沢藩を救うため、まず「大検約令」発し、役人の贅沢や無駄を正すことから、藩政改革を押し進める。 その後、農政を改革し、教育を進め、産業を発展させていく。最も大きな産業開発は「織物業」で、置賜特産の青芋(あおそ)を原料とした縮織(ちぢみおり) に始まり、これらを基として養蚕(ようさん)・絹織物へと発展させた。 鷹山としたのは、52歳から。文化3年(1806年)には、56歳となった鷹山が「養蚕手引」を発行・配布。文政5年(1822年)に72歳で死去するが、生涯を米沢藩の人々のために尽した功績は、初代上杉謙信と並んで今も語り継がれている。
 また、鷹山公の正室・前藩主の長女幸姫は、脳障害、発育障害であったと言われているが、鷹山公は彼女を心から愛し仲睦まじく暮らしたとされ、地元では愛妻家としても広く知られている。

 米沢市松が岬にある上杉神社には「為せば成る」の言葉とともに鷹山公の像がおかれ、市民の憩いの場、観光のメッカとなっている。また、米沢市立の教育施設(主に小中学校の体育館など)には、ほぼ全て鷹山公の人物画が飾られ、米沢市民は幼少期より鷹山公のもと教育を受ける。鷹山公が再興したと言われている米沢興譲館高等学校は、現在でも米沢市随一の進学校を誇る。
 鷹山公が米沢に根付かせたものとして、質素倹約(理念)、米織(織物業)、鯉の甘煮(食)がある。「してみせて、言って聞かせて、させてみる」というのも鷹山公の言葉として、今もなお米沢市民の心に宿る。

 アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げたことは有名な話で、2007年読売新聞が行ったアンケートでは理想のリーダーとして上杉鷹山が1位に挙げられた。

伝国の辞「一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候 右三条御遺念有るまじく候事」

 伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得で、明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に家訓として伝承され続けた理念である。


<上杉鷹山公観光スポット>
伝国の杜:上杉鷹山シアター(http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/
上杉神社:鷹山公の銅像(http://www.ycci.or.jp/kanko/tanbo/00001.html
松岬神社:鷹山公を祭神とした神社(http://www.ycci.or.jp/kanko/tanbo/00002.html
餐霞館遺跡:鷹山公の隠居殿の跡地(http://www.ycci.or.jp/kanko/tanbo/00004.html
上杉家廟所:米沢藩主上杉家の墓所(http://www.ycci.or.jp/kanko/tanbo/00005.html
笹野観音:鷹山公によって改築(http://www.ycci.or.jp/kanko/tanbo/00009.html
白子神社:鷹山公の誓詞を保存(http://www.ycci.or.jp/kanko/tanbo/00027.html
稽照殿:鷹山公の遺品展示(http://www.ycci.or.jp/kanko/tanbo/00031.html
 ※一部リンクは米沢商工会議所の観光WEBページを拝借。(http://www.ycci.or.jp/


<経歴>
 日向国高鍋藩主・秋月種美の次男として、高鍋藩江戸屋敷で生まれる。母は黒田長貞の娘。母方の祖母が米沢藩第4代藩主綱憲(吉良義央と富子(第2代藩主定勝の娘)の長男)の娘であった。このことが縁で、10歳で第8代藩主重定の養子となる。すなわち、上杉鷹山自身は、実際の血筋で言えば米沢藩初代藩主景勝の昆孫にあたる。正室は重定の娘。子は上杉顕孝(長男)。ほかに側室のお豊の方との間に寛之助(次男・早世)がある。
 米沢藩後嗣となってから尾張出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎ、17歳で元服。江戸幕府10代将軍徳川家治の一字を賜り「治憲」と改名する。1768年(明和4年)に米沢藩を継ぐ。
 上杉家は18世紀中旬には借財が20万両に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら、かつての会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことはなく、このため他藩とは比較にならない程人口に占める家臣の割合が高かった。名家への誇りを重んずるゆえ豪奢な生活を改められなかった前藩主重定は、藩土返上のうえ領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。
 新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自ら倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努めた。また、祖父・綱憲(4代藩主)が創設した学問所を、藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平州によって再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政が建て直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。
 1785年(天明5年)に家督を前藩主・重定の実子である上杉治広(鷹山が養子となった後に生まれた)に譲り隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。1802年(享和2年)52歳の時、剃髪し「鷹山」と号する。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。1822年に死去、享年72。法名:元徳院殿聖翁文心大居士。
 ※フリー百科事典「ウィキペディア」より転写。(http://ja.wikipedia.org/

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