「後鳥羽上皇と脊振絹巻の里」 鳥栖 野田芳隆
大河ドラマ「平 清盛」を観ていた家内が「脊振に“鳥羽院”という場所があると聞いたことがある」と言い出したのである夏の日、山奥には場違いな感じの地名「鳥羽院」を求めて車を走らせた。2回目のドライブでやっと奥深い山里の「鳥羽院」に辿り着きました。一日に3便位のバスが止まる「鳥羽院」バス停は、県重要無形文化財の「肥前名尾和紙」を作っている名尾の里から更に北へ「藤原松瀬線」(県道273号)を上った左手にあり、そこから更に細い山道を500mほど行くと小さな「後鳥羽神社」が苔むした石の鳥居の奥にひっそりと立っていました。後鳥羽天皇は、平安末期の安徳天皇(平清盛の娘の子)の次に即位した天皇で安徳天皇の腹違いの2歳下の弟で、世は鎌倉時代になり実権を源一族から取り戻すための承久の乱を起こすもあっさりと敗れ1198年天皇を追われ隠岐に流された。隠岐で十数年過ごされたが、脊振の絹巻の里も隠岐の領主西川家房の領地と知った後鳥羽上皇は京都御所にその旨を伝えたところ「隠岐は荒廃の地ゆえ還幸あってしかるべき」と勅令が下り脊振に還幸されたとの事である。腹違いの兄の安徳天皇の曽祖父にあたる平忠盛が巨万の富を得た日宋貿易の拠点である神崎荘(佐賀県神埼市)近くで余生を送りたかったのも首肯できる。上皇が絹巻の里に着かれたときは厳冬の頃で、里人総出で薪を焚き稗粥をふるまったのに感動された上皇が読まれた短歌が歌碑に刻んであった。
「かくばかり 身のあたたまる草の名を いかに人のひえと言うらむ」 この地に二十五年ほど過ごされ1239年60歳で崩御されたとのことです。
吉野ヶ里や徐福の里もそうですが、私たちの故郷は、素晴らしい歴史を秘めた山河であることを誇りに感じた一日でした。
佐賀県保険医新聞2012年9月号「スナップ ショット」より
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