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ジャンチット・ファケッティ会長がある以前に名選手であったことをみなさんはご存知であろうか?私は彼のプレーを1974年の西ドイツ大会で見たが、彼の攻め上がりはブライトナー、ベッケンバウアーと並ぶほど当時のDFでは斬新であることが目に見えていた。その後、詳しく調べると彼がマンマークが主流のDFにあって攻撃的DFの始祖的存在であることがわかった。グランデ・インテルのマッツォーラと並び象徴的存在であることを忘れてはならない!

ジャンチット・ファケッティ氏とは?

http://sports.livedoor.com/article/detail-3671216.html
ファケッティ氏が死去、インテルにささげた人生
さらに↓
私のCL資料にあって最も大事にしている雑誌、欧州チャンピオンズクロニクルから、インテルがビックイヤーを獲得した1963-1964年の一文を引用・・・
陸上競技出身のファケッティも、エレラ(当時の名監督)が発見した一人だった。188センチの長身で、ひとたびスタートするや大変なスピードがあり、堅固で知的な彼は、後には当たり前となるバックの攻撃参加という、新たな武器を持っていた。スアレスとコルソによって見事に使われた左バックのファケッティは"コンクリート"のように固められたシステムで名高いチームにあって、公式戦で78点をマークした。


もっともっと詳しく↓
ジャチント・ファケッティ
Giacinto Facchetti 
国籍 イタリア 
生年月日 1942/7/18 - 2006/9/4 
出身地 トレビリオ 
ポジション DF(LSB,CB) 
身長 189cm 
体重 86kg 
代表デビュー 1963/3/27(通算94試合,3得点) 
所属クラブ 
-1960 CSトレビリエーゼ 
1960-78 インテル 
主なタイトル 
1968年 欧州選手権優勝 
1963/64 UEFAチャンピオンズカップ優勝 
1964年 インターコンチネンタルカップ優勝 
1964/65 UEFAチャンピオンズカップ優勝 
1965年 インターコンチネンタルカップ優勝 
コメント 
 フランツ・ベッケンバウアーがリベロの概念を打ち出す以前から、攻撃に参加するDFとして有名だった1960年代最高のLSB。
 1960年代中期にUEFAチャンピオンズカップとインターコンチネンタルカップの連覇を果たしたインテルは、カテナチオと呼ばれる守備的戦術を採る堅実なチームだった。だが、その中でDFながら攻撃を許され、攻撃的DFの始祖となったのがファケッティだった。守備能力の高さは相当なもので、その世代の最高峰といって差し支えない。完全に相手の攻撃の芽を摘んだ後に自身も攻撃に参加し、実に安定した攻撃的DFだった。カウンターアタックの名手でもあり、ダイナミックな攻め上がりは相手チームの驚異に他ならなかった。
 イタリア代表としても10年以上に渡ってレギュラーを務め、1968年欧州選手権の優勝と1970年ワールドカップの準優勝に大きく貢献した。 

クレスポとクルス!

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書く記事なかったのでスポナビから引用!
インテル移籍のクレスポ「信じられないほどうれしい」 

 再びインテルのユニホームを身にまとうことになり、エルナン・クレスポはうれしそうな様子だった。「信じられないほどうれしい」というのが、移籍後の第一声だ。

 ミラノのドゥリーニ通りにあるインテルのクラブ事務所で、テクニカル・ディレクターのマルコ・ブランカ氏とガブリエーレ・オリアーリ氏も同席し、入団発表が行われた。クレスポはスクデットの縫い付けられた新しいユニホームを手にしていた。
「責任が大きいことは分かっているけど、それもモチベーションにつながる。プレッシャーを恐れてはいない。以前にも密接な関係を持った、このクラブに戻ってくることができた。インテルに対してはずっと尊敬の念を抱いていた」

 さらにクレスポはこう続けた。
「インテルに戻ってきたことも、幾つものビッグクラブが僕を欲しがっているとうわさされたことも、どちらも誇りに感じる。1人の人間として、僕の希望を聞き入れてくれたチェルシーの会長や監督には感謝している。これからはインテルのために頑張りたい。常に闘争心を持ってプレーし、全力を尽くす。そういう気持ちが毎日の力になる」

 最後にイタリアについて一言。
「イタリアには特別な感情を抱いているし、今は法的な面でも特別な関係になった。正式にイタリア国籍を取得したし、妻はイタリア人で、娘のニコルとソフィアもミラノで生まれた。ここは自分の家のようなものだ」

 インテルに決して認められないFWフリオ・リカルド・クルス。彼の背負う物語はどこまでも悲しいものだ。極めて貴重な戦力となる選手だが、おそらくは仕事が地味過ぎるためか、“大衆”の目を引くことはあまりない。これまでのキャリアで数多くのゴールを積み重ねてきたが、大きなタイトルで新聞紙上を飾るわけではない。

 アルゼンチン、オランダ、イタリアのリーグ戦での通算成績は336試合で130ゴール。13年間のキャリアで1試合平均0.39ゴールという数字は決して取るに足らない仕事ではない。まずはアルゼンチン1部リーグのバンフィールドで33ゴール。1997年からはオランダのフェイエノールト、2000年からはイタリアでプレーしている。

 下位に低迷して、なかなか得点を奪えないボローニャにあって、「庭師」(バンフィールド時代に練習場の芝を刈っていたため、アルゼンチン国内でこのあだ名が付けられた)は3シーズンで88試合27ゴールを記録。
 その後インテルに移ったものの、永遠のベンチ要員と見なされている。アドリアーノほどのパワーもなく、ビエリほど強い個性もなく、マルティンスほど若くもなく、レコバほど会長に愛されてもいないためだ。

 マンチーニがエルナン・クレスポを手に入れたことによって、彼の活躍の場はまた奪われることになりそうだ。昨シーズンは15ゴールを記録してチームの得点王だったにもかかわらず、インテルのレギュラーの座はクルスにとって、いつまでも幻であり続けるだろう。チェルシーからやって来る同国人のクレスポにポジションを明け渡すため、彼かマルティンスのどちらかがインテルを離れる可能性もある。

 さらにフィオレンティーナからルカ・トーニが加入すれば、クルスの出場の望みは完全に奪われてしまう。トーニを獲得するためクルスがフィオレンティーナに譲渡されることになるかもしれない。フィレンツェならゴール数にふさわしいレギュラーポジションを、ようやく手に入れることができるだろう。

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自伝(指導経歴といっていいのかな?)を読んで、モウリーニョは哲学、決断力、分析力、人心掌握術に長けている現在のサッカー界に求められているすばらしい監督である。賛否両論あると思いますが、私は自伝を読んで疑いの目の否定派から前面肯定派に変わりました。一度自伝を読んでください!そしてみなさんの意見をお聞かせください!そんなことでモウリーニョ経歴をネットで調べていたら、細かく経歴を書かれているものがあったので、それに+αしてご紹介いたします。二部構成でお送りします。

経歴

プロとしてのキャリアはない。父親のフェリックス・モウリーニョが元プロのサッカー選手(ゴールキーパー)で、ジョゼ少年は父親にチームのスパイとして使われ、試合相手のチームの弱点などを探ってくる役目を与えられていたという。ポルトガルのユース代表に選出されたこともあるが、故障により早々に選手生活を断念。リスボンで一度、体育教師になるが、指導者の道を志してスコットランドで語学を勉強。
サー・ボビー・ロブソンがスポルティング・リスボンの監督に就任した際に通訳としてスタッフ入りし、以降厚い信頼を受けてロブソンとともにFCポルト、バルセロナの名門クラブで通訳兼アシスタントコーチを務める(ロブソンはピッチ上での仕事に全力を注いでいたため、他の下準備やチームプランといった仕事はすべてモウリーニョに任せていた)ロブソンがバルセロナを去った後、監督に就いたルイス・ファン・ハールのアシスタントコーチも経験(ファンハールはロブソンとは全く違う指導者でチーム作りの準備をすべて自分で行い、ピッチ上のでの仕事をアシスタントたちに任せていた)
浪人期間を経験する(2000年/2001年夏)しかし、毎日ネットや新聞を見たり、ゲームをチェックして研究を怠ることはなかった師匠ボブソンからニューカッスルでのアシスタント+一年後自身はGM就任にモウリーニョには監督のオファーをしていたそうだが・・・

そして、2000年/2001年シーズン途中9月にポルトガルの古豪ベンフィカの監督に就く(当時のベンフィカは寄せ集めの集団で選手をはじめスタッフも自信を失っていたそうだ)。ライバルのスポルティングを3-0で破るなど順調なスタートを切ったが、会長交代劇などの内紛により8試合指揮を執った後自らリスボンを離れる(スポルティング戦がラストゲーム。また、就任当初の会長が当選していたなら、長期政権になっていたそうだ。内粉劇の詳細は自伝をお読みになってください!)

翌シーズン、リーグ中位のウニオン・レイリアの監督に就任(公約としては昨シーズンを上回る4位と宣言した)チームを19試合9勝7分3敗・リーグ4位の好成績に導くと、シーズン途中の2002年1月、当時不調にあえいでいた名門FCポルトに引き抜かれる(同時期にベンフィカからもオファーが)。彼は残りの試合を15戦11勝2分2敗で乗り切り、低迷していた名門の順位を最終的に3位にまで上昇させた(就任当初はモウリーニョが当初監督を務めていたレイリアよりも順位が低い5位だった。またこの時期に来シーズンに向けて選手の選定をしっかりしたそうだ)。ポルト監督就任時、彼は不遜にも「(中位に甘んじる)このチームを来年チャンピオンにしてみせる」と宣言し、メディアの失笑を買ったが、彼はそれ以上の偉業を翌年以降成し遂げることとなる。
ここからはみなさんがご存知の通り4−5−1(または4−4−2)を駆使しターンオーバーを実践。
2002年/2003年シーズン、モウリーニョに率いられたポルトは快進撃を続け、スーペル・リーガ・ポルトガルカップ・UEFAカップの三冠を達成(過密日程が無ければ本人も疑いを持っていた、ターン・オーバーをしていなかったそうだ)。そのころ彼は指導者として国際的に注目され始める。さらに翌シーズン、圧倒的な強さでリーグ二連覇を成し遂げると、その上UEFAチャンピオンズリーグをも制覇。ポルトを17年ぶりのヨーロッパチャンピオンに導き、より一層評価を上げた。
2004年/2005年シーズンからはプレミアリーグ・チェルシーで指揮を執っている(リヴァプール、インテル、バルセロナなどからもオファーがあったらしい)。ここでも就任一年目から創立百周年の記念の年を迎えたチェルシーに50年ぶりのプレミアリーグ制覇をもたらし、リーグカップとともに二冠を達成。名将としての評価を不動のものとした。

今ヨーロッパで最も注目を集める監督の一人。人心掌握術に長けており、マネージメント能力は高い。研究熱心な戦術家であり、相手チームの弱点を執拗に攻め続け勝利をもぎ取ることを得意とする。報酬は年500万ポンド(約10億円)とも言われ、世界で最も給料の高いサッカー監督である。その尊大な態度や挑発的な言動は賛否両論(主に批判)様々な物議を醸しているが、メディアによる批判から自チームの選手を守るための一種のパフォーマンスではないか、との指摘もある。
現在のチェルシーの攻撃スタイルは彼の好みではないという。

語録

「我々チェルシーには最高の選手たちがいる。そして今、傲慢に聞こえたら許して欲しいが、最高の監督を手に入れた。」
「私はヨーロッパチャンピオンである。私は特別な存在だ。」  ―チェルシー監督就任記者会見で
「彼の言うとおりだ。現に昨シーズン、私の指揮するポルトがその10倍もの予算のマンUを破ったのだから。」  ―資金が潤沢だからといって勝てるとは限らない、というマンU監督ファーガソンの挑発を受けて
「FCバルセロナは100年もの歴史の中でまだ1回しかヨーロッパチャンピオンになったことが無い。私はそれをたった1年で成し遂げた。さて、ライカールト監督は?」  ―04-05シーズン、古巣バルセロナとの対戦を前に

ジダン「引退する。これが最終的な選択だ」


 ジネディーヌ・ジダンは予定を1日早めて現役引退を発表した。
「最終的な決断だ。ワールドカップ後に引退する」

 フランスの衛星放送局、カナル・プリュスによる独占インタビューの中で、レアル・マドリーのフランス代表MFジダンは、現在彼が置かれている状況について語った。
「少し前から考えていた。自分の精神を自由にしたかった。何度も考え直したよ」

 引退を2カ月前に発表することを決めたのは、レアル・マドリーが代役を見つけられるようにするためだ。
「変に思われるかもしれないけど、ワールドカップの後、3週間のバカンスを終えてから『引退する。別の選手が必要だと思う』とクラブに伝えるのは無理があると思う」と、ジダンはこの時期に引退を発表した理由を語った。

 引退を決意した背景には、フィジカル面に問題を抱えているという理由もあるようだ。
「また新たなシーズンを始めることはできない。僕の体がそう言っている。それに、もう3シーズンも結果が出ていない。そういう時には疑問がわいてくる。今まで自分がしてきた以上のことができないのはよく分かっている。今の年齢ではなおさら難しい。今年のようなシーズンはまた繰り返したくはない」

ジダン引退発表に各方面から反応のコメント


 ジダンは鮮やかにフェイントをかけた。26日に予定されていた彼の記者会見を、首を長くして待っていた全マスコミの裏をかいて、ジダンは25日にフランスの有料テレビ『カナル・プリュス』のカメラの前で、今回のワールドカップ(W杯)終了後に引退することを発表した。

 6月23日に34歳の誕生日を迎えるジネディーヌ・ジダンは、所属するレアル・マドリーが思うように白星を挙げることができず、停滞を続けるばかりで再起をかけられないことに我慢ができなかったのだろう。フランス代表を世界チャンピオンに導いたエメ・ジャケ元監督は、『カナル・プリュス』のインタビューで次のように答え、この2年間が彼の決意を大きく左右したと見ている。
「ジダンがもし別のクラブでプレーしていたら、おそらくもっとプレーを続けていただろう。今のレアルでの役割とは多少異なる、やや別格というか、フランス代表で担っているような役割を与えてくれるようなクラブに在籍していたなら、ね。レアルでは彼の威力を十分に発揮できなかった。素晴らしい試合は何度もあったが、シーズン全体ではいまひとつだった。こうしたことが彼を消耗させてしまったのだろう。それでも、彼のキャリアは輝かしい。ジダンはたぐいまれな選手だ」

 レアル・マドリーだけでなく、フランス代表にとっても彼の引退は特別なものだ。その偉大なテクニック、観察力、ボールをさばく時のスマートさなど、ジダンはほんのわずかな選手にのみ与えられている才能をたくさん持っている。
 ファビアン・バルテズは、「ジダンは最もビッグな選手。引退は彼だけが決めることができる。ここ数シーズンというもの、ジダンはユベントス、レアル・マドリー、そしてフランス代表で最も高いレベルのプレーをしてきた。いつまでもそんなプレーを3日おきに続けることなんて無理なこと」とコメントした。

 また、カンヌでジダンのデビューを見守ったギー・ラコンブ監督は、「引退するにはちょうどいい年齢だろう。レアル・マドリーとW杯でキャリアを締めくくる。もしフランスがW杯を制したら、これ以上の花道はないだろう」と語っている。
 アーセナルがチャンピオンズリーグ決勝進出を決めた後、『カナル・プリュス』のインタビューに応じたティエリ・アンリも、W杯での成功を願っている。
「ジダンが素晴らしい結果を残して引退できるよう、みんなで一生懸命頑張る。そのくらいやるのは当然だ。普通の選手とはわけが違う。僕らにとって、ジダンがいなくなることは本当に寂しい。サッカーを愛するすべての人々にとっても同じだろう」

 アーセナルのべンゲル監督も次のようにコメントを残している。
「ひとつの輝かしい時代の終わりだ。彼がサッカーにもたらしてくれたすべてのことを思うと、彼の引退は残念だ」
 ジダンへの賞賛は、ユベントスで彼が移籍した1996年に監督を務めていたマルチェロ・リッピからも届いた。
「ジダンに関してはたくさんの輝かしい思い出がある。謙虚で知的な、本当に素晴らしい人物だ。ここ20年で最も偉大な才能の持ち主だろう。彼のコーチだったことを誇りに思う」

 さて、ジダンにとって最後のコーチとなるフランス代表のレイモン・ドメネク監督は、引退の発表がW杯開催前に行われ、チームを不安定にさせる恐れがあることを危ぐしているのではないか。この件に関して監督は前向きなコメントを残しているが、そうした思いは端々に感じられる。
「引退を今発表することで、ジダンは大会への準備を順調に進め、落ち着いてプレーすることが可能になるだろう。W杯で有終の美を飾りたいという彼の意欲は私もよく知っているし、彼にはまだ、W杯で優勝し、サッカーの歴史に新しい1ページを加えることができると確信している」
 ドメネク監督はそれでも、「全サッカーファンと同じように、今度のW杯が終わってから彼の姿がピッチで見られないのかと思うと、やっぱりちょっと悲しい」と本音を漏らした。
ながながとすいませんこのニュースはみなさん知っていると思いますが・・・・
私はジダンのおかげでヨーロッパのサッカーを本気でみるようになったし・・・・
人一倍ジダンを愛していたが・・・・引退か・・・・ジダンのこと考えるといいんじゃない?
ひとつの時代の終わり・・・それでも私はFOOTBALLを愛し続けます♪

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■主な騒動
1987年: チームメートのGKを殴り罰金。

1988年: 当時のフランス代表監督アンリ・ミッシェルに暴言を吐き、代表を外される。

1989年: ボールを客席に蹴り込み、ユニフォームを審判に投げつけた行為によりチームから無期限の出場停止処分を受ける。

1990年: チームメイトにスパイクを投げつけて10日間の出場停止。

1991年: サンテティエンヌ戦で審判にボールを投げつけ、3試合の出場停止処分。その事情聴取の場で出席者一人一人に「馬鹿者」と言って回り、処分が2ヶ月間に延長される。

ここで一度サッカーからの引退を宣言。

1992年 1月: 彼の才能を惜しんだミシェル・プラティニの尽力で、シェフィールド・ウェンズデーのトライアルを受ける。

同年2月: リーズ・ユナイテッドと契約。リーグ優勝に貢献。

同年11月: 監督との不仲によりマンチェスター・ユナイテッドに移籍。

1993年: エランド・ロードでのリーズ戦でサポーターに対してつばを吐きかけ罰金。

UEFA CUPのガラタサライ戦で審判に暴言、退場。警官と諍いを起こす。UEFAからヨーロッパカップ戦4試合の出場停止処分。

1994年: アーセナル戦において、審判のヴィック・キャロウ氏を「ちび」と侮辱したとしてFAに訴えられる。その2日後、スウィンドン戦で相手チームの選手にストンピングを食らわせ退場。この2件によりFAから5試合の出場停止処分。

1995年1月25日: クリスタル・パレス戦において、野次に激高し、客席のマシュー・ティモンズ氏にカンフーキック&パンチを見舞って退場。9月30日まで全てのフットボール活動の禁止と罰金処分。裁判にて禁錮2ヶ月の判決を受け、その代わりに120日間の社会奉仕活動を行う。

1996年: 「カントナのカリスマ性や強い個性が、物静かで控えめなジダンの持ち味を殺しかねない」との理由でEURO96大会代表に当時のフランス代表監督エメ・ジャケはジダンを召集。カントナは代表を外される。代表を外す事を告げる際、「死ぬほど怖かった」と後にジャケは語っているw

この頃イングランドに帰化。

1997年: 契約期間を1年残していたにも関わらず、突然の引退発表。

1999年: 在籍5年間にグッズ等に使用された自らの名称に対する見返りがあると突然主張。120万ドルをチームに請求。「何も借りがあるはずはない」と軽くあしらわれる。

2004年: フランスのテレビ局でのトークショーにて質問の内容に激怒。インタビュアーに対し「このザコども!」とのたまいインタビュアーを番組の終わる15分前にスタジオから逃亡させるw 逃亡の理由について、インタビュアーは「殴られるのではないかと思い、身の危険を感じた」と語っている。

まあこういう荒っぽいというか、豪快っていうかそんなところが私がカントナが好きな部分なんですよね。カントナのCMほんとにかっこいいよ。カントナのイメージにぴったり、だってほんとにしそうだもん。

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